橘玲「朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論」(1)

 橘さんは日本にときどき現れる確信犯的リバタリアンの一人だと思う。わたくしもまたリバタリアニズムに相当親和性のあるほうだと思うのだが、それ一本鎗でいけないのは、たとえば原口統三の「武士は食はねど高楊枝。全く僕はこの諺が好きだつた」などというのに無条件に共鳴してしまうところがあるからである。そういう目からみると、フリードマンとかベッカーといったあちらのリバタリアン本家は何かえげつないなあという思いを禁じえない(ハイエクはまだいいのだけれど)。なんだかお金についてえらくアグレッシブなのである。それに今一つ教養が足りないように思う。それと比べると、日本のリバタリアン、たとえば2011年に亡くなった竹内靖雄さんなどはもっとずっと大人だったという気がする。恒産なければ恒心なしでお金の問題はとても大事であることはよくわかるのだが、それは independent な人間として生きるための手段ではあっても、目的ではないだろうと思う。原口の「僕は狎れ合ひが嫌ひだ。僕の手は乾いてゐる。」「日本では年中黴が生える、この国の人々の手は汗ばんでゐる。」という方向からの「自立」はとても大事だとは思うのだが。
 リバタリアンの系譜のはじめのほうにヒュームを置くのが適切かどうかはわからないが、渡部昇一さんの本(「新常識主義のすすめ」)でヒュームが晩年に簡明な自伝を書いていてそこで自分の資産の形成について細かく書いているということを知った。これも independent(働かないでも喰えるだけの不労所得がある)の例なのだと思うが、どうも日本人には(少なくともわたくしには)馴染まないような気がする。もっとも、この渡部さんの本でも、ヒュームがきわめて率直で簡明な自伝を書いたことが、後世の人間にヒュームを攻撃する一つの材料を提供してしまったと書かれているから、日本人に限ったことではないのかもしれないが。
 武内さんの「経済思想の巨人たち」にケインズにはとても利殖の才があって、それで大学や周囲を大いに助けたようなことが書かれているが、竹内氏によれば、「ケインズには資本主義的メンタリティに対する嫌悪感があった。たかが金儲けではないか。自分の利益を追求するのは当たり前として、それしか考えない人間というのは尊敬するに足りる人間ではないし、自分の同類とは見なすに値しない人間である、というのがケインズのホンネではなかったかと思われる」ということになる。わたくしもまた資本主義的メンタリティに対する嫌悪感があるようである。もっともケインズと違って利殖の才などはゼロであるから、悲惨な老後が待っているだけなのかもしれないが。
 それで橘氏も正統派リバタリアンの一人として、資産を運用して後顧の憂いのない老後を過ごすための指南のような方向の本も書いているが、そちらにはわたくしはあまり関心がもてない。それで、わたくしが橘氏の本領であると思うリバタリアン思想の方面をあつかっている本書をとりあげてみる。「朝日ぎらい」というタイトルであるがいささか羊頭狗肉であって、「あとがき」に書かれているように、井上章一さんの「京都ぎらい」のパロディなのだそうだが、井上さんの本がまともに「京都ぎらい」を論じているのに対して、「まえがき」に「インターネットを中心に急速に広がる”朝日ぎらい”という現象を原理的に分析してみよう」としたとは書かれているものの、橘氏が「インターネットを中心に広がる”朝日ぎらい”」の人々にまともな関心をもっていないことは明らかで、そして”朝日ぎらい”の人々が論敵にしている朝日新聞リベラリズム戦後民主主義もまたもはやまとも論じるに足るものとはしていないと思われるので、もし「朝日ぎらい」への応援歌を本書に期待すると肩透かしをくうと思う。それを期待する方はたとえば竹内久美子&川村二郎「「浮気」を「不倫」と呼ぶな - 動物行動学で見る「日本型リベラル」考」などを読まれたほうがいいと思う。これはトンデモ動物行動学者である竹内久美子氏(動物行動学の知見を現在の社会事象の分析に用いるその用い方がきわめて恣意的であるという意味でトンデモ)と長年朝日新聞社につとめ週刊朝日の編集長まで勤めながら嬉々として朝日新聞の悪口をいうという武士の風上にもおけない(と思うわたくしは古いのだろうか?)川村二郎氏との対談本であるので”朝日ぎらい”のひとが読むと留飲が下がるかもしれないが感情の消費だけであって、後に特に何かが残るということはない本であろうと思う。
 本書はトランプ現象や欧州の右傾化をどう理解していけばいいかについて、一つの有力な視点を提供するものであり、つまり”朝日ぎらい”もその大きな流れの系としてみればいいということを教えてくれるという点で、”朝日ぎらい”といった狭い観点を超える視座を提供してくれるものとなっている。
 本書の一番の基本的な視点は、世界はリベラル化しつつあるということ、それゆえにそれへの反動として「ネトウヨ」のようなものがでてくるというものである。
 では橘氏がいうリベラル化とは? それは、「やりたいことは(法に反しないかぎり)自由にできる」「やりたくないことは強制されない」という自己決定権に基礎をおくのだそうである。そして、それは世界で急速に進展するAIなどのテクノロジーを背景とする知識社会化とグローバル化とは密接に関連しているのであるとされる。その社会では知能(学歴ではない。ビル・ゲイツもS・ジョブズも大学を出ていない)それもきわめて高い頭脳をもった人間のみがイノベーションを生み出せる。そして、その知能は国境を容易にこえるので、流通するのは個々の狭い地域をこえた普遍的な価値観のみということになる。
 しかし現実には、普遍的な価値観とは真逆な主張が勢いを増してきている。ヨーロッパでは極右政党が台頭し、アメリカではトランプ大統領が出現した。それはグローバルに進む知識社会の流れから脱落するひとが増加している(中流の崩壊)ことを反映している。それは知識社会化という大きな波にのれず、見捨てられた白人の失地回復の運動なのである。
 大きな視野で歴史を見ると、欧米社会においてルネッサンス以降、人種差別、女性差別、子供への虐待などあらゆる面において「リベラル化」が進行しており、特にそれは第二次世界大戦後に顕著である(ピンカー「暴力の歴史」)。
 妻は夫の所有財産である(しかも家屋より下の)という意識は世界のどこにおいてもかつては普通に見られた。しかし、現在ではそれはもうありえない。これはフェミニストの運動の成果もあるが、女性の社会進出によるユニセックス化の影響も大きい。
 現在では犯罪であることが自明とされているDVもかつてはそうはみなされなかった。現在では子供への虐待ともなされることもかつては「躾」であった。ピンカーによれば、その変化は「電子革命」による知識の拡散によるところが大きいという。(とはいっても、信仰の自由と世俗主義、経済格差と自己責任、地球温暖化原発の是非などの問題は未だ残っているが。)
 日本でもまたリベラル化は進行している。世界標準の考えが急速に普及しているから、森友学園の特異な教育方針はただもう奇妙で面白おかしいものとして報道された。
 世界中でリベラル化は進行しているが、それとともに表面にでてきたのが「アイデンティティ」の問題である。というところまでが、PART1で、PART2はしたがって、アイデンティティの問題を論じることになる。
 わたくしがはじめてアイデンティティという言葉に接したのは江藤淳氏の「成熟と喪失」でだったのではないかと思う。この昭和42年(1967年)刊の本をおそらく大学の教養学部時代に読んだのだが、これで「第三の新人」を知り、吉行淳之介を知って、結果、教養学部時代はもっぱら吉行を読んで過ごすことになった。「成熟と喪失」はエリク・エリクソンの「幼年期と社会」に大きく依拠している本であるが、ここにアイデンティティという言葉がでてきたのかはよく覚えていない。あるいはエリクソンの名前だけを憶えて、後にそれががアイデンティ概念の創始者であることを知って、結びついたのかもしれない。そこで引用されるのはもっぱら「ゆっくり行け、母なし仔牛よ せわしなく歩きまわるなよ」というカウボーイの歌であり、アメリカの青年が早くから母から切り離され自立をうながされるのを、日本の母児密着と対比して論じることが主眼となっている。
 アイデンティティはむかし自己同一性といった訳が使われていたと思う。自分が自分であるということを自分で肯定できる、もっと簡単にいえば、自分に自信を持てるといったことなのだろうと思う。本書ではそれがいわゆるネトユヨの問題とからめて論じられている。これについては稿をあらためて考えて見ることにして、ここでは残りで知識社会化の流れのなかでの橘氏のいうリベラル化の進行ということについて考えてみたい。
 橘氏は「やりたいことは(法に反しないかぎり)自由にできる」「やりたくないことは強制されない」という自己決定権にそれは基礎を置くというのだが、そもそも自分が何をやりたいかを自分で決めていいなどということが夢想だにされなかった時代も長くあったわけである。ある日ある時にあるところに生まれたことにより自動的に何をするかが決められてしまった時代が延々と続いてきた。そうではなく、自分の主人公は自分であって自分の運命は自分で決めるという行き方が当然とされるようになったのはそんなに昔のことではなく、西欧近代のある時点からのことではないかと思う。それは《個人》という概念の創出とワンセットであって、その概念の創出にともなって小説もまた生まれた。
 橘氏は世界標準というが、もともとは西欧由来の概念であって、そのことが問題を複雑にしている。クンデラがいうように「個人の尊重、個人の独自な思想と侵すことのできない私的生活の権利の尊重、このヨーロッパ精神の貴重な本質は、小説の歴史のなかに、小説の知恵のなかに預けられている」のだとしても、誰もが見てとることができるように、小説という形式はもはや衰微しつつあるわけで、さらにいえば出版という業態自体が斜陽になってきているわけで、リベラルであるということがある一部の特権的な人達にしか保証されないものとなってきていることが問題の一番の根にあるのではないかということを強く感じる。このことはあらためてPART2を論じる場で考えてみたい。
 

