リチャード・ドーキンス 「虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか」

   [早川書房2001年3月31日初版]


 「利己的な遺伝子」のドーキンスの科学擁護の書。
 ニュートンが虹を解体して、異なる波長の光の束であると説明したことは、自然の神秘を科学が味気ない説明に変えてしまうことの代表的な例をされてきた。しかし、それは科学について生半可な知識しかもたないための誤解であって、科学をもっとよくしれば、科学こそがなによりも驚異に充ち、不思議に満ちたものであることがわかるはずであり、科学を駆り立てるものはその驚きのこころなのである、というのが本書の根本の主張である。

 同時に本書は、反科学やエセ科学あるいはオカルトを徹底的に批判することも大きな目的の一つとしている。しかし、同じような目的で書かれた『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』(新潮社1997年)が非常にきもちよく読めるのに対して、ドーキンスのは、何かいやな後味がする。それは本書が優越感と劣等感の奇妙な混合物となっているからであるように思う。科学が本当は諸学の中でもっとも優越したものであるという優越感と、それにもかかわらず、科学は現状においてそれにふさわしい扱いをうけていないという劣等感である。
 セーガンの本では、「科学」に反対する人がどのような点からそうするのかという点について、十分な理解が示されている。科学に反対する人は、単に無知であるからそうしているのではなく、彼らは科学について十分に知ったあとでも、なお科学に反対することは大いにありうることを認めている。
 一方、本書からは、「反科学を信じるなんてものは愚かである。もっと科学について勉強すべきである。そうすれば、そういうバカなことはもう考えずにすむであろう」というような声が透けて聞こえてくる。
 一例をあげれば、
 《ロレンスに欠けていたのは、進化論と分類学におけるほんのちょっとした知識であり、それさえあればこの詩はたちまち正確なものとなっていただろうし、より人々の心をとらえ、きわだったものとなったろう。ロレンスは炭鉱労働者の子供だった。彼に知識がもう少しあったなら、石炭が燃える炎を見て新たなインスピレーションを得ただろう。》(p47)
 炭鉱労働者の息子はまともな知識をもつことができないのだろうか?
 ロレンスは決して無学な人間ではなかった。その『無意識の幻想』(南雲堂1966年)は「ドクラマグラ」も真っ青という奇書だが、《君の太陽叢において君は本来の意識をするのである。そこの、胃の背後のところで。そこで君は、我は我なり、という深奥にして根源的な自覚を得るのである。…ここで君は宇宙のうちに君の独立的存在を意気揚揚と意識するのだ。」(p30)というようなことがそこに書いてあったとしても、それは科学的知識が足りなかったからという理由からではない。
 『無意識の幻想』のあとがきで訳者の小川和夫氏が書いているように、
 《ロレンスは、その瞬間に自分がやっている仕事に何によらず没頭することができた。どんな仕事でも、つまらないと感ずるとか、ていねいにする値打ちがないと思うようなことは、けっしてなかった》
 のであり、
 《ロレンスは料理もできれば、縫物もできた。靴下のつくろいもうまかったし、牛の乳もしぼれた、薪も上手に割り、刺繍もみごとにやってのけた。彼がおこした火はかならずよく燃え、彼がみがいた床は完全にきれいになった》
 のでもあり、そのうえ、ロレンスは、
 《彼のように高度の理知をもった人間としては珍しい才能をべつにそなえていた。つまり無為にすごすすべを心得ていたのである。彼は座っているだけで、完全に満足していることができた》
 人間なので、
 《そのような才能を失ってしまったことが、現代人を生きながら死なしめていることをよく承知していたのだ》
 という思いがあるゆえに、そういう本を書いた。。
 ロレンスに言わせれば、科学のやりかたは、そのような《没頭》を妨げるのである。
 小川氏は、そのようなロレンスの対極にあるものとしてヴァレリーをあげる。
 《人間の特質は意識である。そして意識の特質は、そこに何が現れようと、現れるすべてを不断に汲みつくしてしまうことであり、現れるすべてから休止なく例外なく離れていることである。》
 という「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説」の一節である。
 それに対して、ロレンスは《現れるすべてに休止なく例外なく密着する》ことを望んだわけで、これは科学のやりかたの対極にあることになる。
 人間の心情の動因の根底にあるものを<アポロ型>と<ディオニュソス型>にわけるとすると、ヴァレリーはアポロ型、ロレンスはディオニュソス型ということになる。<冷静な合理性>と<ひたむきな情熱>の対立である。。
 科学はヴァレリーの方法、アポロ型の方法による。しかし、世の中にはヴァレリーのやりかたにはリアリティーを感じられず、ロレンス的なやりかたに共鳴するというひともいる。
 芸術の分野の多くのひと、少なくともその一部は、<対象に密着する>こと<ディオニュソス型>をその方法としている。ドーキンスが『虹の解体』で引用している詩人の多くは、そうであるのだろう。
 それなら、科学の Sense of Wonder を知ったならば詩人は変るのか? 彼らは単に無知であったのか? それが問題となる。
 
