村上龍 「半島を出よ」 

  [幻冬社 2005年3月25日初版]


 「高慢と偏見」のあとでこれを読むというのも・・・。
 今年の最初の方に、村上龍の「最後の家族」にかんして、ちょっと小説家としての村上龍は危ないところに来ているのではないか、などと書いたように思うが、失礼しました。パワー全開というか、エネルギー噴出というか、とにかく作者が自分のすべてをつぎ込んで書いている迫力が読者に直接伝わってくる小説である。
 作者も「あとがき」で書いているように、本書の直接の祖先は「昭和歌謡大全集」であろうが、系譜としては、明らかに「コインロッカー・ベイビーズ」や「愛と幻想のファシズム」に属するし、世界観的には、「五分後の世界」に相似する。ただ、「昭和歌謡大全集」が哄笑にみちた法螺話の世界であり、「コインロッカー・ベイビーズ」が童話の世界、「愛と幻想のファシズム」も「未来予測をしようと、この小説を書いたわけではない。私が書きたかったのは、ある種の「閉塞感」である」(講談社文庫あとがき)ということなのに対し、「希望の国エクソダス」以降の村上の小説は、どうも日本の現状批判と未来予測をしたがっているように見える。それは「愛と幻想のファシズム」を書いている過程で、自分が嫌悪するシステムの根底にあるのが経済であることに気づき、「ドロナワ式に経済にとりくんだ」(同)と正直に書いていた1987年ごろとは異なり、現在の村上氏が大変な「お勉強」をしていることは衆知のことであり、この「半島を出よ」には実に膨大な量の情報が詰まっている(巻末には200冊以上の参考文献が挙げられている)ことは「あとがき」で作者自ら認めているところである。「愛と幻想のファシズム」のころにはどんな日本の近未来を書こうとご愛嬌で済んだかもしれないが、本書での村上氏の日本の近未来の描写は、それなりに村上氏の日本の現状への分析の表明たらざるをえない。
 「希望の国エクソダス」は、中学生が日本を救って北海道に「希望の国」を作る話であるが、この「半島を出よ」は、北朝鮮軍が九州に進入して「希望の国」を作ろうとするのをオタク青年軍団が阻止する話である。「昭和歌謡大全集」では、オタク青年軍団対オバサン軍団の対決であったものが、オバサンがいつのまにか北朝鮮軍になってしまったのである。「希望の国エクソダス」の中学生は日本人であったから問題がなかったが、今度は「希望の国」を作ろうとするのが北朝鮮軍であるから困ったことがおきる。「これ(「五分後の世界」)を見る限り村上龍って完全な右翼ね」(「夢見る頃を過ぎても」)と中島梓にいわれる村上龍は本当は大の愛国者なのであり、日本人の危機意識のなさに苛立っているのは、そんなことでは日本は滅びるぞ!ということなのであるから、いくら北朝鮮軍エリートが「五分後の世界」のアンダーグラウンドの世界を作っても、それを承認するわけにはいかないのである。
 であるからこの小説の一番の焦点は、オタク青年がなぜ北朝鮮軍を敵とみなすようになったかという点が説得的であるかということにある。物語の当初において北朝鮮軍になすすべもなく翻弄されている日本人を笑い、北朝鮮軍ファンであったオタク青年たちが、なぜ北朝鮮軍と対峙することになったのか。もともとオタク青年たちは誰かと戦いたいだけなのであって、当初、北朝鮮軍と協力して自衛隊と戦いたいと思っている。しかし自衛隊は出てこないだろうという予想と北朝鮮軍は嘘をいっているということから北朝鮮軍は敵と規定されてしまうのである。「街を破壊し、人を殺し、この世界を瓦礫の山に、廃墟に、荒野に戻すのだ、というのがイシハラのものに集まった少年たちの共通のビジョンで」(p219)というのは「コインロッカー・ベイビーズ」以来の村上氏の通奏低音なのであるが、「コインロッカー」や「愛と幻想のファシズム」ではストレートに日本の破壊にむかった村上氏のパッションは、本書では日本の防衛にむかうのである。
