J・グループマン「医者は現場でどう考えるか」(3)

 第5章は「家族の愛が専門家を覆す」という題(原著では、A New Mpther'challenge という題)で日本語訳はやや感傷的な感じがある。ベトナムから里子としてアメリカに連れてきた子どもがすぐに重篤な免疫不全状態となり、SCID(重症複合免疫不全症)の診断を受けるが養母が、これは栄養不良による免疫機能低下ではないかと主張し続け結局それが正しかったという症例。専門家の診断が必ずしも正しいとは限らないという話。
 第6章は現在定説となっている医学的手技が実は大した根拠なしに決められていることが多いこと(心臓タンポナーデの廃液をどの部位からの穿刺で行うか? 心臓のシャントがどの程度であれば手術をおこなうか? など) また確かに天才的な外科医というのはいるが、それは手先の器用さによるのではなく「視覚空間」能力によることなどがいわれる。また演繹的推論による議論の危険性(あることに干渉することはそれが予想していないところにも影響することがある)もいわれる「。
 第7章は著者自身が経験した右手手首の痛みの原因が何でありどのように治療したらいいのかということについて著者が相談した医師が実にさまざまな診断と治療法を提示したという話。そこでいわれるのはたとえばMRIは実に優秀な機械だが、優秀であるがゆえに些細な異常を見出してしまうというようなことである。多くの小さな異常は何ら症状をおこさない。
 第8章は現代医療の一つの頂点である放射線診断の話と病理診断の話。それは大量のデータをほぼ瞬時に診断することを要求される。そのゲシュテルト的な一目見てピンとくるという診断法は多くの場合に問題はないが、時に重大な間違いをもたらす。一方の鎖骨の欠如したレントゲン写真をみせたところ60%の放射線科医が見落とした。人は見たいものしかみない。そしてまた、一枚のレントゲンを長く見続けていると、そこにないものが段々と見えてくるという報告もあるらしい(38秒以上見つめるといけないそうである)。機械の精度と能力が向上してくると一検査あたりにとられる画像の数はどんどんと増えてくる。心臓専門医が心筋梗塞の心電図で20%がそれを見落とし、異常ない心電図が26%で心筋梗塞と診断される。病理医が同じ標本をみて同じ結果となる率は87%、異常のある標本に限ると一致率は68%、二人の病理医の一致率は51%、さすがに癌についての一致率は高かったが、前がん状態では不一致が多かった。
 そのようななかで患者を診ることも病歴をきくこともなく、スキャンを依頼して放射線科医に診断はなんですか、ときくようなことがおきるようになっている。
 
 この辺りの章で述べられているのは現代の臨床もあてにならないものであり、根拠の乏しいものも多いということである。わたしが医者になったばかりのころは、まだCTがでるかでないか、エコーも霞がかかったようで、MRは影もかたちもないという時代であった。胸部レントゲンをいかに精緻に読むかということが医者の腕というような感じであったのだが、今は胸部疾患をうたがって胸部レントゲンをとって何もないように見えると、じゃあ念のためにCTでもとるかという時代である。今の若いお医者さんはわれわれの世代よりも胸部レントゲン写真を読む能力が落ちているのではないかという気がしないでもない。とにかくレントゲン写真だって以前に比べてれば格段に解像度がよくなっているし、しかもデジタル化しているから、条件を変えてみることで、多くの情報を一枚の画像から読み取ることができる。そうなると困るのが以前なら画像に映らなかったような微細な病変がちゃんと画像に映ってしまっていることなのである。ちゃんと犯人が映っているのに見落としてしまうということがおきる頻度が増えてくる。同じ画像をみても専門家と一般医とのあいだでの診断能の差がひらく一方なのである。そうするとここにも言われているように診断を放射線科医に丸投げするような傾向もでてくる。しかし専門医の数は限られている。放射線科医はまだいいのだが、顕微鏡診断をおこなう病理医の不足はきわめて深刻で、それは放射線科医はまだ臨床の側なのだが、病理医は磯医学部門の属するので、現代の医学生の臨床医志向のために病理医を志望するものがきわめて少なくなっているからである(放射線科医は病理医と同じく診断をするのであるが、同時に放射線照射治療やinnterventional な介入といった治療にもかかわるので患者さんと直接かかわる頻度が高い)。
 そのように問題は多々あるのであるが、次が現代の巨大資本である製薬会社が医療にあたえる影響の問題を論じている。
 

医者は現場でどう考えるか

医者は現場でどう考えるか