橋本治「父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない」(1)

 橋本氏が「小説トリッパー」に2017年秋号から2018年冬季号まで、連載したものの書籍化。おそらく、この後も書き継ぐつもりでいたものが、氏の死により中断されたもののように思う(161ページに「六月の末に癌の摘出手術を受けて入院中とある)。それで「あとがき」がない。しかし、おそらく後1~2回で終わる予定でいたのではないかと思うで、今回刊行部分で評することには問題はないように思う。
 この「小説トリッパー」に連載されたものとしてはすでに2017年に刊行された「知性の顚覆」がある。その副題が「日本人がバカになってしまう構造」で、イギリスのEU離脱やトランプ大統領誕生などをとりあげているものの、話があっちにいったりこっちにいったりで、書いた本人が「むずかしい本だな」などと嘯いている焦点がしぼりにくい本であった。それにくらべると本書は、父権制・家父長制・家制度・戸籍制度といった方向に話が絞られているので、その分、方向が見えやすいが、それでも「スター・ウォーズ」や「ゴッドファーザー」などへの脱線は相変わらずで、もうすこし話をまっすぐ進めてくれたらな、と思う部分がある。それで敢えてくねくねした進行をまっすぐにして考えていきたいと思うので、橋本氏の論の進行の含みや奥行が消えてしまうことをおそれるが、それはお許しいただければと思う。
 それで話は、主題が「父権制の崩壊」であって「父権の崩壊」ではないというところからスタートする。父権制しなわち家父長制は、父親を「一家の長」とする制度で、父親に家族を扶養する義務を負荷するのと同時に、家族を支配統括する権利をも与える制度で、この制度での一家の長を戸主と呼ぶ(戸というのは家であり、戸籍制度の戸である)。日本ではそのような制度は1947年の民法改正で廃止されているので、その時点で、家父長制は法的にはなくなっている。
 家父長制は「お父さんはえらい」という考えを基礎にしていたわけであるが、法律が変わったら、すぐにその考えがなくなったわけではなく、戦後においても日本を長く呪縛した。しかし、それが今ようやく瓦解しようとしている。それは「女の力」によってである、と橋本氏はいう。
 東京では、1970年代までは普通にあった木造アパートが80年代になると消えていき、若者もワンルームマンションなどに住むようになる。大家さんや管理人がいなくなり、地域社会というものが下町を残しては消えていった。
 現在進行している世界的な右傾化の傾向はかなりの部分が《家父長制に帰りたい》という動きによって説明できる。その《家父長制に帰りたい》と思う人達の理想のおやじがドナルド・トランプである。
 男というものは自分の外側にあるシステム(「社会」とか「全世界」)にシンクロするようにして生きている。男の外部にあるというのがそれに同調する男にメリットをあたえるようにできているからで、その典型が戦後日本の会社である。
 「論理」というのは少なくとも、今のところは、男のものである。「論理は女のもの」とはなっていないし、「論理は男のものだった」という過去形にもなってもいない。
 セクハラは《男性優位ということを当然としている》男性がおこなうものである。だからする側にそれが悪いことであるという自覚がない。1968年ごろの学生運動を思い出すと、それは理解しやすい。なぜ、学生たちはそれを闘争と呼び、大学当局は紛争と呼んだのか? 大学当局は自分達は学生より優位であることを疑っていなかったからである。学生たちがそれが問題だ!といいだした時点でも、大学当局は、だから何なの?としか思えなかった。大学当局が当たり前としていたことも、学生たちには当たり前とは思えなったのである。これは当たり前と思って好き勝手をしてきた男が「セクハラ!」と訴えられて慌てるのと同じ構造である。
 そのように「男の論理だけが論理である」が通らなくなってきており、女をも包括する論理が必要とされるようになってきている。
 森友、加計学園問題で明らかになったのは、中央の人間は地方の人間を下にみている、ということである。下のものは上のものにしたがって当然と思っているということである。
 パワハラは組織内の上下関係から生まれる。パワーハラスメントは、その人個人のパワーではなく、組織がその人にあたえる「場の力」によって生まれる。つまりパワハラは「組織という構造に由来する病」である。
 組織とは単なる会社といった単位ではなく、もっと大きな業界といったものもふくむ。「個人」がパワハラを告発すると、「あいつは組織に馴染めない人間だ」といわれる。
 これはいじめとその告発の構造とも同じである。完結した自分達の世界の中に住んでいるひとは、自分たちの世界の外に別の価値基準を持つ世界があるとは考えない。組織の外側にいる個人というものを想像できないのである。
 しかし少しづつ、「組織とは個なる人によって出来あがるものだ」という常識が浸透してきている。その個人はひとりひとりが自分の考え方を持っている。
 日本でも、「組織というものは上から下に下がっていく枠組みである」という見方と、「組織はそれを構成する個々の人間が作っていくものだ」という考えが拮抗して併存するようになってきている。
 パワハラは組織の上位者による下位の人間への凌辱行為である。「お前は組織のなかにいて組織に面倒をみてもらっているのだから、組織に逆らってはいけない」という考えを基礎にしている。その声はかつては非常に強力であったが、それがようやく今、変わろうとしてきている。
 セクハラの構造もパワハラの構造とまったく同じである。だからセクハラをしたとされて辞任した財務省の事務移管は「自分はセクハラはしていないが、自分の所属する組織に迷惑をかけたので辞める」のだといった。これは組織の内側でしか通用しない言語である。「自分の考え方」を持った個人には通用しない。「組織に所属する人間」である前に「自分なりの考えをもった一個人」であることが現在では要請されてきているのである。「組織はすでにできあがっていて、上から下への命令がおりてくるもの」という考えと「組織は我々が作っていくものである」という考えが併存するようになってきている。
 組織のほうでは、「お前は組織のなかにいて組織に面倒をみてもらっているのだから、組織には逆らえないよな?」と思っている。しかし昨今、セクハラ被害への告発が続いているということは、それが崩れてきているということである。
 日本ボクシング連盟の問題というのは日本の組織というものを何よりもよく示した事件であった。山根会長というのは「日本の昔にいた田舎のおっさん」そのものである。1960年以前の日本は圧倒的に農村社会であった。そして昨今の事件は永田町もまた同じ構造のままであることを示した。
 人間の歴史は「男社会の歴史」である。とすれば、それを壊すものがあるとすれば当然「女」である。
 かつては、「男=主、女=従」が当たり前とされていたから、女がそれを抑圧と感じることもなかった。しかし、もしそれを女が抑圧と感じるようになれば? それが現在である。女を守るものでもありまた抑圧するものでもあったタガは外れた。そのタガというのが結婚である。『両性の合意のみによってなりたつ結婚』は脆い。「家」という抽象概念を背景に持たない結婚は危い。
 今では「というのが単なる建物のことになってしまった。しかしそうではあっても、今でも結婚届けを出すと新しい戸籍が作られる。その場合に誰を戸主にするかが問題となる。姓は二つという選択は現在の制度では認められていない(夫婦別姓が日本で容認されにくいのはそのためである)。しかし二人で作るシステムの代表が一人でなければならないというのは最早時代錯誤になってきているのである。家父長制という、家を代表するものはただ一人で、それは男でなくてはならないといういきかたはもはや機能しなくなってきている。
 明治に統治者としての天皇を神格化した。これが普通の家庭にも波及し、家長の絶対化がおこった。このことによって日本での男の在り方は、明治以降、江戸時代よりも後ろ向きとなった。敗戦で天皇は自らの神格性を否定した。それと並行して、民法は改正され、制度上の家父長制は消えた。日本の家庭はただの家庭に戻った。
 それでは本来、家というものがもっていた機能というものはどのようなものであったのかを考察する途中で本書は終わっている。おそらく橋本氏の死によってそれが中断してしまったのであろう。もしも氏が存命で連載が続いていたら、現在の改元とともに出てきてきている皇位継承の問題、女性天皇などの問題についても大いに議論がなされていたはずである。
 
