中国

 最近、中国の政治経済がいろいろな面で行き詰まって来ているとする報道が多い。政治経済の方面についてはまったく知識を欠くわたくしとしては、その報道が意味するところの正否を判断することは出来ないが、わたくしが抱く疑問は、例えば中国共産党の様々な動向はカール・マルクスが思い描いていた「共産主義」となんらか関係があるのだろうか?といったことである。何で「人民共和国」が≒独裁国家となるのだろうか?
 日本共産党のひとは今の中国の体制は本来の共産主義とは違っているというかも知れないが、それでも資本主義体制である現在の日本よりはましであるとしているのだろうか? あるいは現在の北朝鮮の体制をどう評価しているのだろうか?(今では北朝鮮という表記は普通に使われているが、ある時期までは、朝鮮民主主義人民共和国といわないと厳しく叱られたものである。)そもそも日本共産党が党内でおこなっていることは、中国共産党が国家運営についておこなっていることのミニチュア版なのではないだろうか?
 わたくしが若い頃(1960年から1970年頃)にはベトナム戦争があり、ベトナムの腐敗した政権をアメリカが支え、それに抵抗する義の側の農民達がホーチミンサンダルを履いて果敢に闘っているというようなことが言われていた。
 フルシチョフによるスターリン批判が1956年でありハンガリー動乱も同じ年なので、その当時のソ連が天国であると思う人はあまりいなかったのかもしれないが、それでも腐敗した資本主義よりはましと思っているひとは相当な数いたのではないかと思う。
 わたくしは文学青年の成れの果てで人間というのは暗い内面を持つものであると思っていたので、(太宰治の『右大臣実朝』の「明るさは滅びの姿であろうか。人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ」を、こういうことを考える時いつも思い出す人間である。)それで人間の抱える問題で、政治で解決できるのはごく一部と思ってきた。
 それでも1998年からのソ連の崩壊時には、あれだけの軍事大国があっけなく崩れていくのをみて心底驚いた。ソ連の崩壊を予言したE・トッドは乳幼児死亡率の増加を見てその崩壊を確信したらしい。同じトッドはロシアや中国における国家体制が現在のようであるのは、その地域における相続の形態と深く関係あるとしていたように思う。
 現在の中国あるいは北朝鮮における乳幼児死亡率はどうなっているのだろう? しかしそもそもそれらの国では統計そのものを発表しなかったり、あるいは改竄したりするらしい。
 今、中国の不調の一つの表れが不動産バブルの崩壊であるらしい。
 橘玲氏の「言ってはいけない中国の真実」(新潮文庫 2018年 ダイヤモンド社 2015年「橘玲の中国私論」)では、2015年の執筆当時「従来の経済常識を超えた不動産価格の上昇が起きている」と書かれている。と同時に「出生率の極端な低下」も指摘されている。
 本書の巻頭にはカラーページがあって「中国10大鬼城観光」と題されている。鬼城とは「ゴーストタウン」のことで、本書執筆当時の2015年からすでに中国のあちこちにゴーストタウンは出現していたらしい。そういうものがあっても中国経済が発展しているうちは、発展に伴う歪みというように扱われていたのだろうか? それで発展がとまると歪みのみが表にでてきたということなのだろうか?

