ラジオ

 自分の記憶を遡ってみると、一番古い記憶というのはラジオのドラマ、それもその主題歌であるように思う。それが「鐘の鳴る丘」であるような気がするのだが、これは昭和22年から25年に放送されたようであるから、昭和22年生まれのわたくしがいくら何でも覚えているとは思えない。後から聞いたものが刷り込まれているのであろう。作詞:菊田一夫 作曲:古関雄二。詞のほうは見事に現実感のないもので、緑の丘、赤い屋根、時計台、そこで山羊が鳴いている。戦後まもなくの焼け野原が空想させた牧歌なのかもしれない。
 それで確実にリアルタイムに聞いたと思われるのが「新諸国物語」、とくにその「笛吹童子」。主題歌の作曲は福田蘭堂。尺八の奏者であったと思う。ちょっと調べてみたら、なかなかどうも大変な人で、結婚詐欺で食べていたような人でもあるらしく、今なら確実に文春砲の餌食である。しかし、尺八の奏法の改良には大きな貢献をしたひとらしく、もしもこのひとがいなければ、あるいは「ノベンバー・ステップス」も生まれていなかったのかもしれない。
 売春が世界最古の職業であるのなら、女をだまして金を巻き上げるというのもそれにおとらず歴史が古いのかもしれない。人間、食べるに窮したら何をしても許されるわけで、こういうのはどうもどちらが悪いということでもないような気もする。「伊勢物語の男は・・「わがせしがごとうるはしみせよ」なんぞとあじなセリフをのこし、ドン・ファンの貫禄、一個の女の流血を踏まえつつ、死ぬやつは死ね、あとふりむかず、行くさきざきに女あり、すべての柔媚なる指を食いつくし、食ってしまったものに未練は微塵もないという気合はけだし陽根の栄養学である。(石川淳「恋愛について」(「夷斎筆談」))」
 福田蘭堂は「不・くだらんぞ」のもじりであったように思う。二葉亭四迷(←くたばってしまえ)のようなものである。
 閑話休題、その次が「少年探偵団」。この主題歌の言葉がまた難しい。「勇気凛々瑠璃の色・・・」。わたくしが本を読みだしたのは小学校高学年での「怪人二十面相」からだから、存外、このラジオ番組はわたくしに大きな影響を与えているかもしれない。
 テレビが来たら、ラジオをきかなくなって、それで次はいきなり「パック・イン・ミュージック」。大学受験から大学初年の頃? 覚えているのは北山修の少し甲高い声と笑い声、それと野沢那智白石冬美のコンビの少し下がかったやりとり。野沢那智はテレビ「0011 ナポレオン・ソロ」のデイヴィッド・マッカラムの声を担当していたと思う。
 
 テレビからのスピン・オフ?でラジオなどと書いていたら、安倍さんが辞任するらしい。
 安倍さんは、本来は「美しい国」のひと「ココロ」の人なのだと思う。憲法改正にこだわるのもその美しい国に反するものとして現在の憲法があると考えるからであろう。安倍応援団もまたその路線で支持した。しかし、最初の失敗の後、捲土重来を期して、今度はアベノミクスなどといいだしたので、応援団はさぞかし困っただろうと思う。アベノミクス銭金の問題であり、「モノ」の問題で、「ココロ」の問題ではない。しかし、「美しい国」よりはまだそれはなにがしかの成果をあげた。とすると憲法改正の安倍から経済の安倍にシフトしていった。「ココロ」から「モノ」へ。
 一方、朝日新聞社は反=安倍を社是にしているのだそうであるが、それは朝日新聞の旗印が平和憲法であるからで、そうであれば、憲法改正など、断固として、許すことはできない。では朝日新聞社は経済についてはどう考えているのかといえば、経済格差のない社会、ぎすぎすした競争のない世界、みんな仲良くの方向であるように思う。(教育勅語の世界に近いような何か。)
 朝日新聞が奉る「平和憲法」というのはフランス革命のときの「理性教」なのだと思う。天皇崇拝から理性崇拝へ。なぜ新憲法戦争放棄が書き込まれたのかといえば、戦場での日本兵が強かったからなのだと思う。あんな奴らにまた鉄砲をもたせたらやばいぜ、ということから憲法第9条ができた。では憲法第1条は? 占領政策遂行にまだまだ天皇制は利用価値がある、というより昨日まで「天皇陛下万歳!」といっていた日本人を占領統治するには天皇制を利用するしかなかったからであろう。
つまり日本はいまだに“Occupied Japan”が続いていることになる。
 とすると実は安倍首相も朝日新聞社もめざす方向は同じであることになるが、それに至る手段が違うだけということになる。そして両者がともに敵とするのが、勝ったものがすべてをとるような世界、1%と99%が対立するような世界である。
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ 常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
《一旦緩急あれば》以下は朝日新聞としては困るかもしれないが、基本的には朝日新聞が希求するのは争いのない世界、みんななかよくの世界で、教育勅語の世界なのだと思う。
 しかし、アベノミクスでは救済されず、むしろその結果として沈んでしまったような人々が一部、強力な安倍応援団となっているということがある。いわゆる嫌韓嫌中の路線で、安倍氏が日本は特別だという路線をとっていると信じるが故の支持である。
 では朝日新聞はどうかといえば、こちらもまた日本特別路線をとっているのでやっかいなことになる。日本は平和憲法を持っているがゆえに世界を先導する特別な国であるというわけである。
 日本はアジアの端に位置する渺たる小国で、かじ取りを誤れば未来がないという謙虚な気持ちは右にも左にも乏しいように思われる。これは昭和のある時期、世界での5本の指に数えられる大国にようやく成り上がったと思いあがった甘い記憶が、まだ潜在的に残っていて払拭されていないということなのであろう。
 しかし、今後、新しい宰相がだれになるにしろ、美しい国路線をとるとは思えない。
 天谷直弘氏に「「坂の上の雲」と「坂の下の沼」」という論があって、日本は「坂の上の雲」をみあげている自信がない謙虚な時にはいいが(明治期、昭和20年以降の何年か)、変に自信をもってしまうと(昭和前期、また高度成長期にJapan as No.1 などといわれて天狗になった時期)すぐにだめになって、「坂の下の沼」に転落してしまうとしていた。
 安倍氏は自分が宰相となってしたいと思ったことはほとんど何も成し遂げることができなかったかもしれないが、それでも、とにもかくにも歴代宰相中最長という長期の在任をすることによって何事かをなしとげることができた人のように思う。あるいは、それこそが最大の業績だったかもしれない。
 今後しばらくは、また短命な宰相の交代の繰り返しが続くのではないかと思う。
 以上、書いても何の意味もないことは承知の床屋談義。

テレビ

 日本にテレビが普及したのはいわゆるミッチー・ブームの時だから、わたくしが小学校高学年のときで、我が家にテレビが来たのも、小学校6年の時だったと記憶している。大宅壮一一億総白痴化といったのも、その頃だったかもしれないが、もちろんそんなことは知る由もなく、もっぱらアメリカ製のテレビドラマをみていた。というか、このころテレビで放映されていたものの多くはアメリカ製のドラマだったと思う。順不動でいくつかあげてみると、
 〇パパはなんでも知っている:アメリカの家庭というのはごく普通の勤め人でも、広い芝生の庭つきの大きな家に住んでいるというイメージはこれによってつくられたような気がしないでもない。描かれている家庭の奥さんは専業主婦であったように思う。後で、原題が「Father knows best」であることを知って何といううまい翻訳だろうと仰天した。
 〇ソニー号空飛ぶ冒険:男性二人組がヘリコプターで様々な事件を解決する話だったと思う。そのヘリの名前がソニー号。番組のスポンサーもソニー。今だったら、こんなあざといことはできないだろうが、黎明期には許されたのであろう。わたくしはこのテレビ番組で、はじめてソニーという会社の存在を知った。
 〇ローハイド;西部劇。とりたてて記憶に残っている場面もないが、端役ででていたクリント・イーストウッドが後に高名な俳優、監督になったのには驚いた。その主題歌の英語が文字通り「一句も解せない」のには閉口した。
 〇ヒッコック劇場:一話完結の話のはじめ(と後にも?)ヒッチコックがでてきた。恥ずかしながら、ヒッチコックの名前をこれでしった。
 〇ペリー・メイスン:弁護士もの。これに触発されて早川ミステリのE・S・ガードナーのペリー・メイスンものを随分と読んだ。
 〇ローン・レンジャー:「単独行動の警備隊員」というような意味のタイトル? 白人の主人公とインディアンの従者という今なら絶対に作れないだろう設定の話。S・キングの「IT」の最後のほうに、自転車に乗った少年が坂を下るシーンで「ハイヨー・シルバー!」と叫ぶところがあるが、若き日に「ローン・レンジャー」をみていたわたくしには、その意味がわかるわけである。
 〇0011ナポレオン・ソロ:これは上記などより少し後のもので、ロバート・ボーン主演の007もののパロディー。副主人公を演じたデイヴィッド・マッカラムに人気がでて変なことになってしまった。橋本治のコラム集「ロバート本」と「デビッド100コラム」はその主人公を演ずる俳優の名前のもじりである。
 犬が主人公のものも2つほどあったような気がするが、動物ものは苦手でみていない。
 後、「ベン・・ケーシー」などの医者もの。どういうわけかテレビドラマで主演をはるのはみな外科医である。ベン・ケーシーも脳外科医であったような気がする。主人上についてはほとんど何も覚えていないが、何かででてきた老医師が、患者に「あなたのような科学の側の人間がどうして神の存在を信じることができるのですか」というようなことをきかれて、「人間の体の仕組みの精巧さと神秘を知れば知るほど、それを創造した神の存在の偉大を感じざるをえません」といったことを答えるシーンがあって、詭弁だなあ、しかしアメリカ人はこのような詭弁にころりと騙されてしまうのだろうか、というようなことを考えたことだけを妙に覚えている。

