山本俊一 「東京大学医学部紛争私観」

 [本の泉社 2003年7月20日 初版]


 養老孟司「運のつき」で知った本。
 著者の山本氏は当時の東大医学部疫学教授で紛争当時学生委員として、大学当局と学生側のパイプ役のような役割であったため、この間のさまざまな情報が集約する立場にあった。当時から30年以上の時間がたち、その当時の記録を公開したものである。
 といっても、ほとんどが大学当局から見た記録であり、その当時の教授会のやりとりなどがかなり細かく明らかにされている。
 わたしも東大医学部紛争?闘争?の当事者の一人であったわけだが、その当時の医学部の最下級生であり、本書を読んで紛争?闘争?が全学化する以前から医学部に伏流していたインターン制度への反対という問題の細部の経過についてはじめて知った部分があった。というのは医学部進学前の教養学部はキャンパスが異なり、上級生の動きなどはほとんど関心がなかったからである。
 そういうことで、医学部進学時に上級生がすでにおこなっていたスト(というのも今となっては変な話であるが、インターン制度(登録医制度)に反対するストライキ(授業ボイコット)が前年も春におこなわれて、5月くらいに解決していた)をさして疑問にもおもわず、年中行事というような感覚で、進学したとき、どうせすぐに解決というような気楽な感じで、参加したのであった。
 それが恒例の年中行事では終わらずに長期化したのは、医学部学生に対する誤認処分という問題が生じたためで、橋本治がいうように、《何故だか知らないけれど「すみません」て言う体質が教授会にないから》(「ぼくたちの近代史」河出文庫ストライキが長引き、その内に建物の占拠、それに対する機動隊の導入というような過程があり、それにより、紛争?闘争?が全学化したあとは、もう医学部だけの問題ではなくなってしまったわけであるが、とにかく当初はまさかこんな大問題になるとは思ってもいなかった。
 これは1968年のことであるから、学生の反乱は世界中でおきていたわけだが、後知恵では、インターン制度反対の運動がこれらと連動していたことはわかっても、中にいて、その当時はそんなことはほとんど感じていなかった。
 当時学生達の間では膨大に難解な言葉が飛び回っていたわけだが、東大紛争?闘争?は「東大という大学の権威をカサにきて、大学当局は自分の過ちを認めない」(橋本治「二十世紀」(毎日新聞社)というのが根本根底にあった。
 本書はその大学当局の右往左往の詳細な記録である。
 わたしなどは当局が誤認処分を撤回できなかったのは、大学当局が共同体となっており、内部にいる身内をかばい、外部にいる学生などどうでもよいとしていたためであろうと思っていたが、それほど簡単なものではなかったらしいことが本書を読んでわかった。医学部教授会も一枚板だったわけではなく、大学の中でも医学部はかなり特殊な立場にいたらしい。他の学部の教授たちからみると医学部の教授はバカだなあと思われていたらしいこともわかった。
 それで、山本氏の当時の状況への判断。
 『なぜ大学に紛争が起こるかは明らかである。それは大学は社会の弱点だからである。大学教授は、みんな「専門馬鹿」であり、大学はこの馬鹿集団で構成されている。だから、紛争が起これば、右往左往して何をしてよいか分からないか、あるいは、下手な対策を立てて、ますます傷口を大きくする』
 でもこれでは、なぜこの時期にこういうことがおきたのかについては何も説明していない。
 今でも相変わらず、教授は専門馬鹿で、なにかおきたらなにをしていいかわからず右往左往するだけなのであろうか?

 膨大で詳細な記録(個々の教授の面子、自分だけが悪者にされるのはかなわないという感情などなど)がある一方、大局観の不在もここに示されてる。
 われわれの現在の生も、あとからふりかえるとそういうことになってしまうのだろうか?