 山本武利 「朝日新聞の中国侵略」 文藝春秋社 2011年

 何だかどぎついタイトルであるが、朝日新聞社が中国を侵略したということではない。内扉の文をそのまま引用すれば、「昭和十四年元旦、日本人居留民が激増する中国の上海に日本語新聞が創刊された。その名は「大陸新報」。題字は朝日の緒方竹虎が筆を執り、近衛首相、板垣陸相の祝辞が並ぶ立派な新聞である。この「大陸新報」こそが、帝国陸軍満州浪人と手を結び、中国新聞市場支配をもくろんだ朝日新聞社の大いなる野望の結晶だった。「正義と良心の朝日新聞」がひた隠す歴史上の汚点を、メディア史研究の第一人者が、半世紀近い真摯な朝日研究の総決算として、あえて世に問う。」
 要するに、大東亜共栄圏が実現し、中国に多くの日本人が移住するようになれば、日本語新聞の需要も飛躍的に増えるだろうから、軍部と協力してあらかじめその需要を先取りしておさえてしまおうとする、中国における朝日新聞の動きを克明に追った、というような本である。
 10年以上も前の本で、もともとは「諸君!」2004に掲載した論文に加筆したものらしい。20年くらい前の「諸君」をふくむ右側メディアは左叩き、「朝日」叩きに熱心だったので、その一環として書かれたものかもしれない。
 今となっては誰が叩かなくても、朝日新聞はもはや青息吐息、いつまでいきのびられるか、という状態のようだから、このような本が書かれる必要もなかったのかも知れない。
 わたくしが感じるのは、戦中の朝日新聞大東亜共栄圏といったものを本気で信じていたのではないかということで、決して軍部から強いられて延命のためいやいや迎合記事を書いていたのではないのだろうということである。
 そして敗戦により連合軍占領下になると今度は面従腹背ではなく、本気で占領政策を支持し、日本の解放の先兵たらんとしたのではないかということである。
 この辺りのことを考えると、いつも想起するのが林達夫の「新しき幕明き」である。(「共産主義的人間」中公文庫 1973年) そこにはミケランジェロの「物曰うなら、声低く語れ!」という言葉が引かれ、「・・・人のよい知識人が、五年前、「だまされていた」と大声で告白し、こんどこそは「だまされない」と健気な覚悟のほどを公衆の面前に示しているのを見かけたが、そういう口の下から又ぞろどうしても「だまされている」としか思えない軽挙妄動をぬけぬけとやっていたのだから、唖然として物を言う気にもなれない。」

 何でこの本を読む気になったのかというと、この稿の前に紹介した「祖国に還える」からであると思う。どちらも朝日新聞が関係している。

中野五郎「祖国に還える」復刻版 DIRECT社 2023 1 25 刊

 昭和18年2月に刊行された本の復刻版である。著者は朝日新聞の記者で、大東亜戦争(と敢えて表示)開戦時アメリカにいて、アメリカで拘束されキャンプに抑留される。報道を担当するものは外交官などに準じる一種の特権を与えられるらしく、拘留といってもホテルに軟禁というかなりの厚遇である。
 その生活の中でアメリカの報道から得られる微かな情報から戦況を推測し、一喜一憂する様が描かれる。
 この本の面白いのは戦後に戦中を振り返ってかいた書いたものではなく、戦中にリアルタイムに書いたものであることで、当然?皇軍の快進撃を喜び、東京空襲の報に驚いている。
 これは日記であって新聞記事ではないから、軍部によって強制されて書いたなどといったものではなく、著者の本心そのままである。
 復刻版といっても原著は文語体であって、それを口語に直したものらしい。この本を読むひとがそれほど多いとは思えないから、口語に直すのではなく、そのまま文語体で出したほうがより原著の雰囲気が伝えられるのではないかと思う。「祖国に還える」というタイトルだが、口語でも「祖国に還る」ではないだろうか? パソコンもそう変換する。
 この頃、記憶力がとみに低下し、この本にどこから辿り着いたか記憶にない? 新聞の書評? アマゾンの紹介?
開戦前夜。「もはや日米交渉の前途には希望の光が消え失せた。ただ奇跡のみが開戦時間を引き延ばすことができるかもしれない。・・すでに十一月二十六日のハル国務長官暴戻な対日回答通告によって、米国政府は日本の隠忍自重の平和的努力を蹂躙したのであった。」
 著者は友人の葬儀に参列中に日米開戦を知る。ラジオの放送は「日本軍は今朝、パールハーバーを爆撃し、さらにマニラを攻撃中である。」という。
 著者はマニラ攻撃は理解できたが、真珠湾攻撃は半信半疑である。
 「戦争というものは人間の喜怒哀楽を超越し厳然とした宇宙的意志であると考えた。」「全亜細亜民族は、大同団結して覚醒するであろう。英米帝国主義の撃滅と亜細亜追放のために。」・・・
 朝日新聞は少なくとも著者は、帝国の軍部から強制されて戦意高揚に努めたのではなく心底、大日本帝国の勝利、全亜細亜民族の大同団結と覚醒を祈念している。このあたり朝日新聞社史などではどのように扱われているのだろうか?