 以上、なんだかんだよく見ているなあと思うが、それがある時から、ほとんどみなくなった。きっかけは、團伊久磨氏の「パイプのけむり」を読んだことで、そこに團氏がテレビなどという電気紙芝居などをみているとただただバカになるばかりである。俺は一切、そういうものはみない、と書いてあるのを読んで「フーン」と思い、では自分もそれをやってみようかと、テレビを見ない生活を実践してみたところ、あら不思議、ひと月もしないうちにテレビをみなくても全然どうということはないことがわかり、それ以来、ほとんどテレビを見ない生活になってしまった。(実は、團氏の本では「パイプのけむり」と同じくらい面白かったのが「不心得12楽章」という女性論?で、まだ純真な高校生であったわたくしはずいぶんといろいろなことを教えられた。「パイプのけむり」が八丈島に住む世間を見下す高踏派的文化人としての團氏の本であるとすれば、「不心得・・」は、粋人風の国際人である團氏が書いたもので、今でも覚えているのがフランス女性との会話で、「メルシ・ボク・ボク」というのがでてきたことで、会話の流れからすると、この「メルシ・ボク・ボク」はフランス女性のものでなければいけないはずなのに、なんで「メルシ 僕 僕」なのかと思ったのである。メルシというのは知っていたが、ボクというフランス語はまだ知らなかったわけである。恥ずかしい。
 以上、昔のことで覚えているのは、どうもこういうくだらないことばかりである。そういう体たらくだから、予備校に通っていたときに習ったことについても、いまだに覚えているのが、ある数学の先生がいった「君たちがやっているのは数学ではない。本当の数学は、1メートル離れた2点の間に30cmの物差し1本で直線を引けるか」というような問題を考えることなのだ」といったこととか、某国語の先生がいった「君たちは、女性を見ると美人だとかグラマーだとかいって騒いでいるが、自分の歳になると、そんなことはどうでもいい。女は心だよ! 心! といいたいが、いつまでたってもダメなのだなあ! これはつまらん女だ、悪い女だ、とわかっていても、美人だとつい惹かれてしまう!」といった話とか。後者、いくら少数とはいえ、予備校の生徒には女性もいたはずなのだが。
 実は父がある時期テレビにでていた。そのころのテレビはまだのんびりしていて、昼のワイド・ショーに育児相談のコーナーがあり、小児科医の父が勤務する病院が某テレビ局の近くであったこともあってそこにでていた。このことで驚いたのが、地方にいくとテレビにでているひとは神様とはいわないまでも大著名人あつかいされることであった。すでにあったワイド・ショーの司会の木島則夫とか桂小金治とかの発言が大きな影響力をもっていた。
 今年3月末でいくつかの仕事をひき、昼間家にいることが多くなったので、ときどきテレビをつけてみると、ワイド・ショーというのはとんでもないことになっているようで、その司会者は全日本人を代表しているがごとき口吻である。最近、インターネット空間での誹謗中傷が問題になっているが、テレビ空間で素人があんなに偉そうな顔をしているのだから、ネット上の発言者がそれを真似たくなるのもまたむべなるかなという気がする。
 それでは専門家のいっていることはというと、専門家の意見もまた区々で全然かみあわないわけで、そうであるなら、それをみている素人が、これなら俺と特に変わらないではないかと思って、俺にもいわせろ!という気になるのもまた仕方がないのではないかという気がする。
 そうしてみると黎明期のアメリカ製のテレビドラマはとにかく30分とか一時間という時間、視聴者をひきつけておくということについては非常に真剣であったように思う。それに比べると、最近の「半沢直樹」というのはみてはいないけれど、新聞にかかれていることを読む限り、視聴者におもねているとしか思えない。こうやれば受けるな!話題になるな!と思う番組つくりをして、それに思惑通りに視聴者が踊らされているのだから、何をかいわんやである。

 飯島耕一に「川と河」という詩がある(「バルセロナ」所収)。その途中から。

 一九四五年夏/ きみは 疎開先のN町の/ S医院の 母屋の庭で(母屋というものがあった)/ S氏や 看護婦さんたちと/ ラジオをとり囲んでいた。/ みんな黙りこくっていた/ 空だけが上のほうにあった/ まわりの人の顔が/ 見られなかった/ 泣くことも笑うこともできない /とはあのことである。
 突然 S医師が/ 銀行へ行って お金をおろして/ 来るようにと/ 奥さんに命じた/ そのときのS氏のことばが/ いつまでも/ 耳の底に/ 不快なものとして/ 残っていた/ だが いまは そうばかりとも思わない/ 日本の戦後は /S氏のことばのほうへと /いっさんに駆け出したのだ。
 テレビも夏も終わって/ 考えることもなく、/ 三島由紀夫のことを考える。/ 高いベランダで 三島が死んだ日の夜 /きみはニースから来た/ ひとりの婦人と会っていた/ そのいつも快活なおばあさんは/ 日本をよく知っている人である。/ 大森の 室内照明は完全なのに/ 何か暗い ホテル一室で/ はじめて見る疲れた 暗い顔を/ 彼女はしていた/ 三島の死に方/ と彼女は くらいくらい顔をした。
 生きているときは/ 三島を それほど好きではなかったのに、いま 三島のことを/ しきりに考える。/ 三島のいないいまになって。
 彼はテレビに出て/ まっ白な麻の服なんか着て/ 豪傑笑いなどしていたが、/ ほんとはテレビもきらいだったにちがいない/ テレビのあとの こんなむなしさ/ は耐えられなかった にちがいない/ その三島の気持ちは よくわかる。
どんな立派な西洋館に住んでも/ 模造西洋に すぎなかった/ 軍服さえも にせものだった/ ぜったい本物の/ 鴎外のハイカラ/ に 彼はひけ目を感じつづけたのである/ 彼は にせものの軍服を着て/ 一切のテレビに反抗して/ 自滅した。
 彼は 正月の元旦のような気分が/ 一年中 ほしかったのだろう/ あわれな男。
 テレビをきらっていては/ 生きては行けない/ (きみがじいっとがまんして/ テレビを見る練習をした一刻一刻)/ 日本中がテレビを囲んで 放心している。
 詩は テレビに耐えて/ 必死になって 存在しようとしている。// 日本には ついに/ 思想らしい思想は 生まれないのか、/ と悲しみながら/ 風の日の しめ切った あつい/ 電車に乗っている。/ きみは悲劇的な/ 死者たちばかりを愛している。

 確かに《日本中がテレビを囲んで 放心している》ように思える。あるいは、テレビとネットを囲んで放心しているのかもしれないが・・・。
《日本には ついに 思想らしい思想は 生まれないのか》
 テレビにでているコメンテイターが日本の思想家ということになっているのだろうか?
 あるいは本の表紙で胸の前で腕を組んでふんぞり返って偉そうにしているあの人この人が日本の思想家なのだろうか?
 現在73歳のわたくしはそのほとんどをテレビとともに生きてきたことになる。
 とはいっても、34歳で書いた学位論文は原稿用紙に手書きである。まだ日本語ワープロがなかった。
日本におけるインターネット開始は1984年ごろらしい。36年前、であれば、ちょうどわたくしの人生の真ん中あたりということになる。
 わたくしがこのようなブログをはじめたのは野口悠紀雄氏の「ホームページにオフィスを作る」にそそのかされて(?)である。この本が2001年(約20年前)。自分のホームページを作ってもおそらく誰もみてはくれないが、自分は見ることができる。自分に必要な資料をネット空間においておけると野口氏はいっていた。確かにそうで、勤務先で自宅にある資料を(ホームページにまとめておけば)いつでも参観できるというのはとても便利であった。野口氏がそのようにいっていたのは、インターネットの黎明期には検索エンジンの機能がプーアであったことが大きい。
 しかし2006年には梅田望夫氏の「ウエブ進化論」がでて、氏の本で「ロングテール」という言葉を知った。検索エンジンがわずか5年ほどで大幅に進歩したということなのであろう。検索エンジンが進歩すれば、今までであれば永久に埋もれてしまっていたであろう情報が誰かに発見される可能性がでてくる。もしもその情報がネット空間に発信さえされていれば・・。
しかし梅田氏は今のネット空間の現状には希望をもてなくなっているようである。
 昔、床屋談義という言葉があった。床屋さんで髪をかってもらいながら口角泡をとばして、政治の現状を大いに慨嘆したとしても、それがその時間と場所を離れたら、何の意味ももたないことを談義するひとも、それを聞かされているひともよくわかっていた。
 落語の「寝床」みたいなもので、下手な義太夫をきかされる人の数は多寡が知れていた。それが今では、下手な義太夫も全世界に発信できる時代になってきているわけである。
 テレビだって黎明期にはプロの世界だったのではないかという気がする。それが今ではプロとアマチュアの区別がどんどんとなくなってきている。あるいは受ければプロ。受けなければアマチュア
 またまた見ていないで書くのは恐縮だけれども、「半沢直樹」には歌舞伎の役者さん達がたくさん出演しているらしい。かれらは本来はプロ中のプロであるはずなのだが、テレビに出ると単に大袈裟とか誇張とかいった方面だけが面白がられるということになるのかもしれない。それならいっそのこと隈取もつけたらというのは冗談だけれども、むしろそこまでいくとテレビの現状というのがもっとはっきりと見えてくるような気がしないでもない。
 テレビの司会者やコメンテイターも隈取でもしたほうが、それが果たしている役割がもっと見えてきて、視聴するひとももっと距離がとりやすくなるかもしれない。