定本 二十歳のエチュード (ちくま文庫)

定本 二十歳のエチュード (ちくま文庫)

経済思想の巨人たち (新潮文庫)

経済思想の巨人たち (新潮文庫)

暴力の人類史 上

暴力の人類史 上

成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)

成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)

小説の精神 (叢書・ウニベルシタス)

小説の精神 (叢書・ウニベルシタス)

堀井憲一郎「1971年の悪霊」(5)

 最終章である第9章の「左翼思想はどこでついていけなくなったか」は著者の堀井氏の個人史を述べたものである。1958年生まれの堀井氏はわたくしより10歳くらい年下であるのでおのずとその経験が異なるわけであるが、まず堀井氏の個人史から。
 1970年ごろ、世の中では"進歩的左翼思想”が大流行中であったという。堀井氏が二十歳を過ぎたころである。これは日露戦争の後から流行ってはいたが、敗戦以降、すさまじい流行りようであった、という。1970年ごろ、進歩的左翼思想は、言論界の主流であり、多くの知識人が、左翼的な考えを支持していたのだ、と。
 堀井氏が中学にはいったころは、その当時の雰囲気にしたがって左翼思想がいいな、と思っていたという。1972年中三の時、社会の授業で「世界には、資本主義と社会主義がある。資本主義はお金持ちと貧乏人に分かれる。社会主義は平等を目指す。利益は平等に分配される。社会の先生はどちらがいいと思いますか、と問うて授業を終えた。決して強制はされなかったが、当然生徒は社会主義を選ぶ。堀井氏もまた。そしてその目でみると新聞もテレビも雑誌もみな社会主義を支持しているように思えた。1970年代の左翼思想は輝いていたのだ、と。
 そして、それを支持する人々がまた多くいたことについては、それは社会の気分によるものだったとしている。「ニッポン、まだまだだな」という気分。敗戦後、随分よくなってきたとはいってもまだまだ貧しいという思い。
 ここで註すると、堀井氏は進歩的左翼とひとくくりにするけれども、60年代から70年にかけてその内容が随分と変わったと思う。左翼には旧左翼と新左翼があって、安保反対運動の過程で政党の指揮に反旗をひるがえした新左翼の残した大きな功績がいわゆる進歩的文化人(旧左翼?)の化けの皮を剥がしたことではないかと思っている。
堀井氏が進歩的左翼思想といっているものはどうも旧左翼のほうのことを指すような気がするのだが、ニュー・アカデミーとか「アンティ・オイディプス」とかは左翼の方面では全然ないはずだが旧左翼の人たちよりもずっと元気がよかった。
1971年当時中学2年の堀井氏が「豊かな社会」として夢想したのが「真夏でもどこいっても冷房がきいていること」「真冬でも、アイスクリームを買って食べられること」。
 1970年11月25日の三島由紀夫の事件も、このような右翼的事件には世間の反応は冷たかったという記憶がある、と。
 左翼陣営は「反戦・平和」を掲げていたから、戦後社会を善と考える側は当然それを支持した。
 また註すると、基本的に日本の戦後社会をもたらしたものはアメリカでありそれは民主的といわれる何かであり、それに対語となるのが封建的という言葉だった。戦前までは封建的であった日本が、戦争に負けたおかげで戦後になって民主的になれたという思いが多くの日本人にはあり、ここで堀井氏がいっている豊かさというのはアメリ的豊かさを指していると思う。そのアメリカが西側を代表して東側と対峙して冷戦の関係となってきたという捻じれが問題を複雑にした。
 堀井氏によれば、左翼思想への共感が次第に失われていったのは、生活が豊かになっていったからだという。そしてバブルの頃、アメリカ経済に勝ち、自分たちは貧乏から脱却したと思うようになった時期から左翼の凋落は始まったという。その果てに1989年にベルリンの壁が崩壊した。
 1993年の自民党過半数割れの選挙で自分がどこに投票したかを覚えていないくらい、そのころには政治についての関心を失っていったと堀井氏はいう。さらに非自民の細川内閣とそれに続く社会党自民党の連立!の村山内閣にいたって、革新に何かを期待していた自分の中の何かが失われ、以後、左翼について一切の幻想を持たなくなったという。左翼もまた政権奪取ゲームの参加チームの一員に過ぎなくなったと感じた、と。
 しかし、それでもまだ「かつて共産主義が好きだったという幽霊」はまだどこかに生き残っていると堀井氏はいう。それが2009年の「一度は民主党にやらせさてみようじゃないか」という不思議な心情に繋がったのではないかという。本書の「1971年の悪霊」とはそのことを言っている。
 
 この最終章は25ページほどなのだが、そこで社会主義共産主義の違いとかいろいろなことが説明されている。けれどもそれは、ちょっといくらなんでもというような図式的な説明が多い。たとえば、社会党の方が共産党より穏健路線であると書かれている。それはマルクス主義の発展段階説での社会主義の先に共産主義があるという図式によってそういわれる。
 しかし日本共産党日本社会党のどちらが過激であったかといえばわたくしは社会党だったのではないかと思う。社会主義協会向坂逸郎氏などは、三池炭鉱闘争などは革命運動だと思っていたと思うし、もしも社会党が議会で多数派を占めるようなことがあれば、直ちに議会を閉鎖して一党独裁体制を移行するようなことを夢想していただろうと思う。向坂氏のような人間にとって、マルクスの述べたことはマルクスによる一つの見方とか考え方なのではなく「真理」なのであるから、議会で多数の賛同を得るなどというまだるっこしいことなどは本来不要なのであって、だから三池炭鉱闘争に呼応して全国の労働者が蜂起して暴力的に権力を奪取するようなことがおきるのが理想であり、それが叶わないとしても、一旦、自派が議会で多数を得るようなことがあれば、その握った権力を二度と手放すことはあってはならないのだから、以後は国民の信を問うなどというまだるっこしいことはせずに独裁に移行して、自分たち前衛こそが知っている「正しい」ことを実現させていけばいいのである。マルクスの述べたことが真理であるのだから、構造改革路線などというものを論破することなどは赤子の手をひねるよりも簡単なことであった。
 日本共産党がある時期、武装闘争路線に走ったことは事実であるが、これは自分で考えたことではなくモスクワの指令だったのであり、モスクワにしても、世界が共産化することではなく、自国の維持のためにはどの路線が有利であるかによって方針を変えたのであるから、日本共産党が自主独立路線にたった以降は真剣に武装闘争などを志向したことは一度もないと思う。日本共産党が政権の奪取ということをそれなりに視野にいれていたのは美濃部都政あるいは蜷川府政あたりまでで、それ以降は政権への展望などはまったくひらけていないだろうと思う。それどころか、むしろ現状維持に汲々としていて政権どころではないだろうと思う。(革新都政がいわれた時代、共産党社会党にくらべ少数ではあったが、理論闘争をしたら社会党に簡単に勝てて主導権は握れると思っていたのではないだろうか? 何しろ民主集中制で一枚岩であったのに対し、社会党など一人一派とまではいわないにしてもみんなてんでに勝手なことをいっているに等しい政党であったので。)
 本書を読んでわかるのは堀井氏にとって、つねにマルクス主義は一つの見方であるに留まって、歴史の発展段階説をふくめて生産力が社会の構造を規定するという見方、上部構造下部構造といった見方、要するに恣意的な一つの説でなく、客観的科学的な法則として出現してくる共産主義的社会といった見方にはまったく親和を感じていなかったであろうということである。