 わたくしは1947年生まれなので、丁度、民法が改定された年である。その改定によって、『家・戸主の廃止、家督相続の廃止と均分相続の確立、婚姻・親族・相続などにおける女性の地位向上』などが図られたとされている。
 わたくしは長男であるが、家督というようなことを今まで意識したことはまったくないように思う。父は三男坊であり、母は二人姉妹の妹。父母は母の両親と同居し、その死後もそのままその家に住み続けた。わたくしは結婚して家をでた後、しばらくしてまた親と同居するようになり現在にいたっている。
 家督という意識はまったくなくても、不動産というものあるいはその相続ということについては、血縁という意識が日本の法律にはあるのではないかということを感じる。母方の祖父が取得した不動産は母に相続されたわけで、それには父は一切の権利を有していない。民法改正以前は長男に相続されたものが改正によって女である母にも相続の権利が生じたということなのかなと思っている(改正前民法についての知識が不足しているので違っているかもしれない)。後は墓であろうか? 母方は女二人姉妹であるので、その死後の墓の維持ということが母の懸念であるらしい。
 そのようにわたくしからみると戸というものは不動産相続の問題であったり、墓の問題であったりといった即物的な方向だけなのであるが、そうではない見方をするひともあるわけで、ソーントン不破直子氏の「戸籍の謎と丸谷才一」では、戸籍という制度を「可死性への挑戦」への一つの挑戦として捉えている。
 不破氏(と書くとすでに問題がおきるのだが、正確にはソーントン不破氏?)がそのようなことを意識するきっかけとなったのが、氏が国際結婚をしたことである。氏は一人っ子で将来子供が生まれたら少なくとも一人は日本国籍にして自分の姓を継いでもらいたいと思ったという。それで法務省に確認したところ、それはできないことがわかった。日本の戸籍法では、子供は父親の戸籍を取得しなくてはいけないので、米国籍となる。それを逃れるためには私生児とするしかない。そうであれば父親がいないので母の国籍となれる。米国での小切手ではナオコ・フワ・ソーントンという記載であったが、日本における戸籍は結婚後も旧姓のままだった。(結婚によって両親の戸籍からは除外され、、旧姓のままで新しい戸籍の筆頭者となっていた。) 国籍が違う配偶者とは同性になれなかった。長男はアメリカで生まれたので出生届けを州の役所に届けた。次男は日本で生まれたので在日米国領事館に届けパスポートが発行された。子供を日本国籍にすることはできなかった。自分との親子関係を示す戸籍は存在しないことになった。
 その後、国籍と戸籍にかんする法律がかわり、子供が望めば母親の国籍を取得することも可能となった。1990年代にさらに姓をソーントン直子からソーントン不破直子とすることも可能となった。しかし、相変わらず戸籍には子供にかんする記載はない。
 そこから不破氏は戸籍にかんする議論にうつる。戸籍は東アジアの中華文明圏にのみみられる制度(中国 朝鮮 日本)であり、たとえばアングロサクソン系では、出生届けは個人単位である。それは徴兵と課税のためのものとされる。
 しかし日本ではそれ以外に家族関係についての公文書という色彩も持つようになった。公民の家系意識と皇統の万世一系の物語が、個々人のアイデンティティと国のアイデンティティを支えることとなった。
 江戸時代には、武家では子がないと家名断絶となるので、子がない場合、養子をとったり側室に子供を産ませようとした。武家では相続権は男子のみ(庶民では女子の相続もあった)であった。
 明治にはいり、武家と庶民の別は廃され、明治31年の明治民法で現在のような夫婦同姓となったため。この民法の成立から「家」の概念が濃くでてくる。戦後の民法改正によっても、この「家」の概念は残っており、一人一戸籍ではなく「夫婦と同氏の子」を戸籍編成の基準とした。
 人間が自己の死を自覚した場合、何らかの永世を信じる手段として、青史に名を残すとか、いろいろな足掻き方があると思うし、家というのもその一つの手段たりうるとは思うが、戸籍というものもその一つなのであるという不破氏の見解にはいささか納得しずらいものを感じる。あるいは丸谷氏の諸作を「可死性への挑戦」という観点から見るという方向に疑問を感じる。丸谷氏は日本の私小説を中心とする文学風土に「逆らって」、あるいは主観的にはそれに「たった一人の反乱」をおこすことを自分の立ち位置とすることを選んだひとであったのだと思う。何らかの個性を主張する文学ではなく、大きな文学の伝統の流れの中に生きる一人の文学者としての自分という位置づけである。この文学観は、血縁の流れの末端にいる自分という見方とパラレルの部分がある。丸谷氏の文学が血縁、戸籍というものにこだわるように見える部分があるのはそれによるのではないだろうか?
 橋本治氏は「宗教なんかこわくない!」の中の「近代人は二度死ねない」の項で『「魂の不滅」は、やっぱり、人間の死に対する恐怖であろう』といって、なんとドーキンスの「利己的な遺伝子」まで持ち出してくる。 やはり、近代人には「可死性への挑戦」という方向は嘘になるのである。同じ「宗教なんか・・」で橋本氏は"自分の頭で考えられるようになること”―日本に近代化の必要が叫ばれるようになってから日本人に終始一貫求められているものは、これである。これだけが求められていて、これだけが達成されていなくて、これだけが理解されていない、といっている。本書「父権制の崩壊・・・」もその延長戦の方向なのだろうと思う。
 わたくしは家意識といったものが極めて乏しい人間なので、この不破氏の著作で戸籍制度というのが中華文明圏でのみ見られる制度であることをはじめて教えられた。そして不破氏はそれを個人単位で出生を管理するアングロサクソンのやりかたと対比させている。わたくしは個人というものを西欧の発明だと思っているので、この対比は魅力的である。しかし、そこから可死性への挑戦といった方向にいくのは飛躍であると感じる。
 それで家族類型からわれわれの生き方を説明するE・トッドの家族システムの見方のほうがずっと説得的であると感じる。それで鹿島茂氏の「エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層」を見ながら「父権制の崩壊・・」をみて行きたいと考えるが、長くなったので項をあらためる。
 

戸籍の謎と丸谷才一

戸籍の謎と丸谷才一

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

橘玲「朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論」(2) 