パイプのけむり選集 旅 (小学館文庫)

パイプのけむり選集 旅 (小学館文庫)

山崎正和氏

 山崎正和氏が亡くなられたらしい。

 多くのかたがそうではないかと思うが、わたくしも最初に読んだ山崎氏の本は氏の出世作の「世阿弥」であった。何だか変に近代的な世阿弥の像だなあというような感想を持った記憶があるが、特に感銘は受けなかった。この本は誰かに貸したままになっていて再読もしていない。
 最初に感嘆したのは「鴎外 闘う家長」であった。ここに提出された鴎外像は、実際の鴎外の姿とはあまり関係はないのだと思うが(実際の鴎外は「ドーダの人、森鴎外」であったり、陸軍軍医総監として鴎外であったりしたのであろう)、「家長」という規定、あるいは勤勉な傍観者という規定は明らかに山崎氏が鴎外に自己を投影したものであろう。特に単行本p145の「空車(むなぐるま)」を論じたあたり「此車は一の空車に過ぎぬのである。」 堂々とはしているが内側は空虚であるというのは山崎氏の自己規定なのだろうと思う。旧来の日本文学であれば、その空虚を延々と描くのであろうが、山崎氏の描く鴎外は空虚でありながらも、家長としての役割を果たす人である。
 次の「不機嫌の時代」は「鴎外」ほどは面白く感じなかった。そこに描かれた直哉、荷風漱石は、鴎外ほどには氏にとって感情移入ができない存在だったのであろう。
 鴎外には家長という役割を引き受ける覚悟があった。しかし、もはやわれわれにはそういう役割があたえられていないのだとしたらという設定でかかれたのが戯曲「おう エロイーズ!」で、登場するのは、アベラールとエロイーズと朗読者3人だけ。一幕物のウエル・メイド・プレイである。「ときは1118年、アベラール39歳、エロイーズ17歳」。 要するに何も信じることのできない中年男のアベラールが、自分はアベラールを愛しているということを確信して疑わない、まだ小娘のエロイーズに迫られておたおたする話である。家長として尊敬されるというのであればいいのだが(それは役割を果たせば、すむことだから)、でも男として愛されるというのは困る。そこに真実というような言葉がでてきてしまうから。
 「千百十八年。この年はまた、人間の歴史にとって記念すべき年だったといえるかもしれない。まぜなら人類はこのアベラールとエロイーズによって、初めて純粋な男女の愛というものを知ったと考えられるからである。男と女の愛。女と男の愛。これを口実にしてひとは社会に叛き、親子を裏切り、ときに夫婦のきずなを断ってもなお良心の咎めを免れる。この不思議な言葉を人類が知ったのが、思えば千百十八年であった。」「私は夢を見ているんです。いつまでも、あなたの日陰者でいたい。そして年をとったらみんなに指をさしていわれたい。あれがアベラールの囲い者だった女だ、お気に入りの娼婦だった女だよって。」 
 三島由紀夫は「第一の性」で「文楽の人形芝居を御覧になった方は、すぐに気がつかれると筈だが、そこでは深層のお姫様が、「一度でいいから、あなたと寝てみたい」などと恐るべきことを口走り、男のほうはモジモジ、ウロウロ、煮え切らない態度でひたすら守勢に廻っている」と書いているが、ここに描かれているのもまさにそれである。「男は愛については専門家ではなく、概して盲目で、バカである。男は愛についてはまだお猿さんクラスですから、愛されるほうに廻るほかない。」(三島「同」)
 ということで、アベラールはまだ学問の世界の歴史に名を遺した人物だからよかったが、この話を現代の日本に移してだだの市井の男女の話にするととどうなってしまうかというのが「舟は帆舟よ」で、ただもう陰陰滅滅である。自分の内側に何もないと思っている人間は、自分の内側に踏み込んでくる人間にはただたじろぐしかない。
 いわゆるスパイMを主人公にした「地底の鳥」は男女の世界ではなく、政治の世界の話だから、何ものも信じないということが必ずしも弱点とならないという設定で劇がすすむ。
 山崎氏は政治の分野でもいろいろと発言していて、世間的には右派の論客として知られていたのかもしれない。その方面の書作も「柔らかい個人主義の誕生」とか何冊か読んだが、特に説得されたとか打たれたという記憶はない。氏としては、進歩派のひとたちの論をみて、それがあまりにお粗末であると感じたので、ただその感想を書いただけということかもしれない。
 また氏には、「社交する人間」という一種の文明論もあるが、「世界文明史の試み」というちょっとかわった本も書いていて、これはJ・ジェインズというひとの「神々の沈黙」という奇書にかなりを依拠している。「神々の沈黙」というのは、まだ書き言葉を知らない時代の人類は右能に神の声を直接聞いていたのであり、まだ意識というものをもっていなかった。意識の起源は朗誦詩人の「イーリアス」から文字による叙事詩創作の「オヂュセイア」へ移行する時代、今から3千年前であるというようなことを述べた本である。こういう本を真面目に論じている氏は相当に変わったところもあるひとだったのだろう、と思う。
 氏は書評するひとでもあって、「「厭書家」の本棚」という書評本もあるが、わたくしにとって一番面白く、かつ教えられたのは、本についての対談本、鼎談本である。丸谷才一氏との対談本「日本史を読む」「二十世紀を読む」、丸谷氏、木村尚三郎氏との鼎談書評本「鼎談書評」「三人で本を読む」など、対談・鼎談書評本は多くあり、本当にいろいろと教えられた。
 ここには機嫌のいい社交家としての山崎氏がいて、氏の最良の部分がでているのではないかと思う(これは丸谷氏にもいえることのような気がするので、丸谷氏には講釈をたれたがるという悪癖があって、誰かに一方的に話す場では、偉そうが鼻につく。しかし自分と同等の知識をもつと思うひと同士では君子の交わりとなって、話がいい方向に回転していく)。
 ここでは「日本史を読む」の相田洋氏の「電子立国日本の自叙伝」を論じた部分から。
 丸谷「各社を横断してつくった団体のことが出てきますね。LSI技術研究組合。・・・それが数年後に再会して、思い出の会を開く。そのときに彼らが、散会に近くなったときにみんなで歌を歌う。「俺はおまえと同期の桜」と。(笑)
 山崎「たまたま私はその場面をテレビ放映のときに見ているんですよ。・・・あの「同期の桜」を歌うところは、なんと言ったらいいのかなあ、象徴的でしたね。メンタリティーが完全に戦前の日本人なんです。(笑)
 丸谷「この本を読んでいると、実に戦後奇人列伝という感じがするんですね。ほんとうに頑固で、わがままで・・・」
 山崎「つまり、楠正成なんです。・・・私の経験的な感じを言っても。日米の学界を比較すると、明らかにアメリカのほうがボス社会です。・・・日本の場合は、ボスというのは大山巌将軍でなければならないわけです。つまりぼんやりと君臨して、みんなの気持ちをまとめていく。・・・年中みんなを集めて酒をのんでいたそうです。これが、日本のリーダーなんですよ。・・・「研究の方向はこちらである。・・君の分担は、これだ」ということを言うことはできないわけですね。・・・」
 もう一冊。山崎・丸谷両氏に木村尚三郎氏が加わった「鼎談書評」から、吉田健一著 磯野宏訳「まろやかな日本」を論じているところから。
 丸谷「吉田健一にとって、人の足を引っ張るという日本社会の風習は不思議でしょうがないものだったんですね。吉田さんという人が一種の奇蹟的存在であったいちばん大きな特色は、こういう現代日本の村落共同体的性格に対する、ほとんど先天的な理解の欠如ではないでしょうか。」
 山崎「そこで出てくるのが「反米」なんです。アメリカ文明というのは浅薄で、日本に何の影響も及ぼさないというところだけ、吉田さんに似合わず少し激してるんですよね。イギリスと日本という、どちらも何かトロトロと説けたような、不可思議なとこで育った人が、一箇所明快にいえるのは、「アメリカ人はバカだなあ」ということなんだと思う。
 丸谷「吉田さんが亡くなったあと、中村光夫さんと故人を偲ぶ話をしたんです。そうしたら中村さんが、「アメリカっていう国が存在することを、黙認してやるっていったような調子だったねえ(笑)」
 山崎「吉田健一という人の精神は、戦後日本を生かした一つの意地の固まりみたいなところはあるかもしれませんね。」

 山崎氏は「僕の一番の業績は氏が創設にかかわったサントリー学芸賞かもしれない」といっていたのだそうである。氏もまた、若い才能を見出すことに喜びを感じる人、人の足を引っ張る方向には無縁の無私の人だったのかもしれない。