 それで堀井氏より10歳ほど年上である自分はどうであったかを振り返ってみる。自分が社会主義とか共産主義という方向にはじめて目をむけたきっかけは60年安保の騒動によってだったように思う。わたくしが中学2年の時である。国会前の広場からのラジオの中継でアナウンサーが「今、わたしは警官になぐられています」というような中継をしていたのを聴いたような記憶がある。
それで「空想から科学へ」とか「共産党宣言」のような入門書的なものを少し読んだ。恥ずかしいが、後にも先にもマルクス主義にかかわる一次文献を読んだのはこのときのこれだけである。
 そして社会主義が平等をめざし、貧困の問題を解決しようという運動であることを理解したように思った。そうであるならば誰一人として反対するものがいるはずのない正義の運動であるはずなのに、高度の知性を持っているようにおもわれるひとの中にマルクスの説に明白に反対しているひとが少なからずいること、単に反対するというのではなく命を張ってまでしてそれを阻止しようとするひとが少なからずいることも知った。なぜそのようなことがあるのかを見ていくうちに、マスクス主義あるいは社会主義をそれが全体主義であるという方向から批判しているひとがいること、そもそもマルクス主義が依拠する人間観が浅薄なものであるとしているひとがいること、一番基本的には、社会の体制を変えることで人間が変わるあるいは変えることができる(下部構造が上部構造を規定する)という見方に対して人間の本性はずっと変わることはないという方向から反対しているひとがいることなどを知った。
 一党独裁ではない民主主義的な政体のもとで福祉などの充実などによって社会主義的な方向をめざすという混合経済体制というような議論もあった。低開発国が離陸する過程においては社会主義的な方向が有効であるとする論もあった。
とにかく、いろいろな論を知ると社会主義とか共産主義も絶対的なものではなく相対的なものと思えてくるので、とにかく自分のなかで進歩的左翼路線がとても魅力的と感じることは中学高校時代もそれ以降も一度もなかったように思う。
高校時代にはその頃の流行と入試によく出るので小林秀雄なども読んだが、小林は《しゃらくさい》インテリが大嫌いなひとで、どう考えても左に親和性のあるひとではない。というか小林の論のたてかたは一部の知識人の進歩派否定論の典型の一つではないかと思う。
それやこれやで、左翼方面の思潮も数多あるものの見方の一つとして特に有難かることもなく見られるようになった。しかし、小林秀雄ランボー→反権威・反抗という方向から学生運動にむかった人間もある割合でいたのではないかとも思う。
 そういう状態で大学に入り、教養学部では吉行淳之介などに入れあげているうちに医学部進学となり、駒場から本郷にいった途端、東大紛争(闘争)に遭遇することになったわけである。それで、この紛争(闘争)が少しでもマルクス主義と関係があるものであるのかどうかがわたくしの関心となる。
 わたくしの乏しい知識によれば、60年安保以前は学生の政治運動というのは日本共産党日本社会党の下部組織であって、上部組織の指令にしたがって行動するのが原則であった。だから六全協のような方針転換においてはさまざまな悲喜劇がおきることになる。60年安保をきっかけに上の指示に従うのではなく独自に行動するようになったといっても共産党社会党からの分派であるのだからマルクス主義共産主義を基礎においていることは確かなはずであるし、事実、革命的マルクス主義とか社会主義青年同盟とかを自称していたわけである。しかし、よど号ハイジャック事件などを見ていると、北朝鮮がどのような国であるのかいささかでも勉強したことがあるようには思えないし、主観的にはどうであれ、客観的にみればほんのわずかでも実際の政治とかかわることをしていたようにも見えない。
 鹿島茂氏の「ドーダの人、小林秀雄」に河上徹太郎による小林秀雄論が紹介されている。そこで河上は小林の特性を嫌人性にみている。志賀直哉的嫌人性+ボードレールの嫌人性=小林秀雄の嫌人性。「自分以外のものはみんな嫌いだ!」の志賀直哉から、ブルジョアの一員であるボードレールブルジョア嫌悪というより進んだ自己言及的嫌人性へ。鹿島氏は小林秀雄ランボーをまったく誤読していたというのだが、日本で流布しているランボー像は小林秀雄がつくったもので、日本の学生運動には小林秀雄ランボー的なものが横溢しているように思う。自分一人のための政治運動! これはもう語義矛盾でしかないが、モスクワあるいは日本共産党の幹部会か何かの指令にしたがう一兵卒として参加する政治ではなく、いきなり一人一党で何が正しいかは自分が決める政治へという方向である。だからマルクスの名前がでてきたとしてもそれは自分のマルクスなのであるから普遍性は一切ない。
 それでも、当時の状況として同時に進行しているベトナム戦争があり、それは絶対的正義対絶対的悪の対峙のように受け取られていたので、自分が正義の側にいるという証として自分は東側と連帯しているという立場を表明する、その手段として社会主義マルクス主義という言葉が使われたということなのではないだろうか?
 一番大きかったのはマルクス主義を立国の礎としていると主張している国家が現実のものとしてこの地球上に存在していたことだろうと思う。その現実の国家が必ずしも理想的なものとはいえないとしても、現実のものとして存在する以上、もっとましなものも実現できる可能性があるわけである。
 だから東側の崩壊、ベルリンの壁の崩壊からソ連の解体までの過程で現実の存在としての共産主義的国家が地上から消滅してしまったことその過程でマルクス主義的な方向での国家運営が現実には難しいということを実証されてしまったことが左派の凋落の決定的な原因となったのではないかと思う。
 まだ現実の存在として中華人民共和国があり、朝鮮民主主義人民共和国も存在している。しかしそれがマルクス主義と何か関係があるものであるとはほとんどのひとが思っていないであろうと思う。
日本が高度成長を経て貧しさを克服できたと感じるようになったこと、それが左翼思想の人気の凋落の原因であると堀井氏はしている。今では死語であろうが、わたくしが若いことには非常によく使われた言葉に封建的というのがあって、多分その対語が民主的であった。封建的なものを打ち砕き民主的な何かをもたらしたのはアメリカであるとされていたと思う。石坂洋次郎的な何かである。
渡辺昇一氏は石坂洋二郎的な明るい戦後啓蒙に異を唱えたのが三島由紀夫であったとしている。そしてわたくしの理解では、日本共産党日本社会党は戦後啓蒙の系譜に属するのであり、全共闘的ものは三島由紀夫的な反=戦後啓蒙の路線の上にある。だから三島由紀夫と東大全共闘の間ではとにかく会話がどこかで成り立つ可能性があるのに対し、三島由紀夫日本共産党の幹部あるいは民青所属のひとと会話する可能性などまったく考えられないわけである。
 三島が死んだ当日、わたくしが三島の本などを読んでいることを知っていた同じクラスの民青の活動家が「三島のしたこと理解できる?」ときいてきた。「命と暮らしを守る」という路線からはあのような路線はどうしても理解できないらしかった。
この堀井氏の論からは日本に底流する三島的暗さという観点が抜け落ちているように思う。
 堀井氏は権力に対する反抗心というのが1970年代に物心ついた人にはどこかに残っていて、「かつて共産主義が好きだったという幽霊」がまだ時々復活するのだとしている。それが例えば2000年の民主党政権誕生騒ぎだったという。
 「かつて共産主義が好きだったという幽霊」がいまだに健在なのは朝日新聞で、民主党政権誕生時のはしゃぎようは尋常ではなかった。しかし朝日新聞的何かはまた三島由紀夫的な暗さをまったく理解できない存在である。全共闘世代で長い髪を切って朝日新聞に入ったひとも少なからずいるのではないかと思うが、いつのまにか朝日新聞社的何かに同化されてしまうのだろうか?
どうも堀井氏がここで述べていることについては、大事なことが抜けおちているのではないかという思いが残った。
 あまり世代論というのは信用していないのだが、本章を読むかぎり、やはり10年の差は大きいのかなということを感じた。わたくしはいわゆる全共闘世代ということになるのだと思うが、同じ世代同士であればいわなくてもわかるが、違う世代だと言っても通じないということがあるのだろうか?

1971年の悪霊 (角川新書)

1971年の悪霊 (角川新書)

知的生活の方法 (講談社現代新書)

知的生活の方法 (講談社現代新書)

腐敗の時代 (1975年)

腐敗の時代 (1975年)

討論三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争 (1969年)

討論三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争 (1969年)

堀井憲一郎「1971年の悪霊」(4)

 第8章は「毛沢東文化大革命」を支持していたころ」と題され、「文化大革命」が論じられる。
 わたくしが文化大革命というと思い出すのは、若者たちが自分たちが糾弾する人間に変な帽子を被せて胸に罪状を書いた紙をつけさせて引きまわしている光景と、天安門広場の前で多くの若者たちが赤い「毛沢東語録」を手に手にかざして結集している姿、そして川端康成石川淳安部公房三島由紀夫の四名による「文化大革命に関する声明」である。
 最初の引き回しのような光景から感じたのは、これはリンチなのだなということである。つまり法というものがとっくに機能しなくなっている情景である。天安門広場の群衆から連想したのはナチスドイツ時代にハイル・ヒトラーと叫ぶ群衆であり、北朝鮮で以前におこなわれていた千里馬運動といったのだと記憶しているマス・ゲームである。
 「文化大革命に関する声明」は後の「文学者の反核声明」のときにも感じた「そんなこと言ってどうなるの?」という違和感である。この声明では「学問芸術の自由の圧殺」などということを言っていたが、彼の地では「学問芸術の自由」などというプチブル的価値などは一顧だにしていないことは明らかであると思われたので、そんな安全地帯からの声明が卵一個を投げつけるほどの効果があるとも思えなかった。
この「文化大革命」は現在ではそれを否定的にみる見解が圧倒的多数であると思われるが、それが現在進行形であった当時は特に左側の人たちからは期待をもって熱い視線でみられていたように思う。一時、日本の言論界においてマルクス主義の方向の言論が圧倒的に多数派であったが、それはマルクス主義を立国の原理とすると称する国が実際にソヴィエトという形で存在していたことが極めて大きかったと思う。それは彼方の未来にある理想ではなく、すでに地上で現実のものとなっていたわけである。しかしどうもソヴィエトの方面からきこえてくることには変な話が多くなってきていた。左側のひとが多く当時の文化大革命に期待をよせたのは、そこにすでにソヴィエトでは失われつつあるようにみえる社会主義の理想への追求という姿が熱く見えるように思われたからなのであろう。
堀井氏もいうように「毛沢東は生涯、プロレタリアの味方となり、極左運動を続けようとしていた」のであり、真剣に「中国を、労働者のための国にしようとした」のであろう。永久革命である。
現在では文化大革命は、餓死者が数千万に及んだといわれ大躍進運動の失敗により権力の座を追われた毛沢東がふたたび権力の座に返り咲こうとしておこしたものということが通説になっていると思うが、何のために返り咲こうとしたかといえば、中国を労働者の国にしたいからなのである。そしてその理想の実現のためには数千万の人が死ぬことも厭わないわけであるから、フランス革命の昔から理想を追い求めるひとほど始末に負えないものはないことになる。
堀井氏は、この毛沢東の姿勢が当時の多くの若者をひきつけたという。当時の若者もまた現状を閉塞的と感じていてとにかく破壊したかったから。「我が身をなげうって貧しいもののために戦う」というロマンティシズムが受けた。
このあたりはちょっと異論があるのだが、「我が身をなげうって貧しいもののために戦う」というロマンティシズム、というのがあったのはむしろ六全協あたりまではないのだろうか? 少なくとも、わたくしが渦中にいた1968年前後の印象では、《ひとのため》という姿勢は、そこには《自分がない!》として否定される傾向にあったと思う。だからこそ《自己否定》という言葉が流行した。わたくしは小林秀雄の《ラッキョウの皮むき》などという言葉をすでに知っていて、自己分析とか自己省察といった方向の不毛といった方向の議論にも親しんでいたので、この《自己否定》論には特に魅力を感じなかったが、周囲を見ていると、これは相当な威力を持っているように見えた。だから下放などというのもその文脈で捉えられていたのではないだろうか? 民青系のひとたちがえらく嫌われていたのも、彼らは上(日本共産党)からの命令に従うだけで自分で考えていない!というのが一番大きかったのではないだろうか?
永久革命論というのは、永久に現状を肯定しないということである。永久の自己否定である。それが魅力的だったのではないだろうか?

