折原浩 「ヴェーバー学のすすめ」

   [未来社 2003年11月25日初版]


 昨年末、羽入辰郎氏の「マックス・ヴェーバーの犯罪」を読んで、ここまで完膚なきまでに批判されている「プロテスタンティズムの倫理・・・」について、ヴェーバー学者はどう答えるのだろうかと思っていたら、まさにそのような本があった。ほとんど全編が羽入著の批判のために書かれている。そういう本に「ヴェーバー学のすすめ」などというタイトルをつけるとは、いい度胸である。
 ところで、わたくしは大学の教養学部のときに折原氏の社会学の講義をきいている。オリエンテーションで、ある上級生が折原氏を絶賛していたのである。それによると、折原氏は全受講生の答案に個人的な感想を書いてよこすというのである。こんな熱心な教師はいないということであった。少しは馬齢を重ねた今となっては、そういうやり方はある種の鈍感さとその裏返しの愛情飢餓の現われであることを感じるが、まだ二十歳前で純真であったわたくしは先輩の薦めるままに、まだ若い(当時32歳くらいか?)折原氏の講義をとってみた。講義の印象は何も残っていない。そのまま忘れていたのだが、次に折原氏の名前を見たのが、大学紛争?闘争?における造反教官としてであった。折原氏は学生の側に立ち、授業再開を拒否し大学解体を唱えていた。しかし(自身にはそれなりの理屈があるのであろうが)氏はそのまま大学を辞することもなく、解体されることもなかった大学に残り、いつのまにか教授になっていた。さらにその後に折原氏の名前を見たのは、中沢新一氏の東大教授就任騒動の時であった。折原氏は中沢氏排斥の急先鋒となり、結局、中沢氏は東大に就任できなかった。その時の折原氏の主張は、引用文献が一つもないような中沢氏の著書はエッセイか文学作品ではあっても学問ではない、そのような似非学者を東大という学問の府には断じて入れてはならない、というようなものであった。これを読んで、かつては学問の世界にとじこもっているとして丸山真男氏を批判したひとにしては変なことをいうなと思ったのを覚えている。それで今回のこの本である。教養学部時代に講義をきいた公文俊平氏や長尾龍一氏はその後学問の世界でそれぞれの成果を示している。しかるに折原氏の名前がでるのは造反教官としてあるいは中沢氏の批判者としてであって自分の学問業績を通してではない。ということで本書にあるのもその経歴にふさわしい無残な知的不誠実の例証なのである。本書はそれ自体としてはまったくとりあげるに値しないものであるが、現在の学問の荒廃を考える例としてとりあげてみる。

 さて折原氏の著は第一章「基本構想」、第二章「ヴェーバーの言葉・意味・エートス論」の二つの章で構成されている。これは、第一章「問題」、第二章「禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理」の二章からなる「プロテスタンティズムの倫理・・・」にならったものなのであろう。ごくろうさんである。
 第一章「問題」では、若いヴェーバー神経症に悩み、そのため仕事から離れざるをえなかったこと、それがヴェーバーをひどく苦しめたこと、その理由が職業人こそが完全な人間なのだという観念にヴェーバーがとりつかれていたためであること、なぜ職業人こそが完全な人間であると自分が考えるのかということが「プロテスタンティズム・・・」発想の一番根底になるのではないかということ、さらに「倫理」以降のすべての著作もその問題意識の延長線上にあること、自分の神経症という実存的問題を「ヨーロッパ近代人の歴史的運命」という普遍的な文化意義を備えた問題に結びつけた点にかれの偉大さがあるのではないかということ、折原氏はそのようなヴェ−バー像のヒューマンドキュメント・・・人間はこのようにまで生きられるのだ(p23)・・・を描くことこそを自分の将来の課題としていること、などが述べられる。
 ところで氏によれば、ヴェーバーはきわめて広い範囲の問題を論じているので個々の分野の専門家からヴェーバーの誤りが指摘されることはこれまでもあった。それがその狭い領域に限定されて論じられるならば、それは生産的でヴェーバー学のさらなる洗練に繋がる。しかし、そのある領域における些細な間違いを理由にヴェーバーの業績を全否定するようなものがあれば、それは断固批判されなければならない。