 ドーキンスは科学の Sense of Wonder が、人の<ディオニュソス型>の衝動を充たすものだとしているように思える。
 また、詩人は「美」を歌うものであると思っているように見える。しかし、その「美」というのは対象にあるとても「静的」なもので、。眺める対象としての「美」であり、対象から距離をおく「美」であって、対象に入り込み対象と一体になった「美」ではないもののように思える。
 Sense of Wonder を感じるというのはもっと「動的」な何かであり、何に Wonder を感じるか?は人それぞれであり、その対象は「美」には限らない。
 ロレンスが説いたのは美ではなく、人間の幸−不幸であり、それは「科学」の埒外にある。

 何が「真理」であるかより、「なにがわれわれを幸せにするか」のほうにずっと関心が高いひとがいる。それにもかかわらず、ドーキンスは意識的に幸−不幸の問題をわきにおいて、「美」の問題に議論を限定しているように見える。
 それがこの本があたえるとても窮屈な感じの原因なのであろう。
 
 セーガンの本は、科学も人間の営みである以上、人間がもつさまざまな制約を逃れることはできないし、ひとはいつも合理的であるわけではなく、多くの場合わけのわからない衝動に突き動かされて、愚行を重ねるということを前提においていた。科学という営為が特権的な地位にいるわけではなく、科学も多くの愚行を重ねている。それでも、われわれは科学に対する信頼を失ってはならないし、科学というのがわれわれのもつ一番信頼できる方法なのだ、というのがセーガンの主張であった。 
 『虹の解体』では、科学の方法が高みにあることを前提にしていて、それを啓蒙していくならば、われわれは今よりも賢くなるという信念から書かれているように思える。そういう方向とは全然別の方向についても考察せねばならないという視点が、どこかに抜け落ちてしまっている。何か視野が狭い。
 
 本書はどういう読者を対象にしているのだろうか?
 第1〜2章が導入で、第3〜第5章が科学によるSense of Wonder の例、第6〜7章がエセ科学の否定で、第8章〜12章はかなり専門的は進化論の議論となっている。それで後半は、第1〜7章までと、内容が分裂している。第8章以下は進化論についての最新の話題を知らないひとにはちんぷんかんぷんではないだろうか? 第3〜5章はSense of Wonder の例としては弱く、たとえば、デイヴィスの「ブラックホールと宇宙の崩壊」(岩波現代選書NS)のほうがずっとSense of Wonder の感覚に富んでいるように、わたくしには思える。 
 第6〜7章のようなことを、なぜドーキンスがわざわざ書かなくてはいけないのだろうか?
 従来のドーキンスの読者が占星術などを信じているとは思えないし、また占星術を信じているいるひとが、自分の信念を批判的に検討するために本書をひもとくとも思えない。(そういう読者がいても、第6章にたどりつく前に挫折してしまうだろう。)
 ということで、読者対象がまったく異なる内容を無理矢理一冊ににつめこんだ感じがする。相互に整合性を書き、本全体として何を主張したいのか焦点がいま一つよくわからない本になっているので、本来なら3冊の本が別々に書かれるべきであったものと思われる。
 
 そして、それに関連して、自分の得意分野でないことをかなり無理して書いているなという印象がある。これはE・O・ウィルソンの「知の挑戦」(角川書店2002年)などを読んだときにも感じたが、なんでありとあらゆることを説明しつくさないと気がすまないのだろうか?という疑問が生じる。
 社会科学はまだしも、芸術や倫理、宗教までなんでも生物学の視野のもとで考察するのはなぜか? もちろん、それが十分な説得力をもって展開されているならいいが、なにか無理に異分野にわりこんでいる気がする。
 ドーキンスがいいたいのは、他の学者たちと一緒の時に、科学者が「客間にさまよいいった場違いな人間」(第二章のタイトル)であると感じるのはもうやめよう!、科学者も詩人・芸術家と対等な存在、科学者も詩人に勝るとも劣らない豊かな感受性をもった人間であるのだから、ということであろう。それが『虹の解体』の隠れた主題であると思われるが、そういう主張をせざるをないということが、隠れた劣等感を示しているようにも思える。
 ドーキンスが『利己的な遺伝子』を書き、ウィルソンが『社会生物学』を書いて、その分野において圧倒的な存在感を示したにもかかわらず、西欧社会においては、いまだに人文の人にくらべて、理科系の人間は低い地位に甘んじざるをえないのだろうか?