竹村公太郎 「日本文明の謎を解く 21世紀を考えるヒント」

   [清流出版 2003年12月28日初版]


 毎日新聞の書評で養老孟司がとりあげていた本。著者はもと建設省のひと。ダムや河川の技術者から、長良川河口堰の担当者となり、さらには行政官として日本のインフラ整備にかかわったひとである。「地形と気象」から見た日本、インフラいわば下部構造からみた日本の話である。
 
 1603年、江戸幕府開府のとき、江戸はヨシ原が続く一面の湿地帯であった。関東平野縄文時代は海の下だったのである。それを広大な穀倉に変えたものは、利根川の水流の方向を変えるという土木事業であった。これは家康から現在まで延々と続いている一大事業なのである。

 情報の99.99%はクズである。本当に価値ある情報は削られた情報である。削るためには「専門分野にかんする深い見識」と「社会に関する広い知識と経験」が必要。それをもつものはトップリーダーだけである。

  カラスは頭がいいとよくいわれる。それはカラスに余裕ができたからである。まずカラスの天敵フクロウがいなくなった。もう一つの天敵の人間もむやみに鉄砲を撃つことをしなくなった。餌も都会には雑食の彼らにとってはいくらでもある。それで彼らには余裕ができ、遊ぶことができるようになり、それで頭がよくなったのである。

 ローマ時代にすでに立派な道があった。日本には道路文化がない。それは車文化がないということと裏腹である。日本に車文化が発達しなかったのは、日本が馬や牛の去勢をしなかったからである。去勢しない牛や馬は暴れてコントロールが難しい。だから牛車は発達しなかった。江戸時代の絵には車がない。あるのは人間が引く大八車だけである。それが明治になって人力車になった。
 ピラミッドは巨大なテトラポッドでナイルの水流の位置を保つためのものであった。

 江戸時代の女性の寿命は男よりもずっと短かった。しかし明治にはいるとどんどんと男にせまり追いついてしまう。それをもたらしたものは水道の整備ではないか? それは女性を水運びという過酷な労働から解放した。大正までの女性はチンパンジーと同じで、生殖+養育がおわると死んでいたのである。
日本人の寿命は大正以来延びてきている。しかし明治末から大正の初めにかけては低下している時期がある。寿命は乳幼児死亡率に大きく影響される。その乳幼児死亡率が明治末から大正の初めにかけて増加しているのである。なぜか?、それは水道の塩素殺菌が大正10年にはじまったからである。それまでの水道水は殺菌されていなかった! 殺菌が可能になったのは大正7年に液体塩素が開発されたからである。液体塩素はシベリア出兵での独ガスとして作られた。これが水道消毒に転用されたのである。この当時の東京市長後藤新平。後藤はその前に外務大臣としてシベリア出兵に同行している。そしてこの後藤新平は細菌学を専攻した医学博士なのである。その数々の偶然が大正後半からの乳児死亡率の低下をもたらしたのである。ということは塩素殺菌以前の水道の普及は菌をも普及させることで、結果的には乳幼児の命を縮めていたということでもある。

 日本くらい、雪国に人が住んでいる国はない。日本人が雪の季節に閉じこもって生活をせざるを得なかったということが、日本人の細工好きのもとになったのではないか?

 元寇は「神風」によって防がれた。元は大陸の騎馬民族で海をしらない。朝鮮半島の人々を水先案内人として使わざるをえなかった。その水先案内人は日本海を熟知していた。一番暴風雨が来そうな時期に元の軍を海に出したのである。

 日本の国旗は日の丸である。しかし、いろいろな国の国旗をみると、圧倒的に星と月が多い。星と月の国は熱帯や亜熱帯に多い。そういう国々では、太陽は「苦しみと死の象徴」であり、「月と星は安らぎと生気の象徴」。月の砂漠をはるばると旅の駱駝はいきました・・・。日本では太陽の下で働くことが健康なことなのである。産業革命以来、勤勉な労働をする温暖な国々で生活するひとが世界を席捲した。これは人種が優秀とかいうことではなく、道徳的だったというようなことではなく、単に太陽から遠かったからなのである。

 日本人が確たる原則をもたないのは、自然が大きく変化し、地震などの暴威の前には理念など無力であったからである。
 一方、一神教は砂漠から生まれた。不毛でなにもなく誰もいない砂漠で。いるのは「永遠で、無限で、絶対の神だけ。

 現在、最大の権力はマスコミである。マスコミを敵にまわしたら負け。まずマスコミと引き分けに持ち込む必要がある。マスコミは何かを隠しているところは絶対に信用しない。情報を全部だす。それがマスコミに信用してもらう鍵である。信用を得て、はじめて「感情」でではない、「理」で議論することが可能になる。マスコミに賛成論だけを書いてもらうことなどできない。賛否両論を書いてもらうことができればいいのである。

 なにしろ著者はインフラ整備が専門の建設官僚であるから、最近悪評高い公共事業を推進する旗頭である。当然、住民運動環境保全団体との折衝、マスコミとの対応などについて矢面にたってきた立場にある。その経験が本書の随所にでている。最後にあるマスコミ対応の心得としての隠さないことという指摘は医療においても他人事ではないと思われる。最近、医療はマスコミに評判が悪く袋叩き状態であるが、それも大元をたどれば、医療業界が本当のことをいっていない自分に都合が悪いことは隠していると思われているということが、その根底にあるのだろう。医師会などは、医者が現在評判が悪いのは、医者が金回りがよいのにお高くとまっているからだ、国民に信頼われるには、頭を低くして金があるふりをするな、などといっているが、とんでもない誤解であるとしか思えない。医者が仲間同士をかばっていると思われていること、それが原因なのである。何か不都合なことがあるとお互い同士隠しあっているに違いないと思われている。だからマスコミに一番信用されるのは、マスコミが気がつく前に業界内部の不祥事を公にし、内部で積極的な対応をすればいいのである。といっても、とてもそんなことができるとは思えないが・・・。銀行だって同じようなものなのであろう。
 西欧において科学が発達したのはなぜかということについては、いろいろな説明が可能であろうが、その一つとして地震がないところで科学は発達するということはないだろうかと以前から考えている。地震が根こそぎ生活を変えてしまうところでは、永遠の自然法則などといったものへの志向はでてこないのではないだろうか? 著者の「日本人の無原則の起源論」からそんな感想をもった。
 太陽から遠い国が勤勉になるという説は、案外とプロテスタンティズムの倫理などよりも強力な説明原理であるのかもしれない。
 水道の普及が日本人の寿命に決定的な影響を与えたという説は、あらためて公衆衛生が医療に与える大きな影響ということについて考えさせられた。また、かつては女性の寿命が男性より短かかったということを読んで、女性の寿命が男性より長いのは生物学的なものに由来するとばかり思っていたので驚いた。現在の人口統計においてはほとんどすべての国で女性の寿命が男性を上回っている。とすれば、これは生物学的なものとしか思えないが、かつて女性が過酷な労働を強いられていた時代には、すべての国で女性の寿命は男性より短かったのであろうか? あらためて医療はどの程度、これらデータの改善に寄与しているのだろうか?ということを思う。きわめて微々たるものなのではないかという気がする。
 道によって賢し、という言葉がある。著者は自分の専門分野から見ることによって他の分野のひとには容易に気付かれないことを発見している。さまざまな分野にそういう人がいるのであろう。野の遺賢あり、である。もっともこの言葉は官の人に使うのは変なのかもしれないが・・・。