 わたくしの山崎正和三冊。
1)「鴎外 闘う家長」
2)「おう エロイーズ!」
3)「日本史を読む」

地底の鳥 (1979年)

地底の鳥 (1979年)

鼎談書評 (1979年)

鼎談書評 (1979年)

日本史を読む (中公文庫)

日本史を読む (中公文庫)

8月15日

 毎年8月15日は「終戦記念日」として、各地で行われる様々な式典が報道されている(今年はウイルス感染拡大防止のため大分、規模が相当縮小されたらしいが)。しかし、「終戦記念日」というのはまことに奇妙な呼称であって、それだけみれば、単に戦争が終わったことを記念する、あるいは忘れないようにしようというだけのことである。
 本来であれば8月15日は、「終戦」ではなく「敗戦記念日」でなければいけないはずであるが、「敗戦記念日」というのも、これもまた変で、「戦争に敗れたことを記念する」ということになれば、そこには臥薪嘗胆、今度こそは負けないぞというニュアンスだって含まれてこないとは言えない。
 8月15日は「玉音放送」が流された日であり、ポツダム宣言受諾は8月14日、降伏文書調印式は9月2日であるから、本当の「終戦の日」ではないわけであるが、それでも8月15日を「終戦記念日」とすることに多くの日本人が異を唱えない、あるいはおかしく感じないということは、「玉音放送」が当時の日本人にいかに強いインパクトを与えたかということであり、また天皇という存在が昭和20年8月15日の時点においていかに大きなものであったかということでもある。だからこそ日本国憲法でも天皇制は残ることになった。
 つまり「終戦記念日」というものには、新しい日本が始まることとなった日、そのことを寿ぐ日というニュアンスが根底に色濃くあることを感じる。戦前の日本と戦後の日本、それを分かつ日が8月15日であるという意識がわれわれにはあって、この日が新しい日本の出発の日となったという思いが、ことさらこの日を大きなものとしている。
 「終戦記念日」に語られるのは、戦地の悲惨であり、銃後の生活の苦労である(もっと言えば飢餓、そこまでいかなくても空腹)。そしてまた、戦後の時間の経過とともにそれらの悲惨を経験したひとが高齢化していくことにより、その体験が語りつがれなくなっていくことへの危惧も語られる。
 しかし戦争の悲惨というのが75年以上も前にわれわれがおこなった戦争の体験から言われているのであれば、それからもう3/4世紀の時間が過ぎて、戦争の形態というものが当時とは大きく様変わりしている現在においては、ただ当時の悲惨を強調することの説得力はこれから急速に失われていくことは避けられないものと思われる。
 「終戦記念日」がわれわれに教えてくれていることは、われわれは自分の力では戦争を終結させることができず、終結のためには、天皇の言葉という力を必要としたということである。それゆえに「日本国憲法」でも天皇制を排することができなかった。
 そしてもう一つ、われわれが曲がりなりにも戦争を終結させることができたのは、広島と長崎への原爆の投下という事実があり、それによる筆舌につくせない惨禍をわれわれが経験したということの帰結でもある。
 もしも、この原爆投下ということがなかったとしたら、われわれははたして戦争を終結させることが出来たであろうか? というのは考えても詮無い歴史上のイフであるが、われわれのこころの奥底のどこかに、戦争を終わらせるためのきっかけをあたえてくれた《アメリカ軍による原爆投下》に感謝するというような心情がいささかでもないものか、それは難しい問題であるように思う。
 原爆忌での報道をみると、それは愚かな戦争をはじめたわれわれを懲罰するために、天上から降ってきた神の下した鉄槌のような扱いのように感じることが時々ある。よくいわれることであるが、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」というのもとても奇妙な文で、「安らかに眠ってください。」と呼び掛けるのはわれわれ日本人であろうが、そうであれば「過ちは繰り返しませぬから」もまた日本人の言葉であるはずで、原爆投下もまた、われわれが犯した過ちということになる。どういう過ちか? 愚かな戦争をはじめて、いくら配色農濃厚になっても、それをいつまでも止めることが出来なかったという過ち。
 加藤典洋氏の「敗戦後論」によれば、連合軍当局から日本憲法草案が提示されたとき、日本の憲法草案検討作業の場の日本の閣僚たちに検討のためにあたえられた時間はわずか十五分であったという。これは原子爆弾という当時存在した最大の権力によって日本に有無をいわせず押し付けられたもので、「国際紛争解決の手段として武力を行使することはしないと宣言する憲法が、原子爆弾という当時最大の「武力による威嚇」によって押しつけられた」ということになる。当時、たとえば美濃部達吉氏の考えた憲法改正案第一条というのは以下のようなものであったという。「日本帝国ハ連合国ノ指揮ヲ受ケテ 天皇之ヲ統治ス」
 いうまでもなく、加藤氏は押し付けられた憲法だから反対、自主憲法をつくれという方向のひとではなく、この憲法は素晴らしいものである。だから、もう一度、われわれの手で選び直せというきわめてまっとうな主張をしたわけであるが、右からも左からも文字通りボコボコに叩かれた。
 「敗戦後論」の冒頭は1991年におきた湾岸戦争において出された文学者たちの《戦後憲法の「戦争放棄」の条文》を根拠とする反戦著名声明への違和感から始まっている。「そうかそうか、では平和憲法がなかったら反対しないわけか。」
 村上春樹湾岸戦争のときにアメリカにいて、ずいぶんときつかったことを回想している。「日本人の世界の理屈と、日本以外の理屈は、まったくかみ合っていないというのがひしひしとわかるんですね。・・・自衛隊は軍隊ですよね。それが現実にそこに存在するのに、平和憲法でわれわれは戦争放棄をしているから兵隊は送れないんだと、これはまったくの自己矛盾で、そんなのどう転んだって説明できないです。・・・これはやはり日本にいたら気付けなかったことだと思うのです、理屈ではわかっても、ひしひしと肌身には迫ってこなかったんじゃないか・・・それと同時に、いまの日本の社会が、戦争が終わって、いろいろとつくり直されても、本質的には何も変わっていない、ということに気がついてくる・・・近代の日本を戦争に導いたものというのも、そういうずるさ、あいまいさではないですか」 これは河合隼雄との対談での発言であり、河合氏はそのずるさは必ずしも否定すべきではないと対応するのであるが・・。
 昭和16年12月の開戦は、明治以来、日本が国是としてきた「西欧世界の利権に自分達も参加させてくれ!」という方向を放棄して、「西欧世界は西欧世界で勝手にやってくれ! もう西欧世界との付き合いにはとことん疲れた。われわれはアジアのほうでやっていくから、それを認めてくれ!」というはなはだ後ろ向きのものであったのではないかと思う。開戦の時に多くの国民が感じたという解放感、頭上に重くのしかかっていたものが消えて、霧が晴れたような清々しい感じというのは、西欧というわけのわからない魑魅魍魎の世界との付き合いからもう解放されるのだという思いに由来するのではないだろうか。そして、8月15日の敗戦において、今度は、もう世界の基準から降りる。日本は世界に参加するだけの成熟をまだしていない国だったのだから、戦争というような世界の標準からは降りる、大人の世界のことは、他の国々にまかせる。ただ今は子供の世界の甘い夢想のように思えるだろうことが、どこか遠い未来においては、やはり人類の理想だったのだと理解される日が、ひょっとすると来るかもしれない。それに希望をつないで、もう少しわれわれの生き方、行き方を黙認して見ていてほしいというようなそういう気持ちで来た。
 しかし戦後75年がたったが、いまだに世界は変わっていない。それどころか、漠然と世界がその方向に進んでいるように思ってきた西欧啓蒙の方向がいたるとことで否定され、露骨な力の誇示が前面にでた世の中へと世界が逆行していることを感じさせる事象が目立ってきているというのが、今われわれが感じていることではないかと思う。
 だから、終戦記念日というのもますます内向きになり、後ろ向きになってきて、積極的な方向の見えないものとなってきているように感じる。わたくしの父は軍医として南方の島に送られ何とか生き残って帰ってきた。晩年の父は日本社会党の党員だったのではないかと思う。様々なニュースをみて、戦争のへ匂いを感じる、きな臭いものを感じるというのが口癖だった。多分それは自分の筆舌に尽くしがたい経験がそうさせたのだろうと思う。
 おそらく父の戦友であったのであろう矢数道明という方が書いた「ブーゲンビル島 兵站病院の記録」という本には、父は第二次編成第七六兵站病院将校名簿に内科医の一員として名前があがっている。戦後、父は小児科医であったが、戦地において小児科医などはなんの役にも立たないわけで、それで内科医なのであろう。この本によれば、第七六兵站病院は南方第十七軍司令部直属の部隊として、つねに軍司令部と共に第一線から離れた後方勤務に従事したとあり、比較的平穏な後方兵站病院の記録とあるから、第一線の野戦病院などと比べれば苦労はまだ少ない状況であったのであろうが、それでも、やはりそれは父としては人生最大の筆舌に尽くしがたい経験であったのであろう。しかし、父はその経験についてはわたくしには何も語らなかった。
 後10年もすれば、自分自身の体験としての戦争経験を語れるひとはほとんどいなくなるであろう。今の若い方に終戦記念日などといっても、わたくしが若いころにきいた明治維新という言葉に感じた感覚に近いものなのかもしれない。われわれの世代にとって、明治以前は過去あるいは歴史であって、明治以降が現在につながる。とすれば、今の若いかたにとっては、戦前までの日本はすでに過去あるいは歴史に属するのであり、戦後の日本こそが現在につながるのかもしれない。
 かりにコロナ騒動が収束の方向にむかっていたとしても、来年以降の終戦記念日の式の規模が縮小していくことは避けられないのではないかと思う。