 なぜなら批判者は個々の専門領域における専門家ではあっても、ヴェーバーが全体のどういう構想のなかでその問題を論じているかということについてはほとんどあるいはまったく理解できていないからである。そういう視野狭窄的批判の極限であり理念型ともいえるものが羽入の批判である。こころある、まっとうなヴェ−バー学者の多くは、そんなものは抛っておけばいい、時間が解決してくれると思っている。しかし、羽入書を読んでそれを信じてしまう読者もいるかもしれない。それで「倫理」は読み方次第ではこうも読めるという別の可能性を示すことをしたい(ということで、実際にその後に示されるのは、たしかにこうも読めるということではあるが、それは一つの読み方ではあっても、それは以下にしめすようにはなはだ杜撰なもので、そのようにしか読めないということでは決してなく、それをどう判断するかは読者に委ねるべきであるにもかかわらず、いつの間にか折原氏は、こうも読めるではなく、こう読むべきであり、そう読むのが正しいとして、だから羽入書は間違いということにしてしまうような方向に議論を展開する)。
 さて、そのようなヴェーバーの執筆動機から考えるならば、「倫理」の柱は第ニ章であって、第一章は序論にすぎない、と折原氏はいう。。そしてヴェーバーの関心は彼自身もふくめた平信徒大衆において、どのような形で、カルヴィン的な禁欲主義が資本主義的職業倫理というエートスとなっていったかを示すことである。そう考えるならば、ルターの教理はカルヴィン派のようには禁欲的でない、いわば非禁欲的なプロスタンティズムであるし、ルターはいうまでもなく平信徒ではなく指導者・達人であり、またエートスではなくロゴスを扱っているという点で、「倫理」本論のヴェーバーの関心の中心からははずれている。ヴェーバーにおいて、ルターの問題は考察範囲には入るが問題の中心ではなく、その周辺部にすぎない。教理上のロゴスの問題自体をヴェーバー自身が自分で解明しようとしているわけではない。それは先行者の業績を利用しようというのがヴェーバーの姿勢である。しかし羽入はそのロゴスの外形にこだわるだけで、その意味や意義には関心をしめさない。そのような羽入の論文を許可し、学位をあたえ、賞をあたえたものたちの責任もまた重大である(おれが審査にあたっていたら絶対そんなことはゆるさないぞ!)。
 羽入はヴェーバーを詐欺師呼ばわりする。しかしそういうためには、全著作でヴェーバーが詐欺をおこなってることを示すか、あるいは「倫理」論文が全著作の中でどのような位置を占めているかを示し、その理由によって「倫理」の欠陥は全著作すべてに致命的な影響をあたえることを論証しなくてはならない。しかるに羽入はそれをしていない(要するに羽入は無概念感得の水準にある)というのが折原氏の論難の第一点である。しかし「単称命題」は「全称命題」を否定する力を持つというポパーの論を持ち出さなくても、羽入氏のいっていることは「倫理」でヴェ−バーは詐欺を働いているということだけであるのだから、折原氏のやりかたは個別の問題を抽象論に持ち込んで問題点を拡散させ論点から逃げるという、論争における不誠実なやりかたの見本である。
 第二の論難は、羽入がヴェーバー著のごく一部それも「倫理」第一章という本論への導入部しか議論していないということである。また羽入が「倫理」をどのように評価しておりどのような問題意識から「倫理」にかかわるようになったかという羽入自身のスタンスが一切示されていないことも論難される。しかし、羽入氏は序文においてそのことをきわめて明確に述べている。自分にとって「倫理」は理解不能の著作である。なぜ自分にとって解読不能であるかの解明を「倫理」の中のごく限られた部分を素材に資料批判からおこなう、というものである。そしてもし羽入氏の議論が説得的であるならば、今までの「倫理」を解読可能な文章であるとしてきた読み方に反省をせまることになる。羽入氏の答えは、自分がつまづく箇所を厳密に読んでいったら、そこにヴェーバーのごまかしが見えてきた。「倫理」論文が論理的にたどることができないのは、論理的には繋がらない部分をごまかして繋がるように見せているからである、というものであって、これ以上明確な回答はないと思う。ただこの羽入氏の答えあるいは問題意識はきわめて非生産的なものであって、単なる否定である、どう評価するかではなく、評価しようがないというまことにつまらないものではある。
 折原氏は羽入の本の構成にはなんの論理的なものがないという。しかし、そのようなことはないので、この構成からヴェーバーがどのように「倫理」論文を着想し、どのような方向で資料を読み進め、どこでつまづき、それをどのように隠蔽していったかについての羽入氏の仮説を明確に読者は見ることができる。それは仮説であって決して証明できるものではないが、少なくとも私にはきわめて説得的な議論である。