ミラン・クンデラ

 チェコの小説家のクンデラが亡くなったらしい。今年7月のことらしいが、今日まで知らなかった。小説の「冗談」とか「存在の耐えられない軽さ」が有名だと思うが、読んでいない。(「存在・・」は読みだしたが中断のまま)
ということでわたくしにとっては専ら文学論・小説論のひととしてのクンデラである。
 わたくしが読んだのは「小説の精神」(叢書・ウニベルシタス 294 法政大学出版局 1990)であるが、岩波文庫から出ている「小説の技巧」も同じ内容の別訳ではないかと思う。)
 特にわたくしには、第一部「セルバンテスの不評を買った遺産」と「エルサレム講演」-小説とヨーロッパ」が面白かった。そこでクンデラが論じる「ヨーロッパ」についての見方である。要するにヨーロッパとは小説である、とクンデラはいう。
 
 「事実、私にとって、近代を確立した者はデカルトだけではなくセルバンテスでもあるのです。」
 「絶対的なひとつの真理のかわりに、たがいに相矛盾する多くの相対的真理」「小説の知恵(不確実性の知恵)」
 「ヨーロッパの生み出したもっとも美しい幻影のひとつである、個人のかけがえのない唯一性という、あの大いなる幻影
 「なぜ、かつてのドイツは、そして現在のロシアは世界を支配したいとおもうのでしょうか。・・力の攻撃性は、まったく利害を越えたものであり、動機づけのないものなのです。」
 「小説は全体主義的世界とは両立不可能なものです。」
 「遊びの呼びかけ」「夢の呼びかけ」「思考の呼びかけ」
 以上「セルバンテスの不評を買った遺産」

 「小説家とは公的人間の役を放棄するということです。」
 「アジェラスト―笑わぬ者、ユーモアのセンスのない者」
 「小説はユーモアの精神から生まれました。」
 「個人の尊重、個人の自由な思想と侵すことのできない私的生活の権利の尊重、このヨーロッパ精神の貴重な本質は、私には金庫ともいうべき小説の歴史の中に、小説の知恵のなかに預けられているように思われるからです。
(以上「エルサレム講演―小説とヨーロッパ」)

ソナタ形式

 昨日の稿に関して「三部形式 A―B―Aという形式は、ソナタ形式から派生したものだろうか?」という質問を寺尾さんから頂いた。わたくしは単なる一音楽好きにすぎないので、以下に書く事は全くの素人の見解としてお読みいただければと思う。

 ちょうちょう ちょうちょう(1)
 菜の葉にとまれ(2)  A
 菜の葉に飽いたら(1´)
 桜にとまれ(2´)    A´
 桜の花の (3)
 花から花へ(3´)    B
 とまれよ 遊べ (4)
 遊べよとまれ(4´)   A´


 この曲、最初の2行が次に反覆されて、その後(3)で別の方向へ行き、(4)でまた最初にもどる。これがA―B―Aという形式の原型なのかと思います。
 Aばかりだと飽きるのでBという変化を入れる。しかしそれではおさまりが悪いので、またAに戻る。
 A―B―Aが先にあって、そのBがソナタ形式の展開部に発展したのではないかと、わたくしは考えています。

 ちょうちょう ちょうちょう(1)
 菜の葉にとまれ(2)

までが第一主題の提示(A )

 菜の葉に飽いたら(1´)
 桜にとまれ(2´)

が第一主題の確保(A´)

 桜の花の (3)
 花から花へ(3´)

が第二主題で

 とまれよ 遊べ (4)
 遊べよとまれ(4´)

 がA)を用いた終結部。

 ここまでは音楽の原型で、ソナタ形式はそれの規模を大きくしただけのものではないでしょうか? 理屈っぽい西洋人が考えそうなことだと思います。

 西洋の人たちがわれわれにもたらした最大のものは自然科学だと思いますが、とにかくあちらの人は理屈にこだわる。音楽という粋なものをも理屈で理解しようとする。嫌な人たちだなあ、と思いますがかれらがいなければ、人間たちは今もって草原で殺し合いを続けていたかも知れません。
 クラシック音楽などはどこにも存在していないでしょう。もちろん、ソナタ形式も。

西洋音楽の構造(1)

 最近、岡田暁生氏と片山杜秀氏の本「ごまかさないクラシック音楽」について少し論じたが、不思議なことにこの本ではソナタ形式とか、曲としてのソナタというものがあまり論じられてはいなかった。
 もうすでに論じつくされているということなのかもしれない。しかしわたくしは西洋音楽のもっとも西洋音楽らしい部分(理屈っぽい部分)はここに一番よく表れていると思うので、以下、自分の頭の整理のため少し書いてみたい。

