村上龍 「13歳のハローワーク」

 [幻冬社 2003年11月30日 初版]


 自分が何が好きかということから、将来の自分の職業について考えてみようと子どもに語りかけるという絵本である。
 とはいうももの、実際にいいたいのは、サラリーマン・会社員という選択以外にもいろいろな選択肢があるのだよ、それを知っておきなさい、ということであるように思う。その沢山の職を提示する手段として、<何かが好き>ということとそれに関連した職業を提示しているのではないかと思う。
 たとえば、花や植物が好きなひとは、「フラワー・デザイナー」「華道の先生」「庭師」「植木屋」「林業」などなど。それで、人体が好きなひとの職として「医師」「看護師」などがあがってくるのだが本当だろうか? 人体が好きという理由で医師になる人間がいるだろうか? また、算数や数学が好きな人が銀行員になるだろうか? 動物植物が好きな人の選択肢として生物学者が挙げられているが、何より今(少なくとも正統的な)生物学者に求められるのは高度な数学知識である。ということで、あくまで何が好きということは、仕事提示の口実であろう。
 そしてここに挙がられている職業の多くは、それで食べられるだろうかという疑問が生じる。たとえば、コレペティトゥアというきわめて特殊な職業が紹介してある。オペラ練習時の伴奏担当だが、この職の需要は日本で数人であろうし、それをおこなうのは将来の指揮者志望者であって、ここで書かれているようなピアノ科出身者ではないであろう。大部分のピアニストは譜面をみて、それを全音高く弾くというようなことはできないであろうが、それができなければ勤まらない。
 職業の範囲に自衛隊員から傭兵、アメリカ軍兵士までがはいっているのが凄い。
 といろいろあるけれども、本書で一番いいたかったことはそこここにあるエッセイ風の文章なのであろう。サラリーマン・会社員という選択以外にもいろいろな選択肢があるというよりも、まずサラリーマン・OLという選択肢をはづして考えろ、まず集団に入るということを考えるな、というのが基本的な主張である。集団に入るのであれば、何をしたいかを考える必要がない。それは誰かが指示してくれる。現在、集団に入る、サラリーマンになるという選択肢が自明のものでなくなってきているにもかかわらず、今まで「何をしたいか」を考える必要がなかったために若者が混乱している。つまりサラリーマン・OL以外の選択肢の情報がほとんど提供されていない、それを提供するものとして本書をつくったのであろう。村上も本当に自分がしたいことがわかるのは、仕事をはじめてからであることは認めている。しかし、それを早くから考えた方が有利だよ、と村上はいう。

 さて、自分は13歳のころ何になりたいと思っていたであろう? 何となく漠然と科学者だったように思う。小学校のころは算数が好きで、そういう人間は将来科学者になると思っていたみたいである。それが中学に入りすぐに落ちこぼれ、小説ばかり読んでいるなまけ学生になり、国語の先生みたいなものを考えるようになった。ところが高1のころ、卒然と自分には文学の才能がないと悟るところがあり、それでそのあといろいろと考えたあげく医者を選んだ。死んでもサラリーマンだけはいやだと思い(そのころ東京オリンピックのころで、根性という言葉が流行していた。筋金入りの根性なしであることを自覚していたので、そのころのサラリーマンが根性を鍛えるという理由で自衛隊体験入学などというのをさせられているのをきいて、まずい、サラリーマンにだけはなってはいけないと思った)、医者を選んだ。別に人体に興味があったわけでもなく、人道精神があったわけでもない。ところで村上によれば、自分はサラリーマンには絶対むいていないと確信することも才能のうちなのだそうである。そうするとわたしにも才能があったということなのだろうか?
 さて問題は、<その人に向いた仕事、その人にぴったりの仕事というのは、誰にでもあるのです。><13歳は自由と可能性を持っています。>というあたりであろう。村上は集団から個人へという形で時代をとらえているので、この本で取り上げられている職業にも個人でおこなうものが非常に多い。たとえば、乗り物が好きな人のための職業として、パイロット・運転手・カーデザイナー・自動車整備士などがあがっている。しかし、自動車会社に就職というのは選択肢にはいっていない。もしも自動車をつくることに興味があれば、第一にでてくるのは、そういう選択ではないだろうか? 現在においては、何か少しでも大きなことは集団あるいはチームとしておこなうしかないわけで、そういう方向がほとんど考察されていないのは奇異なことである。
 ということで、その点を考察するために次に橋本治の文章を検討する。