最終章の第9章は「左翼思想はどこでついていけなくなったか」という題で、堀井氏の個人的な日本の政治へのかかわりというか、その時々でどの政党に共感をよせてきたかが述べられている。わたくしより約10歳下である堀井とではわたくしは随分と違うということを感じる。それはまた別に述べる。
 

1971年の悪霊 (角川新書)

1971年の悪霊 (角川新書)

中国の大盗賊・完全版 (講談社現代新書)

中国の大盗賊・完全版 (講談社現代新書)

新装版 されどわれらが日々 (文春文庫)

新装版 されどわれらが日々 (文春文庫)

堀井憲一郎「1971年の悪霊」(3)

 全共闘世代という言葉が現在でもまだ時々使われているので、全共闘運動というものについて、今の若いひとでもなにがしかのことは聞いているのではないかと思うが、「パリ五月革命」についてはどうだろうか? もっともわたくしだってひとのことは言えないので、時系列的なことはもうよくわからなくなっている。何となく日本の大学紛争(闘争)と同時期という感じをもっていた程度なのだが、本書でそれが簡明に紹介されているので、ここに抜き書きしてみる。
 1968年3月~4月 パリ郊外のパリ大学ナンテール校で、ベトナム反戦運動が盛り上がり、教室の占拠や無届けデモがおこなわれ、大学は学生大会を開かせないために5月2日ナンテール校を閉鎖した。大学に入れなくなった学生はパリ中心地のカルチェラタンにむかった。
 5月3日、カルチェラタンにあるパリ大学ソルボンヌ校での大がかりな学生集会に大学は警官隊を導入した。500人以上の学生が検挙され、ソルボンヌ校も閉鎖された。
 5月6日 それへの抗議集会。1万5千人の学生が警察と衝突、学生たちは敷石をはがし投石、市街にはバリケードも作られた。
 5月10日 2万人の学生によるデモ。警官隊は徹底的に弾圧。
 5月11日 世論が一変。新聞は政府を非難、既成の左翼政党も学生への連帯の表明。労働組合は学生と共闘するゼネストを指令。
 5月13日 あらゆる企業・工場の労働者がストライキに。フランスの社会機能が麻痺しはじめる。ソルボンヌ校の閉鎖がとかれ、学生が占拠。学生達は「大学は永久に労働者に解放される」と宣言。
 5月24日にはフランスの労働者の半数がストに参加。
 このころからドゴール政権は事態収拾に動き出す。
 5月30日 ドゴールはパリ周辺にフランス軍機甲部隊を配置。公民議会の解散と総選挙を宣言、「共産主義からフランスを救え」と演説。
 これで情勢がかわり、
 6月23日と30日の選挙でドゴール派は圧倒的な勝利。学生たちを支持した共産党と左翼連合はまれにみる敗北で議席を半減。
 これが‟五月革命”の概略であるが、とても‟革命”とはいえない。パリという都市でおきた祝祭? しかしそれでも学生の運動が社会を変えられるのではないかという気分が世界中の学生運動家を勇気づけた。
 1968年6月、日本でも「神田カルチェラタン闘争」が展開された。
 このパリ五月革命のときに、集団の先頭で投石を続けていたのはミニスカートの若い女性だったという。カルチェラタンの敷石を剥がすと砂が露出してきた。「敷石を剥がすと、そこに砂浜が」
 「立て籠っていること」だけが目的の、季節外れの文化祭。占領しつづけることだけに意味がある。かれらが変えたかったのは社会を覆う「気分」であったのであろう。
 このパリの《革命》から、「政治的な結果をもたらさなくても、行動することに意味がある」という思念が生まれ、世界に広がっていった。
 堀井氏のような下の世代から見ていると、「やたらと暴れまわって、やみくもどこかに突撃し、やがて何かに呑み込まれて、そのまま姿が見えなくなった」というのが印象である。「いつの間にか誰もいなくなっていた」そう堀井氏は述べる。
 
 日本での学生運動のピークは1968年後半あるいは1969年であるように思うので、やはり「パリ5月革命」は日本のものに少し先駆していたわけであるが、日本の運動とは異なり、ごく短期間でもある程度の広範な支持を社会からうけたわけである。しかし同時にこの社会からの支持というのもほぼ一ヶ月程度しか持たなかったわけで、社会の気分というのはきわめて気まぐれで、移り気なものであることもここにもよく示されている。
 この学生たちの運動が何を目指したものであったのかは、ごく一部の煩瑣な神学論争的左翼理論を信奉していた人たちを除けば、堀井氏のいう通り、《「立て籠っていること」だけが目的の、季節外れの文化祭。占領しつづけることだけに意味がある》というものだったのであろうと思う。橋本治氏がどこかでいっていた言葉を使えば、「子供のころの原っぱでの遊び」を大学のなかで再現することであったのではないかと思う。
「時間よ! 止まれ!」というのは「ファウスト」だったか? とにかく自分たちが遊んでいるあいだ、世界も止まっていることを彼らは求めたのだと思う。1968年ごろの日本の運動での《研究室封鎖》というのは別に自分たちに共感はしなくてもいいが、お前らが勝手に先に行くことはゆるさない。お前たちもここで停滞していろ!ということだったのではないかと思う。つまり、いずれ自分たちの運動が終焉するという未来を予想していて、その時に自分たちと同じところからお前らも再出発せよ! ということだったのはないかと思う。
 今の若い方々に「立看」という言葉が通じるのかどうか解らないが(今、パソコンで「たてかん」は「立看」へとは変換しなかった)、「神田カルチェラタン闘争」などという言葉を聞くとまず思い出すのが「立看」である。通学路が御茶ノ水だったので明治大学周辺に「立看」が林立していた情景をよく覚えている。ヘルメットと覆面と立看。とにかく日本の学生運動というのがパリのそれとは違っておしゃれでなかったことだけは確かである。
 パリでの学生達の反乱、あるいは日本での学生達の反乱、それをおこしたものは何だったのだろう? 本書にも書かれているが当時現在進行形であったベトナム戦争というもの影響が大きかったのだろうと思う。これはわれわれの歴史の中で最後の?正義と不正義の戦い(あるいは善と悪との闘い)であったのである。腐敗しきっている南ベトナム傀儡政権ではあるが、それでも東南アジアの国々が次々と東側へとドミノ倒しされていくことを防ぐためにはそれを何とか支えなければと、ひたすら物量を投入し続けるアメリカ軍と、それに対抗している碌な武器も持たないベトナムの農民兵たち、という構図。不思議なことに義のあるベトコンの兵士たちは、義のないアメリカ軍の近代兵器に打ち勝っている。一方、北ベトナムのトップのホーチミンは慈父のような聖者であって皆の尊敬を一身に集めている・・。当時、東西の対立がまだあり、東側が正で西側が邪であるという図式が通用した最後がベトナム戦争なのであったと思う。実際にはベトコンと呼ばれたものの相当部分は北ベトナム正規軍であり、東側のプロパガンダに西側が踊らされていたという要因が大きかったようであるが(日本にも「ベトナムに平和を!市民連合」というのができた)、当時はその神話がまだかなりの程度に流通していて、西側に生きる人々は反=正義の側にいるという罪悪感があり、若者たちも自分がまた悪の体制のなかにこれからはいっていくというような負い目を感じていたので、とにかくそこにはいっていくことを拒否する、少なくともそれを少しでも先送りすることというのが運動の目標にされたということは、論理的には筋が通っている。だから堀井氏がいう《「立て籠っていること」だけが目的の、季節外れの文化祭。占領しつづけることだけに意味がある》というのも整合性があるのかもしれない。
極論すれば、子供はまだ穢れていないがすべての大人は汚れている。自分は大人にはなりたくない! というのが一番の根っこにある感情だったのかもしれない。
 もちろん、東側だって決して問題なしと思われていたわけではない。ソ連スターリン批判で味噌をつけていたが(日本の日本共産党の下部組織ではない学生運動組織はスターリン批判から生まれたのだと思うし、68年頃の日本の学生運動の一部は「反帝反スタ」を標榜していた)、当時はまだ永久革命をめざす毛沢東がいる!ということになっていた。それがあっという間に東側が崩壊してしまい、正義とか不正義とかいう青臭い論議はどこかにとんでいって、今度は金儲けがすべてということになってしまった。
 東側が崩壊し、東西対立がなくなってしまった現在、1968年前後の日本での学生達の反乱、パリでの騒動をおこしたもととなる心情というのは理解不能なものとなってしまっている。そして東側がまだあった時代に、東側にありながらソ連を批判するという特異な立ち位置にあった当時の中国で進行していた毛沢東文化大革命について、堀井氏が「毛沢東文化大革命」を支持していたころ」で論じているので、それについては稿をあらためて考えてみたい。
 

