橋本治 「「個性」とは哀しいものである」

   新潮社雑誌「考える人」連載「いまわたしたちが考えるべきこと」最終回 2004年冬号


 ここでとりあげる文章をふくむ単行本が今年3月に刊行されることが予告されているから、その時にとりあげてもいいのだが、前の村上の文章との関係でここでとりあげる。

 国が「個性をのばす教育」といっている。教育には一般的な教育とマン・ツー・マンの教育の両方がある。国が担当するのは一般的な教育のほうである。一般的な教育は「全体の学力をアップさせること」をめざす。これはシステム化することができる。
 「個性」が誤解されている。個性というのは一般性を目指していく過程で生じる破綻から生まれるものであるが、それは破綻であるから起きてしまうものであって、自ら目指すものではない。そして破綻は修復されなければ、単なる破綻であって、個性とはならない。「個性的」であるとは当人が受けた傷に由来する。
 「個性」をめざすというのは、一般性の軽視である。そして一般性を学校が担当するなら、「個性」を担当するのは学校の外である。「個性」を伸ばせる場が外にあってこそ学校は一般性に専念できる。両者は相互に補完しあうものである。しかし学校の外で「個性を伸ばす教育」をおこなう場がなくなってきたとしたら・・・。
 個性を持たないほうが生きやすいベルトコンベア体制が日本ではできあがっていた。つまり学校教育、一般性の勝利である。当然そこでは個性は圧殺される。しかし、社会が十分に豊かになり、各成員を一般性で縛らなくてもいけるようになってきた。ではそろそろ「個性」をみとめてもいいか、となる。だが、ここに誤解がある。「個性」は一般性の達成の上に開花するものではなく、一般性を獲得する過程で生じる破綻に起因するものだからである。「個性」が傷であることが理解されていず、一般性の先にある差異を個性なのであると勘違いしてしまう。そこでの差異は無個性である。それは個性ではなく、「しめつけがゆるくなって生じたわがまま」に過ぎない。未熟の結果である。
 日本では、一般性が勝利する過程で、<個性を伸ばす>が負けていた。学校の外にあった個性を伸ばす場が、「古い」として駆逐されてしまった。それなのに豊かさを達成した側では、一般性のしめつけをゆるめだした。一般性が達成できていなくても、未熟であっても許容され、破綻を修復する必要がなくなる。修復という方向性を失ったことを「自由」といっている。
 現実には教育を授ける側で、どういう一般性を授けなければいけないかがわからなくなっているのである。それで「個性を伸ばす教育」などといっている。「一般性は自分たちが授けるから、外では個性を伸ばす教育をしてください!」といえる自信をなくしてきているのである。だから本来学校のそとでおこなうべきことを中で行おうとしている。
 「私」と「私たち」の関係が、ぐちゃぐちゃになってきている。かつてはすべて「私たち」だった。今では「私」だけである。「私のため」がすなわち「私たちのため」でもあり、その逆も真であるような有機的な関係が失われたのである。今一番必要なことはその関係の回復である。

 村上龍は「13歳の自由」という。しかし、それはたんに社会に規範とすべき一般がなくなったということである。反抗すべき、乗り越えるべき壁もなくなったということである。一般がこうなれと命令する。しかし、それはいやだ、という。そういう過程で、はじめて自分は見つかる。自分がなにが好きかではなく、なにがいやか、どういうものにはなりたくないかということは、社会がある規範を提示してこなければ見えてこない。サラリーマンになっても何もいいことはないよ、大会社に入っても何もいいことはないよ、とすでに社会が言っている。でも、だからといってどのように生きたらいいのか、それはわからないから、自分で考えてください、そう社会のほうでいっているのである。そういうのは自由なのだろうか? 
 仕事というのは他人の必要に応えるということであると、どこかで橋本治がいっていた。自分が好きであっても、他人からはまったく必要とされていないこと、そういうものは仕事にならない。「13歳のハローワーク」でも、村上は「劇団員」の項で、「閉鎖的集団における自己満足には、警戒が必要」と書いている。現在においても他人から必要とされているものは、まだ多く「会社」が提供している。そしてどのような職業であっても、他人の必要に応えることで、自分の存在の必要性がはじめて証明される。まず必要なことは自分が世の中で必要とされているという実感がもてることである。たとえそれが自分の好きなことでなくても、自分が必要とされていることがわかれば、それは充実につながるのではないだろうか?
 自己実現とか、自分探しとか、本当の自分とか、わけのわからない言葉が横行している。小倉千加子の「結婚の条件」で、小倉氏がある女性を「仕事とはいやなことを含めて、ぜーんぶ仕事なんです」と叱っているところがあった。結婚して生活の不安をなくして(夫にそこは依存して)、好きな仕事をしたいという女性に対してである。この小倉氏の本を読むならば、ほとんどの女性は自立なんて毛ほども求めていない。あまり村上龍の啓蒙活動は効を奏していないようである。小倉氏の本によれば、かつて橋本治は「女性問題の本が本屋にいけばこんなにある時に、それでもそういう問題に無自覚な主婦は、もう放っておけばいいと思う」といっていたという。
 どうも、村上龍の本は、自己実現などという意味不明な言葉と通じてしまう部分があるように思う。橋本治のこの文章は、世の中には実現すべき自己などもたない人がたくさんいること、そういう人は一般性の中で「私たち」と通じていくしかないのに、社会の側が一般性を放棄してしまっていることを論じている。そういうひとの「私」がふらふらとあてもなく浮遊している。そういう人の<好き>からその人に向いたぴったりの職業などというものが見つかるものだろうか?