 ここに村上龍の矛盾が現れてくる。村上龍は集団やシステムが嫌いで、日本の既成勢力が嫌いで、日本人が集団から離れ、個人になることを望む。それが、誰も責任を持たない日本の無責任集団体制から離脱し個人として自立しないと日本は滅びてしまうぞという主張と結びついてしまうのである。村上氏個人の願望がまた日本の利益と合致するということになってしまう。日本なんて滅びてもいいではないか、自分さえ幸福になれればという方向にはいかない。本当の個人主義というのは国境を越えるものかもしれないが、村上氏はそういう方向にはいかないのである。
 「昭和歌謡大全集」は完全な法螺話であって、オタク青年たちが熊谷の金物店にピストルを買いにいくと、金物店のおじさんが、「おばさんを殺すというのが気に入った、よく言うだろう、人類が滅んだ後に残るのはゴキブリだって、それは違う、おばさんだ」という。おばさんもオタク青年たちも村上氏の嫌悪の対象であって、それらが殺しあって滅びていくのを作者は楽しんでいて、読者もそれを読んで楽しい。
 しかし、「半島を出よ」では、北朝鮮兵とオタク青年たちが殺しあうのを読者が読んで楽しいというような方向にはいかない。これが法螺話ではなくて、日本の近未来への真面目な警告として書かれているからである。「国家というものは必ず少数者を犠牲にして多数派を守るもの」(p230)であるのに、実際には、《人命は地球より重い》などという感傷で、本当の政治がおこなわれないことに、氏は苛立つ。「昭和歌謡大全集」ではリアリティなど糞食らえであったが(オタク青年たちが熊谷の金物屋でピストルを買って、おばさんたちが自衛隊員からロケット砲を買い、さらにオタク青年たちが燃料気化爆弾を自作する話の現実性など作者ははなから問題にしていない)、「半島を出よ」では読者がリアリティを感じてくれなければ、小説は失敗なのである。だから作者は細部の構築に膨大な努力を注ぐ。
 加藤典洋は、「小説の未来」で「希望の国エクソダス」を評して、物語の外枠を作るのに膨大な力を発揮しているわりには、小説的な部分が少ないといっている。「半島を出よ」は、上下二巻の大作であるから、物語の枠組みを作るだけでなく、小説的な部分もそれなりにある。「コインロッカーベイビーズ」のハシとキク、「愛と幻想のファシズム」の冬二とゼロを継承する作者のピュアな核が、その小説的な部分からはあらわれてくる。しかし、物語の外枠だけに奉仕する登場人物も少なくない。というか、北朝鮮軍幹部とオタク青年たちのみが小説的人物であって、あとはすべて作者の意見表明のための操り人形である疑いが強い(北朝鮮戦士も類型的であるのかもしれない。「五分後の世界」の古きよき日本の女、マツザワ少尉がもしも類型的であるとしたら)。
 「69」も「昭和歌謡大全集」も、今読んでも楽しい。しかし「希望の国エクソダス」も「最後の家族」も本書も、日本の現実とかかわりすぎているため、あと10年たったら読めない本になっている可能性が高い。村上氏は、エンターテインメントとしての小説を提供しようとはしていない。フォーサイス福井晴敏のような小説を書こうとは思っていない。しかし、フォーサイスより(?)福井晴敏より小説家としての力量がある。氏の小説が読めるのはひとえに氏の小説家としての力量のせいである。
 加藤典洋は、「村上さんの近未来小説には、いつの頃からか、「危機を煽る」扇情的な性格がつきまとうようになりました」といっている。しかし、それが村上氏が小説を書く最大の動機になっているとすれば、言っても仕方がないことではないかという気がする。
 