1971年の悪霊 (角川新書)

1971年の悪霊 (角川新書)

堀井憲一郎「1971年の悪霊」(2)

 第3章は「1971年、高橋和巳が死んだ5月」と題されている。わたくしは高橋和巳の著書を一冊も読んでいないので、本来、ここを論ずる資格がないのだが、大学時代の友人に高橋和巳信者がいたので、高橋のことをいろいろときかさせてもらっていて、それなりの知識を持っているという微妙な立場である。
 堀井氏も書いているように高橋和巳は現在ではほとんど忘れられた作家、読まれることのない作家となっているが、それは高橋氏が小説家でありながら、本当の小説好きではなく、小説というものを自分の思念を示すための手段としてのみ考えていたことによるのではないかと思う。小説というのは本来、人間に対する興味、その人間たちが織りなす物語への関心から発するものであるはずだが、高橋氏はそのどちらも欠いていたのではないかと思う。とすれば、小説読み・小説好きからは敬遠されるはずで、高橋氏を動かしていた情念のようなものが共感を呼ばないようになれば、読者もいなくなってしまう。
 堀井氏は高橋和巳が読まれなくなったのはポップカルチャーに負けたのだという。ネアカとネクラ、マルキンマルビの二項対立に負けたのだという。そしてこのポップカルチャーは「明治以来の頑固な社会精神」を叩き壊す文化大革命だったのではないかともいう。ボディコン&ジュリアナ東京ポップカルチャーが吹き飛ばしたものは大きい、軽さの文化が重厚な自己犠牲文化を粉砕したのだ、と。
 バブルのころに日本は明治以来の重厚長大の路線と決別した。自己犠牲の文化にも分かれを告げた。そして高橋和巳の文学は根底に自己犠牲をおくものだった。それはストイックが美学とされた時代の文学だった。高橋の文学は「生真面目さ」の文学である。それゆえに「苦悩教の教祖」とも呼ばれた。
 三島由紀夫高橋和巳はそれぞれ70年11月と71年5月と時期を接して死んでいるのだが、その二人の安田城落城の後での対談を書評誌か何かで読んだ記憶がある。二人は異口同音に、安田講堂に閉じこもった運動家たちの(少なくともその一部は)死ぬ気なのだと思っていたということを言っていた。誰も死ななかったことに驚いた、と。
 実はわたくしもそう思っていた一人で、同じ感想を持った。わたくしは活動家たちは、いろいろなことを言ってはいるがそれを信じているわけではなくて、どういうわけかたまたま出現してしまった祝祭空間をいかにして少しでも長く保持していくかということだけが目的で行動しているのであり、そうであれば提示されるあらゆる解決策の提案はすべて即拒否であり、祝祭空間が否定されることがあるとすれば、それが物理的に粉砕された場合だけということになる。
 世間を相手に壮大な芝居を打って大いに楽しませてもらった落とし前をどうつけるかといえば、死ぬしかないのではないか、わたくしはそう思っていた。そうだとすれば、わたくしのほうが「明治以来の社会精神」に囚われていたのであり、籠城した戦士たちは、すでに時間を先取りして、安田城をジュリアナ東京にして、ボディコンのかわりに覆面とヘルメットで踊っていたのかもしれない。
 こういう見方はあまりにひねくれた見方であるのかもしれない。しかし、1968年前後の運動の根に一種のニヒリズムのようなものがあったのであり、そのニヒリズムが大衆化するとジュリアナ東京(これも刹那主義の一種?)になるのではないかという見方もまったく成立しないさけでもないという気がする。
 堀井氏は一方では民主党政権は1970年前後にあった空気が再現したものであるというし、他方ではボディコン&ジュリアナ東京ポップカルチャーがそれ以前の日本とそれ以後の日本を分ける画期となったという。これは一見すると矛盾した見解である。
 それで補助線を一本引いてみる。1968年以降、男の文化は変わっていない。しかし、ジュリアナ東京をきっかけに女の文化は変わった。変わったのだが、それは私的な生活という面においてである。公的な面(もっといえば政治の面)においてはあいかわらずなのである、そう仮定してみる。
 1968年の運動は男たちのものだった。もちろん、そこに参加した女性もいたであろうが、その役割は相変わらずのハウスキーパーだった。柴田翔氏の「されどわれらが日々ー」(1964年)は1968年よりはるか以前の六全協時代の共産党を舞台にしているが、そこに描かれた男女関係の古めかしさというのは驚くべきものである。
 一方、バブルの頃にはアッシー君、ミツグ君などという言葉があった。アッシー君は女性の運転手をする(させられる)ひと、ミツグ君は彼女に貢がされるひとのことだったのではないかと思う。このあたりの話は堀井氏の「愛と狂瀾のメリークリスマス」でも論じられている(一部は「若者殺しの時代」の第2章「1983年のクリスマス」でも)。何しろ男は一所懸命アルバイトをしたりしてお金をためて、クリスマスには彼女にそれなりの贈り物をして、高級ホテルをあらかじめ予約しておいて(一年前から予約が必要)、そこに泊まることができないようでは男でないとされていたのである。ティファニーの「オープンハートのペンダント」とかいうのが流行っていて、12月のティファニーは朝の通勤電車なみの雑踏だった。
 「クリスマスの朝はルームサービスで」というのは1983年の「アンアン」クリスマス特集号での惹句らしい。私的生活というか男女関係というか恋愛方面においては完全に女性が主導権を握ったわけである。もっとも三島由紀夫にいわせると、女は愛する存在で、男は愛される存在なのであり「男は愛については専門家ではなく、概して盲目で、バカである」のだそうだから、以前からの変わらぬ真実であったものが、この頃になって公然としてきたというだけのことだけなのかもしれない。
 堀井氏も高橋和巳の世界は「女性を描かない、恋愛が存在しない世界である」といっている。それを堀井氏はストイックというのだが、わたくしにはただその方面に鈍感であっただけとしか思えない。
 高橋氏が若くして亡くなった後、後に小説を書くようになる奥さんの高橋たか子氏は「高橋和巳の思い出」という本を出している。そこでたか子氏は和巳氏のことを「自閉症の狂人」だったと書いている。何しろ「俺は将来の大作家だ」などと嘯いて、一切働かず、もっぱらたか子夫人が稼いで何とか暮らしていたというのである。一般的言い方ではヒモである。とにかくこの本では、和巳氏のことをぼろくそに書くわけで、三島由紀夫流にいえば、「英雄の心事は女房にはわらぬ」ということなのかもしれないが、女房から見ればすべての夫はただの人なわけである。
 日本の歴史においては概して女性の地位は高かったのだそうであるが、その例外が江戸時代で、明治以降もその系譜をひいていたのだが、それがバブルの頃に崩れ出したのかもしれない。しかしそれは私的世界での話であって、公的世界はあいかわらず男性世界のままであって、その世界においては高橋和巳は英雄でいられるわけである。
 三島由紀夫によると、男の世界は英雄ごっこの世界で、原初はつまらぬ肉体の領域での競争がたちまち精神の世界にまでひろがってゆき、政治・経済・思想・芸術すべてがその英雄ごっこに端を発するのだという。「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての光栄のもと、ということになる。その観点から見れば高橋和巳はまごうことなく英雄となる資格がある。
 何となくそう思われているのとは対照的に 本当は、男のほうこそがロマンティックなのであり、女のほうが現実的である。あるいはセンチメンタリズムこそが男の根本にある(三島由紀夫)のであり、「ナチスがあれだけ成功したのは、ドイツ人のセンチメンタリズムに火をつけたから」(同)ということになると、堀井氏が高橋和巳に低い評価をあたえるもとになっている氏のさまざまな欠点や欠落も必ずしも欠点とも欠落ともいえないこともなるのかもしれないことになる。
 おそらく堀井氏は人生のある時点でロマンチシズムを捨てたのであり、本書はその考証の書という側面を持つ。そして本書の主張によれば、多くの日本人もまたどこかでロマンチシズムを捨てたのだが、それを捨てきれないひとが一部にいて、あるいは捨てたと思っているひとの中にも捨てきれずに残っているものがあって、それが時々火をふいて亡霊が蘇ることがある、それが最近のさまざまなおかしな出来事の原因となっているということになる。
 本章に続く、ウッドストックとかローリングストーンズといったものを素材にそれが論じられていくのだが、それらの話題はわたくしのまったく知らない領域の話であるのでそれらはパスして、次にはパリ五月革命の話題をみていくことにしたいと思う。
 

1971年の悪霊 (角川新書)

1971年の悪霊 (角川新書)

されどわれらが日々ー (1964年)

されどわれらが日々ー (1964年)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

高橋和巳の思い出 (1977年)

高橋和巳の思い出 (1977年)

第一の性 (1973年)

第一の性 (1973年)

堀井憲一郎「1971年の悪霊」(1)

