渡辺京二「父母の記」
- 作者: 渡辺京二
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2016/08/16
- メディア: 単行本
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なかに「吉本隆明さんのこと」という文があった。その一節。「本当の師といえば、やはり吉本さんのみである。・・・師というのはその人の言説がすべて聴聞に値するから師なのではない。大事な一点を教えられ、それがわが生涯揺るがぬ北極星になったからこそ師なのだ。・・・その一点とは何か。人が聞けば笑うかも知れぬが、人は育って結婚して子を育てて死ぬだけでよいのだ、そういう普通で平凡な存在がすべての基準なのだという一点である。」
似たような文意の吉本氏の別の文を、勢古浩爾氏もやはり、その最高のものといっていた。要するに生きることは後ろめたいことではない、ということである。インテリというのは生きることを素直に肯定できない困った存在で、なぜそうなるのかといえば、インテリの知識が西洋渡りのもので、西欧の背骨にはキリスト教があって、そのキリスト教が、ひとは皆罪人であると教えるからである。文明化とは罪の意識をとりのぞいていくこととほとんど同義であると思うが、もともと普通で平凡な存在はそんな意識はもっていないから、当然それが基準になるのである。
昔、どこかでみた吉本氏の写真でとても印象に残っているのが、氏が買い物籠をぶらさげて八百屋さんだか魚屋さんだかの店頭で何やら物色しているというものであった。
多くのインテリが自分のもつ罪の意識を平凡な存在にまで広げようとしていた。罪の意識のほうが生活より上! などと思っていたから「大衆の原像」という言葉の爆弾で簡単に薙ぎ倒されてしまったのである。