小方厚「音律と音階の科学」(1)

   講談社ブルーバックス 2007年
   
 本書を読んで今まで根本的に誤解していたことがあることに気づいた。楽音と非楽音(雑音?)の違いとでもいうのだろうか? 木琴のように一定の長さの木片を叩くと楽音がでると思っていたのだが、両端が固定されていない木片は叩いても整数倍音がでないのだそうである。それが整数倍音を出すようにするために、特定の位置を固定する、下にパイプをおく、木片の下側に溝をほるなどのさまざまな工夫がしてあるらしい。それをすることによりはじめて整数倍音がでて、西洋音楽で用いることのできる楽音を出せる楽器となるのだそうである。楽音となるためには両端が固定されている弦とか一定の容積に空気が封じこめられた管とかが必要になるらしい。ティンパニは一定の封じられた空間の上に張られた皮の上を叩くから楽音を出すことができる。一方小太鼓は叩く反対側も皮であるからそこも自由振動し、そのため一定の封じられた空間を形成できない。それで小太鼓は音程をあたえないということらしい。
 小方氏は西洋音楽の特徴として、1)ハーモニーを重視する。2)管楽器と弦楽器を使う、の二つを挙げている。これは表裏一体なのであって、ハーモニーを重視するためには整数倍音を出せる楽器が必要で、そのためには管楽器か弦楽器が必要とされる。ピストンの「管弦楽法」をみても、圧倒的に弦楽器と管楽器にページが割かれており、打楽器はマイナーな扱いである(ティンパニが主で、小太鼓以下はその他大勢という感じである)。現代音楽のオーケストラ作品ではやたらと多くの打楽器が使われる傾向があるように思うが。それは楽音的なものへの反抗なのかもしれない。
 たとえば、橋本絹代氏の「やわらかなバッハ」では、楽音が話の前提となっている。楽音があることが前提であれば、それは西洋音楽こそが音楽であるということもまた前提されていることになる。現在西洋音楽が優位であるのは何故かということをずっと考えてきているのだが、本書によれば、それには理由がないことになる。たまたまわれわれはハーモニーを重視する音楽を選好しているにすぎないということになる(われわれはハーモニーを美しいと感じる生物学的な基礎をもっているかということが問題であり、それは本書の後半で一部論じられる。しかし、いくつかの音の組み合わせのうち、どのようなものを美しいと感じるかということは議論できても、西洋音楽とはことなる体系の音楽をなぜわれわれは選好していないのかという議論は、われわれはすでに小さいときから圧倒的に西洋音楽の系列の音楽のみにさらされて生きてしまっているので、検証がきわめて困難な問題となる)。
 もう一つ、本書を読んで頭が整理されたことがあって、それは音程とは対数関係であるということ、あるいは「差」ではなく「比」であるということである。橋本氏の本を読んで音程の単位としての「セント」という言葉を知った。全音=200セント、半音=100セント。しかしこれでいうと「セント」というのは足し算あるいは引き算ができる単位である(半分たす半分は全部)。ところが音程の周波数は比例関係であって(オクターブ上の音は周波数が倍)であって、足し算の関係にはならない。ここで「セントは周波数を対数変換したもの」とあって、ようやくこのあたりがのみ込めた。われわれの聴覚は等比数列を等差数列に転換するというとんでもない能力をもっていることになる。鍵盤楽器が普及したのは15世紀とされるが、その楽器は周波数を対数処理したもので音程が決められている。しかし、対数が普及したのは17世紀と本書には書いてある。対数を知る前からわれわれは対数的な処理ができていたことになる。生き物はとんでもない能力をもつものである。
 さらにいわれてみれば当たり前だが、情けないことに、いわれるまで気がつかなかった指摘がある。音程の数え方は合理的でない、なぜならそこにはゼロという概念がないから、ということである。同じ高さの音を1度という。同じなら差がないからゼロでなければいけないのに、それを1度というからおかしくなる(つまり、音程は満年齢ではなく、「数え」でいっていることになる)。また単位がはっきりしない。白鍵の個数を単位にしているが、となりあう白鍵の間隔は全音のことも半音のこともある。そのため「長」「短」「増」「減」「完全」などが音程の頭につくことになった。
 著者は物理学者であるので、この音程の問題を数学的にきわめて明晰に説明している。音楽では使う音の高さは不連続にデジタル化されており、絵画では使える色が連続しているのと対称的である、という。デジタル化とは連続量を段階的に区切って数字であらわすことである。もちろん弦楽器のグリッサンドのように連続して音を変化されることは可能であるが、そもそも楽譜がデジタル表記によっている。
 音律が等差数列ではなく等比数列であり、オクターブが倍の振動数であるなら(オクターブ違う音をなぜ似ている音と感じるのかは、まだ本当にはわかっていないと書いてあってびっくりしたが)、半音は2の十二乗根比の周波数となる。すなわち 1.0594・・。
 ピタゴラスは弦を三分の二に分割して弾いた時の音と開放弦の音が心地良くひびくことを発見した。これは現在でいう五度の音程であるが、ピタゴラスは五度を積み重ねることで音を作った。C→G→D→A→E→H→Fis→Cis→Gis→Dis→B→F、しかしこのFから五度上のCをつくると最初のCと一致しない。3のm乗と2のn乗の比が2となるような整数m、nは2と3が素数である以上存在しないからである。ピタゴラスはm=12、n=18とすると、その比が 2.02729となるのを近似的に2であるとみなした。つまり12に分けると言うこと自体が近似なのであるから、正確に一致しないのは当然なのである。