 内田樹さんの2002年の本「「おじさん」的思考」は「日本の正しいおじさん」擁護のための書であることが言われている。そこでは内田氏自身は、どちらかといえば「日本の悪いおじさん」であって《インテリで、リベラルで、勤勉で、公正で、温厚な》「日本の正しいおじさん」に逆らい反抗の限りを尽くしてきたのだが、それが可能であったのは、「日本の正しいおじさん」こそが日本の土台であり、基幹であって、そういう存在があるからこそ安心して、かれらに嫌がらせをいうという「わがまま」も可能であったのだとしていた。論壇に登場して以降の内田氏の論の面白さというのは、そういうトリックスター的姿勢によるところが大きかったのだろうと思う。そして最近の内田氏の論がいたって精彩を欠くのは、氏がいつの間にか「悪いおじさん」から「正しいおじさん」になってしまって、論に裏とか奥行がなくなってしまったからではないかと思う。
 それと、論壇に登場して以降の氏があまりにも売れっ子になってしまって、勉強する時間がもてなくなってしまったことも大きいだろうと思う。レヴィナスなどという相当なインテリだってまず読まないだろう思想家に入れあげてずっと沈潜していた時期の蓄積がその後の氏の言論活動を支えてきたが、さすがにその蓄えも底をついてきたということなのであろう。
 レヴィナスユダヤ教の系譜のひとなのではないかと思うが、西洋思想史に疎いわたくしから見ると広い意味でのカトリック思想のひとなのではないかと思う。西洋思想の中でカトリック思想というのは実に強力なものであって、それに対抗するものとして18世紀以降の啓蒙思想がでてきたのであろうが、啓蒙思想というのは「話せば解る」といった姿勢を根底に持つから、「問答無用」といった「暴力」「絶対的な悪」には対抗できないという弱点をもっている。
 レヴィナスナチスという「悪」への対抗から思想を紡いでいったように、内田氏も若い時に参加した学生運動の場で見た「悪」から考えることをはじめたのだろうと思う。
 内田氏が村上春樹を論じる場でいう「雪かき仕事」というのも「勤勉で、公正で、温厚」の徳を説くものなのであろう。そういう《黙々》とは正反対の「インテリで、リベラル」な朝日新聞の人々は《饒舌の徒》であっても、雪かき仕事など薬にもしたくない人たちである。つまり「日本の正しいおじさん」は二分されるわけで、空理空論をもてあそぶ口舌の徒と、黙々とそれぞれの場で働く底辺の人である。
 中井久夫氏が「分裂病と人類」で描く二宮尊徳像もどこかで「雪かき仕事」という言葉を連想させるものであるが、それと同時に山崎正和氏が「鴎外・闘う家長」で描く森鴎外像をもどうかで彷彿とさせる。中井氏は尊徳について「飛躍のない連続的な努力」ということをいう。尊徳のような人間がもっとも恐れるのは、連続性を断つ飛躍や跳躍であり、大変化やカタストロフはそれがどのようなものであっても、計測可能性、予測可能性を超えるという点であたかも天災のように受け取られることになる。
 日本の戦後復興もあるいはオイル・ショックへの対応も、参照すべき他国の事例がすでに存在していたり、過去の経験の応用で対応できるようなものとされる場合には、日本人はうまくあるいは何とか対応できてきた。中井氏のいう「立て直し」の路線である。しかし、それを超える大変化では?
 本書「朝日ぎらい」で橘氏がいいたいことの一つが、現在日本が直面している事態は、過去の経験からの外挿や計測可能性で対応できるようなものではないにもかかわらず、日本人が相変わらず、「世直し」ではなく「立て直し」の論理で対応していることの無理の指摘。あるいはそれへの危機感ということになるのだろうと思う。
 本書のPART2「アイデンティティという病」で議論されるのは、いわゆるネトウヨの問題である。一般にそう思われているのとは異なり、ネトウヨの主体は40代らしい(20代で日本と世界の激変を体験し、「右」と「左」の価値観が逆転した世代)。彼らは「雪かき仕事」といった日々の出来事でおのれに矜持をもつこともできず、自分が日本人であるということのみをアイデンティティとすることでかろうじて自尊を保つことができる存在なのであるとされている。
 橘氏によれば、彼らの行動は容易に現代の進化論から説明できるという。われわれは集団を即座に「俺たち」と「奴ら」に分割するメカニズムが身体に組み込まれていることがさまざまな心理実験で証明されていることを氏は示し、われわれは自分が正義の側にいると感じるときに脳から快楽物質であるドーパミンが放出されることを報告する。われわれは過去の狩猟採集時代の集団生活で、そのように反応することがおのれの生き残りに利したことから、それが遺伝的性向として固定されているのだという。
 日本のネトウヨに相当するのがアメリカでトランプ大統領を支持するプーア・ホワイトといわれる人たちで、高い知能を持つものが有利になるという現在の知識社会から脱落して貧しくなった彼らには白人であるということ以外に誇るべきものをてたないがゆえにそうなるのだと橘氏は説明する。同様にネトウヨは日本人であるということ以外に誇りを持てない人達なのである。
 このわれわれはつねに仲間と敵に集団を分けるという方向の話をわたくしがはじめて知ったのは栗本慎一郎氏の「パンツをはいたサル」(1981)ででだったと思う。「異国人が団体で入ってくると、たとえそれが友好的な人びとであっても、人はすぐに砂かけばばあや妖怪・一反もめんのごとき妖怪と考えてしまう。・・社会学が明らかにしているように、私たちの心の中には、よそのおばあちゃん(社会学的には制外者、異人またじゃよそ者と呼ぶ)が砂かけばばあや妖怪・一反もめんに見えてしまう、という構造が存在しているのだ。」 ここで栗本氏が社会学の成果として示しているものを、橘氏は進化論の成果として示しているわけである。
 そしてこういうことをもう少し詳しく実験で示したのがコールダーの「人間、この共謀するもの 人間の社会的行動」(1980)だったように記憶している。これはBBCの番組を書籍化したもので、人間の社会的行動は進化によってもたらされた生物学的条件と社会的経験との産物であるとの観点から人間を考察したものである。特に第4章の「共謀」は「内集団」(自分が属する信じる集団)と「外集団」(自分はそこにはが属さないと考える集団)とに対してわれわれがまったく異なる対応をすることが示されている。
 本書で橘氏が言っていることはもう40年近く前から言われているわけである。ただ従来、人文学の分野で言われてきたことが、進化論という自然科学によって裏打ちされてきているということを強調しているわけである。橘氏の「言ってはいけない」とか「もっと言ってはいけない」は、われわれはわれわれ自身が考えている以上に遺伝(あるいは進化)によって規定された存在であるということを、それが不愉快な真実であるといいながらも、わりあいと嬉しそうに示しているように見える本であるが、確かに日本の人文系の本を読むと、遺伝とか進化といったことがまったく考慮の外であるように見える本があまりに多いので、橘氏が「お前たち、少しは勉強しろよ!」ということでこのような本を書くのは理解できる。「もっと言ってはいけない」の最後は「咲ける場所に移りなさい」となっていて、「置かれた場所で咲きなさい」(この本はわたくしは読んでいない)といった言説へのアンチを提示して終わっている。
 おそらく日本の多くのおじさん達は「会社」という集団(置かれた場所)に帰属し、それをアイデンティティとすることで己を持することができてきた。しかし、もうそんな時代ではないのだよ、そんなこどでは不幸になるだけだぞ!、ということを本書は主張するわけである。
 「もっと言ってはいけない」の「あとがき」で橘氏は「私の政治的立場はリベラルだ。「普遍的な人権」という近代の発明(虚構)を最大限尊重し、すべてのものが、人種は民族、国籍、性別や性的指向、障がいの有無にかかわらず、もって生まれた可能性を最大限発揮できるような社会が理想だと思っている。」と書き、「その一方で、「知能を無視して知識社会を語ることはできないとも考えている。・・知識社会そのものが不愉快で残酷なのだ」とも書いている。
 ここで氏も認めているように、「普遍的な人権」などというのはまったくの虚構であり、生物学的。進化的な基礎を一切欠く。そして氏の描く「知識社会」は優れた知能を持たないものには極めて残酷な社会なのである。
 わたくしから見れば、氏の描く「知識社会」は野蛮な社会、少なくとも非文明的な社会である。いうまでもなく「普遍的な人権」などというのは『神がそれを人に授け給うた。The God who gave us life ,gave us liberty at the same time 』とでもしなければ何ら根拠のない、啓蒙主義が作り上げたフィクションである。そして啓蒙派の人々がなぜそのようなフィクションを作り上げてきたのかといえば、文明社会とは人が人として遇される世界であるべきだとしたからであり、そのために「基本的人権」というフィクションが要請されてくるわけである。《ひとは生まれながらに「基本的人権」を有するとみなそうではないか、われわれが互いをそれぞれを人として遇することができるように。》ということである。『偉大な創造的行為やまっとうな人間関係は、すべて力が正面に出てこられない休止期間中に生まれるのである。この休止期間が大事なのだ、私はこういうい休止期間がなるべく頻繁に訪れしかも長く続くのを願いながら、それを「文明」と呼ぶ。・・力はたしかに存在するのであって、大事なのは、それが箱から出てこないようにすることなのではないだろうか。』とフォースターは「私の信条」でいうのであるが、すくなくとも橘氏がいう《優れた知能を持たないものには極めて残酷な知識社会》でどのような生き方をめざすべきなのか、何等かの提示がされない限り、ネトウヨは増えていくばかりなのではないかと思う。
 橘氏はまず現在の世界がどのようになっているかを知ること、それなしには何もはじまらないとしているように思える。しかし、それを知るためにも相当な知能が要請されるのだとすれば、スタートラインにさえ立てないひとが多数になってしまうような気がする。本書にくらべれば、村上龍氏の「13歳のハローワーク」のほうがずっと愛情に満ちているような気がする。
 次のPART3は「リバタニアとドメスティクス」と題されていて、ようやく「朝日ぎらい」という本題に近づいていく。
 

「おじさん」的思考 (角川文庫)

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村上春樹にご用心

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パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か (カッパ・サイエンス)

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言ってはいけない 残酷すぎる真実 (新潮新書)

言ってはいけない 残酷すぎる真実 (新潮新書)

もっと言ってはいけない (新潮新書)

もっと言ってはいけない (新潮新書)

フォースター評論集 (岩波文庫)

フォースター評論集 (岩波文庫)

13歳のハローワーク

13歳のハローワーク

橘玲「朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論」(1)

