胃癌リンパ節の拡大郭清

 昨日、 近藤誠氏のことを書いていて、わたくしの現役のころさかんにいわれていた胃癌リンパ節の拡大郭清のことを思い出した。胃癌に限らず、腫瘍は周囲のリンパ節に転移をおこしていくわけで、もちろん周囲のリンパ節→もう少し遠いリンパ節→さらに遠いリンパ節という順に転移が起きる確率は大きいわけであるが、そうであるなら、可能であればなるべく遠いリンパ節でもそれをとっておけば再発率はへるはずであるという仮定のもとで、胃癌の手術時になるべく広範囲のリンパ節を郭清することが試みられていた時代があった。
 それでネット検索で以下のような記事が見つかった。2008年のもの。

 胃癌リンパ節の拡大郭清 (D3) に有用性は認められない―胃癌治療ガイドライン速報版より
 胃癌治療ガイドラインでは,進行胃癌に対して2群リンパ節郭清を伴う胃切除が日常診療として推奨されているが,3群郭清の意義については不明であった。・・・症例を,D2郭清群とD3郭清群にランダム化し,その遠隔成績を比較した。その結果は期待に反して,D2郭清した群とD3郭清した群の5年生存率は,それぞれ69.2%と70.3%であり差が認められなかった。したがって,根治可能な進行胃癌の予防的郭清として,大動脈周囲リンパ節郭清は行うべきではないと結論づけられた。
 進行胃癌に対して,D2郭清に3群 (大動脈周囲リンパ節) の郭清を加えることにより,リンパ節再発が防止され,術後生存率が改善されることが理論的には期待できる。・・・。そのような期待の中で行われた試験であったが,大動脈周囲リンパ節郭清の有用性は否定された。・・・したがってガイドラインの日常診療でD2郭清を伴う定型手術には変更なく,臨床研究としての拡大手術 (郭清) は削除されるべきであろう。・・・

 なんだか未練たらたらの感じなのだけれど、どう考えても生存率が上昇するはずの手術をしているはずなのに、なぜかそれがランダム化試験でその有効性を示すことが認められなかった。まことに悔しく残念無念であるが、3群郭清手術は今後はやめるしかないだろう―という感じである。

 ようするに拡大郭清に命をかけていた外科の先生方がたくさんいらして、そういう先生方の一部が胃癌手術の分野の権威となっていたわけである。そういう先生方にとっては上記の結論はほとんど自分の半生の否定のようなものである。上記論文の「期待に反して」にその残念無念の気持ちがよく表れているように思う。

 医学生になったころの授業で整形外科の先生がこんなことを言っていた。「俺はずっと小児麻痺の整形外科的治療を研究してきた。しかし小児麻痺という病気が無くなってしまった・・・。」
 
 今、肝臓病でも似たようなことが起きている。主たる肝臓疾患である、B型・Ⅽ型肝炎が投薬で簡単に治癒あるいは沈静化できるようになったからである。

 若いころ、胃がん拡大手術の権威の講演をきいたことがある。
 海外に拡大手術の指導にいったときの話。「ダメなんだ。みんな死んじゃう。やつらテンで不器用なんだ。しかも手がバカでかくて狭いところに入らない。あれじゃダメだ。やはりこれは日本人じゃなきゃできない。
 だいたい彼ら、内視鏡検査だってろくにできない。そんなやつらが大邸宅に住んでド派手な生活をしている。おれなんか都内の狭いマンションに住んでいるのに・・・。」

 たしかに日本人がとても器用なのは間違いないらしい。また上記のような拡大郭清への挑戦が可能になったのも麻酔技術の長足の進歩によるところも大きい。手術時間への制約がなくなれば、手術で可能なことも広がってくる。

 そういうことを背景に拡大郭清につきすすんだのであろうが、医学というのは結果がすべてで、いくら偉いさんがいうことでも、二重盲検で否定されればそれでおしまいである。

 ようやく医学も科学になろうとしているのだと思う。
偉い さんが、「俺が黒だといったら、白いものでも黒だ!」というのが段々と通じなくなってきている。

近藤誠さん

 近藤誠さんがなくなったらしい。
 近藤さんほど医者仲間から嫌われていた医師はあまりいないのではないかと思う。何だか変なことをいっている医者というのはいくらでもいるがが、近藤氏は過去にきわめてすぐれた業績のあるかたであり、おそらく日本の乳がん治療を孤軍奮闘で変えたひとである。
 これは乳がんが局所の病気であるか全身の病気であるかという病気に対する認識の違いから生じる問題である。