 また折原氏は、羽入はかれが問題とする論点が「倫理」の全論証構造を揺るがしかねない大問題であるといっているが、そのことの証明を羽入が一切していないとして論難している。しかし、羽入書の66・68頁にそれは明示されているし、そもそもそんなことはヴェーバーの「倫理」自体を読めば一目瞭然であって、そうでなければヴェーバーがあのような煩瑣で膨大な注をつけたのがなぜかということが説明できない。
 以下は具体的な論点。
 羽入説:ルターが「ベン・シラの知恵」ではじめて Beruf という語を現在の職業という意味に使った。しかし、ヴェーバーはそれが英訳聖書ではどう訳されているかを確認せず、「コリント1」という別の場所の訳しか論じていない。これはおかしい。
 折原反論:ヴェーバーがいっているのは、ルター訳が直接、他の国の聖書翻訳に影響したということではなく、ルターの精神が他のさまざまな国の宗教改革に影響したということである。翻訳が一対一対応しているなどとはいっていない。
 宮崎判断:しかし、そのことにこだわっているのはヴェーバーなのである。邦訳書の96〜109頁の膨大な注がその証拠である。
 折原説:カルヴィン派はルターほど言葉を重視しなかった。したがって彼らは「ベン・シラ」該当部分を天職という意味をもたない普通の語で訳している。そのことを知っているヴェーバーが英語原典にあたらなかったことがなにか問題であろうか? ヴェーバーは聖書翻訳史を論じているわけではないのである。
 宮崎判断:たしかに折原氏の言うとおりであろう。しかし、しかしどの国の聖書ではどのような翻訳をされてるかをヴェーバー自身が詳細に論じているのである。それなのに英語に関しては辞書にあたっただけというのはいかにもバランスがとれていないように思われる。
 折原書の66〜83頁あたりは、何回読み返しても意味がとれないところであるのであるが、それでもあえて読解すれば、羽入が訳語の時間的ずれと解している部分を空間的ずれとするべきだとしている部分を除けば(これもどう考えても羽入書のほうが正しいと思えるが)、あとは羽入の説自体はみとめるのである。羽入のいうようにルターはBerufという語は用いなかったかもしれない。Beruf相当語を作っただけである。そもそもヴェーバーは羽入がいっているようなルター自身による訳語の改定があったなどとは主張していないのである。ヴェーバーの関心は大衆宗教性なのであって、その大衆宗教性の帰結として最終的にルター訳聖書がBerufという訳に帰着したことが重要なのであって、だからヴェーバーがその当時の普及版のルター聖書を用いて議論していることは何ら問題ない。むしろルター派では用いられなかったBerufという語がカルヴァン派においてBerufという語にかわっていく過程を追うことが重要なのである。フランクリン論文でのcallingがルター原典聖書ではBerufとなっていないことのほうが重要なのであって、その違いを提示するためにこそ第一章は書かれたのである、というのが折原氏の主張であるように見えるが、ヴェーバーの「倫理」を読んで、そのように読める人がいたらお目にかかりたいものである。つまり、折原氏は「倫理」第一章をほとんど放棄するのである。大事なのは第二章であって、第一章の些細な傷くらいは何だ、角を矯めて牛を殺すな、というわけである。
 あとはあほらしいからこれ以上は本のあとをおう気がしないが、羽入氏は「倫理」第二章は議論しないと明言しているのである。カルヴィニズムが本当に資本主義を導いたのかもしれないし、折原氏のいうヴェーバーの本論は正しいかもしれないと認めている。しかし、ヴェーバーの主張は「倫理」に提示された論理によっては肯定されない、学問的手続きとしてはヴェーバーの方法はいんちきであるということをいっているだけである。「倫理」論文が第一章第一節を序文とし、第二章を本論とするだけの論文であった場合には「倫理」論文は現在ある形でのインパクトはもたない。フランクリンの文章からルター聖書に遡るという芸当がその力のもとなのであり、その遡及を可能にしているのがBerufという言葉なのである。それはどうでもいいことなのだという折原氏は、まわりが焼け野原になってもヴェーバー城に篭城するつもりなのであろう。
 折原氏には「ヴェーバーとともに四十年」という著作もあるらしい。ここまでくれば、もうあとにはひけないのかもしれない。健闘をいのるのみである。

(2009年1月30日追記:羽入辰郎氏の名前を羽生辰郎氏と誤記したまま気がつかないでいた。本当に申し訳ない。気がついた限り訂正した。)