仲正昌樹 「「不自由」論 −−「何でも自己決定」の限界」

    ちくま新書 2003年9月10日初版


 著者については何もしらない。副題に惹かれて買ってきた。医療の世界においては、自己決定の問題はきわめて今日的なものであるからである。しかし、そういう点がとくにとりあげられているわけではなかった。最後のほうである程度はとりあげられているが。
 まず、現代思想の中心的なテーマである「人間中心主義」批判がとりあげられる。これはナチスドイツの問題がきっかけになったのだという。ナチスユダヤ人迫害ははきわめて非人道的であるとされているが、しかしアーリア人種が優秀でユダヤ人は劣等であるという人間観にしたがえばきわめてこれは”人道的”であるともいえるのである。このように優秀な民族と劣等な民族というような二項対立的発想がナチスを招来させたという見地から、デリダらの脱構築という考えあるいは「人間中心主義」批判がでてきたのであるという。植民地化は野蛮人を文明化しようとして西欧がおこした野蛮な行為であった。西欧では文明化と野蛮は表裏一体なのである。二項対立は安易でわかりやすい理解である。それが西欧の野蛮を生んだ。
 アドルノは難解な学者として有名である。なぜ彼は難解なのか? アウシュヴィツのあとで「平易」であることは危険だと思ったのである。ものごとを簡単に理解したいという大衆に対して、ものごとはそんな簡単には理解できないのだということを示そうとしたのである。
 アーレントは「人間性」がギリシャのポリスというきわめて限定した場所でしか発生しえなかったものであるとした。奴隷制のもとで、経済問題を一切顧慮する必要のない人間が存在したことが「人間的」活動を可能にさせたのである。そこでのみ本当の「政治」が可能となった。古典ギリシャの「政治」は「経済」と一切関わらなかった。しかし近代となり奴隷がいなくなり、すべてのひとが参加して「社会」が成立するようになると、「政治」と「経済」は不可分になり、個々人の利害が政治に否応なしに入り込むようになったため、「人間性」が失われていったのである。
 アーレントはポリスで生じた「人間性」の一番の特性は「多元性」であるとした。アーレントによれば、「人間性」というのはきわめて西欧的な概念なのである。近代社会はさらに多元性を深めようとしたのであるが、経済の問題がでてきたことによって、かえって多元性は失われていった。アーレントは同情の政治(他者への共感や憐憫に起源をもつ政治)は理性よりも感情を優先することによって、人間性を失わせることになると考えた。その同情の政治の開祖がジャン=ジャック・ルソーである。
 戦後の日本の教育においてはルソーの特にその「エミール」の影響がきわめて濃い。

 というようなことで、この本は実際には「人間性」論であって、「不自由」論ではない。自己決定の問題は最後にインフォームド・コンセントの問題としてでてくるが、仲正氏によれば、それは資本主義的効率追求からでたのだという。全責任を医療者が負って、あらゆる要因を考慮にいれて判断するのよりも、相手に決めさせたほうが時間が節約できるからというのであるが、現場にいる人間にとってはピンとこない話である。どう考えてもインフォームド・コンセントを得るほうが時間がかかるからである。
 「不自由」論としては、期待に反する本であったが、アーレントの思想の概説としてはきわめてよくできたものであると思った。しかし、アーレントの魅力というか凄さは、ここに示されているような思想もさることながら、古典ギリシャ人のことを昨日まで傍にいた知己であるような親しみをもって語れる教養にあるように思う。そしておそらく(食わず嫌いで読んでいないが)ハイデガーというひともそういう人なのであろう。アーレントが最後までハイデガーを全否定はできなかったのは、ハイデガーギリシャへの知識というのが生半可なものではなかったことにあるではないかと思う。
 ところで、著者はあとがきで「思想はわかりやすくならなければいけない」という考えに反対である旨のことを書いている。簡単にわかろうというのは怪しからん了見であるというのである。それ自体はわからないでもないが、ここでもとりあげられているアドルノは、あまりに分かりづらい表現をするので、adornieren アドルノするという動詞がドイツではできているのだそうである。アドルノと同じフランクフルト派の学者ハーバーマスもここでとりあげられているが、ポパーの「よりよき世界を求めて」に中の「大言壮語に抗して」でポパーは、ハーバーマスの以下の文章「理論は文章論的に拘束されている枠内で、われわれが任意に構成する整序図式である。理論は、それに実在の多様性が適合するとき、特殊な対象領域に対して使用可能であることが証明される」という文を、「理論は、文法を無視して組み立てられてはならない。これさえ守れれば、君は言いたいことが言える。理論は、ある特定の領域に適応可能であれば、そこに適当できる」と”翻訳”している。そしてポパーの”翻訳”によれば、そこでいわれていることは当たり前なことであるか、トートロジーであることがわかる。思想はいくら難解でもいいが、それは可能な限りわかりやすい言葉で表現されなければならない。フランスのポストモダンといわれる思想家もわかりにくいことでは人後に落ちない。だから、それを翻訳でよんでもわかるはずがないということかもしれない。