 堀井氏の名前を最初に知ったのは、どこかの週刊誌(週刊新潮?)で連載していた「ホリイのずんずん調査」?というコラムでだったと思う。何かの話題について私見を述べるのではなく、とにかく調査してみるという姿勢のユニークなコラムだった。
 堀井氏の書くものには二つの系列があって、一つは落語についてのもので、もう一つが時事的な問題を論じたものである。落語についてはわたくしはまったくの門外漢なので特に述べるべきものを持たないが、後者の「若者殺しの時代」とか「やさしさをまとった殲滅の時代」などは、少し人生の先輩として若者たちに時代にだまされるなと呼びかけるような方向の本で、「若者殺しの時代」の末尾「すきあらば、逃げろ。一緒に沈むな。/ うまく、逃げてくれ。」という言葉はよく覚えている。
 本書はそれらとも少し違って、自分の生きてきた時代について語ったものである。堀井氏は1958年生まれであるから、わたくしのほぼ10歳年下である。タイトルの1971年というのは別に1971年でなくてもよくて、1968年でも1972年でもかまわないわけであるが、要するに1970年前後に日本において生まれたある気分がまだ現在の日本を覆っているのではないかというようなことを述べたものである。1970年に堀井氏は中学にはいったばかりということになる。
 第1章「1971年、京都の高校で紛争があった夏」は、1971年に京都のある高校で、期末試験粉砕のために生徒たちが教務室を封鎖し、期末試験は延期されたが、機動隊が導入され封鎖に参加した生徒たちが逮捕されるということがあったことが述べられ、堀井氏はその2年後の1973年にその高校に入学したことが述べられる。その事件をきっかけにその高校は「民主化」され、京都大学入学を目指す受験校であったその高校で、中間テストが廃止され、成績表が5段階評価から絶対評価に変更され、制服がなくなり、生徒が自分でテーマを選び研究するというゼミ制度のある「自由で革新的な」、生徒の自主性が尊重される高校になっていたのだが、その紛争の当事者ではない堀井氏は、ちょっと変わった高校だな、でも居心地は悪くないなと思っただけだった。
 1971年にはまだ世間は学生運動に好意的だった。それが1972年の浅間山荘事件で空気が変わり、学生運動への好意的見方は失われた。しかし1973年に高校にはいった堀井氏は、1971年の出来事の恩恵をうけて自由でのんきな高校生活を送ることができた。しかし、それは1971年の理念を受け継いだからではなく、ただそこにあるものとしての自由を享受しただけである。パリコミューンからちょうど100年の後に日本のある地方の高校でおきたささやかな左翼運動の勝利。
 「はじめに」は「白く冷たかった2009年の夏」と題されている。麻生太郎内閣は漢字の読み違いで追い込まれ?総選挙となり、民主党が政権を担当することになった。そこには無意味な明るさがあった。まるで昭和16年を思わせるような。そこにあるのは自民党でないなら、何でもいい、というだけの気分だった。堀井氏は1968年に盛り上がり1972年ごろに鎮静化していったある気分が、そこでふたたび帰って来たように思ったという。2009年からの民主党政権は、「理想に満ちているが、運営力がない学生運動気分」という1970年の思念の再現だったのではないか、と。
 この前とりあげた富田武氏の「歴史としての東大闘争」は、1968年の気分のまま、そのままずっと生きてきているひとの記録として読めるのではないかと思ったが、そのような気分というのは一部のマスコミにはいまだに生きていて(典型的なのが朝日新聞?)、確かに2009年の民主党への政権交代時の朝日新聞の高揚というのだろうか、躁状態というのはいささか常軌を逸したものだった。
 堀井氏はそのような気分というものの典型を例えばフォークソングというものに見る。それで第2章は「1971年、岡林信康が消えた夏」と題される。「若者たち」(1966)、「今日の日はさようなら」(1967)、「戦争は知らない」(1968)、「友よ」(1968)、「青年は荒野をめざす」(1968)、「風」(1969)・・。堀井氏は中学生のころフォークソングに感じたものは政治的なメッセージとか社会的メッセージではなく、「切なさ」であったという。これはアメリカから輸入されたもので、たとえばピーター・ポール&マリー。その曲のなかには「異議申し立て」「反戦」のメッセージが込められた歌もあったが、その基本はやはり切なさであったのではないか、と。
 さて、1968年になり土俗的なフォークソング関西フォーク)がでてくる。その象徴が岡林信康。フォークの神様とも呼ばれた。しかし岡林がプロテストソングを歌っていたのは1968年と69年の2年だけ。1971年からは吉田拓郎井上陽水の時代になってゆく。岡林は「なんや、いまの社会はおかしいんと違うか」という疑念を歌った。「みんなももっと歌いださなあかんとおもいますし、黙ってることはないとおもうんです・・」 抗議するとか、社会運動をしようという以前に、今の気持ちを言葉にしようという呼びかけであり、別に暴力革命などは想定してはいない。しかし運動家たちは岡林を自分のため仲間だと思った。
 1969年ごろ、新宿西口広場で毎週開かれていたフォークを歌うフォークゲリラと呼ばれた集会があった。これはフォークを歌うことが目的であったのではなく、たとえば「ベトナム戦争反対」が目的だった。
 「友よ」は「今はつらいだろうが、耐えれば、やがていいこともあるさ」という歌であり、負けた、でも進め、という歌である。当時の反体制運動にもそういう気分が流れていた。「負けるとわかっているけど闘っている。」「勝てないことはわかっている。それでも何かしないといられない」という気分。当時人気であった東映やくざ映画ともシンクロする気分。「とめてくれるな、おっかさん。背中の銀杏が泣いている。男東大どこへゆく」 
 1971年、岡林信康は失踪する。フォークコンサートの後におこなわれるようになった討論会にもつきあわされることに耐えられなくなったからだという。金儲けのために歌うなどというのは言語道断、より大事なのはみなの意識を高めることである・・。小さな反抗から社会を変えられるとみな信じていた。大人の世界とはまったく違う若者の世界があるとみな信じようとしていた。
 1971年の中津川フォークジャンボリーではついにコンサートが中止され、朝まで「ティーチイン」が続いた。それをきっかけにフォークは岡林信康の時代から吉田拓郎の時代へと転換していった。プロテストソングからラブソングへ。闘争時代は終わり、同棲時代がはじまった。
 「歴史としての東大闘争」でも、「当時、時代の気分を表したフォークソングが流行した」とあり、ボブ・デイランの「風に吹かれて」やジョーン・バエズの「花はどこへ行った」がヒットしたと書かれているし、また著者のふた回り下の奥さんはアルフィーの熱烈なファンなのであるとも書かれている。
 
 わたくしは中学1・2年のころにクラシック音楽のほうに逸れてしまったので、ここに書かれているフォークとかもあまりリアルタイムな経験としては聴いていない。それでももちろん、「友よ」とか「青年は荒野をめざす」とか「風」とかは知っていた(アルフィーはまったく知らない)。しかし「友よ」を岡林信康が歌っているのを聴いたか否か記憶が定かではなかったので、検索してみると、you tube というのは便利で、すぐに岡林歌唱の「友よ」がでてきた。実に優しい声の優しい歌である。戦闘的とかいった雰囲気は一切ない。そしてyou tube にはいくつかのヴァージョンがあるなかで、歌に被って「安田城落城シーン」がずっと流れるものもあった。少なくとも1968年当時の学生運動家の一部にはこの歌の心情をバックボーンとしていたものがあったということなのであろう。
 では、中学から高校にかけてわたくしがどのような音楽を聴いていたのかといえば、ベートーベンの「悲愴」とか「熱情」とか「テンペスト」といったもので、反抗的気分というか、鬱積した何か、要するに「ロマン主義」に通じる何かである。そして困ったことに大学に入るまでには、小林秀雄の「モツアルト」などというのもすでに読んでいて、ロマン主義を否定する、あるいは惑溺したロマン主義を否定する視点もまた知っていた。小林秀雄ランボーから出発した人なので、「モツアルト」には若気の至りのランボー路線の否定あるいは懺悔の書という趣が大いにあると思うが、それでもロマン主義を全否定はせずにその精髄は残すというような曲芸を試みたものだったのだろうと思う。
 そして当時の学生運動に参加したひとのなかには、フォークソングではなく、小林秀雄ランボー路線からそこに参加したひともある程度はいたのではないかと思う。
 とすれば問題はもっと広く何らかのロマン主義的心情ということになる。ロマン主義は先進した英仏に対する後進ドイツのルサンチマンから生まれたもので、要するに物質では負けても精神で勝つという路線である。ドストエフスキーロシア正教もその流れ。あるいは昭和16年の日本もまたその驥尾に付していた。
 それでは、1968年の学生たちの運動もまたその流れの中にあったのか?
 橋本治は「ぼくたちの近代史」で、全共闘って、一言でいうと、あれは「大人は判ってくれない」ですよね、と言っている。「大人は判ってくれない」と言っていた彼らは、何を判ってもらいたかったんだろうかというと、「‟大人は判ってくれない”と言って僕達がドタドタ叫んでいる、その事を判って欲しい!」って風に言っていた、ということになる。
 富田武氏の「歴史としての東大闘争」には、こまかい経緯がいろいろと書かれているが、加藤執行部との間の10項目確認書などというのは、子供たちが騒いでいたら大人がでてきたというようなものであったのだろうと思う。ごく一部の「ぴんの頭に天使が何人とまれるか?」に類した煩瑣な議論に意味を見出していた人たちを除けば、全共闘運動に何らかの反抗的気分から参加していた人たちは、そこに出現したある祝祭的空間に子供のころ遊んだ原っぱが再現されるのを見て、それが少しでも長く続くことだけを望んだのだろうと思う。大学での講義などというのは少しも面白くない。そこでは自分たちは主人公ではない。しかし、原っぱでは自分たちが主人公である。大学を出て社会人になった未来の自分を想像しても、そこにあるのは大学の講義をきいている自分と同じの何かの一員としての、ただの一つの駒としての自分である。そうであるなら今の原っぱでの遊びをできるだけ長く続けたい。しかしそれは所詮モラトリアムであることもわかっている。しかし、自分からそれをやめることはできない、誰かがそれを潰しに来てくれない限りはそれを止めることができない。
 第1章で描かれた高校紛争の話からすぐに連想したのが村上龍の「69」である。1969年に佐世保の高校をバリケード封鎖をする話で、その動機は女の子の気をひくためというとんでもないまったく非政治的動機なのであるが、おそらく「昭和歌謡大全集」とともに村上龍の小説のなかでもっとも楽しい小説である。愚かさも含めた若さを描いたものとして出色だと思う。ちょっと「坊ちゃん」をも想起させる。村上氏の作で同じ学生の反乱(こちらは中学生だが)を描いていても「希望の国エクソダス」の学生(生徒)たちにはまったく魅力がない。ツルンとしていて、若くなく、愚かでもない。「坊ちゃん」もそうであるが、「69」も「正しい」けれども「負ける」というところで物語のバランスがとれている(あるいはわたくしはほとんど観たことがないけれども東映やくざ映画もそうなのだろうと思う)。
 さて、2009年の民主党政権の成立もまたこの流れの一環として説明できるのだろうか? 鳩山由紀夫菅直人という二人の首相が子供じみたひとたちであったことは確かであろうと思う。鳩山氏の最初の施政方針演説の青臭さにびっくりしたのを覚えている。例の「命を守りたい・・」とかいうものである。文才のない文学青年の戯言のようなもので、政治ということには何のかかわりもないものだった。わたくしは市民運動家というのは人前で偉そうな顔をしたいのだけが動機の人間であると思って一切信用していないので、菅氏もその経歴のはじめからただただ嫌な奴と思っていたが、そういうひとを支持し持ち上げるひとが少なからずいてついには宰相にまでなってしまったということがただただ驚きであった。トランプさんがアメリカの大統領になったことも驚きだが、まだトランプさんはその経歴のなかで政治とかかわりがないとは言えないような経験はしているのだろうと思う。しかし、鳩山・菅両氏ともに政治よりも反=政治のような方向で生きてきていた人間であると思うので、2009年の民主党政権というのはとても不思議なものであったと思う。
 堀井氏は、この民主党政権は「理想には満ちているが、運営力が劣る学生運動気分」ととても似ているがゆえに困ったものだと感じていたという。
 「理想には満ちているが、運営力が劣る学生運動気分」を遡っていくと、その始原がフランス革命にまでいたるのか? それが難しいところである。本書の後のほうでは1968年のパリ五月革命も論じられている。
 フォークソングの話の後では、一転して硬派の高橋和巳が論じられることになる。それは稿をあらためて。