敗戦後論 (ちくま学芸文庫)

敗戦後論 (ちくま学芸文庫)

天皇の戦争責任

天皇の戦争責任

ブーゲンビル島 兵站病院の記録(オンデマンド版)

ブーゲンビル島 兵站病院の記録(オンデマンド版)

  • 作者:矢数道明
  • 発売日: 2001/09/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

Yiğidim Aslanım

 実は、このタイトルをどう読むのか知らない。You tube でピアニストのファジル・サイを見ていて、偶然いきあたった曲のタイトルである。最初は作曲家でもあるサイ氏が作曲した曲なのかとも思ったのだが、オーケストラは全員休んでいて、サイさん一人のピアノ伴奏で、オーケストラ後方のコーラスが物悲しい旋律を斉唱していくというだけの曲である。サイさんはトルコのひとなので、おそらくそちらの言葉なのだろうと思うがWikipediaで調べても、日本語はおろか英語の解説もでてこないので、曲についてはよくわからない。
 いろいろみていくと、どうやらサイ氏が作曲した(のではないかと思う)Nazım Oratoryosu という曲(これはオーケストラ、ピアノ、合唱、独唱と語り・・・これが極めて重要な役割・・・わたくしがみた You tube ではGenco Erkal という名の老優の大熱演・・からなる大曲で、タイトルをみれば、そらく オラトリオの一種ということなのであろう)の後に、アンコールとして演奏されたものなのではないかと思う。多分、聴衆もみな知っている旋律のようである。トルコ独立を指導したケマル・アタテュルクと関係があるのではないかという気もするが何しろ、一句も解せずのトルコの言葉であるから、全然違っているかもしれない。
 まったく偶然目にした(耳にした?)大人数がただただ斉唱する歌がもつある種の祝祭性というか祭儀性が気になって書いてみた。たまたま数日前に「第九」の持つ音楽の祝祭性というかロマンへの傾きについて書いたばかりなので、この曲の調子が気になったのかもしれない。
 小林秀雄の「モツアルト」は、そういうタイトルではあるが、いいたいことはベートーベンが音楽に導入したロマン主義の全否定で、自分が若いときにどっぷりとつかりきったランボー経由のロマン主義の路線の懺悔の書である。しかし、さすがにハイドンまではもどれず、モツアルトの悲しみの疾走までは許容するのであるが・・。しかも、ゲーテの若き日の疾風怒涛の時代の否定を借りて、自分をゲーテになぞらえるというなかなか芸の細かいところもみせている。
 音楽は宗教的儀式にその起源をもつことは間違いないわけであるが、ロマン派の音楽はその方向を全面解放してしまったので、後世のひとはその毒を消すのに大変な苦労をさせられることになった。
 しかし、多くの人数で一つの旋律を斉唱するというただそれだけのことで、そこから何等かの祭儀性がいやおうなく立ち現れてくるのだとすると、音楽がその根に持つ祭儀性の問題はきわめて根が深いことになるのだろうと思う。

「第九交響曲」

 今日の朝日新聞の朝刊に音楽学者の岡田暁生氏が「「第九」再び抱き合えるか」という文を寄稿している。「いつか「コロナは去った」と世界の誰しもが感じるようになる日。それを祝うコンサートとして、ベートーベンの「第九」ほどふさわしい曲はないだろう。」というのがその書き出しである。しかし「三密」を避けるという現在の動きの中で、大編成のオーケストラと合唱隊と独唱者を要するこの曲の上演は困難であり、ベートーベン生誕250年の今年であるが、多くの「第九」公演は中止されるであろう、と。
 一方、「週刊 東洋経済」誌の最新号での「コロナ時代の新教養」という特集には宗教学者島田裕巳氏が「今こそ生きる意味を探れ」という論を寄せていて、イスラム圏をのぞけば世界的に宗教は衰退してきていることを述べ、今回のコロナ禍では「人の密集を避けるために集会の規制が行われている」が「そもそも宗教は人が集まることで生まれる熱気や陶酔が重要」なのであり、「宗教にとって人が集まることは本質的なこと」であるので、現在の事態は宗教にとって決定的な痛手であると述べている。
 わたくしは知らなかったが、今年3月、イタリアで感染の爆発が起きているその時に、ローマ教皇は、聖職者に対し「外出して新型コロナ患者に会うように」と呼び掛けているのだそうである。カトリックには「終油の秘跡」といって、亡くなる人に聖職者がオリーブ油を塗って最期の許しを与える儀式があり、これは(カトリックでは)死に際しての不可欠な儀式であり(この秘跡はウォーの「ブライズヘッドふたたび」でも、最後の場面で一種の「機械仕掛けの神様」となって現れる。大団円をもたらすのではなく、人を引き裂くものでとしてではあるが・・)、それを実践するようにと呼び掛けたわけであり、それによって聖職者に多くの犠牲者が出たのだそうである。
 ベートーベンの時代には現在のような大ホールなどとをわたくしはしらないが(本日の朝日新聞の岡田氏の記事には「大阪城ホールでの「一万人の第九」の写真が付されている」)、今とは比べ物にならないくらいこじんまりとしたものであったであろうことは間違いない。それでもベートーベンの頭の中には、現在のような大掛かりな演奏につながるようなイメージはあったのかもしれないと思う。Seid umschlungen, Millionen! Diesen Kuß der ganzen Welt! 全世界に呼びかけようというのだから。
 このような大言壮語的というか誇大妄想的というか兎に角も大袈裟なものを音楽に持ち込んだのはベートーベンであるが、これがその後の多くの作曲家に祟って、ヴェルディの「レクイエム」とかマーラーの「復活」とか「千人の交響曲」とかを生んだのであるが、一方、ベートーベンが「英雄」や「運命」や「第九」を作っていなかったとしたら、今頃いわゆる西欧クラシック音楽はとっくに生命力を失って一部好事家たちのための古典芸能となっていたであろうこともまた間違いないように思う。
 ベートーベンがその交響曲を書かず、晩年のピアノソナタ弦楽四重奏のようなものだけを書いていたとしたらというのは考えても意味のないことであるが、あのような、ある意味では空疎なハリボテのような部分もある「第九」(あるいは「荘厳ミサ」)のような音楽を書いてしまうと、バランス上どうしてもああいう鍵のかかる個室での自分一人のための音楽もまた必要になるのであろうと思う。
 「一万人の第九」という演奏会もある意味異常なものであるが、後期のピアノソナタとか弦楽四重奏の演奏を大ホールで多くのひとが聴いて拍手するというのも別の意味で異常なことかもしれない。これは本来は自分で弾いたり、仲間と合奏したりするものではないかと思う(それにしてはとんでもなく難しい曲であるけれども)。
 個人というのは西欧近代の最大の発明で、その西欧が生んだ個人の代表選手はひょっとするとベートーベンであるかもしれないが、そのベートーベンが同時に集団の情念に火をつける方向の音楽をつくる方向ついても、またその模範例を後世に残したという矛盾の象徴が「第九交響曲」ではないかと思う。
 第九というのは曲の構成からみると相当に破綻しているので(終楽章の頭で、それまでの音楽を否定するなどというのも無茶苦茶であるし、4楽章、合唱のテーマがチェロとコントラバスででてくるところなど、あんなに面白くもおかしくもない旋律がくごもった低音で延々と続くなどというのも、聴衆に我慢を強いて平気という無神経ぶりである)、指揮者も演奏に苦労するのではないかと思うが、音楽が人を醒めさせるのではなく、酔わせる方向にむかわせる力を持つということについて、それを演奏の場でどうあつかっていくかが一番難しいのではないかと思う。
 人間は集団で酔う方向と個人で醒める方向に引き裂かれているわけであるが、現在は感染症予防のために極力「個」であることを強いられている。しかし今、白い目で見られている飲み会などというのも、いってみれば小規模集団の相互確認作業のようなところもあるわけである。
 集団意識をいかに無害に発散解消させるかということは人間に課せられた大きな課題であるわけだが、音楽というのはそれを上手に使うならば、そのためのなかなか有用な手段であり続けてきたのではないかと思う。とはいっても、今次大戦後、西欧の音楽が一時、非常に無機的な方向に傾いたのは、戦中に戦意高揚のために音楽が散々に利用されたことへの反動という測名が間違いなくあったはずである。
 「三密」を避けるなどというのが、そもそもどこか人間の本性に反するわけなのであるから、そうそう長く続けられるはずはないかもしれない。
 室内楽的な小編成のオケと独唱4人以外に各パート6~7名の合唱などといった室内楽的な演奏会からまず「第九」の演奏会は再開されるのであろうか? ついでに無駄に長い4楽章も刈り込んでもっとすっきりしたものにするとか・・・。しかし、そういうものではやはりわれわれは高揚できないのだろうか?
 テレビで一部をみただけど、映画の本編もみていないが、「ボヘミアンラプソディー」のクイーンのコンサートの観客の人数というのはどのくらいなのだろう? クラシック音楽はその方面でいくらはりあっても所詮、勝ち目はないと思うのだが・・。

