金谷武洋「日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す」

  [講談社選書メチエ 2002年1月10日初版]


目から鱗>の本である。
 著者は、カナダのフランス語圏であるケベック州で日本語を教えているひとである。
 前の「ビック・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本」も、ながらく米国でくらした女性が、あらためて日本でおしえられている英文法について考え直した本であったが、本書も、カナダで実際に日本語を教えてみた結果、日本で正統とされている日本語文法がいかに実地に役にたたないかを実感して、あらためて日本語文法について根底から考え直してみたというものである。
 金谷氏が主張しているのは、日本で現在<国文法>といわれているものは、<英文法(を中心とするヨーロッパ語文法>を日本語に無理にあてはめようとしてできたものであって、日本語の生理をとらえた文法ではないという、ことである。一読してきわめて説得的である。
 具体的にとりあげられている問題は、人称代名詞、主語、助詞「は」、自動詞/他動詞の問題であるが、相互は深く関連している。

 1)人称代名詞について:
 ヨーロッパ語には人称代名詞が存在しなくてはならない必然性がある。しかし、日本語にはそれがない。いわゆる人称代名詞、「わたし」とか「あなた」は日本語においては単なる名詞であって、それを人称代名詞として、ことさら他の名詞から分けなければいけない理由はなにもない。これが日本語で一人称をしめす言葉がたくさんある理由である・・・「わたし」「ぼく」「おれ」、子供にたいして「お父さん」など。
 一方、ヨーロッパ語においては、人称代名詞は一般の名詞で代用できない。子供を前にしても、I の代わりに Your father などとはいえない。それは英語の I あるいはフランス語での Je が表すものは、「You と話しているこの自分」であって、I は非「You」 であり、You は非「 I 」でしかないからである。それらは相互排他的であって、その相互関係を除いては無色透明な言葉であるからである。それに対して、日本語の「あなた」は決して無色な言葉ではない。それが証拠に、会社で上司に「あなた」とはいえないだろう。
 では、ここで発想を転換して、日本語になぜ人称代名詞が必要なのかではなく、ヨーロッパ語になぜ、人称代名詞が必要なのか、と考えてみよう。
 英語においては、基本文型は、S−V、S−V−C、S−V−O、S−V−O−O、S−V−O−Cの5つである。このSやOのために、人称代名詞は不可欠である。
 一方、日本語では、基本文型は、1)名詞文:Nだ(例:赤ん坊だ)、2)形容詞文:A(例:愛らしい)、3)動詞文:V(泣いた)の3つしかなく、そのどこにも人称代名詞は必要とされない。
 これが日本語において、人称代名詞が必要とされない理由である。
 欧米語の動詞は<定動詞>すなわち、人称変化をする動詞である。←英語では現在三人称単数現在のsだけであるが、ドイツ語、フランス語などでは、人称ごとに変化する。英語でもbe動詞などは人称変化する。したがって、主語の人称がきまらないと動詞がきまらない。英語は主語中心、日本語は述語中心なのである。
 そういう事情から欧米語では、人称代名詞がないと正しい文が書けない。しかし、日本語はそうではない。
 「好きだ」というのは立派な自立した日本語である。しかし、誰が誰を好きかはわからない。しかし、日本語ではそれは、状況あるいは文脈から判断すればいいことになっていて、文中に明示することは要請されない。文が自立していることと、文の意味のすべてが明らかになることは平行しない。
 欧米語は人称代名詞を多用することによって、人間臭い言語となっている。日本語は、だれそれがどうしたというより、自然にそうなったという表現を好む、欧米語に較べれば、人間臭くない言語である。

 2)主語について:
 ここでも、なぜ欧米語には主語が必要なのかと問うてみよう。(欧米語でも主語の人称代名詞がつねに言われるわけではない。スペイン語やイタリア語では今でもいわないが普通である。Cogito ergo sum 。) それは上ですでに述べたように、主語なしでは欧米語の正しい文がつくれないからである。しかし、日本語の3基本文型をみてもわかるように、主語なしでも、正しい日本語の文は作れる。Taro is making pizza at home. という文においては、Taro が主語である。しかし、太郎が家でピザを作っている、という文においては、<太郎が>も<家で>も<ピザを>もすべて同等に<作っている>を説明しているのであり、太郎は主語ではない。
 主語という概念は明治維新に輸入されたものである。
 そうすると、「東京は、面積が広く、人口が多い」というような文章における、<東京は>の扱いに困ることになった。これを文中の総合的な主語という意味で「総主」と呼んだり、あるいは「面積が広く・・・」以下を述語節と呼ぶことなどで、なんとか糊塗してきた。そこから、さらに、助詞の「は」と「が」の違いというような不毛な議論が生まれてきた。

 3)助詞「は」について
 近年、言語学の分野においては、助詞「は」は主題をマークするものとしてあつかわれるようになってきている。これを用いれば有名な?ウナギ文論争<「ぼくは、ウナギだ」>は決着する。
 三上章は、「は」の<コンマ越え>、<ピリオド越え>、という概念を提唱した。漱石の「猫」の冒頭、「我輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗い・・・」においては、我輩はの「は」は、「猫である」の文にとどまらず、「名前は・・・」「どこで・・・」「何でも・・・」の文すべてにかかっているのだという。つまり、通常の助詞の機能をこえている。