1971年の悪霊 (角川新書)

1971年の悪霊 (角川新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

歴史としての東大闘争  (ちくま新書)

歴史としての東大闘争  (ちくま新書)

ぼくたちの近代史 (河出文庫)

ぼくたちの近代史 (河出文庫)

69 sixty nine (文春文庫)

69 sixty nine (文春文庫)

富田武「歴史としての東大闘争 - ぼくたちが闘ったわけ」

 東大医学部の同窓会である鉄門倶楽部の同窓会誌「鉄門だより」では、最近の何号か「東大紛争」についての特集というか、それについてのさまざまなひとの寄稿がのせられている。このことについて論じるときにまず直面する厄介な問題があつかう対象を東大闘争と表記するか東大紛争と表記するかということで、そこからすでにそのことに対する論者の姿勢が問われることになる。
 「鉄門だより」がそれを東大紛争と表記しているのも考えさせるものがあるが、そのような特集を組んだのは、「東大紛争」から50年という時間がたったということによるらしい。本書もまた大学闘争から50年ということがあって書かれたものということのようである。
 著者は東大闘争と表記する時点で当然ある立場をとっているわけであるが、正直、本書を読んでなにを主張しようとしてこれを書いたのかが少しも理解できなかった。ということで以下に書くことは悪口ばかりになると思う。悪口を書くなどというのは非生産的な行為で、それくらいなら書かないほうがいいわけであるが、以下に書くことは著者への批判というより著者もふくむ全共闘運動にかかわった人々の一部にみられるある傾向が本書にきわめて顕著に表れているように思えるので、それについて考えてみたいということである。その「ある傾向」というのは、著しい自己への批評の欠如(全共闘世代の用語でいえば自己批判の欠如)であって、本書を通じて著者がいっていることは、今まで自分がしてきたことは、どの時点においても間違っていなかったということだけのように思える。そのようなことのためだけに一冊の本を書くというのは、書物の公共性に反すると思う。自分はこう考えるが読者はどう思うだろうか?、と問うのが著書を表すことの意味であって、自分は常に正しかったという趣旨の本に対して読者がそんなことはないぞという批評を返したところで、著者はそれはあなたの読み方が悪いと返してくるだけである。一言でいえば、本書は開かれていない。自閉している。
 本書は「はじめに」「1.東大闘争の経過と思想的意味」「2.反戦運動と生き方の模索―闘争前の東大キャンパス」「3.ノンセクト・ラディカリズム論-共感と批判を込めて」「4.その後の運動とソ連崩壊―「新しい社会運動」か」「5.大学闘争はいかに研究されたか」「おわりに」の7つの部分からなる。
 1.は10年前に書いた論文で、「我ながらよくできている」のだそうであるが、それが客観的叙述に徹しているので、そこに同時期の著者の日記の一部と著者の母の短歌、著者の「卒業試験受験拒否宣言」などを付加して、リアリティを増そうとしたのだという。2.は東大闘争がヴェトナム反戦運動などとも連携したものであったことを示すためのもので、ここでも著者の日記なども援用される。3.はアカデミーに「転進」した1971年の「再びアカデミズムの門に立ちて―私にとって東大闘争とは何であったか」をもとにしたものだそうである。4.は1970~90年代に著者がかかわった社会運動を紹介しながら、新左翼運動や共産党の動向を分析したもの、ということである。5.は東大闘争がどのように論じられてきたか、であるが、後半は自説の展開である。「おわりに」に本書の副題である「ぼくたちが闘ったわけ」が著者のふた回り下の奥さんの提案であることが書かれていて、その奥さんと二人で安田講堂の前で撮った写真までが収められている。
 ひとことでいえば「甘ったれるな!」という感じである。70歳を過ぎたおじさんが、例え奥さんの提言であるとしても「ぼくたち」などと書いて平気である神経がそもそも理解の外である。母親の短歌とか著者の奥さんの写真とか、奥さんがアルフィーのファンであるとか、著者が卒業試験を受けるのを拒否したとか、それでも結局研究室に戻ったとかいうことは、読者にとってはすべてどうでもいい話であって、今から50年前に東大闘争(紛争)がおきたことについて何かを考えていくということとはなんのかかわりもない。
 それでもこういう本が書かれたわけである。そして読者の印象としては、本書は徹底して著者の自己弁明のための書、著者はどの時点においても間違ってはいなかったということを主張したいだけのものと、どうしても思えてしまう。政治の運動というのは実効性がすべてであって、良き意図のもとに悪しき結果がもたらされたというようなことは少しも弁明にはならない。
 第4章では、1970年代は中国がヴェトナムに侵攻するなど「社会主義」にあるまじき時代だったが、1980年代はポーランドの「連帯」が社会主義改革に希望を抱かせた時代で、ゴルバチョフペレストロイカなどがでてきた。しかし、90年代のソ連の崩壊で不安の時代になったという一筆書きの展望が示されるが、そういう歴史の中でマルクス主義共産主義社会主義をどう考えたのか、今ではどう考えているのかということについては一切の言及がないままに、著者がいろいろな社会運動にどうかかわったかが論じられる。保安処分とか優生保護法とかにかかわったことが簡単に述べられた後、今度は新左翼運動の内部の離合集散が詳細に述べられる。
 書名にもかかわらず、「東大闘争」について書かれているのは、第一章のみで、第2章はその前史、第3章は東大闘争が当時のアカデミズムを批判した運動であったにもかかわらず、その後、著者がアカデミーの世界に戻ったことの弁明、第4章がアカデミー復帰前後に著者がかかわった社会運動の紹介、第5章が東大闘争がどのように論じられてきたか、なのである。
 世の中のすべてのことがそうなのかも知れないが、東大闘争(東大紛争)もまた偶然に大きく左右されたはずで、私見によれば、68年6月の全共闘派による安田講堂封鎖に対する大学当局による機動隊導入がなければ、その後の展開は大きく違っていたのではないかと思う。つまり大学というのは国家権力から独立した牧歌的なところであるというような思い込みが当時の学生たちには広範にあって、それで大学構内に機動隊員の姿を多数見る事態になって、邪悪なる国家権力(その象徴としての機動隊員)がきわめて具体的なかたちであらわれることになり、それによって、それに対峙する学生たちも、自動的に聖なるものに昇華し、国家権力の手先である機動隊対無垢なる学生たちという構図が出来上がってしまって、闘争(紛争)が長期化することになったのではないかと思う。もちろん、それ以前に誤認処分を撤回してしまうという行き方があったはずであるが、これをすると、学生側からは誤認処分をした責任者の処分要求が出てくるのは必至であると思われ、踏み切れなかったのであろう。大学を構成するものは自分たち教職者であって、一過性にそこを通りすぎていくだけの学生では断じてないという意識が学生は切り捨ててでも身内をかばうという行動をとらせたのであろう。
 本書にもあるように、東大闘争の発端が、医学部の卒後研修のありかたをめぐる対立にあったことは事実であるが、68年の数年前から毎年3学期になると医学部ではとストライキと称するものが行われていて、68年もまたそれが行われていた。例年は新しい年度になると解除されていたのだが、68年には誤認処分ということがあって、学生側もストライキ解除をできずにいた。しかし内部にいた人間の感じとしては、多くの学生たちにはいつまでも授業がはじまらないことに嫌気がさしてきていて、もうそろそろストライキは解除でいいのでは、という気分が強くなってきていたように思う。しかしストライキを主導する一部のひとたちは、このストライキが単なる医局制度の問題についてのものではなく、米帝国主義のアジア侵略に反対する運動の一部としておこなわれている(米帝国主義のアジア侵略を確実なものにするためには無給医局員制度の存続が必須であるといったような、風がふけば桶屋がもうかる式の難解な論がいろいろと展開されていた)ということを主張していたのだが、多くの学生たちに厭戦気分が蔓延するようになって孤立しはじめていて、何ら展望があったわけではないが、一か八かで安田講堂占拠という行動にでたところ、教授会側が即、機動隊導入ということに踏み切ってくれたことによって、それで問題が医局制度の問題から、大学の自治、あるいは権力対反権力といったはるかに抽象的な問題に拡大していって、収拾への展望が見えなくなっていったということなのではないかと感じる。