 橘さんは日本にときどき現れる確信犯的リバタリアンの一人だと思う。わたくしもまたリバタリアニズムに相当親和性のあるほうだと思うのだが、それ一本鎗でいけないのは、たとえば原口統三の「武士は食はねど高楊枝。全く僕はこの諺が好きだつた」などというのに無条件に共鳴してしまうところがあるからである。そういう目からみると、フリードマンとかベッカーといったあちらのリバタリアン本家は何かえげつないなあという思いを禁じえない(ハイエクはまだいいのだけれど)。なんだかお金についてえらくアグレッシブなのである。それに今一つ教養が足りないように思う。それと比べると、日本のリバタリアン、たとえば2011年に亡くなった竹内靖雄さんなどはもっとずっと大人だったという気がする。恒産なければ恒心なしでお金の問題はとても大事であることはよくわかるのだが、それは independent な人間として生きるための手段ではあっても、目的ではないだろうと思う。原口の「僕は狎れ合ひが嫌ひだ。僕の手は乾いてゐる。」「日本では年中黴が生える、この国の人々の手は汗ばんでゐる。」という方向からの「自立」はとても大事だとは思うのだが。
 リバタリアンの系譜のはじめのほうにヒュームを置くのが適切かどうかはわからないが、渡部昇一さんの本(「新常識主義のすすめ」)でヒュームが晩年に簡明な自伝を書いていてそこで自分の資産の形成について細かく書いているということを知った。これも independent(働かないでも喰えるだけの不労所得がある)の例なのだと思うが、どうも日本人には(少なくともわたくしには)馴染まないような気がする。もっとも、この渡部さんの本でも、ヒュームがきわめて率直で簡明な自伝を書いたことが、後世の人間にヒュームを攻撃する一つの材料を提供してしまったと書かれているから、日本人に限ったことではないのかもしれないが。
 武内さんの「経済思想の巨人たち」にケインズにはとても利殖の才があって、それで大学や周囲を大いに助けたようなことが書かれているが、竹内氏によれば、「ケインズには資本主義的メンタリティに対する嫌悪感があった。たかが金儲けではないか。自分の利益を追求するのは当たり前として、それしか考えない人間というのは尊敬するに足りる人間ではないし、自分の同類とは見なすに値しない人間である、というのがケインズのホンネではなかったかと思われる」ということになる。わたくしもまた資本主義的メンタリティに対する嫌悪感があるようである。もっともケインズと違って利殖の才などはゼロであるから、悲惨な老後が待っているだけなのかもしれないが。
 それで橘氏も正統派リバタリアンの一人として、資産を運用して後顧の憂いのない老後を過ごすための指南のような方向の本も書いているが、そちらにはわたくしはあまり関心がもてない。それで、わたくしが橘氏の本領であると思うリバタリアン思想の方面をあつかっている本書をとりあげてみる。「朝日ぎらい」というタイトルであるがいささか羊頭狗肉であって、「あとがき」に書かれているように、井上章一さんの「京都ぎらい」のパロディなのだそうだが、井上さんの本がまともに「京都ぎらい」を論じているのに対して、「まえがき」に「インターネットを中心に急速に広がる”朝日ぎらい”という現象を原理的に分析してみよう」としたとは書かれているものの、橘氏が「インターネットを中心に広がる”朝日ぎらい”」の人々にまともな関心をもっていないことは明らかで、そして”朝日ぎらい”の人々が論敵にしている朝日新聞リベラリズム戦後民主主義もまたもはやまとも論じるに足るものとはしていないと思われるので、もし「朝日ぎらい」への応援歌を本書に期待すると肩透かしをくうと思う。それを期待する方はたとえば竹内久美子&川村二郎「「浮気」を「不倫」と呼ぶな - 動物行動学で見る「日本型リベラル」考」などを読まれたほうがいいと思う。これはトンデモ動物行動学者である竹内久美子氏(動物行動学の知見を現在の社会事象の分析に用いるその用い方がきわめて恣意的であるという意味でトンデモ)と長年朝日新聞社につとめ週刊朝日の編集長まで勤めながら嬉々として朝日新聞の悪口をいうという武士の風上にもおけない(と思うわたくしは古いのだろうか?)川村二郎氏との対談本であるので”朝日ぎらい”のひとが読むと留飲が下がるかもしれないが感情の消費だけであって、後に特に何かが残るということはない本であろうと思う。
 本書はトランプ現象や欧州の右傾化をどう理解していけばいいかについて、一つの有力な視点を提供するものであり、つまり”朝日ぎらい”もその大きな流れの系としてみればいいということを教えてくれるという点で、”朝日ぎらい”といった狭い観点を超える視座を提供してくれるものとなっている。
 本書の一番の基本的な視点は、世界はリベラル化しつつあるということ、それゆえにそれへの反動として「ネトウヨ」のようなものがでてくるというものである。
 では橘氏がいうリベラル化とは? それは、「やりたいことは(法に反しないかぎり)自由にできる」「やりたくないことは強制されない」という自己決定権に基礎をおくのだそうである。そして、それは世界で急速に進展するAIなどのテクノロジーを背景とする知識社会化とグローバル化とは密接に関連しているのであるとされる。その社会では知能(学歴ではない。ビル・ゲイツもS・ジョブズも大学を出ていない)それもきわめて高い頭脳をもった人間のみがイノベーションを生み出せる。そして、その知能は国境を容易にこえるので、流通するのは個々の狭い地域をこえた普遍的な価値観のみということになる。
 しかし現実には、普遍的な価値観とは真逆な主張が勢いを増してきている。ヨーロッパでは極右政党が台頭し、アメリカではトランプ大統領が出現した。それはグローバルに進む知識社会の流れから脱落するひとが増加している(中流の崩壊)ことを反映している。それは知識社会化という大きな波にのれず、見捨てられた白人の失地回復の運動なのである。
 大きな視野で歴史を見ると、欧米社会においてルネッサンス以降、人種差別、女性差別、子供への虐待などあらゆる面において「リベラル化」が進行しており、特にそれは第二次世界大戦後に顕著である(ピンカー「暴力の歴史」)。
 妻は夫の所有財産である(しかも家屋より下の)という意識は世界のどこにおいてもかつては普通に見られた。しかし、現在ではそれはもうありえない。これはフェミニストの運動の成果もあるが、女性の社会進出によるユニセックス化の影響も大きい。
 現在では犯罪であることが自明とされているDVもかつてはそうはみなされなかった。現在では子供への虐待ともなされることもかつては「躾」であった。ピンカーによれば、その変化は「電子革命」による知識の拡散によるところが大きいという。(とはいっても、信仰の自由と世俗主義、経済格差と自己責任、地球温暖化原発の是非などの問題は未だ残っているが。)
 日本でもまたリベラル化は進行している。世界標準の考えが急速に普及しているから、森友学園の特異な教育方針はただもう奇妙で面白おかしいものとして報道された。
 世界中でリベラル化は進行しているが、それとともに表面にでてきたのが「アイデンティティ」の問題である。というところまでが、PART1で、PART2はしたがって、アイデンティティの問題を論じることになる。
 わたくしがはじめてアイデンティティという言葉に接したのは江藤淳氏の「成熟と喪失」でだったのではないかと思う。この昭和42年(1967年)刊の本をおそらく大学の教養学部時代に読んだのだが、これで「第三の新人」を知り、吉行淳之介を知って、結果、教養学部時代はもっぱら吉行を読んで過ごすことになった。「成熟と喪失」はエリク・エリクソンの「幼年期と社会」に大きく依拠している本であるが、ここにアイデンティティという言葉がでてきたのかはよく覚えていない。あるいはエリクソンの名前だけを憶えて、後にそれががアイデンティ概念の創始者であることを知って、結びついたのかもしれない。そこで引用されるのはもっぱら「ゆっくり行け、母なし仔牛よ せわしなく歩きまわるなよ」というカウボーイの歌であり、アメリカの青年が早くから母から切り離され自立をうながされるのを、日本の母児密着と対比して論じることが主眼となっている。
 アイデンティティはむかし自己同一性といった訳が使われていたと思う。自分が自分であるということを自分で肯定できる、もっと簡単にいえば、自分に自信を持てるといったことなのだろうと思う。本書ではそれがいわゆるネトユヨの問題とからめて論じられている。これについては稿をあらためて考えて見ることにして、ここでは残りで知識社会化の流れのなかでの橘氏のいうリベラル化の進行ということについて考えてみたい。
 橘氏は「やりたいことは(法に反しないかぎり)自由にできる」「やりたくないことは強制されない」という自己決定権にそれは基礎を置くというのだが、そもそも自分が何をやりたいかを自分で決めていいなどということが夢想だにされなかった時代も長くあったわけである。ある日ある時にあるところに生まれたことにより自動的に何をするかが決められてしまった時代が延々と続いてきた。そうではなく、自分の主人公は自分であって自分の運命は自分で決めるという行き方が当然とされるようになったのはそんなに昔のことではなく、西欧近代のある時点からのことではないかと思う。それは《個人》という概念の創出とワンセットであって、その概念の創出にともなって小説もまた生まれた。
 橘氏は世界標準というが、もともとは西欧由来の概念であって、そのことが問題を複雑にしている。クンデラがいうように「個人の尊重、個人の独自な思想と侵すことのできない私的生活の権利の尊重、このヨーロッパ精神の貴重な本質は、小説の歴史のなかに、小説の知恵のなかに預けられている」のだとしても、誰もが見てとることができるように、小説という形式はもはや衰微しつつあるわけで、さらにいえば出版という業態自体が斜陽になってきているわけで、リベラルであるということがある一部の特権的な人達にしか保証されないものとなってきていることが問題の一番の根にあるのではないかということを強く感じる。このことはあらためてPART2を論じる場で考えてみたい。
 

定本 二十歳のエチュード (ちくま文庫)

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経済思想の巨人たち (新潮文庫)

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暴力の人類史 上

暴力の人類史 上

成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)

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小説の精神 (叢書・ウニベルシタス)

小説の精神 (叢書・ウニベルシタス)

堀井憲一郎「1971年の悪霊」(5)