熊代亨「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」

 書店で偶然に見つけた本である。著者の名前も知らなかったが、ブロガーでもあるとあったので検索してみたら、氏の「シロクマの葛籠」というブログはいままで何回か目にしたことがあった。

 本書を読んで第一に感じたのが、世代の違いということである。
 著者は1975年生まれの精神科医であるから、現在45歳前後。一方、わたくしは昭和22年生まれで現在73歳である。30歳近い年齢差というはやはり大きい。わたくしが自分なりに実際に生きて経験してきた昭和後半、戦後の20年代から63年までの日本を、熊代氏はほとんど書物による知識としてしか知らないわけである。
 熊代氏が本書で述べている見解は、氏の世代においては少数派なのであろうが(むしろ必要以上にマイナー意識を持ちすぎているのが問題であるように思ったが)、それでもわたくしの世代とはまったく肌合いの異なる人である、一言でいえばとても大人しいし、必要以上にあちこちの見解に気を配りすぎている。もっと胸をはって堂々と自分の見解を述べればいいのにという印象を、読んでいて感じるところが多かった。
 一例として・・・、「はじめに」の書き出しが「年配の人々の思い出話によれば、一九六〇~七〇年代は希望に彩られた一時代だったという」である。
 しかし、わたくしの同世代の人間で、自分が過ごしてきた日々を「希望に彩られた」などと感じていたひとはまずいないのではないかと思う。後から見れば、1960年から70年は高度成長期となったわけであるが、それは後知恵で、その時代を暗黒の時代と感じて、ひたすらそれを転覆して「革命」を起こすことを夢見ていた人も少なからずいたわけである。
 中国の文化大革命の運動がはじまったのが昭和41年、日本ではその翌年に美濃部亮吉東京都知事になっている(氏の肩書はマルクス経済学者であった)。スターリンソ連を見て絶望していた人たちの一部は、文化大革命を見て、いよいよ地上に天国が出現すると感涙にむせんでいた(反帝反スタ)。そうではなく未来永劫、地上に天国が出現することはないが、だからこそ永久に革命運動を継続することが必要なのであると息巻いているひともいた。
 美濃部氏の後には大阪とか京都とかいった大きな自治体の首長に次々と革新系の人物が当選していった。そのころの日本共産党は将来、国政においても、社会党との連立政権ができ、それを内部から牛耳っていくことで、国政においても権力を掌握していくことを現実的な未来として思い描いていたのではないかと思う。
 そしてまた、熊代氏には信じられないことかもしれないが、60年から70年頃には、今であれば誰も一顧もしないであろう「人生論」などというタイトルの本が書店にあふれてもいた。「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」や「復活」は今でも読まれているであろうが、同じトルストイの「人生論」を今読む人はまずいないであろうと思う。そしてまた、白樺派とか「新しき村」にもまだかすかに後光がさしていた。青臭く、かつまた赤い時代でもあったわけである。
 わたくしも自分の60年~70年代(つまりわたくしの中学から大学を卒業して臨床をはじめるくらいまで)を顧みて、それが希望に彩られた時代であると感じたことは一度もなかったように思う。
 ふりかえれば、まず1960年は、わたくしだけにではなく、おそらく誰にとっても60年安保の年ということになるのだろうと思う。安保騒動の後、岸首相が退陣し、後を襲った池田隼人首相は所得倍増計画などというのをぶち上げた。しかし、その言を信じているひとなどまずいなくて、多くは大衆の目を政治から引き離すはための目くらまし策くらいにみていたのではないかと思う。これが結果としては政治の時代から経済の時代への転換になったのであるが。熊代氏の世代から見れば、この頃の政治は後に何も残さなかったのであるから、結果としては60年から70年にかけての高度成長という事実だけが残り、成長のさなかに生きた人間にとっては、その時代が希望にみちた時代であったということになるのではないだろうか?
 しかし、その当時に生きた私から見ると、高度成長どころか、その当時、西側陣営はいずれ行き詰まり、大恐慌に直面して崩壊すると確信しているひとがたくさんいて、何かあるごとに、これこそ大恐慌の前触れだ、今度こそ、西側は崩壊すると太鼓を叩いていた。
東京オリンピックのときにはわたくしは高校3年で受験勉強中だったわけだが、その当時のマッチョな雰囲気がいやで仕方がなかった(大松博文、ニチボー貝塚、根性・・・)。
 大学にはいったら今度は大学闘争(紛争)。この大学紛争にもマルクス主義の影が色濃くさしていたことはいうまでもない。それは、本当はマスクスの思想とは何の関係もないものであったのだろうが、現状を否定するという心情がその象徴としてマスクスという旗印を求めたのであろう。
1968年にはパリが燃え、同時にチェコ事件がおきている。また1964年ごろから75年までベトナム戦争が続いている。パリが燃え、東欧が燃え、東南アジアが燃えていた。その余波は日本にもおしよせていた。
 だが、世界最大の軍事大国であったアメリカがベトナムホーチミンサンダルを履いた農民兵に敗れるという驚天動地のことがおき(ということに当時はなっていた。そして不思議なことにその後のベトナムの状況はほとんど報道されなくなった)と思っているうちに、中共軍がベトナムに侵攻し、ベトナムからは大量のボートピープルが祖国から脱出しようとしていた。
 そのような混乱の中で、東南アジアはドミノ倒しで共産化していくなどといわれてからわずか15年ほどで、今度は東側が崩壊してしまった。1989年にはベルリンの壁が崩壊したと思ったら、1991年にはソ連が崩壊してしまい、東側というもの自体が無くなってしまった。
 東西の対立という状況自体が消失すると、多くの人に憑いていた狐が落ちて、「社会主義? 共産主義? マルクス主義? 何だか昔はそんなものもあったようですな」とでもいった感じで、あっというまにそれは過去のものになっていった。しかし、その崩壊の時まで、資本主義経済体制より計画経済体制のほうを採用すべきという学者は多くいて(何しろ東大経済学部の教授のほとんどがマスクス経済学派の人で、それと対抗する少数派は「近代経済学派」などと分類され、数字ばかりをいじっている理想も思想も持たない権力の走狗であると低くみられていた)、その中間に「マスクス経済学」と「近代経済学」の折衷?の混合経済体制派もあり、さらにはテイク・オフまでは計画経済、離陸したら市場経済などという派もあった。
 マルクス命で一生を終えた向坂逸郎氏は1985年に亡くなっている。東側崩壊まで存命しなかったのは幸いだったのだろうと思う。氏が個人的に蒐集したマルクス関係の文献は東側の公的な施設のものを凌駕するほどの充実したものであったのだそうである。
熊代氏が先輩の世代の言として引用する「一九六〇~七〇年代は希望に彩られた一時代だった」というのは、東側陣営が崩壊し、経済運営のやりかたとしてはもはや市場経済体制しかないことがコンセンサスになった時点から回顧された後知恵の言葉であるのだと思う。
 実際に、昭和初年からわたくしの人生前半においては、マルクス主義はきわめて強力な重苦しい力を持った運動であった。何しろそれで運営されていると標榜する国家がいくつかあったわけである。当時の北朝鮮(とは絶対にいってはいけないことになっていて、つねに朝鮮民主主義人民共和国と呼ばれていた)では「千里馬運動」などというのが行われていて、そこでのマスゲームなどを見て、ひたすら自己の利益しか考えない金銭亡者であるわれわれ資本主義陣営の人間とは異なり、常に「人民」全体のことを考えている人たちによる美しい運動であるとして賛嘆し感涙にむせんでいるひとがたくさんいた。
 林達夫氏が「共産主義的人間」でいう、「私は政治について人から宣伝されることも人に宣伝することも好まない。どぎつい政治的宣伝は、たといその中に幾分の正しさを含んでいる際にも私にとってはやりきれない心理的攻撃であって、ことに共産主義者のそれは私を決して中立的にじっとさせておいてくれない点で身にこたえる。このわかり切った「真実」を自分で考えてみるなどは持っての外だといわんばかりにぐんぐん肉薄してきて、有無を言わさず「イエス」を言わせようとするのである。」 というような「空気」を、熊代氏は実感としてはほとんど感じることはなく生きてきたのではないかと思う。
 本書で何回もくりかえされるフレーズである「資本主義、個人主義、社会契約の三位一体」というのが、熊代氏にとっては、動かすことのできない世界についての自明の前提とされているようであるが、それが少しも自明ではなかった時代を知っているわたくしには、それは随分と軽い言葉に感じられる。
だが、わたくしにとっては軽く感じられる「資本主義、個人主義、社会契約の三位一体」というフレーズは、氏にはとても重くせまってくるようなのであり、それが「自分で考えてみるなどは持っての外だといわんばかりにぐんぐん肉薄」してきていると氏は感じていて、それが重苦しくてたまらず、その三位一体がもたらす「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」に言いようのない窮屈さを感じて、それで、このような本が書かれることになったのだと思われる。
 現在の新型コロナウイルス感染の流行下で、様々なところで「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」への運動の呼びかけがなされている。同時にそれへの反発もまた様々なところから表明されているが、本書はそのような新型コロナウイルス感染流行の便乗本ではない。もっと深く著者の根っこに存在するのであろう「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」への生理的な違和感に発している本である。