 以下は、日本乳がん学会の乳がんの手術法への説明の一部である。
 「乳がんは,初期の段階では乳房内にとどまり,次第に乳房周囲のリンパ節に転移を起こし,さらにリンパの流れや血液の流れに乗って全身に広がっていくとの考えから,かつては乳房やリンパ節にとどまっているがんを取り切る目的で,広範囲の切除が行われていました。ハルステッドの手術(乳房切除+大胸筋,小胸筋,腋窩(えきか)から鎖骨下リンパ節の切除),といった方法がその代表です。しかし,近年では乳がんは,比較的初期の段階から,がん細胞の一部は全身に広がるという考え方が主流になり,乳がんが治るかどうかは,どれだけ広くがんを切除するかということよりも,手術をした時点で,目にみえないがん細胞が全身に残っているかどうかと,薬物療法でそれらを死滅させることができるかによって決まる,ということが知られるようになってきました。そのため,現在は必要以上に大きな手術を行うことはなくなりました。」

 このハルステッド手術から縮小手術への転換にほとんど孤軍奮闘したのが近藤氏であったのだと思う。

 ここには日本の医療にひそむいくつかの問題が集中的にあらわれてきているように思う。
1) 癌の治療は外科の分野で放射線科の医者や内科の化学療法医など俺たちの治療が行き詰まったときの尻ぬぐいをすればいいのだ。放射線科の医者や化学療法専門家が最初から治療法に介入するなど言語道断! 専門分野間の交流の不足。(因みに近藤氏は法放射線科医 若いときから「乳がんは全身病で、局所切除の後、早期から化学療法・放射線治療を併用すべき」と主張していた。)
2) 下の者は上の者に従え! 上のものは長い間の刻苦勉励にいまの境地に達したのだ! ろくにまだ勉強もしていない若造が上のものを批判するなど言語道断!

当時、わたくしが乳がんの患者さんを大塚の癌研に送ったら大胸筋をふくむハルステッド手術をうけて帰ってきた。おそらく当時の先生方は「女ってなんて馬鹿なんだ! 容姿と命がどっちが大事なのだ!」と思っていたのだろうと思う。

 しかし、いつの間にか近藤氏は「患者よ! 癌と闘うな!」というひとになっていた。
 わたくしが外勤である病院で外来をしていた時、乳がん末期の患者がみえた。「花がひらいた」状態であった。これは医者同士の隠語であるが、これがどれほど悲惨な状態であるか医療関係者であれば誰でも知っている。「どこか病院にかかられていますか?」ときくと「近藤先生のクリニックに通っています」という。患者さんもこのままでいいのかなと迷っている様子であったので、一応、近藤氏への返信と他のクリニックに紹介状を書いたけれどその後はしらない。
 もちろん癌とたたかわなかったほうがよかったひとはたくさんいる。闘ったけれども、副作用でとことん苦しんだひともまた多くいるはずである。しかし、どのような治療をするのかを選ぶかは患者さんの権利である。
 だが、患者さんは素人であり、医者はプロである。結局は医師の提示する治療法を選ぶことが圧倒的に多くなるはずである。その中で一つの選択肢として近藤氏の論が提示されることにはまったく問題ないと思う。しかし近藤氏が医師として患者さんに自説をおしつけることはやはり大きな問題が残ると思う。
 近藤氏は「ガンと闘うな」という自説の根拠となる資料を残さなかったと思う。氏はそれを提示していると主張しているようであるが、わたくしは寡聞にしてそれをしらない。
 氏は慶応大学医学部放射線科の万年講師として大学生活を終えている。おそらく大学ではつまみもの扱いというかほぼ存在自体を無視されるような状態だったのではないかと思う。
それなりの地位を得れば、学内でも業績を残せたひとではなかったか思うが、おそらく乳腺外科の先生方などには蛇蝎のごとく嫌われていただろうから、そうもいかなかったのだろうと思う。

池上彰 佐藤優 「激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972」 「漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972―2022」 講談社現代新書(2022) (4)

 「激動」p112で池上氏はいう。「大学自治会という場はみんなの大衆組織ですから、ここで多数決をとり賛成多数が得られれば学生ストライキを打つことも可能です。しかし同じストでもバリケードでキャンパスを封鎖し、建物を封鎖し、建物を占拠するような戦闘的なストを行おうと、多数派のノンポリ学生がついて来られないので否決されてしまいます。」

 もう50年前の出来事だから、細部の記憶は曖昧なのだが、わたくしが駒場から本郷へ進学する2年前くらいから、本郷では毎年学期末から2~3ヶ月、「インターン制度廃止」を掲げるストをやっていた。だから本郷に進学した時に上級生がやってきて「お前ら、スト破りするなよ!」といわれ、何の考えもなく、ストに賛成した。どうせ数ヶ月のことと思ったのである。
だからp122で池上氏がいう、「1968年1月に東大の医学部学生大会で登録医制度導入阻止や付属病院の研修内容を掲げて、無期限ストライキ突入を決議し、医学部は紛争状態に入りました」という記述は多分にミスリーディングで、登録医制度導入阻止や付属病院の研修内容改善を掲げての無期限ストライキというのは前年も前々年も行われていたのである。わたくしの裏読みでは、これは期末試験をレポート提出に変えさせることが目的で、だからこそ「一般学生」もついてきていたのだと思う。しかし、68年のストは終われなくなってしまった。それは、登録医制度導入阻止や付属病院の研修内容改善をかかげて病院の中でデモをしたという理由で17人を処分したところ、その中に一人、その時佐世保にいてそのデモに参加できるはずのない人がふくまれていたという事件のためである(T君誤認事件)。当然、処分撤回の要求がでるわけだが、その時の教授会の対応のまずさが大きな問題で、学生ごときに頭を下げられるかといって処分撤回を長く拒んだ。そうなったらストライキ側もスト解除には動けないわけである。この辺りについての経過については当時医学部教授であった山本俊一氏の「東京大学医学部紛争私観」(本の泉社 2003年)にくわしいので、以下、適宜、それを参照していく。