 4)自動詞/他動詞について
 欧米語においては、直接目的語をとるのが他動詞で、それ以外が自動詞である。しかし、日本語ではそうはいえない。
 欧米語では自動詞文からは受身文を作れない。しかし、日本語では「母に死なれた」「雨に降られた」といった文をつくれる。しかも、これは単に、能動文を受身にしたというものではない。これは<自分のコトロールをこえたところで何かが起きた>というニュアンスを含んでしまうのである。<られる>が同時に尊敬(先生が話される)・可能(生で食べられる)・自発(自然と思い出される)になりうるのは、そこに<自分のコトロールをこえたところで何かが起きていて、それは制御不能である>という共通の認識があるからである。<酒に飲まれる>という表現は日本語の受身の真髄をあらわしたものである。
 日本語の受身の<られる>は動詞の語幹に<ある>が加わったものである。古語のラルが現代語のラレルとなった。これは人間の意志をこえて自然現象としてそこに<ある>ことをいう。
 一方、使役は<す>が転用されたものである。自発性をあらわしている。
 したがって、日本語の意識においては、「受身」と「使役」は両極端にある。そして、その中間の「受身」の近くに「自動詞文」が、「使役」の近くに「他動詞文」が来る。つまり、日本語においては、「自動詞文」と「他動詞文」は主語をどちらにするかというような構文の違いではなく、意味やニュアンスの違いを表すのである。
 したがって、自動詞文は<自然におきた、コントロールをこえたところでおきた>という含意があるのであるから、動作主としての人間を表現することを必要としないのである。

 文法を専門にしているひとからはいろいろと反論もでるのであろうが、素人が読む限り、本書はきわめて説得的である。
 そして、ここで述べられていることは、容易に文法の問題を越え出る。
 問題は、ここでも言及されている「サピア・ウォーフの仮説」・・・「われわれは母国語というフィルターを通して世界を認識する」、極端にいえば「われわれの世界観は母国語の文法の一つの現れにすぎない」、「言語が文化を決定する」という仮説である。
 ここでは、これはチョムスキー生成文法論の批判として紹介されているのだが、チョムスキーが英語帝国主義者、英語セントリストとして紹介されており、チョムスキーが人間の共通する文法を主張するのに対して、欧米語と日本語はまったくことなる言語であるという著者の主張のもとにおいて紹介されているのであるから、微妙である。
 これは、すぐに丸山真男の「日本の思想」の<「である」ことと「する」こと>を連想させないだろうか? 欧米の文化は「他動詞的」な「する」文化であるのに対して、日本の文化は「自動詞的」な「である」文化なのである。そして、その文化がそもそも文法によって規定されているのだとしたら・・・。

 著者は冒頭、自分が住んでいるカナダのケベック州を礼賛している。そこはフランス語、英語の二重言語圏であり、その二重性から「違いにかんする寛容」がでてきているのだという。そこでは権威主義はうすく、アメリカ人のもつ「大国主義」、「No.1イズム」が嘲笑されているのだという。著者によれば、世界一志向、ナショナリズム、競争主義において日本とアメリカはよく似ている。
 それならば、どうしたらいいのだろうか? アメリカもカナダもほぼ同じ文法をもつ言語を母国語にしている国である。それでも、アメリカが非寛容で、ケベックが寛容であるとすれば、それは二重言語のため? それなら、日本も二重言語国家になればいいのであろうか? 

 著者のいうように、日本語が主語がなくても成立する言語であるということは、日本人の意識と深く関連していることは間違いないであろう。「これからの日本はどうなるのでしょうねえ?」という言い方には、それは<自然現象に近い、自分のコントロールをこえたところでおきている>という意識が色濃く反映している。丸山真男は、「われわれは、これからの日本をどうしたらいいのだろうか?」と言える日本人にしたかったのであろう。
 英文法的に言えば、前者の文においては、日本が主語であり、後者の文においては目的語である。そして金谷氏のいうように、実際には、日本語の感覚としては、前者の文には主語はなく、後者の文には一見それと見えるものがあるが、その分だけ、文が翻訳調の日本語らしくない文にみえてしまう。前者の文がこなれた日本語であるのに対して・・・。

 単に、文法の問題にとどまらず、<日本>という問題をかんがえるうえで、きわめて刺激的な本である。
 (← という文は、文としては、「きわめて刺激的な本である」、さらにいえば「本である」だけでできている名詞文である。そして潜在的には、「この本は」がどこかに隠れている。どこに隠れているのだろうが。冒頭のタイトルにだろうか?)
 晩年の吉田健一が、文章から一切の一人称を追放したことを思い出した。どうしても一人称的なものが必要なときには「こちら」という言葉を用いていた。「こちら」と「そちら」というのは、「非YOU」としての相互排除的な「 I 」と、どういう風に関係するのだろうか?


(2006年3月13日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/より移植)

  • 日本語に少なくとも人称代名詞、特に一人称が必要なのだろうかということを常に考えている。というのは、私淑した吉田健一が「わたくし」という主語のない文章をずっと書いたひとだったからである。もっとも氏が書いた英文を読んだら少しは I を使っていたが。吉田氏は、主語として、こっちとか、こちらとかを使う。「それはまだこちらがヴァレリーという名前もきいたことのない頃の話なのであるが、」といった風に。この「こちら」は英訳のしようがない。それからもう一つ思い出すのが丸谷才一が「文章読本」で書いていた「谷崎潤一郎がさかんに文法にこだわらずに文章を書けといっている、その文法とは国文法なのではなくて英文法なのである」という話である。われわれが文章を書くときには、実は英文法を意識しているのである。S−V−Oとか。しかし金谷氏のいうように、「わたしはそれを見た」なんていわなくても、「見た」だけでも日本語としては何ら不自然ではないのである。(2006年3月13日追記)

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)