勢古浩爾「「自分の力」を信じる思想」
PHP新書2001年9月28日初版
思想・生き方の一階部分・二階部分という発想が面白かったので、その関係のみ書いてみる。
われわれが通常生きている生活・感情の世界が一階部分である。われわれはそこのみで完全に生きていくことができる。われわれの生活とは直接関係のない観念の世界がある、それが二階部分である。ここでの区分にしたがえば、大学は一階部分だが、学問は二階部分である。なぜなら、どんな大学をでるかはわれわれの生活に関わるが、どんな学問をしたかは関わらないから。
しかしまれに二階部分の魅力にとりつかれ、そこにいきっぱなしになってしまうひとがいる。
二階にいるのは、抽象・他人・社会・国家・世界である。いわば自分の生活に必要なもの以外のすべて。
吉本隆明によれば、その一階のみで生き、「結婚して子供を生み、そして、子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ」、そのように生きるのが人間にとってもっとも価値ある生き方なのである。しかし人間はそのような一階部分だけで生きることはできない。そこから「逸脱」して生きざるをえない。それは「不可避」なのであり、しかたなくそうなるのだという。
しかし勢古は、一階部分が崩壊しつつあるのではないかという。あるのは一階でさえなく(まして二階はまったくなく)、自室だけがあるのではないかという。
吉本は一階で生きる人を「大衆」と呼び、つねに二階を忘れずに生きている「市民」を当然の人間像とした丸山真男等の進歩派を攻撃したわけであるが、そのような「健全な?」大衆さえいなくなってきているのではないかというのが勢古の主張である。
スチュアート・ミルの描いた人間は「市民」であり、ニーチェに描いた人間は「大衆」なのだそうであるが、その「大衆」さえ霧散しようとしているのであろうか?
2006年7月29日 HPより移植