 この誤認問題への大学側のまことに拙劣な対応をみて、これは長期化するなと思い、わたくしは「アテネ・フランセ」に通いだした。さらに文学部も無期限ストに参加をするのをみて、これは強権による弾圧で排除される以外にもう解決はないだろうと思うようになった。「アテネ」は紛争が苛烈化した12月でやめてしまったが、もっと続けたらよかったとあとになって反省した。東大よりもアテネのほうがよっぽど増しな授業がおこなわれていたからである。アテネのフランス人の先生がたは、フランス文化とフランス語に強い自負を持ち、それをわれわれに伝達することに情熱を持っているのが強く感じられた。一方、大学の授業では終ぞ、そのようなパッションを感じる先生を見ることはなかった。(但し、わたくしはあまり授業にはでなかったので、わたくしが見た限りではであるが。)

 なお割合最近、先輩のある先生から、処分されたT君ではなく本当にその場にいたのが誰だったかを教えられた。わたくしが大変近しくした先生であったのでびっくりした。その先生はすでに亡くなられているが、一生、そのことを背負って生きられたのだと思う。この紛争(闘争)は実に様々なひとの人生に大きな影響を与えたはずである。

 さて、ストは長期化していったのだが、当初は定期的にクラス会がもたれていた。そこにはもちろん全共闘系のひと(わたしのクラスは社青同解放派が牛耳っていたと思う。非常に優秀なアジテーターがいて「昨日佐世保から帰りました」とかいって血に染まったシャツ姿で演説していた。核マルその他の色々な色のヘルメットもあった。そして自身は活動家ではないがシンパという人もすくなからずいた。一方、民青系の人は活動家が5人くらい、シンパはほぼゼロという感じだった。いわゆるノンポリのひとはほとんどクラス会には出てこないで家でせっせと勉強をしていたらしいが、ノンポリでもクラス会ほぼ皆勤というわたくしのような酔狂な人も何人かはいた。
 このクラス会で面白いと思ったのは、全共闘系の人たちもクラス会では多数決にこだわったということである。「何々棟占拠を」というような提案をするわけであるが、もしそれが多数に支持されれば、自分達の行動がより正当化されるというということだったのだろうか?

 とにかく、このストライキの時ほど本を読んだことは後にも先にもない。暇だったし、神保町も近いし・・。
 とは言っても、駒場の2年位から本を読みだしてはいた。その中で、吉本隆明の「自立の思想的拠点」に「こちらの陣営には碌なやつがいないが、向こうの陣営には何人かはいる」として江藤淳福田恆存の名前が挙げられていた。江藤は高校生時代から浪人中に「小林秀雄」など少しは読んではいたが、福田は「紀元節復活運動」などというアホなことをしている貧相なおじさんとだけ思っていたので、何で?と読んでみた。そして打ちのめされた。「人間・この劇的なるもの」「芸術とは何か」・・。そして福田が所属していた「鉢の木会」のメンバーの中村光夫大岡昇平三島由紀夫吉田健一などを読んでいくことになり、最終的に吉田の信者になって、今日に至っている。福田「カトリック」から吉田「反カトリック」へ?
 事後的にみれば、医学部の「インターン制度」問題からスタートしたわけであるが、この「インターン制度」反対が他学部にも支持が広がったわけではない。インターン制度云々は医学部以外の人間にはほとんど関心を引かなかった問題だろうと思う。これが全学に広がったのは、大学側の対応の稚拙さ、横柄さ、杜撰さ、若いやつらが何を騒いでいるのだ、下りおろう!というような態度が強い反発を呼んだということなのだと思う。

