柴田博 「中高年の健康常識を疑う」その2


 第一章はこの前に論じた。ここは第二章以下である。

 高齢者自身が自分をみじめな存在であると思っているなら、若い世代に尊敬を期待することなどできるはずはない。

 アメリカでは、人種差別、性差別とならんで高齢者差別が大きな社会問題となっている。
 <社会が高齢者を支える>というような表現は、高齢者をすでに社会のそとにあるものとみている点で高齢者を一人前の存在とはみていないのであり、高齢者差別の心理を裏でもっている表現である。
 老年学の初期には、どうしても関心が病気や障害のあるひとにむかう。そこから高齢者はみんな病気や障害があるような錯覚が生まれてしまう。
 そこで問題は、人間の機能は年をとるとともに坂をころがるようにゆっくりと確実に低下していくものであるのか、あるところまでは比較的よく保たれ、ある時から急速に低下するものなのかということである。最近では後者の直角型の老化の考えが支持されるようになってきている。
 動作能力は加齢とともにゆっくりと低下する。一方、言語能力にはそのような傾向はみられない。
 高齢者の健康を考える場合にもっとも大事な視点は自立しているか否かという点である。生活機能の自立という視点は医師・看護師にはきわめて乏しい。健康診断の項目には生活の自立にかかわるようなものは何もないからである。介護保険の導入は医療者にも自立という観点から高齢者をみる機会を提供した点で画期的なものである。病気であっても健康という視点がでてくる。
 自立能力のない「障害老人」は65歳以上の人の5%程度である。しかし、大家族制度が崩壊した現在では、日常生活動作で自立しているだけでは不十分である。手段的自立(社会関係をおこなえるだけの自立)が必要である。そこまで範囲を広げると65歳以上の25%がなんらかの要援護の範囲に入る。しかし同時に65歳以上のひとの25%は恵まれた老人であって、他者をも援助しうる高齢者なのである。一般にいわれていることとは異なり、高齢者の自立能力は高まる傾向にある。
 老人の自立を考える場合には生活能力のような手段的自立以外に「情緒的」自立も重要である。生活が自立できるなら子どもなどの世話にはなりたくないと考えるか、生活は自立できても、それでも世話になりたいと考えるかである。情緒的自立の問題は孤独死の問題と関連する。孤独死をおそれるあまり、本来望んでいない子どもとの同居を受け入れている老人も多い。大都会で孤独死するということはある意味で英雄的なことであるかもしれないのである。
 65歳の女性の余命は20年くらいであるが、17年以上は活動平均余命である。いいかえれば、2年少しが要介護となる。大雑把にいって終末期にケアをうける期間は2年前後である。

 いろいろと考えさせられるところの多い議論であった。日常、高齢者の医療にかかわっている人間として、教えられる点も多かった。疑問点としては、世代間のかかわりを親子関係を前提にして考えているように見える点が多い点で、これから増えるであろう単身者への視点が乏しいように思った。たとえば、親は子どもに教育から結婚まで大きな投資をしている、これは現在若年者が負担する年金を相殺するものであり、若者が年金を一方的に払っている、払わされていると思う感覚は間違っているというようなことが書かれているが、単身者には通じない議論であろう。
 まわりの男たちをみていると、最期は女房にみとってもらうと思っているやつばかりなのである。そのため、女房には逆らえないなどと情けないことをいうのである。一方、女性たちは旦那にみてもらおうなどという弱気な人は一人もいない。早く旦那が死なないかなあ、そうしたらしたいことをしてと思っている。女性のほうが情緒的に自立しているのである。男も最期は野垂れ死にという覚悟さえできれば恐いものがないはずなのであり、そうすれば、終末期も2年もかからないのであるが、問題はその覚悟ができるかどうかである。
 著者の柴田氏は都会の孤独死を推奨しているように思ええるが、さて氏自身はちゃっかりと奥さんにみとってもらおうと思っているかもしれない。