 ストーリーは以下のようなものである。北朝鮮の精鋭部隊9人が九州に侵入し、試合中の福岡ドーム球場を占拠し、観客を人質にとる。それに少し遅れて旧式のほとんど木製の複葉機30機(レーダーに探知されない)に分乗した500人の兵士が飛来し、先遣部隊と合流し、福岡市を占領する。部隊は北朝鮮専制を批判する反乱部隊を自称している。反乱部隊であるから、北朝鮮軍の正規軍の侵入ではない。日本政府はしたがって、それを戦争行為と認定できない。侵入した北朝鮮部隊は、テロ部隊が東京に向かい皇居や政府中枢をねらっているという噂を流す。その噂におびえた政府は、九州と本州の間を遮断しようとする。北朝鮮からはさらに船舶により多数の兵士が九州に向かおうとしている。日本政府は《福岡の人々の生命と安全をまもる》ことを最優先にするために何もできない。あるいはそれを口実になにもしない。九州は実質的に北朝鮮反乱軍の支配下におかれようとしている。それに対してオタク青年たちが立ち上がる・・・。

 少数の人間が人質をとって主張を通そうとするというのは、たとえばフォーサイスの「悪魔の選択」がそうであった。7人のテロリストが人質としたものは100万トンの原油を積んだタンカーであったが。タンカーが沈めば100万トンの原理が流出して北海が死ぬ。
 中村正軌氏の「元首の謀叛」では、レーダーに捉えられない飛行物としてグライダーが用いられていたように記憶する。「元首の謀叛」は日本人が書いた小説であるのに日本人が一人もでてこないとんでもない小説で、まだ冷戦時代のドイツで東独の元首が西側に寝返るという破天荒なストーリーであった。中村氏にこの小説を書かせたものはドイツへの愛情で、東西に分裂したドイツを自分の小説の中で統一させようとしていた。
 フォーサイスの「悪魔の選択」が1979年、中村氏の小説が出版されたのが1980年、いづれも東西冷戦を前提にして書かれている。「悪魔の選択」のあとがきで訳者は、フォーサイスが、あなたの作品は30年後にも読まれるだろうかという質問に、読まれないだろう。自分の作品は純文学ではなくて、その時点でのトピックスをテーマにしている。自分はディッケンズではない、といったことを答えたことを紹介している。そろそろ25年がたっている。おそらく今「悪魔の選択」を読む人間はいないだろう。東西冷戦が過去のものとなってしまって、作品をささえるリアリティが消失しまっているからである。ディッケンズもその生きた当時を小説で描いた。しかしディッケンズは今でも読める(だろうと思う。ほとんど読んでいないので断定はできないが)。ゲイの「小説から歴史へ」での「荒涼館」の紹介を読むと、読んでみたくなる。ゲイの紹介によれば、ディッケンズは当時の裁判制度の批判という明白な意図をもって書いたらしい。しかしディッケンズの時代の裁判制度というものがまったく過去のものとなってしまった現在においてもそれが読めるとしたら、ある大きなものに翻弄される個という普遍的な問題の相が、そこにあるからであろう。われわれは思想家としてのディッケンズを読みたいのではない。人間を描くディッケンズを読むのである。
 それならばこの小説で、あるいは「希望の国エクソダス」で村上氏が描こうとしたものがなになのだろうかということになる。
 「希望の国エクソダス」では、中学生が日本を「あの国には何もない。もはや死んだ国だ」と語り、パキスタンを「生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊敬と誇り」があると語る。これは執筆された1998年から2000年の時点での近未来であった2001年から2008年までを扱った小説であり、まだアフガン戦争がおきる以前の時点で書かれている。そこで2001年から2002年におきると予想されていた中学生の反乱は実際にはおきていないし、中学生が海外投機筋から日本を救うなどということもおきていない。「希望の国」では、先例重視、対立回避、問題の先送りといった染みついた体質のせいで日本は二進も三進もいかなくなっていて、時代に敏感な中学生がサバイバルのために立ち上がることになっていたが、「半島を出よ」でも政治家や官僚は先例重視、対立回避、問題の先送りでただ右往左往するだけである。しかし今度はオタク青年たちは何ら建設的なことをするわけではない。ただ破壊するだけである。しかし「コインロッカー」と違って、その破壊が日本を救う。
 ぬるま湯的な日本への嫌悪とそれを破壊したいという衝動は「コインロッカー」以来一貫しているわけであるが、いつのころからか村上氏は猛勉強によって日本を救う処方箋を発見したと思うようになってきて、破壊だけではなく、日本の更正の道を小説の中で提示したい衝動をおさえきれなくなってきているのであろう。渡辺昇一だったかが、松本清張が昭和史研究のために集めた資料はなまなかの日本史学者など足元にもおよばない量であったというようなことを書いていたが、司馬遼太郎などもそうだったのであろう。村上氏もまた膨大な資料にとりくんでいるのであろうし、経済から国際関係まで渉猟する範囲は広がる一方であろう。そういうものが果たして一個人のよくカバーしうるものであろうかというのが問題であり。もしもそういうものをすべてカバーして、それらについて一家言をもつのでない限りは小説はかけないということになるとすれば、これから小説を書くことは困難になる一方であろう。