 わたくしの学生時代はまだ授業は黒板・白墨の時代で、偉い先生が授業していると、下の先生が黒板拭きに控えていて、さらに下の先生は恥ずかし気もなく「自分も早く黒板を拭かせてもらえるようになりたい」などといっている時代であった。T君誤認事件も、現場に不在だったT君の処分撤回の要求が当然がでて、大学側も再検討委員会を作った。そして、「さまざまな状況からT君が現場にいなかったことは否定できないが、完全にそこにいなかったとまで言える証拠は得られなかった」といような訳のわからないことをいって処分の撤回をしなかった。もし撤回すれば、おn処分の責任者の先生が学生達の前で頭を下げ謝罪しなければならない。〇〇先生にそんなことをさせるのはとても忍びない、というようなことだったのではないか、と邪推している。 
 ようするに完全に制度疲労を起こしていた日本の大学の体制へのアンチというのがあの運動の本質だったのではないかと思う。なにしろ、日本の医学教育というのは明治時代にプロシャから導入された医局講座制というのが昭和の40年代まで生き残っていたわけである。ひょっとするとまだ生き残っているのかもしれない。

 p113で佐藤氏は「全共闘の特徴は、近代的な代議制「ではない」というところにこそあります。」というのだが、中にいた人間としてはすくなくとも当初は、完全にそうはいえないように感じる。

 p116で池上氏は、新左翼の運動が凄惨さを帯びるようになったのは1967年の「第一次羽田事件」で京大1年の山崎博昭氏が亡くなった事件からだろう、と言っている。

 p122で、東大での上記のような大学側の対応に起こった学生たちが、6月15日に安田講堂を占拠した、とある。おそらくクラス会で全闘協側が「〇〇占拠」を提案したりしていたのはこの前あたりだと思うが、占拠する場所は安田講堂ではなかったような気がする。占拠に対して大学側が機動隊の出動を要請し、占拠者全員を排除してしまった。これが節目になった。というのは、当時は「大学の自治」という考えが大学人の多くに信奉されており、学問の自由のため、大学内での出来事は大学内で解決する、外部権力の介入は断固許さないという見方が、いわゆるノンポリもふくめ非常に広範な大学人に共有されていた、ということがある。これで運動が一気に共鳴者を増やした。
 ここから先は医学部の問題などどこかにいってしまい、ひたすら反体制の運動として先鋭化し、最終的には「安田講堂事件」に繋がっていくことになるのだが、それはまた、稿をあらためて。
 要するに1968年の出来事は、社会主義とか共産主義とか、総じて貧しい人々をなんとかしたいという社会運動から極めて文学的な方向になっていった思うのでそれを「左翼史」という枠でくくるのは無理ではないかと思うのである。

中井久夫さん (続)(補遺)

 前稿で「希望を処方する。」という中井氏の「医療と家族とあなたとの三者の呼吸が合うかどうかによってこれからどうなるかは大いに変わる」という言葉を紹介した。

 二十年位前、妹が「悪性リンパ腫」になった。
 ある金曜日、外来をしていたら、妹から電話がかかってきて「この数日熱が下がらない」という。「ふーん、白血病かもしれないから、すぐにおいで。」と冗談(その時はそのつもり)を言って病院にきてもらった。
 当然、血液検査をするが、すぐに検査室から「白血球が3万以上です。ブラストも多数です。」という報告が来た(ブラストとは通常の血液検査では検出されない幼弱な白血球)。「ありゃ、本当に白血病」と思い、すぐに入院させ、血液疾患の専門の先生に受け持ってもらった。(わたしが勤めていたような病床数200弱の病院ではまず血液疾患の専門医が常勤でいることはない。しかしたまたま、その数年前、どういうわけかその先生が当院にきてくれた。研究から実地臨床に出たいと思って、たまたまわたくしと親しかったので、当院にきてくれたらしい(幸運1)。優秀な先生というのは凄いもので、研修医が受け持っていたわたくしからみるとどうということのないようにみえる症例から次々に問題点をみつけ学会に報告していた。

 さて、その妹の娘がその当時、慶応大学病院で看護師をしていた。大学進学時、ナースになろうか?一般大学に進もうかの相談をうけた時、一般大学にいってOLになるなどというのはなんの意味もないから断固看護師になることを薦めた(しかし、結婚して、子供ができると、あっという間に家に引っ込んでしまった)。
 翌土曜日外来をしていると、妹の夫君が、外来のそとでちらちらしている。あれ、と思って出てきいてみると、「実は、慶応でナースをしている娘が婦長さんに相談したら、すぐに当院に転院したらどう? わたしが血液内科の教授に相談してあげる」ということになり、教授に相談したら、12時くらいまでは病院にいるから、電話をもらいたい」ということなのですが、先生も外来中なので・・」という。昨日入院したばかりなのにすぐに転院というのは失礼ではないかとかいかとかいろいろいろと迷っていたらしい。となりのブースで外来をしていた担当のS先生に事情を伝えたらすぐに電話をしてくれた、すでに学会などで顔をあわせていた関係もあり、話がトントンと進み、翌週の月曜日に慶応病院に転院することが決まった。(幸運2) またそこで受けもちになっていただいた女医さんも素晴らしい先生であった。(幸運3) なにしろ娘は慶応病院勤務であるから、頻繁に顔をだせるし、わたくしも荻窪お茶の水通勤であるので、可能であれば帰宅途中に顔をだすようにしていた(幸運4?)。
 6ヶ月の治療後、退院するとき担当の女医さんが「まったく非科学的かもしれないですが、ナースの研究で、ご家族のかたが頻繁に病院に顔をだされる患者さんのほうが、そうでない患者さんより有意に緩解する率が高いというデータがでました、と言っていた。コロナ下で現在、病院は原則家族の面会禁止である。このことが患者さんの転機に影響しているということがあるだろうか?