 最終章である第9章の「左翼思想はどこでついていけなくなったか」は著者の堀井氏の個人史を述べたものである。1958年生まれの堀井氏はわたくしより10歳くらい年下であるのでおのずとその経験が異なるわけであるが、まず堀井氏の個人史から。
 1970年ごろ、世の中では"進歩的左翼思想”が大流行中であったという。堀井氏が二十歳を過ぎたころである。これは日露戦争の後から流行ってはいたが、敗戦以降、すさまじい流行りようであった、という。1970年ごろ、進歩的左翼思想は、言論界の主流であり、多くの知識人が、左翼的な考えを支持していたのだ、と。
 堀井氏が中学にはいったころは、その当時の雰囲気にしたがって左翼思想がいいな、と思っていたという。1972年中三の時、社会の授業で「世界には、資本主義と社会主義がある。資本主義はお金持ちと貧乏人に分かれる。社会主義は平等を目指す。利益は平等に分配される。社会の先生はどちらがいいと思いますか、と問うて授業を終えた。決して強制はされなかったが、当然生徒は社会主義を選ぶ。堀井氏もまた。そしてその目でみると新聞もテレビも雑誌もみな社会主義を支持しているように思えた。1970年代の左翼思想は輝いていたのだ、と。
 そして、それを支持する人々がまた多くいたことについては、それは社会の気分によるものだったとしている。「ニッポン、まだまだだな」という気分。敗戦後、随分よくなってきたとはいってもまだまだ貧しいという思い。
 ここで註すると、堀井氏は進歩的左翼とひとくくりにするけれども、60年代から70年にかけてその内容が随分と変わったと思う。左翼には旧左翼と新左翼があって、安保反対運動の過程で政党の指揮に反旗をひるがえした新左翼の残した大きな功績がいわゆる進歩的文化人(旧左翼?)の化けの皮を剥がしたことではないかと思っている。
堀井氏が進歩的左翼思想といっているものはどうも旧左翼のほうのことを指すような気がするのだが、ニュー・アカデミーとか「アンティ・オイディプス」とかは左翼の方面では全然ないはずだが旧左翼の人たちよりもずっと元気がよかった。
1971年当時中学2年の堀井氏が「豊かな社会」として夢想したのが「真夏でもどこいっても冷房がきいていること」「真冬でも、アイスクリームを買って食べられること」。
 1970年11月25日の三島由紀夫の事件も、このような右翼的事件には世間の反応は冷たかったという記憶がある、と。
 左翼陣営は「反戦・平和」を掲げていたから、戦後社会を善と考える側は当然それを支持した。
 また註すると、基本的に日本の戦後社会をもたらしたものはアメリカでありそれは民主的といわれる何かであり、それに対語となるのが封建的という言葉だった。戦前までは封建的であった日本が、戦争に負けたおかげで戦後になって民主的になれたという思いが多くの日本人にはあり、ここで堀井氏がいっている豊かさというのはアメリ的豊かさを指していると思う。そのアメリカが西側を代表して東側と対峙して冷戦の関係となってきたという捻じれが問題を複雑にした。
 堀井氏によれば、左翼思想への共感が次第に失われていったのは、生活が豊かになっていったからだという。そしてバブルの頃、アメリカ経済に勝ち、自分たちは貧乏から脱却したと思うようになった時期から左翼の凋落は始まったという。その果てに1989年にベルリンの壁が崩壊した。
 1993年の自民党過半数割れの選挙で自分がどこに投票したかを覚えていないくらい、そのころには政治についての関心を失っていったと堀井氏はいう。さらに非自民の細川内閣とそれに続く社会党自民党の連立!の村山内閣にいたって、革新に何かを期待していた自分の中の何かが失われ、以後、左翼について一切の幻想を持たなくなったという。左翼もまた政権奪取ゲームの参加チームの一員に過ぎなくなったと感じた、と。
 しかし、それでもまだ「かつて共産主義が好きだったという幽霊」はまだどこかに生き残っていると堀井氏はいう。それが2009年の「一度は民主党にやらせさてみようじゃないか」という不思議な心情に繋がったのではないかという。本書の「1971年の悪霊」とはそのことを言っている。
 
 この最終章は25ページほどなのだが、そこで社会主義共産主義の違いとかいろいろなことが説明されている。けれどもそれは、ちょっといくらなんでもというような図式的な説明が多い。たとえば、社会党の方が共産党より穏健路線であると書かれている。それはマルクス主義の発展段階説での社会主義の先に共産主義があるという図式によってそういわれる。
 しかし日本共産党日本社会党のどちらが過激であったかといえばわたくしは社会党だったのではないかと思う。社会主義協会向坂逸郎氏などは、三池炭鉱闘争などは革命運動だと思っていたと思うし、もしも社会党が議会で多数派を占めるようなことがあれば、直ちに議会を閉鎖して一党独裁体制を移行するようなことを夢想していただろうと思う。向坂氏のような人間にとって、マルクスの述べたことはマルクスによる一つの見方とか考え方なのではなく「真理」なのであるから、議会で多数の賛同を得るなどというまだるっこしいことなどは本来不要なのであって、だから三池炭鉱闘争に呼応して全国の労働者が蜂起して暴力的に権力を奪取するようなことがおきるのが理想であり、それが叶わないとしても、一旦、自派が議会で多数を得るようなことがあれば、その握った権力を二度と手放すことはあってはならないのだから、以後は国民の信を問うなどというまだるっこしいことはせずに独裁に移行して、自分たち前衛こそが知っている「正しい」ことを実現させていけばいいのである。マルクスの述べたことが真理であるのだから、構造改革路線などというものを論破することなどは赤子の手をひねるよりも簡単なことであった。
 日本共産党がある時期、武装闘争路線に走ったことは事実であるが、これは自分で考えたことではなくモスクワの指令だったのであり、モスクワにしても、世界が共産化することではなく、自国の維持のためにはどの路線が有利であるかによって方針を変えたのであるから、日本共産党が自主独立路線にたった以降は真剣に武装闘争などを志向したことは一度もないと思う。日本共産党が政権の奪取ということをそれなりに視野にいれていたのは美濃部都政あるいは蜷川府政あたりまでで、それ以降は政権への展望などはまったくひらけていないだろうと思う。それどころか、むしろ現状維持に汲々としていて政権どころではないだろうと思う。(革新都政がいわれた時代、共産党社会党にくらべ少数ではあったが、理論闘争をしたら社会党に簡単に勝てて主導権は握れると思っていたのではないだろうか? 何しろ民主集中制で一枚岩であったのに対し、社会党など一人一派とまではいわないにしてもみんなてんでに勝手なことをいっているに等しい政党であったので。)
 本書を読んでわかるのは堀井氏にとって、つねにマルクス主義は一つの見方であるに留まって、歴史の発展段階説をふくめて生産力が社会の構造を規定するという見方、上部構造下部構造といった見方、要するに恣意的な一つの説でなく、客観的科学的な法則として出現してくる共産主義的社会といった見方にはまったく親和を感じていなかったであろうということである。