 そして、著者のいうように(p60)一時的にせよ、多くの大学で運動が燃え盛っていった根っこには当時進行していたベトナム戦争の問題が深くかかわっていたことは間違いないと思う。著者は本書では淡々とヴェトナム戦争の経過を略述するだけであるが、少なくとも日本においては当時これは善と悪との闘い、善であるベトコン(南ベトナム民族解放戦線)と悪であるアメリカ軍との闘いといった図式で捉えられていて、ほとんどまともな兵器をもたないゲリラ兵(ホーチミン・サンダルを履いた!)が強大な装備を持つアメリカ正規軍と互角の戦いをし、ついには義のないアメリカは義のあるベトコンとの闘いに敗れていくというような大きな見取り図のもとに見られていたのではないかと思う。
 つまり当時はまだ明白に東西の冷戦というものがあり、ベトナムでの戦争は東西の対立の象徴であり、ベトナムの民族戦線が正義の側であると見られていたということがあり、つまり、東西の冷戦においても義は東側にあり、西側はその義の前に劣勢にたたされており、いずれ世界は東側に呑み込まれていくというような見方がかなり多くのひとから真面目に受け取られていたということがある。(ドミノ理論というのも当時あった。)
 1968年の時点で、1991年というわずか二十数年後にソ連という国が地上から消滅するであろうなどということをいうひとが当時いても誰もまともにとりあげなかったであろうと思う。
 そして大学闘争というのも、運動を指導している人たちにとっては疑似的あるいは模擬的にミニ・ヴェトナム戦争とでもいうべきものを日本において作り出そうという試みという側面が大きかったのではないかと思う。そうであれば、単なる無給医局員の待遇といった次元から大きく飛躍した視点を持ち込む必要があるわけで、現在の日本において大学で学問をする意味あるいは研究をする意義といった抽象論がすぐに要請されてくる。しかしそのような議論を多くの学生・研究者に切実なものと思わせるのはどう考えても無理であって、それで行き詰っていたところに、機動隊が導入されるという天祐がおき、いきなり機動隊という疑似アメリカ軍が眼前に出現することになって、あっけなく疑似ヴェトナム戦争状態が現前されることになったということなのではないかと思う。それによって、一時的にであれ運動が一気に盛り上がった。
 しかし、ヴェトナム戦争の頃が東側の攻勢の頂点で、ヴェトナム統一後の大量の難民(ボート・ピープル)の出現・・なぜ圧制から解放された人々が命からがら身一つで逃げ出さなければならなかったのか?、カンボジアポルポト政権の蛮行・・インテリが社会主義というものを生真面目にうけとることによって生じる悲劇であり、その最大のものは文化大革命であったのであろうが、当時はまだ文化大革命の実態はほとんど外部には明らかになっていなかった・・、中国のヴェトナムへの侵攻といった(著者のいう「社会主義」にあるべからざる)事態が次々におきて東側の威光が急速に陰っていった。それと並行して学生たちの運動も急速に弱まっていったということなのではないだろうか?
 そうであるならば、本書において著者が書かなければならない第一のことは、社会主義マルクス主義)についてあるいはソ連の崩壊についての著者の見解であるはずなのであるがそれは語られない(著者は142ページあたりの論でそれをしているつもりなのかもしれないが、まったく的をはずしている。また第5章での議論の一部でもそれを果たしているつもりかもしれないが、そこにあるのは何をいいたいのか、少しも理解できない論である。そして、その第5章の末尾は「ソ連崩壊後四半世紀余りの今日なお散見されるマスクス主義の観念的・教条的固守はやめてもらいたい」というものである。多くの読者は本書を読んで、この言葉をそっくりそのまま著者に投げ返すのではないだろうか? 著者は自分の書いていることを、多くのひとは世界の動向から遊離した浮世離れした観念論であるとみるのではないかという懸念を少しでも抱くことはないのだろうか?
 おそらく著者は社会主義学・共産主義学内部の煩瑣な神学論争、(かつての講座派と労農派の論争のような)狭い学者仲間のあいだでの議論に明け暮れて日々を送っているうちに現在の世界が何もみえなくなってきているのではないだろうか? 著者はスターリン時代のソ連の研究者なのだそうである。何を目的にその研究というのをしているのだろう? それは語られず、その代わりに著者が語るのが、氏がその後、どのように社会運動にかかわっていったかということなのでる。
 著者は大学での闘争がその後のさまざまな社会運動の源流となったといいたいようなのだが、わたくしから見るとそれはまったく転倒した議論で、その後のさまざまな社会運動というのは、西側の国々をまるごと全体として社会主義化していこうという大きな物語の見通しがまったくたてられなくなったことを反映したもので、それでもなんとかそれぞれの場で生き延びて、そこにわずかでも灯かりを残していくための塹壕戦なのである。社会のなかでの様々な「反=」「アンチ=」を探し出して、そこにかすかにでも火種を残していこうという行動、パルチザンとしての遊撃戦である。わたくしから見ると現在の日本共産党がしているのも同じことで、自党が中心となった政権を樹立し、日本を共産主義国家とするなどという構想はとっくに放棄されているが、少なくとも美濃部都政のあたりまでは微かに描けていた未来への展望がまったく見えなくなった今でも、これまで自党を支えてくれてきた党員を何とか食べさせていき、支持者を何とかつなぎとめていくために、とにかく泳ぎ続けなければならない、そうでなければ沈んでいくだけである、ただそのことのために何かをしつづけている、そういうことなのだろうと思う。
 本書に類似したものとして、大分以前に小坂修平氏の「思想としての全共闘世代」を取り上げたことがある。本書の著者の菊池氏はこの小坂氏の本を当時の気分や雰囲気をよく伝えるものであることは認めているが、総括として物足りないとしている。この小坂氏の本は「いまでも夢を見ているような気がする」というのが書き出しで、「あの時代を通過したことが、その以降の生にとってどういう意味をもっていたかという角度からしか語ることができない」 「ぼくにとってあの時代を通過したということは、何かに「つかまれてしまう」という経験だった」と書いている本であるから、まさに「気分」を伝えようとしたものなのであるが、この本を読んで解るのは小坂氏にとっての全共闘運動の体験は一種の神秘体験、見神体験であったということであって、神秘体験はそれを経験していない人にわかってもらうことは絶対にできないものなのである。小坂氏にとって全共闘運動を離れた後の生というのは何かリエリティを書く偽物めいたものとしか感じられなかったようで、「本気になれない」ままでその後の生を過ごすことになったのではないかと思われる。わたくしはそれを知る世代ではないが、戦後、特攻隊崩れというのがあったそうで、この「思想としての全共闘世代」につけられた氏の写真などいかにも斜に構えたというか「何事にも本気になれない」雰囲気を漂わせている。それに比べると本書に付された菊池氏の写真は普通の社会人のもので、まだまだやる気十分という感じである。しかしわたくしから見ると、菊池氏はまだ夢からさめずにいるのである。
 そして菊池と小坂氏、どちらの本にも共通するのが自分への徹底的なこだわりである。菊池氏は自分のことを文学が不得手といっているが、氏が研究すべきなのは、スターリンではなく、日本の私小説なのではないかと思う。
 本書を読んであらためて感じるのは、全共闘運動を経験したことによって、その後、現実との接触を失い、酔生夢死のような人生をおくっていくことになるひとがいるのだなあということである。そのような人が生きていける数少ない場所の一つが大学の研究室なのだから、「自分が東大に「還ってきた」のはスターリン体制研究のため、だたこの一点である」などと力みかえらないでも、本能が自分の生きていける場所を指し示したのではないかと思う。
 ひょっとすると橋本治氏の最後の本になるかもしれない最近刊行された「思いつきで世界は進む」に「批評のポジション」という文があって、そこに「社会党が力をなくしてしまったのは、「批判ばっかりでなんでも反対の社会党」と揶揄され、「現実的になって政権与党を目指そう」などと無駄なことを考えた結果で、「現実は現実、批評は批評」で、批評が「現実」なんかになる必要はないんだ。現実はいつでもいい加減で、だからこそ「非現実的な発言」である批評が意味を持つ。「批評は現実と関わらなきゃいけないんじゃないか?」と思った瞬間、批評は力を失うし、失った。批評は批評で、現実とは別次元にあることによって現実と絡み合う。非力だからこそ力を持つというのが批評の力でしょう。」とあった。まさか菊池氏がそのような高級な方面のことを考えて行動しているとはとても思えないのだが。

 

歴史としての東大闘争  (ちくま新書)

歴史としての東大闘争  (ちくま新書)

思想としての全共闘世代 (ちくま新書)

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思いつきで世界は進む (ちくま新書)

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