 まだまだ臨床の分野にはわからないことが沢山残されているのだと思う。

中井久夫さん (続)

 中井久夫さんが亡くなられて、追悼の記事をみると、氏の業績として神戸の震災時の罹災した方々への精神的ケアを挙げているものが多い。たしかにPTSD(Post Traumatic Stress Disorder)という言葉はそのころから一般化したように思う。というかそれとは異なる状況にも過剰に使われるようになった。もともとはベトナム帰還兵に対して使われた診断名だと思うのだが。

 神戸の震災をあつかった「災害がほんとうに襲った時」「復興の道なかばで」(共にみすず書房 2011)で覚えているのは、震災への対応でなにがしかをなしえた人は自ら動いたひとである。指示待ち人間はついに何事もなしえなかった、いった指摘。
 また、救助者のケアの必要性。一日だけなら水だけで持つ。三日まではカップラーメンでも何とかなる。しかし、その後はおいしいものを食べさせないと続かないそうである。
 本物の戦争での戦闘でも40日が限界だそうである。とにかくロジスティックスが重要である、と。今のウクライナでも大変な数の戦争による精神障害がでているはずである。

 震災のような時の見舞いには花がいいそうである。通常、病院の見舞いには花は禁忌である。しかし、震災のような場合にはそうではないそうである。但し、震災の現場では、花の入手は困難である。もし花が入手できる少し離れた場所からの見舞いであれば、大変ではあるが、たくさんの花を抱えていくと、大いに喜ばれると。

 中井氏は医療者を対象とした本も残している。
 「看護のための精神医学」(医学書院 2001年)は看護師さんを対象にかかれた名著である。
 「看護という職業は、医師よりもはるかに古く、はるかにしっかりした基盤の上に立っている。医師が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで、看護だけはできるのだ。
 病気の診断がつく患者も、思うほど多くはない。診断がつかないとき、医師は困る。あせる。あせらないほうがいいと思うが、やはり、あせる。しかし看護は、診断をこえたものである。「病める人であること」「生きるうえで心身の不自由な人」――看護にとってそれでほとんど十分なのである。実際、医師の治療行為はよく遅れるが、看護は病院に患者が足を踏み入れた、そのときからもう始まっている。」
 本当にそうだと思うのだが、どうもこういう見方は看護師さんにはあまり歓迎されないようである。自己の専門性の否定のように、また看護というのが誰でもできること、お母さんが子供にむかって、どこかを触って、「ちちんぷいぷい、痛いの痛いのとんでけ!」といっているのとあまり変わらないように思われるらしい。
 それで「看護診断」といったわたくしから見れば不毛なほうに走る。「褥瘡」を「皮膚統合性の低下」と言い換えたとして、何か意味があるのだろうか?
 梶田昭氏は「医学の歴史」(講談社学術文庫 2003)でオスラーの「技術として、職業としての看護は近代のものだ。しかし、行いとしての看護は、穴居家族の母親が、小川の水で病気の子供の頭を冷やしたり、あるいは戦争で置き去りにされた負傷者のわきに一握りの食べ物を置いた、はるか遠い過去に起源がある。」という言葉を紹介している。

 中井氏の医師・看護師双方を対象とした本としては、「こんなとき私はどうしてきたか」(医学書院 2007)がある。どちらかというと看護師を主たる対象としたシリーズの中の一冊本であるが、この本は2005~2006年にかけて兵庫県の有馬病院でおこなわれた「医師・看護師合同研修会」の記録であるから、医師・看護師を対象にしている。
 どうも看護論というのは頭でっかちになる傾向があると思うが、これはまさに実践の本である。なにしろ第2章は「治療的「暴力」抑制論」で患者さんが暴れたときの「腕を押さえる方法」などが超具体的に写真入りで書かれている。
 これを読んでわたくしが心底驚いたのは、「暴力」抑制などを医師として学ぶ必要があると感じたことは一度もなかったからである。唯一の経験は、ある高齢の男性に入院を勧めていた時に、突然殴られそうになったことである。なにしろ、こちらはまだ若かったし、相手は高齢であったのでなんということはなかったが、先輩にきいたら、「男が高齢になり、インポテンツになると、奥さんが浮気をしているという妄想を持つのが時々出てくるんだね。だから自分が入院なんかしていたら、奥さんはやりたい放題になると思って、「お前も女房の浮気に加担している!」と怒るのがいる」と教えられた。何事も勉強である。