 それで堀井氏より10歳ほど年上である自分はどうであったかを振り返ってみる。自分が社会主義とか共産主義という方向にはじめて目をむけたきっかけは60年安保の騒動によってだったように思う。わたくしが中学2年の時である。国会前の広場からのラジオの中継でアナウンサーが「今、わたしは警官になぐられています」というような中継をしていたのを聴いたような記憶がある。
それで「空想から科学へ」とか「共産党宣言」のような入門書的なものを少し読んだ。恥ずかしいが、後にも先にもマルクス主義にかかわる一次文献を読んだのはこのときのこれだけである。
 そして社会主義が平等をめざし、貧困の問題を解決しようという運動であることを理解したように思った。そうであるならば誰一人として反対するものがいるはずのない正義の運動であるはずなのに、高度の知性を持っているようにおもわれるひとの中にマルクスの説に明白に反対しているひとが少なからずいること、単に反対するというのではなく命を張ってまでしてそれを阻止しようとするひとが少なからずいることも知った。なぜそのようなことがあるのかを見ていくうちに、マスクス主義あるいは社会主義をそれが全体主義であるという方向から批判しているひとがいること、そもそもマルクス主義が依拠する人間観が浅薄なものであるとしているひとがいること、一番基本的には、社会の体制を変えることで人間が変わるあるいは変えることができる(下部構造が上部構造を規定する)という見方に対して人間の本性はずっと変わることはないという方向から反対しているひとがいることなどを知った。
 一党独裁ではない民主主義的な政体のもとで福祉などの充実などによって社会主義的な方向をめざすという混合経済体制というような議論もあった。低開発国が離陸する過程においては社会主義的な方向が有効であるとする論もあった。
とにかく、いろいろな論を知ると社会主義とか共産主義も絶対的なものではなく相対的なものと思えてくるので、とにかく自分のなかで進歩的左翼路線がとても魅力的と感じることは中学高校時代もそれ以降も一度もなかったように思う。
高校時代にはその頃の流行と入試によく出るので小林秀雄なども読んだが、小林は《しゃらくさい》インテリが大嫌いなひとで、どう考えても左に親和性のあるひとではない。というか小林の論のたてかたは一部の知識人の進歩派否定論の典型の一つではないかと思う。
それやこれやで、左翼方面の思潮も数多あるものの見方の一つとして特に有難かることもなく見られるようになった。しかし、小林秀雄ランボー→反権威・反抗という方向から学生運動にむかった人間もある割合でいたのではないかとも思う。
 そういう状態で大学に入り、教養学部では吉行淳之介などに入れあげているうちに医学部進学となり、駒場から本郷にいった途端、東大紛争(闘争)に遭遇することになったわけである。それで、この紛争(闘争)が少しでもマルクス主義と関係があるものであるのかどうかがわたくしの関心となる。
 わたくしの乏しい知識によれば、60年安保以前は学生の政治運動というのは日本共産党日本社会党の下部組織であって、上部組織の指令にしたがって行動するのが原則であった。だから六全協のような方針転換においてはさまざまな悲喜劇がおきることになる。60年安保をきっかけに上の指示に従うのではなく独自に行動するようになったといっても共産党社会党からの分派であるのだからマルクス主義共産主義を基礎においていることは確かなはずであるし、事実、革命的マルクス主義とか社会主義青年同盟とかを自称していたわけである。しかし、よど号ハイジャック事件などを見ていると、北朝鮮がどのような国であるのかいささかでも勉強したことがあるようには思えないし、主観的にはどうであれ、客観的にみればほんのわずかでも実際の政治とかかわることをしていたようにも見えない。
 鹿島茂氏の「ドーダの人、小林秀雄」に河上徹太郎による小林秀雄論が紹介されている。そこで河上は小林の特性を嫌人性にみている。志賀直哉的嫌人性+ボードレールの嫌人性=小林秀雄の嫌人性。「自分以外のものはみんな嫌いだ!」の志賀直哉から、ブルジョアの一員であるボードレールブルジョア嫌悪というより進んだ自己言及的嫌人性へ。鹿島氏は小林秀雄ランボーをまったく誤読していたというのだが、日本で流布しているランボー像は小林秀雄がつくったもので、日本の学生運動には小林秀雄ランボー的なものが横溢しているように思う。自分一人のための政治運動! これはもう語義矛盾でしかないが、モスクワあるいは日本共産党の幹部会か何かの指令にしたがう一兵卒として参加する政治ではなく、いきなり一人一党で何が正しいかは自分が決める政治へという方向である。だからマルクスの名前がでてきたとしてもそれは自分のマルクスなのであるから普遍性は一切ない。
 それでも、当時の状況として同時に進行しているベトナム戦争があり、それは絶対的正義対絶対的悪の対峙のように受け取られていたので、自分が正義の側にいるという証として自分は東側と連帯しているという立場を表明する、その手段として社会主義マルクス主義という言葉が使われたということなのではないだろうか?
 一番大きかったのはマルクス主義を立国の礎としていると主張している国家が現実のものとしてこの地球上に存在していたことだろうと思う。その現実の国家が必ずしも理想的なものとはいえないとしても、現実のものとして存在する以上、もっとましなものも実現できる可能性があるわけである。
 だから東側の崩壊、ベルリンの壁の崩壊からソ連の解体までの過程で現実の存在としての共産主義的国家が地上から消滅してしまったことその過程でマルクス主義的な方向での国家運営が現実には難しいということを実証されてしまったことが左派の凋落の決定的な原因となったのではないかと思う。
 まだ現実の存在として中華人民共和国があり、朝鮮民主主義人民共和国も存在している。しかしそれがマルクス主義と何か関係があるものであるとはほとんどのひとが思っていないであろうと思う。
日本が高度成長を経て貧しさを克服できたと感じるようになったこと、それが左翼思想の人気の凋落の原因であると堀井氏はしている。今では死語であろうが、わたくしが若いことには非常によく使われた言葉に封建的というのがあって、多分その対語が民主的であった。封建的なものを打ち砕き民主的な何かをもたらしたのはアメリカであるとされていたと思う。石坂洋次郎的な何かである。
渡辺昇一氏は石坂洋二郎的な明るい戦後啓蒙に異を唱えたのが三島由紀夫であったとしている。そしてわたくしの理解では、日本共産党日本社会党は戦後啓蒙の系譜に属するのであり、全共闘的ものは三島由紀夫的な反=戦後啓蒙の路線の上にある。だから三島由紀夫と東大全共闘の間ではとにかく会話がどこかで成り立つ可能性があるのに対し、三島由紀夫日本共産党の幹部あるいは民青所属のひとと会話する可能性などまったく考えられないわけである。
 三島が死んだ当日、わたくしが三島の本などを読んでいることを知っていた同じクラスの民青の活動家が「三島のしたこと理解できる?」ときいてきた。「命と暮らしを守る」という路線からはあのような路線はどうしても理解できないらしかった。
この堀井氏の論からは日本に底流する三島的暗さという観点が抜け落ちているように思う。
 堀井氏は権力に対する反抗心というのが1970年代に物心ついた人にはどこかに残っていて、「かつて共産主義が好きだったという幽霊」がまだ時々復活するのだとしている。それが例えば2000年の民主党政権誕生騒ぎだったという。
 「かつて共産主義が好きだったという幽霊」がいまだに健在なのは朝日新聞で、民主党政権誕生時のはしゃぎようは尋常ではなかった。しかし朝日新聞的何かはまた三島由紀夫的な暗さをまったく理解できない存在である。全共闘世代で長い髪を切って朝日新聞に入ったひとも少なからずいるのではないかと思うが、いつのまにか朝日新聞社的何かに同化されてしまうのだろうか?
どうも堀井氏がここで述べていることについては、大事なことが抜けおちているのではないかという思いが残った。
 あまり世代論というのは信用していないのだが、本章を読むかぎり、やはり10年の差は大きいのかなということを感じた。わたくしはいわゆる全共闘世代ということになるのだと思うが、同じ世代同士であればいわなくてもわかるが、違う世代だと言っても通じないということがあるのだろうか?

1971年の悪霊 (角川新書)

1971年の悪霊 (角川新書)

知的生活の方法 (講談社現代新書)

知的生活の方法 (講談社現代新書)

腐敗の時代 (1975年)

腐敗の時代 (1975年)

討論三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争 (1969年)

討論三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争 (1969年)

堀井憲一郎「1971年の悪霊」(4)

 第8章は「毛沢東文化大革命」を支持していたころ」と題され、「文化大革命」が論じられる。
 わたくしが文化大革命というと思い出すのは、若者たちが自分たちが糾弾する人間に変な帽子を被せて胸に罪状を書いた紙をつけさせて引きまわしている光景と、天安門広場の前で多くの若者たちが赤い「毛沢東語録」を手に手にかざして結集している姿、そして川端康成石川淳安部公房三島由紀夫の四名による「文化大革命に関する声明」である。
 最初の引き回しのような光景から感じたのは、これはリンチなのだなということである。つまり法というものがとっくに機能しなくなっている情景である。天安門広場の群衆から連想したのはナチスドイツ時代にハイル・ヒトラーと叫ぶ群衆であり、北朝鮮で以前におこなわれていた千里馬運動といったのだと記憶しているマス・ゲームである。
 「文化大革命に関する声明」は後の「文学者の反核声明」のときにも感じた「そんなこと言ってどうなるの?」という違和感である。この声明では「学問芸術の自由の圧殺」などということを言っていたが、彼の地では「学問芸術の自由」などというプチブル的価値などは一顧だにしていないことは明らかであると思われたので、そんな安全地帯からの声明が卵一個を投げつけるほどの効果があるとも思えなかった。
この「文化大革命」は現在ではそれを否定的にみる見解が圧倒的多数であると思われるが、それが現在進行形であった当時は特に左側の人たちからは期待をもって熱い視線でみられていたように思う。一時、日本の言論界においてマルクス主義の方向の言論が圧倒的に多数派であったが、それはマルクス主義を立国の原理とすると称する国が実際にソヴィエトという形で存在していたことが極めて大きかったと思う。それは彼方の未来にある理想ではなく、すでに地上で現実のものとなっていたわけである。しかしどうもソヴィエトの方面からきこえてくることには変な話が多くなってきていた。左側のひとが多く当時の文化大革命に期待をよせたのは、そこにすでにソヴィエトでは失われつつあるようにみえる社会主義の理想への追求という姿が熱く見えるように思われたからなのであろう。
堀井氏もいうように「毛沢東は生涯、プロレタリアの味方となり、極左運動を続けようとしていた」のであり、真剣に「中国を、労働者のための国にしようとした」のであろう。永久革命である。
現在では文化大革命は、餓死者が数千万に及んだといわれ大躍進運動の失敗により権力の座を追われた毛沢東がふたたび権力の座に返り咲こうとしておこしたものということが通説になっていると思うが、何のために返り咲こうとしたかといえば、中国を労働者の国にしたいからなのである。そしてその理想の実現のためには数千万の人が死ぬことも厭わないわけであるから、フランス革命の昔から理想を追い求めるひとほど始末に負えないものはないことになる。
堀井氏は、この毛沢東の姿勢が当時の多くの若者をひきつけたという。当時の若者もまた現状を閉塞的と感じていてとにかく破壊したかったから。「我が身をなげうって貧しいもののために戦う」というロマンティシズムが受けた。
このあたりはちょっと異論があるのだが、「我が身をなげうって貧しいもののために戦う」というロマンティシズム、というのがあったのはむしろ六全協あたりまではないのだろうか? 少なくとも、わたくしが渦中にいた1968年前後の印象では、《ひとのため》という姿勢は、そこには《自分がない!》として否定される傾向にあったと思う。だからこそ《自己否定》という言葉が流行した。わたくしは小林秀雄の《ラッキョウの皮むき》などという言葉をすでに知っていて、自己分析とか自己省察といった方向の不毛といった方向の議論にも親しんでいたので、この《自己否定》論には特に魅力を感じなかったが、周囲を見ていると、これは相当な威力を持っているように見えた。だから下放などというのもその文脈で捉えられていたのではないだろうか? 民青系のひとたちがえらく嫌われていたのも、彼らは上(日本共産党)からの命令に従うだけで自分で考えていない!というのが一番大きかったのではないだろうか?
永久革命論というのは、永久に現状を肯定しないということである。永久の自己否定である。それが魅力的だったのではないだろうか?

