D・ゴードン「二流小説家」

    ハヤカワ・ポケット・ミステリ 2011年 3月
 
 昨日、三分の一あたりまで読んだところで、まだ何も事件がおきなくて、ちょっと退屈などと書いたのだけれども、半分くらいのところで派手な事件がおきて、起承転結の「転」に突入した。それで当然「結」へとそれが続くわけだけれども、「結」のあとに結構長い後奏のような部分があって、それが何だかなあであった。アンフェアな気がするのである。まったく違うかもしれないけれども、中井英夫さんの「虚無への供物」の読後感とも通じる何かである。それってルール違反じゃない、とでもいうか。ミステリというのはある準拠枠があって、その中で書かれるのが当然と思って読者は読んでいるのに、それが破られているというような感じである。
 わたくしのミステリ観が古いのかもしれない。別にこちらに創見があるわけではなくて、丸谷才一氏からの受け売りなのであるが、氏はいう。「探偵小説は本来、男のものなのだろう。大体、死という厳粛なものを娯楽読物に仕立てようという算段なのである。ユーモアが大事なのは判りきった話だ。そして女性は一般に、このユーモアの感覚が非常に乏しいのである。・・男性は一般に、このユーモアの感覚があるから、死すらも茶化して楽しむのである。(と書いてから、ぼくは、この場合もまた例外が極めて多いことを悲しまないわけにゆかない。殊に日本の探偵小説作家のなかに、その例外に属する男が多いことは、ぼくの最も遺憾とするところである。)・・現代の探偵小説の読者のなかで最高の者がアルフレッド・ヒッチコックであることは、多くの人が認めてくれるはずだと思うが、彼ヒッチコックが死をどういうふうに見ているかは、今更ぼくが述べるまでもないだろう。」
 この小説にユーモアがないかどうか難しいところであるが、主人公が基本的に「真面目」であることが困る。その「後奏」部分で何だか青臭い文学論みたいなものを滔々と論ずる。作者のゴードンさんは「純文学」に劣等感をもっているのではないかと思う。単なるミステリを書くのではなく、それに+αの何かを持ち込まないと納得できないらしい。
 丸谷氏は「一般に、探偵小説は、その国民が最も好む娯楽によって彩られるのだと思います」といって、「アメリカの探偵小説ではあんなに精神分析医や気違いが出て来るのだし、イギリスの探偵小説ではあんなに冒険とユーモアが大事な要素になる」としている。この「二流小説家」はその点で典型的なアメリカの探偵小説なのだと思うが、わたくしはイギリス風の探偵小説のほうを好むのであろう。丸谷氏はいう。「ぼくの考えによれば、探偵小説は市民社会の安定性にたいそう寄り添ったものである。それなくしてはもはやあり得ないようなものである。読者たちが市民社会の堅固な性格に信頼をよせているからこそ、探偵小説は成立する。」 つまり実際にそうではなくても、市民社会が堅固である「かのように」書くことがミステリの前提なのだと思う。
 丸谷氏はいう。「誰でも知っていることだろうが、日本の純文学は自然主義私小説によって荒廃した。にもかかわらず、日本の探偵小説は、自然主義私小説への道を果敢に歩もうとしているらしい。」 今、わたくしが引用しているのは「月夜の晩」という本からで、昭和49年刊行、40年くらい前の文章である。わたくしは今の日本のミステリについてはほとんど何も知らない。しかしなんだがえらくマニアックで、その道の通のためだけに書かれているようなものが多いのではないかという印象をもっている。
 この「二流小説家」は原産地のアメリカでより、日本で好まれるミステリなのではないかという気がする。アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀新人賞にノミネートされたものらしいけれども。
 

二流小説家 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

二流小説家 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

月夜の晩―ユーモアエッセイ集 (1974年)

月夜の晩―ユーモアエッセイ集 (1974年)