 この本の第一章は「こんなときわたしはどう言うか」。症例は精神科診療の場合であるが。
 まず入院した時。患者さんがもっとも知りたいのは、「これから私はどうなるのですか?」 これへの中井氏の答えは「あなたは一生に何度かしかない、とても重要なときにいると判断する。」
 そして希望を処方する。「医療と家族とあなたとの三者の呼吸が合うかどうかによってこれからどうなるかは大いに変わる」
 「診断とは、治療のための仮説です。最後まで仮説です。「宣言」ではない。」
 「私は「証拠にもとづいた医学」とともに、「ダメでもともと医学」というのがあってもいいと思う。」
 「いちばん大事なのは、患者さんの士気を維持すること。」
・・・。
 まだまだあるが、ここまでとする。
 名医などという言葉はあまり使わないほうがいい言葉かもしれないが、「すぐれた医師」あるいは「すぐれた臨床家」を失ったのだと思う。
 

中井久夫さん

 中井久夫さんが亡くなられたらしい。
 中井さんの本は随分ともっている。50冊くらいはありそうである。
 最初に氏の名前を知ったのは、1990年に刊行された「吉田健一頌」(書肆 風の薔薇)に収載されていた丹生谷貴志氏の「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」という奇妙なタイトルの論によってではなかったかと思う。
 そこで丹生谷氏は吉田健一の文学を中井久夫のいう分裂病における「偽りの静穏期」のようなものだったのではないかとしている。「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」というのは、中井久夫氏の論文のタイトルで、精神分裂病患者の発症直前に短時間現れることがある静穏期について論じたものらしい。その「静穏期」は短時間であり多くはそのまま発症に至るのだが、この「静穏期」に踏みとどまった人として、中井氏はヴァレリー、ヴィットゲンシュタイン、リルケマラルメ、ユンク、マックス・ウェーバーカントールなどの名前をあげているらしい(この論文自体は、わたくしは読んでいない)。
 丹生谷氏は、吉田氏の晩年の著作もこの「静穏期」にとどまろうという試みに近いものとしてとらえている。ここでの丹生谷氏の論は、それまであった篠田一士氏やあるいは丸谷才一氏や池澤夏樹氏の西欧文学の正統につらなる文学者、文学青年的でない健全な市民の文学といった見方への疑義の提示になっていると思う。

 ここは吉田氏を論じる場ではないが、あえて述べたのは、中井氏の「西欧精神医学背景史」なども、「狂」への傾きというのを自身に感じていたひとだから書けたもので、だからこそ氏は、精神の安定のため、ヴァレリーの「若きパルク」や「カヴァフィス詩集」「いろいろずきん」の翻訳などをしたのであろう、とわたくしが感じるからである。
 「分裂病と人類」(東京大学出版会 1988) 「西欧精神医学背景史」(みすず書房 1999) 「治療文化論」(岩波書店 1990)などいずれもとんでもない本である。
 「西欧精神医学背景史」の「あとがき」で氏はそれを書いている間、「私はほとんど物狂いの状態にあったに違いない。」と書いている。そうなのであろう。この本は精神科医療に関心がある人以外にも、「西洋」というものにいささかでも感心のあるひとには必読のものと思う。
 たとえばゲーテファウストがなぜ読み継がれているのか? 魔女狩りの問題。森の文化の問題。日本の森の文化を根こぎにしたのは浄土真宗であるという指摘。また、尊王攘夷の倒幕運動から自由民権運動、さらに大陸浪人から、マルクス主義者という系譜。

 わたくしは「分裂病と人類」で鴎外の「沙羅の木」を知った。

 褐色(かちいろ)の根府川石に
 白き花はたと落ちたり
 ありしとも青葉がくれに
 みえざりし さらの木の花

 中井氏の本からさまざまなことを教えられてきた。

 確か斎藤環氏が、中井氏が日本の精神医学界にもたらした最大の功績は、日本の精神医学界がセクト化するのを防いだことだというようなことをいっていた。中井氏には患者さんの脈をとっていると患者さんの脈の数に氏の脈が同期するといった「神話」もあるようだが、あまり神格化するのも氏のためにならないと思う。

 なお、「看護のための精神医学」や神戸の震災の体験記なども大変示唆に富むものである。

 これからしばらく、また氏の本を読み返すことになると思う。

河野博臣 「幸福な最期 ホスピス医のカルテから」(講談社 2000年)

 もう20年以上前の本であるが、最近、山崎章郎氏の「ステージ4の緩和ケア医が実践する がんを悪化させない試み」を読んで本書を思い出した。山崎氏は緩和ケア医であり、河野氏ホスピス医である。そして両書ともに著者が癌に罹患した体験記でもある。