 もう一つ、第一章の出だしで、安倍首相の「美しい国」論を「秩序の行き届いた景観」といった面でのみとらえているのにも違和を感じた。安倍首相がいっている「美しい国」というのは倫理的に美しい国とか人間同士の相互信頼がある国とかいうことであるはずで、「夫婦相和し、子は親を大事にし」といった方向を意識したものであるはずである。一言でいえば、大君の元でみなが和気あいあいとしている争いのない調和の世界である(爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ・・・)。
 わたくしは熊代氏とは異なり、今の東京は美しい町であるとは少しも思わない。東京の景観はかくあるべしという共通の美意識がわれわれに共有されているというようなことはまったくないだから、いくら清掃が行き届いていても、それだけでは美しく街、美しい国にはならない。
わたくしが海外にはじめていったのは、30歳過ぎに小さな国際学会に参加するためにいったドイツのマールブルグである(恥ずかしながら、その時はこの大学町にハイデガーアーレントが暮らしたことがあることなどまったく知らなかった)。着いた時、映画のロケか何かのためにつくられたセットではないかと思った。百年・二百年前の街並みを残そうという強烈な意思がそこに住んでいるひとになければ、あのような景観ができあがるはずがない。それに対して、街並みはかくあるべしという共通の思いはわれわれ都民には一切ないのだから、東京はてんでんばらばらのただただ乱雑な街になるほかはない。
 そして、本書の一番の問題は、熊代氏個人がそのように現在の日本社会を重苦しく窮屈に感じているからといって、あらゆる人が「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」に不自由を感じて当然だと氏はしていない点である。「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」にわれわれの社会がなったことそれ自体はよいことではあるが、それでもそれにはこういう負の側面もあるといったように議論が屈折して進んでいく。
 たとえば、第3章の「健康という“普遍的価値”」は、「かつては喫煙に寛容だった日本社会」のことから論がはじまっている。それに対して昭和時代の日本は喫煙にはるかに寛容な社会であったことがいわれる。
 私が医者になりたてのころは禁煙については平山雄氏が孤軍奮闘している感じで、学会で氏が講演したりしていると周囲は「あっ、またあいつか!」というような反応で、変人・奇人あつかいであったような記憶がある。氏はおそらく世界ではじめて受動喫煙の害を主張したひとなのではないかと思うが、氏の論文には杜撰な点も多くあることも指摘されているようである。しかし、タバコが無害であるとか有益であるというような論旨の論文は現在では医学雑誌には絶対に採用されないそうであるから、この点については今後も検証されないままでいくのだろうと思う。
 明治・大正から昭和の戦前までは成人男子のほとんどは帽子を冠っていたそうである。実際、その頃の写真をみるとそうである。タバコも同じようなものではないだろうか? 単なる風俗? そしてまた、戦前昭和までの日本が軍事国家であったということが喫煙にも深くかかわっていたのではないだろうか(例:恩賜の煙草)。戦場ではタバコはほぼ必需のものであったようである。宮崎駿氏の「風立ちぬ」に喫煙場面が多すぎるという無粋な抗議を日本禁煙学会がしていた。わたくしはその映画を見ていないが、ゼロ戦開発者を主人公にしたアニメらしいから、喫煙場面が多いのは当然である。映画「カサブランカ」から喫煙画面を削除したらもうほとんど何も残らないのはないだろうか?
 今年の六月から喫煙に関しては日本でも規制が強化されたが、それでも世界のなかではまだまだずっと寛容なのではないかと思う。現在の嫌煙志向のたかまりを熊代氏は今われわれのまわりにある健康志向の典型例として提示するのであるが、氏はそれがでてくる背景として統計学と生理学の発展があることを指摘する。1970年代から生活習慣病のリスク因子が特定されていったことが、現在人の健康志向を形成したというのである。
 しかし、以下に書くように、1970年代の日本人はまだまだ短命で、頑張って禁煙しても長寿など期待できなかったわけである。タバコが戦場の戦士にとってのほぼ必需品であったように、高度成長期の企業戦士たちの多くにとってもまたそうであったということなのではないだろうか? クラインという臍曲がりのフランス文学者は「もし煙草がほんとうに健康によいのであれば、それを吸うひとなどごくわずかになる。」「もしも煙草が健康によいものであれば、それは崇高ではなくなる」、と「煙草は崇高である」で言っている。
 現在の禁煙運動を主導しているのはWHOであると思うが、その本当の目標はタバコではなくアルコールなのだそうである。つまり世界からアルコールをなくしたいらしい。禁酒の方向である。禁酒法は背景にピューリタン的(特にメソジスト派?)志向をもっているが、わたくしは禁煙運動も単なる健康志向の運動ではなく、一種宗教的な清潔志向のモラルの運動から発していると思っている。それで、とにかくピューリタン的なものが嫌いなわたくしとしては、禁煙運動も嫌いということになるし、禁煙運動に熱心なひとというのはエクセントリックでバランス感覚を欠いたひとが多いという偏見を持っている。
そういうわたくしにとっては、当然「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」はとても居心地が悪い社会である。だから「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」はもう原理的に不自由な世界であることはわたくしにとっては一切証明不要の自明なことなのであるが、熊代氏にとってはどうもそうではないらしく、ある程度までは正しいが行き過ぎると問題がおきるのだという方向に議論が屈折して進む。だから微温的で歯切れが悪い。
 「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」というのはとてものっぺりとした世界で、だからそこからはクラインもいうように偉大とか崇高という言葉が消えてしまう。そこには「悪」というものもなくなってしまうのであるから、タバコも必要とされなくなる。
 というように見てくれば、「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」の住人というのはニーチェが「ツァラツゥストラ」でいう末人なのである。「われわれは幸福を発明した 「末人」はそう言ってまばたきをする。彼らは生きるのに厄介な土地を見捨てる。温暖が必要だからである。彼らはやはり隣人を愛している。隣人にからだをこすりつける。ぬくもりが必要だからである。病気になることと不信の念を抱くことは、かれらにとっては罪と考えられる。かれらは用心深くゆっくりと歩く。石につまずく者、人間につまずき摩擦を起こすものは馬鹿者である!(「ツァラツゥストラはこう言った」)」。
 本書での熊代氏はきわめて微温的なツァラツゥストラなのだけれども、健康を志向する「末人」たちは、すでにニーチェの時代に大量に発生していたわけである。だから、医療統計学と生理学の知見が現在の健康志向を生み出したとする氏の主張には納得しがたいところがある。ニーチェにいわせれば「キリスト教邪教です」ということになるのだから、それはほとんど西欧世界のある部分が必然的に招来させるものなのである。
 昭和20年頃の日本人の平均寿命はおそらく50歳台のはずで、当時の主な死因は結核であった。そして、それが次第に克服されてくると今度は脳卒中が主な死因となり、それが減るとその後増加するはずの心臓血管障害がなぜか日本ではあまり増えず、そのため悪性腫瘍が現在の主たる死因であるが、いずれ老衰が主たる死因となるだろうといわれている。
 結核をふくむ感染症死は低開発国での低栄養に起因する病気であり、脳血管障害は中程度開発国のやや栄養状態が改善した状況での一番多い死因である。それが克服されると今度は栄養過多による心臓血管疾患が増えてくるはずであるが、なぜかそれがないことが日本を長寿国にしているといわれる。
 その経過をふりかえるなら、戦後のきわめて貧しい時代から現在の飽食の時代まで日本が豊かになるにつて、国民の栄養状態が着々と改善してきたことが、長寿化の最大の寄与要因であることがわかる。(飽食の時代で増えるはずの心臓血管疾患がなぜかわが国では少ないのかは、日本人が魚を多く食べるためなのだそうである。) とすれば、別に医療の進歩が日本人に長寿にしたわけではない。
 結核死が死因のトップであるような短命が普通の時代に、タバコは健康に悪いなどという寝言のようなことを言っても相手にされるわけがない。われわれが健康に気をくばるようになったのは、われわれが長寿を当たり前と思うような時代になったからで、そもそも統計学の研究ではじめて認識される生活習慣病のリスクファクターなどというものは個々の患者をみることが前提の臨床の場では感得されえないものである。
 とすれば、メタボリック・シンドロームの健康指導などというのは医療者にとって、まことに手ごたえのないもので、そういうことが話題になること自体、臨床の場ではもうあまりやることがなくなってきているということを示しているのだと思う。
 熊代氏が専門とする精神医学の分野でも、発達障害のような従来は疾患とも認識されていなかったものが疾患とされてきていることに氏は両価的な立ち位置であることを表明しているが、末人たちが理想とした「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」はわれわれが豊かになったことの代償として得られたものである以上、氏はそれを完全に否定することはできず、そうかといって豊かになったことの代償として得られたものがあまりに平板で手ごたえのないものであることに氏はいらだっているのだろうと思う。
 司馬遼太郎氏は「人間の集団について」で、ある友人(元曹長憂国の士のかたむきがある人)が電車の中で笑いさざめいている若者を見て、その目にまったく力がなかったことを慨嘆したというエピソードを紹介して、以下のように書いている。「日本は弥生式農耕が入ってきて以来、さまざまな時代を経、昭和30年代の終りごろになってやっと飯が食える時代になった。日本人の最初の歴史的経験でありその驚嘆すべき時代に成人して飢餓への恐怖をお伽噺としか思えない世代がやっと育ったのである。いま国家的緊張はなく、社会が要求する倫理は厳格さを欠き、キリスト教国でないために神からの緊張もない。こういう泰平の民が、二千年目にやっとできあがったのである。目に力を失うというのはそういうことであり、人類が崇高な理想としている泰平というのはそういうものであり、泰平のありがたさとは、いわばそういう若者を社会が持つということかとも思われる。」
