ジェイン・オースティン 「高慢と偏見」

  [ちくま文庫 中野康司訳 2003年初版]


 これを読んだのも、ライル→ウッドハウス・オースティンの流れの一環。今まで何回も挫折していたのだが、ついに初めて読破できた。それについては中野康司氏の訳が大きい。再度挑戦してみようかと思って、アマゾンで調べたら、この翻訳をすすめている人が多かった。これはちくま文庫のために新たに訳したものらしい。

 最初の部分。

 金持ちの独身男性はみんな花嫁募集中にちがいない。これは世間一般に認められた真理である。
 この真理はどこの家庭にもしっかり浸透しているから、金持ちの独身男性が近所に引っ越してくると、どこの家庭でも彼の気持ちや考えはさておいて、とにかくうちの娘にぴったりなお婿さんだと、取らぬタヌキの皮算用をすることになる。
「あなた、聞きました? ネザーフィールド屋敷にとうとう借り手がついたんですって」ある日、ベネット夫人が夫に言った。


 岩波文庫、富田彬訳。

 相当の財産をもっている独身の男なら、きっと奥さんをほしがっているにちがいないということは、世界のどこに行っても通じる真理である。
 つい今し方、近所にきたばかりのそういう男の気持や意見は、知る由もないけれど、今言った真理だけは、界隈の家の人たちの心にどっかりと根をおろして、もうその男は、自分たちの娘の誰か一人の旦那さんときめられてしまうのである。
 「ねえ、ベネット」と、ベネット氏の夫人は、ある日夫に言った、「いよいよネザーフィールド荘園に人がはいったってこと、お聞きになって?」


 原文。

 It is a truth universally acknowledged, that a single man in possesion of a good fortune, must be in want of a wife.
 However little known the feelings or views of such a man may be on his first entering a neighbourhood, this truth is so well fixed in the minds of the surrounding families, that he is considered as the rightful property of some one or other of their daughters.
 "My dear Mr. Bennet," said his lady to him one day, "Have you heard that Netherfield Park is let at last?"

 
 富田訳は英文和訳の答案として満点であるし、原文に忠実な訳であるが、日本語として読むと非常につらいものがある。一度にすっきりと文意が頭に入ってこない。それにくらべると中野訳は日本語である。この前のウッドハウスの小説といい、今度の「高慢と偏見」の新訳といい、読める翻訳が近年次々と刊行されているらしいことはご同慶のいたりである。日本もようやくと文明国になろうとしているのだろうか。
 
 一度も通読していなかったので、わたくしが持っていたオースティンのイメージは、ほとんどが倉橋由美子の「夢の浮橋」によって形成されたものであった。「夢の浮橋」の主人公の桂子さんは、英文科の学生でオースティンで卒論を書こうとしている。それで小説では、そこここにオースティンへの言及がある。そこで描かれるオースティンは中庸の人、理知の人、おぼれない人、「狂」とは無縁の人、恋愛という子どもの愚を笑い、地位と財産をしっかりと考慮した大人の見合いを肯定する人である。
 しかし「高慢と偏見」を読んでみると随分と印象が違った。主人公のエリザベスにもたっぷりと愚かなところがあるし、ダーシー氏もさまざまなな欠点をもった人間である。聡明なのではなく、愚かでないところもあるというだけの人間である。聡明であるといっても相対的なものに過ぎない。倉橋の小説が、上等と下等が明白に二分され、相互に断絶した世界であるのに対して、ずっと連続した世界である。人間の愚かしさについてはるかに寛容な世界である。それが可能となるのは、ドストエフスキー的な「悪」が慎重に排除されているからであるが。
 「高慢と偏見」が今日まで読みつがれているのは、オースティンの小説家としての飛びぬけた才能によるのであろう。登場人物の性格造形、プロット、伏線のはり方。多くの後世の小説家が彼女から盗んでいるのであろう。すべてのロマンス小説の原型がここにあるのかもしれない。
 ジェインやエリザベスの父、ベネット氏はなんだかわたくしをモデルにしたのではないかと思えるところが多々あって困った。ああいう父親をもつと子どもは不幸になるのである。だって子どもに本当のところあまり関心をもっていないのだから。
 こういう清新な訳で読むと、この小説が(形式的な道徳律をさておくことにすれば)現在日本でもそのまま通用することに驚く。リディアなんてそもまま原宿あたりにいそうである。
 海外文学を読めるかどうかは、翻訳次第であることを痛感した。もちろん、原書で読んでしまえばいいのだが。それももうあきらめた。

(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)


高慢と偏見 上   ちくま文庫 お 42-1

高慢と偏見 上 ちくま文庫 お 42-1