 ホスピスも緩和ケアも医療の中の重要な部分ではあるが、あくまでも医療行為の一部であって、特別なものではないはずであるが、しかし、どうもホスピスや緩和ケアに携わっている方は何か自分達のしていることが他の医療行為よりも上をいく特別なものと思っているのではないかと思えることがあって、いささかそれが鼻につくことがある。普通の臨床医は患者の「体」をみているだけだが、自分達は患者の「心」までみているのだとでもいうような。
 しかも困ったことに?河野氏はクリスチャンでもあるのである。氏は、あるキリスト教関係の雑誌にのったひとりの慢性関節リウマチ患者の「この病気は神が私のために与えられたものだ」という手記を紹介している。氏は「その手記が私をとらえてはなさなかった」という。しかしわたくしはそういうのがとにかく苦手で嫌いで、虫唾が走るというは大袈裟かもしれないが、そういうのは、敬して遠ざけたい人間である。わたくしの友人のリウマチ専門医は「リウマチは夫原病で、旦那が死ねばすぐに治る」といっている。そういう見方もあるわけである。
 とにかく病気というのは自然現象・生物学的現象で何ら特別な出来事ではないはずなのに、それに変な意味づけをするのがいやである。

 病気あるいは死というものにどう向き合うかについては、千差万別であって、従容として死の床についても、いやだいやだと泣き叫びながら死んでも、そこに全く差はない。
 例えば、ディラン・トマスの有名な詩「あの快い夜へおとなしく入ってはいけない」

Do not go gentle into that good night ,
Old age should burn and rave at close of day;
Rage, rage against the dying of the light.


And you, my father, there on the sad height,
Curse ,bless , me now with your fierce tears, I pray.
Do not go gentle into that good night ,
Rage, rage against the dying of the light.

あの快い夜へおとなしく入ってはいけない 
日の暮れ際にも 年寄りは荒れ 燃えあがらなくてはいけない
沈む日に逆らって 父よ どうか荒れ狂ってくれ
・・・
・・・
父よ 今こそ 悲しみの高みから
あなたの烈しい涙で ぼくを呪い、祝福してくれ
あの快い夜におとなしく入ってはいけない
沈む日に逆らって どうか荒れ狂ってくれ (宮崎試訳)
 (DYLAN THOMAS COLLECTED POEMS 1934 – 1952 J.M.DENT & SONS LTD)
 
 このおそらくトマスの一番有名な詩は、とにかく偏屈であらゆることに文句ばかりいっていた父が、晩年、変に物分かりがよくなってしまったことへの抗議として書かれたらしい。  

 もう一つトマスの有名な詩に「ロンドンで一人の子供が火災で死んだのを悼むことに対する拒絶」がある。これはどうしても吉田健一訳で。(「葡萄酒の色」 岩波文庫 2013)。

 人間を作り、/ 鳥と獣と花を生じて/ 凡てをやがては挫く暗闇が/ 最後の光が差したことを沈黙のうちに告げて、/ 砕ける波に仕立てられた海から/ あの静かな時が近づき、//私がもう一度、水滴の円い丘と/ 麦の穂の会堂に/ 入らなければならなくなるまでは、/ 私は音の影さへも抑えて、喪服の小さな切れ端にも/ 塩辛い種を蒔かうとは思はない。

 ここまでが詩の前半である。河野氏の本には「塩辛い種」がふんだんに蒔かれすぎていると思う。ようするに感傷である。

 さて詩の後半。

 一人の女の子が焼け死にした荘厳を私は悼まない。/ 私はその死に見られる人間を/ 何か真実を語ることで殺したり、/ これからも無垢と若さを歌つて、/ 息をする毎に設けられた祈祷所を/ 冒瀆したりしないでいる。

 ロンドンの娘が最初に死んだ人達とともに深い場所に今はゐて、/ それは長く知ってゐた友達に包まれ、/ その肌は年齢を超え、母親の青い静脈を受け継ぎ、それを悲しまずに流れ去るテエムス河の/ 岸に隠れてゐる。/ 最初に死んだものの後に、又といふことはない。

 After the first death, there is no other.


凡ての死は、常に初めてのものなのである。だから、ディランの詩によれば河野氏のしていることは、一種の死者への冒瀆なのである。

 さて、p164。「ガンとわかって、神の意志を知りたいと何度も思うが、できない。どうしてだろうか?」
 なんでいきなり「神の意志」などという言葉がでてくるのだろう。単なる老化にともなう一番ありふれた病気がみつかっただけだというのに。

 「妻に話す。手術はするが抗ガン剤は使用しない。放射線療法もお断りする。代替療法心理療法はやりたい。」 山崎氏でもそうだったが、どうも緩和治療に従事している医師は抗がん剤を嫌うようである。p191に「私にとって化学療法剤は必ずしもよいイメージがなかった。末期ガン患者を多く診たためか、抗ガン剤の大量投与で患者は心身ともに疲労して、「もうやめてください」と息もたえだえに訴えられる場合もあった」とある。
 20年以上前の話であるから、当時の抗がん剤は今より効果が少なく副作用が強かったということはあるだろうと思う。その当時まだ臨床の場にいたわたくしは、抗がん剤使用は「手術不能でも、あなたを見捨ててはいませんよ」という医療側の思いを伝えることが主な目的であると思っていた。

