中井久夫 「徴候 記憶 外傷」

   [みすず書房 2004年4月1日 初版]


 その中の「医学・精神医学・精神療法は科学か」という論文のみをとりあげる。
 わずか20頁たらずで、このテーマを論じたものである。
 中井氏はハーマンの「心的外傷と回復」を訳している。ハーマンという人は大変問題のあるひとのようであるし、こういうタイトルの本であるからPTDSの話もたくさんでてきているが、心的外傷の問題はまた別に論じたい。

<中井氏の論>
 科学の定義は難しい。せまくとれば、われわれがみな疑問なく科学であると思っているものも科学からはずれてしまう。広くとると占星術も科学になる。
 19世紀の科学には数学も含まれていた。20世紀では数学は科学でないことが確定した。
 しかし、その確定が遅れたのは、科学は数学で表現できる領域で発達したからである。科学を導くもう一つの糸は「美学」である。式は美しくなければならない。
 数量化が可能となるためには、質が同一でなければならない。

 ディーデングは科学の方法論を4つに分けた。
①モデルづくり
②実験
③統計
④事例研究
 彼はこれらのどれかが優先するということはないとした。自分(中井)はこれらが相互に関連すると考える。
 科学は徹底的に対象化したモノに対して適応される。

1)医学は科学か
 人体研究を医学というなら科学である。
 エランベルジュは疾患の研究からは「疾患は治療すべきであるということが理論的に出てこない」ことを指摘した。医学は「科学+倫理」である。
 そこでは倫理が優先する。科学的であっても反倫理的であれば、医学ではない。一方、医学は、治療に資するのであれば、科学が証明していないものでも用いる。
 囲碁は将棋は数学化できるか? 囲碁や将棋は「相手」がある。「相手」は科学が相手とする「再現性のある」対象ではない。「相手」はつねに裏をかこうとする。
 医学も「相手」をもつ。「病」?「病める人」?
 だから、何が正しかわからないときにも何かしなければならない。そこで用いられるのは「経験」であり、「直感」であり、「熟練」である。
 医療ではマニュアル化できない部分がある。医療で用いられるのは料理と同じで「レシピ」である。レシピによればできるものはたとえば「トンカツ」である。しかし、どれひとつとして同じ「トンカツ」はできない。
 以上より、医学は科学でない。
2)精神医学は医学か
 脳と心には境がない。ここで心が終わり、ここから脳がはじまる、という場所はない。だから精神医学を脳の医学とする立場と心の医学であるとする立場は相克しない。
 脳と心を統一した視点から見ることは人間にはできない。それは生育の過程と言語の構造からいって、心身二元論を人は容易には消せないからである。
 脳に対して薬を与えようとしても、投薬はすでに精神療法の側面をもつ。
3)精神療法は科学か
 医学は科学とは別の、現実との対処法をいう側面をもつことからいっても、精神療法は科学とは別個のものである。
 広義の精神療法自体は科学ではないが、その基盤にある自然治癒力は科学の対象となりうるはずである。

 もし、医療というものを、一人の医療者と一人の患者の関係と考えれば、中井氏のいうとおりであろう。しかし、あるマスの患者を対象とすれば、それに対しては③の統計が利用できるはずである。個体差はマスの中で相殺されてしまう。それが二重盲検法がなりたつ所以であろう。
 しかし、目の前にいる一患者がどのような個体差をもっているかはわからないから、ある治療法の有効性は確率的にしか予言できない。
 さらに中井氏のいうように投薬行為自体が精神療法効果をもつとすれば、対象患者の個体差とともに治療者側の個体差も考慮にいれなければいけなくなる。これらもマスになれば相殺されるのだろうか?
 一般医療行為の中で精神療法効果がもっとも大きな役割を演じるであろうのは、本来自然治癒力のみで十分であるような状況であろう。抗癌剤あるいは抗生物質投与などにおいては、薬自体の作用と精神療法効果の比重は前者がずっと高くなるであろう。
 精神医学はもっとも疾患概念が曖昧であり、投薬をふくめた医療行為自体の精神療法効果が大きい分野であろうから、統計的なあつかいがもっとも難しい医療分野であろう。
 精神療法についてはさらにその傾向が強いであろう。
 医療から人体研究としての分野を除外すれば、臨床医学を科学と結びつけうるのは統計学・確率であろう。そして統計学・確率はもともとマスに対してしか適用できないものであるから、1対1の対応を原則とする現場の臨床においては、それほど有力な武器にはなりえない。
 今、目の前に胃癌の手術後の患者さんがいて、一応治癒切除であるが、五年以内の再発率が20%であるということがあったときに、この患者さんの関心は、再発するかしないかなのである。
 たぶん再発はしない、再発しない可能性が高い、多分大丈夫などという日本語と、20%という数字がどう違うかは疑問である。再発率五分の一などといわれても五回の人生を生き、その内の一回だけ再発するなどということはないからである。

 あるインフォームド・コンセントの現場にたちあったところ、一見冷静にきいたいたように見えた患者さんが、じつは「離人」症状をおこしていたのであり、他人事のようにきいていて、その晩、精神療法を必要とする状態になったという話は一般臨床家にとって大変耳の痛い話である。
 1時間くらいかけて十分に説明したとこちらで思っても、説明を受けた側はほとんどなにも分かっていないということはしばしばある。
 親戚のものが脳出血で入院したことがある。患者の配偶者に時間をかけて丁寧に説明をしたつもりであったが、あとからきくと、最初「脳出血」という病名をきいたときに頭がボーッとしてしまい、あとの説明は雲の上のようでなにも覚えてということであった。こういう話は身内だからきける。
 別の患者さんで、外科で癌の手術をしたが再発し着々進行している患者さんがたまたま内科にきた。「外科で手術をして、外科の先生はすべてうまくいっているというのですが、体調が悪いのです。何か病気でしょうか」という。あとで外科の担当医に訊いたら、「すべて本当のことを言ってあります。癌の病名も、それが再発していることも、腫瘍マーカーが着々とあがっていることも、みんな包み隠さず、言ってあります。抗癌剤も効かなくなってきて、入院してもらってもできることがないから、状態のいい間は自宅で過ごしましょうということについて、患者さんにも納得してもらっています」という。患者さんはこれらの説明について、「離人」的にきいていたのかもしれない。
 臨床が科学になるわけがないと思う。