T・イーグルトン「詩をどう読むか」(2)

     
 「文学の楽しみ」で吉田健一はこのように書く。

 リイヴィスは、現代文明は機械的で俗なもので、文学を文学として見る時に、そこに現代人の救いがあるという説らしい。リチャアズは、文学に接するのが人類にとって貴重な経験であることは、何れは科学が証明するだろうという風なことを言っている。

 一方、イーグルトンは「詩をどう読むか」で、

 F・R・リーヴィスが詩の官能的な細部に焦点を当てたのは、一つには、産業秩序に対する彼の反感(それは抽象化と功利性に毒されていると彼は感じていた)の表れだ。だから、詩はいかに間接的であるにせよ、政治批判の一形式だった。またI・A・リチャーズによれば、人間のさまざまな衝動の調和・統一がもはや保たれなくなった都市社会に対して、一篇の詩の微妙なバランスこそが、矯正剤の働きをするのだという。これらの批評家たちはみな、さきに触れた他の人々をも含めて、たとえ懐旧的な、あるいは理想主義的な立場からにせよ、社会史に深く鋭い反応を示した。

 吉田健一はリーヴィスやリチャーズを嗤っている。イーグルトンは(留保つきにせよ)もちあげている。吉田健一がなぜ嗤うのかといえば、リーヴィスやリチャーズは文学を味読する能力を欠いているからこそ、そういう一般論に逃げるとするからであるし、イーグルトンは彼らは文学を深く享受する能力をもっていただけでなく、その享受が文明批判にも繋がったからこそ評価に値するとするわけである。
 吉田健一によれば、文学というのは地道な手織り木綿風なものであって、文学が我々を楽しませてくれるのはその優雅、温かみ、あるいはこまやかさといったものによってなのである。一方、イーグルトンによれば、われわれがその優雅、温かみ、こまやかさによって詩を享受するならば、その詩は同時に現代文明の歪みをも照らし出してくるはずなのであって、有能な批評家は単に作品を深く読み込むことをするだけでなく、その作品が示唆する現代社会の問題点をも指摘できなければいけないことになる。
 それならば、詩を書くのは、あるいはもっと問題を一般化して文学作品を著すのは、現代社会の問題点を指摘するためなのだろうか? 答えは二つの方向があるだろう。一つはそれにその通りと答える立場であり、文学者は何らか現代社会がもつ問題点についての自分の見解を示そうとして書くのだというものである。もう一つは作者自身は自分の作が持つ現代社会での意味についてはあまり解っていないのだが、その作者も気づいていない問題点を見つけ出してきて指摘することこそ批評家の役割であるとする立場である。批評家というのは作者よりもずっと高い立場にいる人間なのであって、地を這って作品を書いているひとには見えないものがちゃんと見える位置にいるのだとする立場である。その高い立場が文学理論なのであるが、だがそれは往々にして、血も涙もない抽象観念や中身のない一般論に堕してしまいがちである。事実、イーグルトンには現在の文学理論はそうなってしまっているのではないかという危惧があり、それで頭でっかちな理論をいきなり振りかざすのではなく、まず一つ一つの作をじっくりと読め!、俺がその実例を示してやろう!、ということで本書が書かれることになったのではないかと思う。事実、本書の後半で展開されるのは実に詳細な詩の味読であって、本当にイーグルトンという人は文学作品を読むのが、詩を読むのが好きで好きでたまらないひとなのだなあと思う。しかし同時にこのひとは血の気が多いので、単に書斎で詩を読んで楽しむなどというブルジョア教養主義的な立場にはとても甘んじることはできないわけで、自分の味読が現代商業資本主義の歪みを照射して、その変革につながる何かを示すということがないと我慢できない。
 お菓子をつくるのが好きなひとがいて、自分や家族で食べるだけでは我慢できなくなって、もっと一般のひとにも食べてもらいたくなる。それと同じに、詩を読むのが好きなひとがいて、自分で楽しんでいるだけでは我慢できなくなって、もっと一般のひとにこういう風に読むと詩はもっと楽しめると知らせたくなる。そこまではいいだろう。往々にしてそれは余計なお世話になってしまうかも知れないけれども。しかし、あなたが今この詩を好んで読んでいるというのは、実はあなたが現代社会のこういう問題点が見えていないということでもあるのだと指摘するとか、あるいは詩を読んでいるひとに「広島からあと詩を読むのは野蛮である」と告げたりするのは、なんだか野蛮だなあ、とわたくしには思えてしまう。
 吉田健一はいう。「人類のことが心配ならば、文学を一杯の紅茶とともに楽しむのとは別に心配すればいいではないか。」 文学は人類の運命などとは関係ないよということである。イーグルトンにいわせれば、こういう見解こそが現状肯定につながる度しがたい保守主義ということになるのだろうが。
 問題は文学作品には何か社会を変えていく力があるのだろうか、ということである。それでお誂え向きに「文学の楽しみ」に「何の役に立つのか」という章がある。しかしそこでいわれているのは、何の役にも立たない、ということである。それは単に社会の役に立たないだけでなく、自分の役にも立たない、つまり何の目的をもたないということである。これはわれわれの生には目的がないということでもあって、われわれはただ生きているのであるが、それが文学を読むことによって豊かになることがあるというだけのことである。これは究極の現状肯定、究極の保守主義であるのかもしれないが、それでも吉田健一はわれわれの世界が生きやすくなることがあることはみとめて、その点での進歩は肯定する。とすれば、啓蒙主義の伝統につらなるひとであると思うし、イーグルトンとの接点さえないわけではないと思う。しかしイーグルトンは世の中が根本的にあらたまること、世界が根源的に変わることへの希求が非常に強いので、詩を読んで世界を肯定してしまうひとはやはり許せないのだろうと思う。
 吉田健一のほうが世界への断念が強くて、イーグルトンはまだ世界への希望を捨てきれないのであろう。そういうイーグルトンにはオーデンの「美術館」も世界への断念の勧めと読めるのであろう。私がいてあなたがいるが、相互に関係ない。そういうのを孤独というのだろうか? 「文学の楽しみ」の最終章も「孤独」と題されていた。「文学に必要なのもこの孤独である。・・我々は或る言葉を美しいと認める時に自分一人になり、それは・・人間であることを止めず、ここに一人の人間がいるという意味での、その限りでは凡ての人間である自分であり、これは我々がその経験をすることで何の得をしなくても、その瞬間に少なくとも我々が自分というもの、自他の区別というものを忘れることで解る。」 吉田健一にとって、文学はわれわれを一人にさせるものであるが、そこでは自我の意識というようなものは消えて、もっと人間の根源的な部分にわれわれを立ち返らせる。イーグルトンにとっても、文学は一旦は人を一人にするものなのであろうが、しかしそこに止まっていてはいけないので、その孤独から反転して孤独者同士の連帯にむかわせる力をもつ、そういうものが真の文学ということになるのであろう。昔、「連帯を求めて孤立を恐れず」というようなことがいわれていたことがあるような気がする。とすれば、さしずめ、「孤立を求めて連帯を恐れず」というようなことになるのだろうか?
 

詩をどう読むか

詩をどう読むか

文学の楽しみ (講談社文芸文庫)

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