 ソナタ形式とは、主題が二つあり(第一主題と第二主題)、典型的には第一主題が男性的な主題で主調、第二主題が女性的で属調短調の曲では並行長調)。
 その二つが提示部で示され、続く展開部では二つの主題は変形・展開され(と言葉で書いても理解不能だが)、再現部では二つの主題がともに主調で再現されて、最後にコーダがあっておわるといったものである。
 例として、ベートーベンのピアノ・ソナタ第一番(作品2の1)の第一楽章をみてみる。
 最初に8小節の第一主題。次に第一主題のはじめの2小節に基づく移行部があり、8小節でト長調に転調。その8小節目の2拍目から第二主題(4小節)となる。その後4小節で第二主題も確保され。その4小節目が第二主題の終わりであるとともに終結部の開始となって、4小節の終結部で提示部が終わる。
 第一主題8小節。移行部8小節。第二主題は移行部の最終小節を含め8小節。終結部が4小節。8+8+3+4+4=27小節が提示部。展開部が18小節。再現部&終結部21小節で第一楽章が構成される。
 さらに「悲愴ソナタ」などは提示部だけでも120小節以上。これは2/2拍子なので半分としても60小節以上で規模がはるかに大きい。
 しかしソナチネアルバム巻頭のクーラウのソナチネでは、第一主題8小節、移行部8小節、第二主題4小節、終結部8小節で28小節である。さらに4曲目の作品55の1では、第一主題8小節、移行部なしですぐに第二主題でそれが4小節、終結部8小節で計20小節で提示部が終わる。「悲愴ソナタ」の1/6である。
われわれはソナタ形式というと悲愴ソナタ・熱情ソナタ、あるいは「運命」「第九」といった」ものを思い浮かべるので、とんでもなく壮大な構造物の印象を持つが、可愛いクーラウのソナチネもまたソナタ形式でできている。
 しかし、ただソナタ形式でできているというだけであって、ソナタ形式の魅力であるかもしれない二つの主題間の対比・葛藤などはほとんど見られない。
 西洋音楽でのピアノ・ソナタあるいは弦楽器のソナタ、さらにはオーケストラのための交響曲や協奏曲というのはついには西洋以外では生まれなかった。
 「運命」を聴いて、東洋にはない唯一のものといったのは岡倉天心だったか?
 つまり音楽の中にある種の野蛮を持ち込んだのが「ソナタ形式」なのである。それを発明したのはハイドンであるとしても、まさかハイドンさん、ソナタ形式が将来こんなことになるとは思いもしなかったであろう。
 ソナタ形式とは音楽に持ち込まれた“夾雑物”である。しかしあるものが生命力をもつためには何らかの夾雑物がそこになければならない。
 その夾雑物を音楽に持ち込んだのがベートーベンという野蛮人で、「英雄」「運命」「第九」における、「葬送行進曲」(英雄)、第三楽章から最終楽章への移行とそれの第四楽章途中での再現(運命)。そしていうまでもなく第九での合唱の導入(音楽だけではいいたいことがいえなくなって言葉を持ち込む)。
 本章の結論。西洋音楽の肝はソナタ形式である。それは音楽に音楽以外の何かを持ち込むことを可能にし、西洋音楽世界の音楽とさせることに成功した。

平和主義?

 今朝の朝日新聞の朝刊の「論壇時評」に政治学者の宇野重規氏が「平和主義の行方 どう語るか」という論を寄稿している。そこに山本昭宏氏の『日本の戦後平和主義が「ほぼ有名無実化」した』という言葉が引用されていた。
 福田恆存氏が「平和論にたいする疑問」を書いたのは昭和29年と思うので今から約70年前、そのころの「平和論」と称するものは福田氏の論から数年で完膚ないまでに粉砕されたと思っていたので、現在まだ平和主義などと言っている人がいるらしいことに驚いた。そのころの「平和論」と今の「平和主義」は別物なのだろうか?
 宇野氏も山本氏もその論を詳しく読んだことはないので、新聞の片々で判断してはいけないとは思うのだが、それでも、そもそも「平和主義」というのは邦訳可能な語なのだろうか? (と思ったら、Wikipediaに「平和主義(Pacifism)という項目があり、「戦争や暴力に反対し、恒久的な平和を志向する思想的な立場」とあった。」
 しかし宇野氏の論で言われているのは「戦後平和主義」である。なぜ戦後なのか?
 もしも「平和主義」がWikipediaの定義の通りであれば、これが「戦後」に限定されるものになるはずはないように思うのだが・・。
 (Wikipediaで見たら宇野氏は。2020年日本学術会議の新会員の推薦を受けていたが、政府によって任命を拒否された人の一人らしい。)