 現在オクターブは12に分けられているから、これを時計の文字盤とみなすとわかりやすい。周波数が2倍になると一回転する。スタートが0時であるとするとまた0時になる。それなら3倍は? それを7時である(半音7個分)とするのが平均律であるが、本当は7時の210度ではなく、210.587度になる。この 0.587度x12の約7度がピタゴラスコンマになる。
 ピタゴラスの音律では、半音が二種類できる。大きい半音と小さい半音である。CとC♯は大半音、C♯とDは小半音、以下交互に繰り返すが、FとF♯、F♯とGの間は小半音が続く。いずれにしてもピタゴラスコンマは困るから、通常はそれをG♯とD♯の五度を狭くとることでごまかした。
 ピタゴラスは2倍音と3倍音だけで音階をつくった。しかしそこに5倍音を入れると? だがピタゴラス音階には5倍音に相当する音がない。ピタゴラス音階ではドとミが協和しない。5倍音を導入するとその問題を解消できる。それが純正調である。
 CからEを、FからAを、GからHをとる。Cから5度音程でGとFがきまり、GからDをえる。そうするとCDEFGAHCのハ長調の音階ができる。問題は純正調では転調ができないことである。アナログ楽器ではなんとかなるのだが、デジタル楽器では困る。純正調では全音も二種類できる。
 一方、ピタゴラス音階ピタゴラスコンマの問題があり、転調が限られる。それらを解決したのが平均律であるが、平均律は響きを犠牲にして、転調の効率をとったものである。情報理論によれば、アナログをデジタル変換するときにもっとも効率がよいのが、デジタル化のステップを均一化することである。平均律はそれにかなっている。したがって平均律が普及して以降の音楽は平均律でいくことは理にかなっている。問題は平均律以前につくられた音楽を平均律で演奏することの是非であろう。
 ミーントーン(中全音律)は長3度をいかし、完全5度を犠牲にする(短くする)ことで作られる音律である。モツアルトが好んだ。これでも半音には2種類ができる。さらにミーントーンの一部に完全5度を導入する折衷案も試みられた。これをウエル・テンメラメントと呼ぶ。ウェルクマイスター、キルンベルガーなどいくつかの音律がある。調によって和音の響きが異なる。これではすべての調が演奏可能であるが、#や♭が少ない調ではミーントーン的、多い調ではピタゴラス的な響きとなる。バッハの「平均律」はウェルクマイスター音律のために作曲されたという説がある。この音律はロマン派を経てドビュッシーの時代まで使用されたという。
 ここまでで音律についての話は一応おわりである。橋本絹代氏の「やわらかなバッハ」を読んでこちらの頭に生じた混乱のかなりは解消することができた。「やわらかなバッハ」ではピュタゴラスが紀元前5世紀ころ振動数比が簡単な整数比になる音は協和することを発見したとして、2:3の完全5度、4:5の長3度というのをいきなり示す。一方、ピタゴラスカンマは5度を積み重ねることで生じてくるわけで、ピタゴラス音階はもっぱら5度をによっていて3度については考慮していない、だからピラゴラスの話でいきなり5倍音である長3度の話がでてくるのはミスリーデングであり、3倍音の世界と5倍音の世界は独立であり、本来それは2倍音の世界とも独立していて、C4の2倍音からC5を得、C4の3倍音をオクターブ低くしてG4を、C4の5倍音を2オクターブ低くしてE4をとるとC4E4G4はきわめて美しく響く、あるいはC4G4C5E5はさらに?美しく響くということはあっても、それは他のDFAHの音を規定する何物もなく、ハ長調の音階さえ作れない単なる垂直な響きであり、ましてその間の半音を規定するものもないということである。簡単な整数比では短2度や長2度を表せない。もちろん、それらの音程は美しく響かない。だから簡単な整数比にならないのではあるが、しかし平均律の第1巻第1番プレリュードですら、すでに2小節目から長2度音程がでてくる。ここは下属和音がDFAで代用されるとともに下属和音の構成音としてのCも使われ、そのCは3小節目の属和音のHに半音下降するための繋留音ともなっているのだから、ここは一種の緊張を生じる〈不協和な〉小節であり、次の小節での解決を準備する小節なのだとは思うが、これはすでに音楽が美しい響きとは何か別のものもまた求めていることを示しているのではないかと思う。(第2小節は第3小節へのドッペルドミナントであるDF♯ACの代わりに、DFACが用いられているのだろうか?)
 さて橋本氏の本では、振動数が簡単な整数比を持つ音同士が協和するということがアプリオリな前提として導入されていた。しかし簡単な整数比というのは数学的な事実、あるいは物理学的な事実である。それを協和しているあるいは美しいとわれわれが感じるということはそこから自明に導入されてくるものとはいえない。著者の小方氏は物理学者であるので、それを過去の論文でしめされた実験結果から説明していこうとする。ここの部分は純理論的、純粋数学的なそれまでの部分とはことなったユニークな部分であるので、稿をあらためてみていくことにする。
 

音律と音階の科学―ドレミ…はどのようにして生まれたか (ブルーバックス)

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