 小説が小説として成立するためには、村上氏のそういう見解への批判という視点も小説の中に組み込まれていなくてはならない。そういう点で一番の問題はオタク青年たちと対立するものが小説の中には何もないことである。もともとこれらオタク青年たちは、日本の既成社会からはじきだされてきたわけであり、日本の既成社会と対立しているのではあるが、それは青年たちの過去においてであり、現在においては青年たちは、閉じこもって生活しており、対立するものを何ももっていない。人間関係がないのである。だから小説を推進する力はひたすら行動ということになる。そして、そういう行動から物語を組み立てていくことにおいて村上氏は抜群の能力をもっている。だから本書はとても面白い。この上下二巻の分厚い本をわたくしは二日で読んでしまった。それにもかかわらず、これは何なのだろうかと思うのである。
 村上氏はエンターテインメントを書いてお金をもうけようと考えているわけではないであろう。氏にはいいたいことがある。だから書いている。ぬるま湯日本への嫌悪、リスクをとる覚悟のない、サバイバルしようという生命力をもたない日本人への唾棄、それを書きたい。そして同時に人間の生命というのがいかに脆くて、あっけなく失われるのか、そういうことを意識さえしていない日本人の能天気も指摘したい。平和ボケした日本人を許せない。そうであれば平和ボケの対称の地点にいる北朝鮮戦士は敬意の対象となる。事実、ここで描かれる北朝鮮戦士はほとんど凛々しいとでもいいたくなる書かれ方をしている。世界のそれぞれの場所ではみなこの兵士たちのように危機感をもって生きているのに、日本人はこんなことでいいのか、それが言いたい。それならばそんな日本は滅びてしまってもいいのではということになる。しかし、その日本で村上氏も生きているのだから、日本はサバイバルしなければいけないのである。
 ここで村上氏がいいたいことは、養老孟司が最近さかんに言っている、外国人から見ると日本人は生きていないと見えるという話、あるいはカッターナイフ、小さな鉛の玉で人を殺せるのだという話に通じるのであろうし、あるいは村上春樹の「スプートニクの恋人」で繰り返される《いいですか、人が撃たれたら血は流れるものなんです》にも通じるのであろう。
 氏が肌で感じている危機感は現代において普遍的なものなのである。だがそれがこういう物語とならなければいけないのか、それがわからない。村上氏は30年後にも読まれるかというようなことはまったく考えていないだろうと思う。今に意義がある本であれば、それでいいのであろう。そうはいっても、「コインロッカー」も「69」も「昭和歌謡大全集」も「五分後の世界」も、あるいは「テニスボーイの憂鬱」もこれからも読まれるであろうと思う。しかし、「最後の家族」や「希望の国エクソダス」あるいはこの「半島を出よ」も、賞味期限が相当限定される小説である。敢えてそういう小説を書くという点に、村上氏の危機感があらわれているのであろうと思うが、10年後に北朝鮮がどうなっているか(もちろん日本がどうなっているかも)誰にもわからないのであるから、こういう近未来小説で具体的なディテールを書き込むことは小説家としては冒険なのである。
 わたくしなどは、リスクをとるというのは、未来はわからない、一寸先は闇であるという覚悟で生きるということであると思うのだが。先例重視、対立回避、問題の先送りというのは、すべて未来が現在と基本的には変わらないだろうという前提での生き方である。この近未来小説が、未来は現在の延長にはないぞという警告を指し示すのあり、具体的な事例の予言ではないとすれば、これでいいのかもしれない。しかし「希望の国」の予言はあたらなかった。具体的な予言があたらなかったということでなく、日本が何らかのカタストロフを迎えるという予言があたらなかったのである。日本は変わっていくであろう。しかし、なし崩しに変わるのであろう。小説の中で、北朝鮮の兵士が初めて肌触りのよい下着を着たことが彼らの何かをこれから変えていくかもしれないと予言されている、それと同じようなじわじわした変わりかたをしていくのであろう。
 しかし、村上氏はカタストロフが早くくることを期待していて、それを小説の中で実現させたいのである。
 最新号の「考える人」(新潮社)の坪内祐三の連載「考える人」では吉田健一がとりあげられていて、そこで吉田の「炉辺の幸福」という言葉が紹介されている。村上龍の小説で、薬にしたくてもないものが「炉辺の幸福」である。村上龍の作品では「テニスボーイの憂鬱」が一番それに近づいたものであるかもしれないが、その後、「テニスボーイ」の後継作は書かれていない。「高慢と偏見」に限らず、小説というのは「炉辺の幸福」とどこかでかかわっているものであるという気がする。「半島を出よ」は大説なのである。
 (本稿は加藤典洋氏の「小説の未来」(朝日新聞社2004年1月刊)のなかの「希望の国エクソダス」を論じた部分に負うところが大きい。「希望の国」を読んで感じた何か非常にすかすかした希薄な印象が何によるのか、加藤氏の論を読んではじめて自分なりに納得できたように思った。加藤氏のこの論は村上龍の最近の小説を論じたものとして出色のものであると思う。)
 

(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

半島を出よ (上)

半島を出よ (上)