しかしそういうわたくしでも、30年以上前、一例、抗ガン剤で癌を完治させた経験がある。子宮癌のかたである。なんで内科医のわたくしが子宮癌をといえば、その患者さんが体調不良で内科に入院し、わたくしが受け持ち、子宮癌の診断がついて婦人科に転科したのだが、その患者さんが、婦人科の担当医と折り合いが悪くなり、「宮崎先生の受け持ちで治療をしてほしい」といいだしたためである。えっと思ったが、治療メニュウなど産婦人科の先生にすべて指示をいただき、わたくしはただの一兵卒として患者さんを前線で受け持つことになった。
当時の抗がん剤は確かに副作用が強く、特にその時に用いたシスプラチンは、治療中患者さんは吐き続けるというとんでもない薬だった。そういう薬を使用するには確かに患者さんとの信頼関係が築けていないと無理かもしれないわけで、最初内科に入院した時にたまたまわたくしとその患者さんとの間に何かそのような関係ができていたので、何とか治療を継続出来たのだと思う。その後、10年ほどお付き合いしたが、再発はなかった。転居のため後輩の医師に紹介したのだが、その後輩に同窓会であった時、「何だかあの患者さん、先生のこと神様みたいに言っていた」と笑っていた。
 長く医者をやっていると何人かはそういう患者さんがでてくるもので、診察室にはいってくるなり「、先生!、○○が痛いし、××も気になる。・・」と延々と症状を述べ、「でも大丈夫ですよね?」といって、「先生の顔をみたら安心しました。」といって帰っていくようなひとである。
 これも大分前に入院ドックで担当した患者さんが、「なかなか血圧が下がらない」とこぼしていた。それでその頃でたばかりのカルシウム拮抗剤を処方してみたら、すぐに良好なコントロールとなった。どうも、それまでの先生はかなりのご高齢で、相当古めかしい薬の処方を続けていたようだった。以来30年近く、その患者さんとお付き合いすることになった。

 わたくしよりずっと若い産婦人科の女医先生もなにかオーラがあるのか、たとえば筋腫であちこちの病院を転々として手術しなくていいといってくれる先生をさがしていた患者さんが、その先生に「やっぱり、あなた手術だよ。」といわれると、「はい、ありがとうございます。手術にします。」というようなケースがよくあったらしい。部長先生が笑って、「売店に〇〇こけしとか、〇〇人形とか置いたら売れるよ」といっていた。(〇〇はその女医さんの名前)
 まあ、こういうことがあるから、医療は科学にならないのだけれど。

 さて河野氏の本に戻って、「妻に「私たちはガンを隠すようなことはしないよね」といった途端に涙が出て、・・階段に腰をおろして泣いた。」 なんで泣くのだろう。わからない。

 p166。教会の仲間に「私の胃に悪魔が巣くってしまいました。ガンです。・・私全体がガンになったわけではなく、胃がガンになったのです。私全体が悪魔になったわけではないので、今までどおりにつきあってほしいのです。」 失礼ながら、このかた、本当に医師なのだろうか? ガンは悪魔なのだろうか? 医療の場から一番排除しなくてはいけないのは「感傷」だと思う。それがあると冷静な判断が出来なくなる。

 そして検査で待たされることに文句をいっている。また、病院という組織に文句をいい、「こんなところでは死ねないと思う」という。緩和ケア医であるからこその見解なのであろうか?

 p191。「とにかく化学療法剤は好きになれなかった。・・どうもイメージが私をきらいにさせてしまった。」 理屈ではないのである。
 ひょっとすると、患者さんには化学療法を薦めるが自分はしないという医師は案外多いのかも知れない。臨床の場での患者さんへの対応では余命という数字を第一に考えるが、自分の場合はQOL(生活の質)を第一にする、とでもいったようなことも。「量」と「質」との対決?。
 しかし、それは本来、対立すべきものではなく、双方が大事で、しかし最終的には個々の臨床の場での状況に応じての判断しかないのだと思う。膨大な臨床統計から、目の前の患者さんの場合、化学療法をしたほうがいい可能性が40%、しないほうがいい場合が60%とでた場合、では即「しない」ということになるかといえば決してそうではない。というのは、臨床統計には残念ながら「患者さんの顔つき」といった項目はないからである。しかし医師の臨床判断にはそれが少なからず影響していると思う。もっと言えば、「この患者さんはこういう人」という、いわく言い難い何かである。「こういう」って何かといわれてもうまく答えられないのだが、やはり臨床の場にはそういうものがあると思う。

 この本を書いた2000年10月の時点で、河野氏は、原発巣はとったが再発は?という状態であったようであるが、2003年に亡くなっている。やはり、再発だったのだろうか? 「手術はするが抗ガン剤は使用しない。放射線療法もお断りする。代替療法心理療法はやりたい。」という方針がよかったのか? それは誰にもわからない。なぜなら河野氏という人間は世界に一人しかいなくて、一人の人間に二つの治療をして比較することなどはできないからである。