最終章の第9章は「左翼思想はどこでついていけなくなったか」という題で、堀井氏の個人的な日本の政治へのかかわりというか、その時々でどの政党に共感をよせてきたかが述べられている。わたくしより約10歳下である堀井とではわたくしは随分と違うということを感じる。それはまた別に述べる。
 

1971年の悪霊 (角川新書)

1971年の悪霊 (角川新書)

中国の大盗賊・完全版 (講談社現代新書)

中国の大盗賊・完全版 (講談社現代新書)

新装版 されどわれらが日々 (文春文庫)

新装版 されどわれらが日々 (文春文庫)

堀井憲一郎「1971年の悪霊」(3)

 全共闘世代という言葉が現在でもまだ時々使われているので、全共闘運動というものについて、今の若いひとでもなにがしかのことは聞いているのではないかと思うが、「パリ五月革命」についてはどうだろうか? もっともわたくしだってひとのことは言えないので、時系列的なことはもうよくわからなくなっている。何となく日本の大学紛争(闘争)と同時期という感じをもっていた程度なのだが、本書でそれが簡明に紹介されているので、ここに抜き書きしてみる。
 1968年3月~4月 パリ郊外のパリ大学ナンテール校で、ベトナム反戦運動が盛り上がり、教室の占拠や無届けデモがおこなわれ、大学は学生大会を開かせないために5月2日ナンテール校を閉鎖した。大学に入れなくなった学生はパリ中心地のカルチェラタンにむかった。
 5月3日、カルチェラタンにあるパリ大学ソルボンヌ校での大がかりな学生集会に大学は警官隊を導入した。500人以上の学生が検挙され、ソルボンヌ校も閉鎖された。
 5月6日 それへの抗議集会。1万5千人の学生が警察と衝突、学生たちは敷石をはがし投石、市街にはバリケードも作られた。
 5月10日 2万人の学生によるデモ。警官隊は徹底的に弾圧。
 5月11日 世論が一変。新聞は政府を非難、既成の左翼政党も学生への連帯の表明。労働組合は学生と共闘するゼネストを指令。
 5月13日 あらゆる企業・工場の労働者がストライキに。フランスの社会機能が麻痺しはじめる。ソルボンヌ校の閉鎖がとかれ、学生が占拠。学生達は「大学は永久に労働者に解放される」と宣言。
 5月24日にはフランスの労働者の半数がストに参加。
 このころからドゴール政権は事態収拾に動き出す。
 5月30日 ドゴールはパリ周辺にフランス軍機甲部隊を配置。公民議会の解散と総選挙を宣言、「共産主義からフランスを救え」と演説。
 これで情勢がかわり、
 6月23日と30日の選挙でドゴール派は圧倒的な勝利。学生たちを支持した共産党と左翼連合はまれにみる敗北で議席を半減。
 これが‟五月革命”の概略であるが、とても‟革命”とはいえない。パリという都市でおきた祝祭? しかしそれでも学生の運動が社会を変えられるのではないかという気分が世界中の学生運動家を勇気づけた。
 1968年6月、日本でも「神田カルチェラタン闘争」が展開された。
 このパリ五月革命のときに、集団の先頭で投石を続けていたのはミニスカートの若い女性だったという。カルチェラタンの敷石を剥がすと砂が露出してきた。「敷石を剥がすと、そこに砂浜が」
 「立て籠っていること」だけが目的の、季節外れの文化祭。占領しつづけることだけに意味がある。かれらが変えたかったのは社会を覆う「気分」であったのであろう。
 このパリの《革命》から、「政治的な結果をもたらさなくても、行動することに意味がある」という思念が生まれ、世界に広がっていった。
 堀井氏のような下の世代から見ていると、「やたらと暴れまわって、やみくもどこかに突撃し、やがて何かに呑み込まれて、そのまま姿が見えなくなった」というのが印象である。「いつの間にか誰もいなくなっていた」そう堀井氏は述べる。
 
 日本での学生運動のピークは1968年後半あるいは1969年であるように思うので、やはり「パリ5月革命」は日本のものに少し先駆していたわけであるが、日本の運動とは異なり、ごく短期間でもある程度の広範な支持を社会からうけたわけである。しかし同時にこの社会からの支持というのもほぼ一ヶ月程度しか持たなかったわけで、社会の気分というのはきわめて気まぐれで、移り気なものであることもここにもよく示されている。
 この学生たちの運動が何を目指したものであったのかは、ごく一部の煩瑣な神学論争的左翼理論を信奉していた人たちを除けば、堀井氏のいう通り、《「立て籠っていること」だけが目的の、季節外れの文化祭。占領しつづけることだけに意味がある》というものだったのであろうと思う。橋本治氏がどこかでいっていた言葉を使えば、「子供のころの原っぱでの遊び」を大学のなかで再現することであったのではないかと思う。
「時間よ! 止まれ!」というのは「ファウスト」だったか? とにかく自分たちが遊んでいるあいだ、世界も止まっていることを彼らは求めたのだと思う。1968年ごろの日本の運動での《研究室封鎖》というのは別に自分たちに共感はしなくてもいいが、お前らが勝手に先に行くことはゆるさない。お前たちもここで停滞していろ!ということだったのではないかと思う。つまり、いずれ自分たちの運動が終焉するという未来を予想していて、その時に自分たちと同じところからお前らも再出発せよ! ということだったのはないかと思う。
 今の若い方々に「立看」という言葉が通じるのかどうか解らないが(今、パソコンで「たてかん」は「立看」へとは変換しなかった)、「神田カルチェラタン闘争」などという言葉を聞くとまず思い出すのが「立看」である。通学路が御茶ノ水だったので明治大学周辺に「立看」が林立していた情景をよく覚えている。ヘルメットと覆面と立看。とにかく日本の学生運動というのがパリのそれとは違っておしゃれでなかったことだけは確かである。
 パリでの学生達の反乱、あるいは日本での学生達の反乱、それをおこしたものは何だったのだろう? 本書にも書かれているが当時現在進行形であったベトナム戦争というもの影響が大きかったのだろうと思う。これはわれわれの歴史の中で最後の?正義と不正義の戦い(あるいは善と悪との闘い)であったのである。腐敗しきっている南ベトナム傀儡政権ではあるが、それでも東南アジアの国々が次々と東側へとドミノ倒しされていくことを防ぐためにはそれを何とか支えなければと、ひたすら物量を投入し続けるアメリカ軍と、それに対抗している碌な武器も持たないベトナムの農民兵たち、という構図。不思議なことに義のあるベトコンの兵士たちは、義のないアメリカ軍の近代兵器に打ち勝っている。一方、北ベトナムのトップのホーチミンは慈父のような聖者であって皆の尊敬を一身に集めている・・。当時、東西の対立がまだあり、東側が正で西側が邪であるという図式が通用した最後がベトナム戦争なのであったと思う。実際にはベトコンと呼ばれたものの相当部分は北ベトナム正規軍であり、東側のプロパガンダに西側が踊らされていたという要因が大きかったようであるが(日本にも「ベトナムに平和を!市民連合」というのができた)、当時はその神話がまだかなりの程度に流通していて、西側に生きる人々は反=正義の側にいるという罪悪感があり、若者たちも自分がまた悪の体制のなかにこれからはいっていくというような負い目を感じていたので、とにかくそこにはいっていくことを拒否する、少なくともそれを少しでも先送りすることというのが運動の目標にされたということは、論理的には筋が通っている。だから堀井氏がいう《「立て籠っていること」だけが目的の、季節外れの文化祭。占領しつづけることだけに意味がある》というのも整合性があるのかもしれない。
極論すれば、子供はまだ穢れていないがすべての大人は汚れている。自分は大人にはなりたくない! というのが一番の根っこにある感情だったのかもしれない。
 もちろん、東側だって決して問題なしと思われていたわけではない。ソ連スターリン批判で味噌をつけていたが(日本の日本共産党の下部組織ではない学生運動組織はスターリン批判から生まれたのだと思うし、68年頃の日本の学生運動の一部は「反帝反スタ」を標榜していた)、当時はまだ永久革命をめざす毛沢東がいる!ということになっていた。それがあっという間に東側が崩壊してしまい、正義とか不正義とかいう青臭い論議はどこかにとんでいって、今度は金儲けがすべてということになってしまった。
 東側が崩壊し、東西対立がなくなってしまった現在、1968年前後の日本での学生達の反乱、パリでの騒動をおこしたもととなる心情というのは理解不能なものとなってしまっている。そして東側がまだあった時代に、東側にありながらソ連を批判するという特異な立ち位置にあった当時の中国で進行していた毛沢東文化大革命について、堀井氏が「毛沢東文化大革命」を支持していたころ」で論じているので、それについては稿をあらためて考えてみたい。
 