 司馬氏は三島事件の時、それを強く批判したが、氏にとっては戦後の日本が悪戦苦闘の上にようやく勝ち取った「目に力を失って」も生きていけるという幸福を三島氏がいとも簡単に否定しようとしたことが許せなかったのであろう。しかし炉端の幸福などというものにはただ嫌悪しか感じなかっただろう晩年の三島氏には、そんな批判がとどくはずもなかったであろうが。
 飢えの恐怖から解放されれば、若者はたとえば「自分探し」とかにむかうことになり、その一部はこじらせて熊代氏の外来に患者として表れるかもしれない。また一部の高齢者はすべての目標を喪失して、ただひたすら長寿を目指すことになるのかもしれない。
喜多愛郎氏が「近代医学の史的基盤」の最後に「人の生命のまことに重いことは言うまでもないけれど、それとても何にもまして貴いものではない。そうみなければ、しばしば人が病をおしても没頭する事業なり天職なりの意味を了解することができないだろうし、さらにはまた、さまざまな状況において、生命を冒して当為に、あるいは信仰に殉じる英雄的な人の行為は、むだな所業でしかないだろう」と書いたのは1977年(昭和52年)である。まさに著者が生まれたころである。しかし今では「しばしば人が病をおしても没頭する事業なり天職」などと言われても、多くのひとには何のことやら、であろう。こういう見方こそが戦前、多くの若者を戦地においやったというひともいて、こういう見方に嫌悪感を示すかもしれない。
 前にもどこかで引用した養老孟司さんの本にある中国人の留学生やドイツの学生やスリランカの僧侶が異口同音にいったという「日本人は生きられませんから」という言葉。世間で生きることはできるが個人で生きることができない日本という国の問題にも本書はつながっていると思う。
 明治期に日本が西欧に見たものは「国家」と「個人」である。そのうちの国家については何とか西欧なみの国家に成り上がろうと悪戦苦闘して、大東亜戦争で自滅した。そしてこれからはもう日本は西洋渡りの国家であろうとすることは永久に望むことはしないということを宣言して、そこで考えることをやめて眠りについた。
 個人については、要するに「自分の頭で考える」ひとは世間と同調できず、世間から排除された。それはある時期には「飢え」に直結することさえあったかもしれないが、昭和30年代の終わりには日本はついに「飢え」の問題を克服した。そうであるなら、もっと伸び伸びと「自分の頭で考えればいい」だけのはずである。
 西洋最大の発明は「個人」であり、西欧がわれわれにもたらした最良の部分が啓蒙思想である。それはまことにひ弱なものであって、わずかの力で簡単に蹂躙されてしまう。しかし、それにもかかわらず、ナチスの時代のドイツでも、毛沢東の中国でも生き残ったし、現在の習近平の中国でもおそらく生き残るであろう。そしてトランプ大統領下のアメリカにおいても。
 書かれてしまった書物、表明されてしまった考えというのは現在ではもはやなかったことにすることはできなくなっている。
 熊代氏のこの本を読んでいると、一昔前に流行したポスト・モダン思想にどこか通じるようなテイストを感じる。しかしきわめて微温的で腰のひけたポストモダニズムであるが。
 ポスト・モダン思想は近代の「明るさ」への反抗であったのだと思う。人間なんて暗くてもっとどろどろしたのもなのなのだぞ、と。「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」というのはわれわれの社会にいよいよ顕在化してきているモダンの側面である。
 そこに敏感に反応するひとはたくさんいる。「明るさは滅びの姿であろうか、人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ。」(太宰治「右大臣実朝」)
 熊代氏のいう「資本主義、個人主義、社会契約」のうち、資本主義というのは積極的な主義主張ではなく、市場経済体制という経済の運営の仕方であり制度の問題であり、それ自体には価値判断はふくんでいないように思う。
個人主義というのがリバタリアニズムの方向を指すのかが本書を読む限りではよくわからない。コミュニタリアニズムの誘惑を否定できていないように感じるからである。
社会契約という言葉が本書でどういうことを指すのかも見えなかった。ミルの功利主義を念頭においているようであるが、そこからリバタリアニズムにむかうわけではない。ここ に言及されていないのが孤独という問題であると思った。
 「我々は結局は、皆孤独なのである。そしてこの孤独という我々の基本的状態は、我々がいやだからと言ってどうすることもできるものではない。(リンドバーグ夫人「海からの贈物」)」のであり、個人というのはまことに弱いものである。だから、「偉大な創造的行為やまっとうな人間関係は、すべて力が正面に出てこられない休止期間中に生まれるのである。私はこういう休止期間がなるべく頻繁に訪れてしかも長くつづくのを願いながら、それを「文明」と呼ぶ。(フォースター「私の信条」)」ということになるのだが、しかし、いまは「力が正面にはでてきていない」時代である。そうはいっても、そこには「無言の圧力」があるではないか。それが鬱陶しいと、と熊代氏はいうわけである。
 現在程度の「無言の圧力」で苦しくて仕方がないのであれば、「力が正面にでてくる時代」になったらひとたまりもないのではないかと思う。言論の自由とは何も言っても保護されるという意味ではなく、言論を暴力で封じるような行動は犯罪として処罰されるというだけのことである。それは現在のわれわれには保障されているが、現下の中華人民共和国ではそうではない。つまり今のわれわれが空気の存在と同じように当たりまえと思っていることは長い苦闘の産物としてはじめてわれわれの間で存在してわけで、すこしも自明のものではない。
 わたくしは高校のころ、当時のマッチョな雰囲気が嫌でたまらず、組織の中の人間になることから逃げて、独立事業主の一つとしての医者になることを選んだ人間である。そういうヘタレであるから、他人のことをとうやかくいえる人間ではない。
 医者になる人間のかなりは別に医療に崇高な使命を感じたわけではなく、ひとの顔色をうかがうのが苦手で、他人に頭を下げるのも業腹というようなひとであるように思う。特に医療のメインストリームからは外れている精神科医にはそういうひとが多いのではないだろうか? 熊代氏のようなひとが「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」に不自由を感じるのは当然のことなのだと思う。しかし一方では「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」に何の違和も感じず伸び伸びと生きているひともまたいるはずである。そういうひとに「お前は鈍い。この社会で生きて違和を感じない人間は鈍感なのだ!」などというはまったくの余計なお世話である。
 文章を書くというのは、自分の中にいるもう一人の自分と対話してそれによって自分の態度を決めていくことである。熊代氏がどのようなことを書こうと、それによって世の中が寸分たりとも変わる気遣いはまったくないのだから、熊代氏は安心してもっとラディカルなことを書けばいいのにと思う。
 本書の主張に何か弱いものがあるように感じるのは、時に氏が自分にではなく、他人にむかって語り出す(それも説教したいのを無理に抑えて、客観性の装いのもとで述べる)ためではないかと思う。
 本書を読んでまず感じたのが日本は平和だな、ということである。赤紙一枚で戦場に引っ張られていくようなこともないし、思想を監視しているものがいて、ある日問答無用で引っ張られるというようなこともない。
 西欧が我々に手渡してくれた最大の財産が啓蒙主義とその産物である「個人」であるが、その個人は「鍵のかかる部屋」を必要とする。昼間の明るさのなかでは処理できない暗い部分を「個人」は持つからである。おそらく現在の習近平政権が国民からとりあげようとしているのがそういう「鍵のかかる部屋」である。
 クンデラは「小説の技法」のなかで以下のように述べている。「つい最近まで、近代主義は紋切り型の考えやキッチュに対する非順応的な反抗を意味していました。現在では、近代性はマスコミなどの途方もない活力と混同されて、現代的であるとは時流に遅れないための、もっとも順応的なものたちよりもさらに順応的になるための狂おしい努力を意味します。私たちは、個人が尊重される世界(小説の想像世界とヨーロッパの現実の世界)が脆弱で滅びやすいことを知って」いるが、「個人の尊重、独創的な考えの侵しがたい権利の尊重、ヨーロッパ精神のこの貴重な本質」は小説の知恵の内にこそ一番よく感得されているのだ、と。鍵のかかる部屋の中で自分の暗い部分を育てていかないと、ヨーロッパ啓蒙思想がわれわれに残してくれた最良の遺産である脆弱な「個人」は簡単に消え去ってしまうわけである。
 「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」が不自由なのは何よりもそこに笑いがないからである。そしてこの熊代氏の本の最大の欠点も、そこに笑いの要素が乏しいことにあるのではないか感じた。笑いがないと「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」にいつの間にかとりこまれていってしまうのではないだろうか?

共産主義的人間 (中公文庫 M 97)

共産主義的人間 (中公文庫 M 97)

  • 作者:林 達夫
  • 発売日: 1973/12/10
  • メディア: 文庫
近代医学の史的基盤 上

近代医学の史的基盤 上

運のつき 死からはじめる逆向き人生論

運のつき 死からはじめる逆向き人生論

フォースター評論集 (岩波文庫)

フォースター評論集 (岩波文庫)

小説の技法 (岩波文庫)

小説の技法 (岩波文庫)