1971年の悪霊 (角川新書)

1971年の悪霊 (角川新書)

堀井憲一郎「1971年の悪霊」(2)

 第3章は「1971年、高橋和巳が死んだ5月」と題されている。わたくしは高橋和巳の著書を一冊も読んでいないので、本来、ここを論ずる資格がないのだが、大学時代の友人に高橋和巳信者がいたので、高橋のことをいろいろときかさせてもらっていて、それなりの知識を持っているという微妙な立場である。
 堀井氏も書いているように高橋和巳は現在ではほとんど忘れられた作家、読まれることのない作家となっているが、それは高橋氏が小説家でありながら、本当の小説好きではなく、小説というものを自分の思念を示すための手段としてのみ考えていたことによるのではないかと思う。小説というのは本来、人間に対する興味、その人間たちが織りなす物語への関心から発するものであるはずだが、高橋氏はそのどちらも欠いていたのではないかと思う。とすれば、小説読み・小説好きからは敬遠されるはずで、高橋氏を動かしていた情念のようなものが共感を呼ばないようになれば、読者もいなくなってしまう。
 堀井氏は高橋和巳が読まれなくなったのはポップカルチャーに負けたのだという。ネアカとネクラ、マルキンマルビの二項対立に負けたのだという。そしてこのポップカルチャーは「明治以来の頑固な社会精神」を叩き壊す文化大革命だったのではないかともいう。ボディコン&ジュリアナ東京ポップカルチャーが吹き飛ばしたものは大きい、軽さの文化が重厚な自己犠牲文化を粉砕したのだ、と。
 バブルのころに日本は明治以来の重厚長大の路線と決別した。自己犠牲の文化にも分かれを告げた。そして高橋和巳の文学は根底に自己犠牲をおくものだった。それはストイックが美学とされた時代の文学だった。高橋の文学は「生真面目さ」の文学である。それゆえに「苦悩教の教祖」とも呼ばれた。
 三島由紀夫高橋和巳はそれぞれ70年11月と71年5月と時期を接して死んでいるのだが、その二人の安田城落城の後での対談を書評誌か何かで読んだ記憶がある。二人は異口同音に、安田講堂に閉じこもった運動家たちの(少なくともその一部は)死ぬ気なのだと思っていたということを言っていた。誰も死ななかったことに驚いた、と。
 実はわたくしもそう思っていた一人で、同じ感想を持った。わたくしは活動家たちは、いろいろなことを言ってはいるがそれを信じているわけではなくて、どういうわけかたまたま出現してしまった祝祭空間をいかにして少しでも長く保持していくかということだけが目的で行動しているのであり、そうであれば提示されるあらゆる解決策の提案はすべて即拒否であり、祝祭空間が否定されることがあるとすれば、それが物理的に粉砕された場合だけということになる。
 世間を相手に壮大な芝居を打って大いに楽しませてもらった落とし前をどうつけるかといえば、死ぬしかないのではないか、わたくしはそう思っていた。そうだとすれば、わたくしのほうが「明治以来の社会精神」に囚われていたのであり、籠城した戦士たちは、すでに時間を先取りして、安田城をジュリアナ東京にして、ボディコンのかわりに覆面とヘルメットで踊っていたのかもしれない。
 こういう見方はあまりにひねくれた見方であるのかもしれない。しかし、1968年前後の運動の根に一種のニヒリズムのようなものがあったのであり、そのニヒリズムが大衆化するとジュリアナ東京(これも刹那主義の一種?)になるのではないかという見方もまったく成立しないさけでもないという気がする。
 堀井氏は一方では民主党政権は1970年前後にあった空気が再現したものであるというし、他方ではボディコン&ジュリアナ東京ポップカルチャーがそれ以前の日本とそれ以後の日本を分ける画期となったという。これは一見すると矛盾した見解である。
 それで補助線を一本引いてみる。1968年以降、男の文化は変わっていない。しかし、ジュリアナ東京をきっかけに女の文化は変わった。変わったのだが、それは私的な生活という面においてである。公的な面(もっといえば政治の面)においてはあいかわらずなのである、そう仮定してみる。
 1968年の運動は男たちのものだった。もちろん、そこに参加した女性もいたであろうが、その役割は相変わらずのハウスキーパーだった。柴田翔氏の「されどわれらが日々ー」(1964年)は1968年よりはるか以前の六全協時代の共産党を舞台にしているが、そこに描かれた男女関係の古めかしさというのは驚くべきものである。
 一方、バブルの頃にはアッシー君、ミツグ君などという言葉があった。アッシー君は女性の運転手をする(させられる)ひと、ミツグ君は彼女に貢がされるひとのことだったのではないかと思う。このあたりの話は堀井氏の「愛と狂瀾のメリークリスマス」でも論じられている(一部は「若者殺しの時代」の第2章「1983年のクリスマス」でも)。何しろ男は一所懸命アルバイトをしたりしてお金をためて、クリスマスには彼女にそれなりの贈り物をして、高級ホテルをあらかじめ予約しておいて(一年前から予約が必要)、そこに泊まることができないようでは男でないとされていたのである。ティファニーの「オープンハートのペンダント」とかいうのが流行っていて、12月のティファニーは朝の通勤電車なみの雑踏だった。
 「クリスマスの朝はルームサービスで」というのは1983年の「アンアン」クリスマス特集号での惹句らしい。私的生活というか男女関係というか恋愛方面においては完全に女性が主導権を握ったわけである。もっとも三島由紀夫にいわせると、女は愛する存在で、男は愛される存在なのであり「男は愛については専門家ではなく、概して盲目で、バカである」のだそうだから、以前からの変わらぬ真実であったものが、この頃になって公然としてきたというだけのことだけなのかもしれない。
 堀井氏も高橋和巳の世界は「女性を描かない、恋愛が存在しない世界である」といっている。それを堀井氏はストイックというのだが、わたくしにはただその方面に鈍感であっただけとしか思えない。
 高橋氏が若くして亡くなった後、後に小説を書くようになる奥さんの高橋たか子氏は「高橋和巳の思い出」という本を出している。そこでたか子氏は和巳氏のことを「自閉症の狂人」だったと書いている。何しろ「俺は将来の大作家だ」などと嘯いて、一切働かず、もっぱらたか子夫人が稼いで何とか暮らしていたというのである。一般的言い方ではヒモである。とにかくこの本では、和巳氏のことをぼろくそに書くわけで、三島由紀夫流にいえば、「英雄の心事は女房にはわらぬ」ということなのかもしれないが、女房から見ればすべての夫はただの人なわけである。
 日本の歴史においては概して女性の地位は高かったのだそうであるが、その例外が江戸時代で、明治以降もその系譜をひいていたのだが、それがバブルの頃に崩れ出したのかもしれない。しかしそれは私的世界での話であって、公的世界はあいかわらず男性世界のままであって、その世界においては高橋和巳は英雄でいられるわけである。
 三島由紀夫によると、男の世界は英雄ごっこの世界で、原初はつまらぬ肉体の領域での競争がたちまち精神の世界にまでひろがってゆき、政治・経済・思想・芸術すべてがその英雄ごっこに端を発するのだという。「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての光栄のもと、ということになる。その観点から見れば高橋和巳はまごうことなく英雄となる資格がある。
 何となくそう思われているのとは対照的に 本当は、男のほうこそがロマンティックなのであり、女のほうが現実的である。あるいはセンチメンタリズムこそが男の根本にある(三島由紀夫)のであり、「ナチスがあれだけ成功したのは、ドイツ人のセンチメンタリズムに火をつけたから」(同)ということになると、堀井氏が高橋和巳に低い評価をあたえるもとになっている氏のさまざまな欠点や欠落も必ずしも欠点とも欠落ともいえないこともなるのかもしれないことになる。
 おそらく堀井氏は人生のある時点でロマンチシズムを捨てたのであり、本書はその考証の書という側面を持つ。そして本書の主張によれば、多くの日本人もまたどこかでロマンチシズムを捨てたのだが、それを捨てきれないひとが一部にいて、あるいは捨てたと思っているひとの中にも捨てきれずに残っているものがあって、それが時々火をふいて亡霊が蘇ることがある、それが最近のさまざまなおかしな出来事の原因となっているということになる。
 本章に続く、ウッドストックとかローリングストーンズといったものを素材にそれが論じられていくのだが、それらの話題はわたくしのまったく知らない領域の話であるのでそれらはパスして、次にはパリ五月革命の話題をみていくことにしたいと思う。
 

1971年の悪霊 (角川新書)

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されどわれらが日々ー (1964年)

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若者殺しの時代 (講談社現代新書)

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高橋和巳の思い出 (1977年)

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第一の性 (1973年)

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