コロナウイルス感染への日本の対応のやり方は世界でも特異なものなのだろうか?(3)

 日本などアジア地域での新型コロナウイルスによる死亡率が、欧米地域などと比べて低いということがいわれている。これにも種々原因がいわれているが、いずれにしても、そのことを理由に、ウイルス感染に強権的に対応するか、なるべくゆるやかに対応するかを決めることができるだろうか?
 インフルエンザ感染でも死亡率はゼロではない。そのため毎年その感染予防のためワクチン接種が行われているが、それを国家の負担で行っても、その予防効果で発症から入院にいたる人の数を減らすことが出来れば、医療費を大幅に削減することが出来、国としてはペイするのだという話を聞いたことがある。
 人工呼吸器やエクモなどを使った入院治療というのはとてもコストがかかるものであり、それを用いた治療に習熟したスタッフの数も多くはないので、感染者数が一定数を越えれば医療現場が対応不能となることは目にみえている。そうなればトリアージが必至となる。この人は高度医療にまわしてもほとんど救命できる可能性はないから治療の流れには乗せない、この人は「生きがいい」ようだから頑張って治療してみようといったことになる。
 しかしさらに患者数が増えてくれば「頑張れば助かりそう」な人も治療のラインに乗せることが出来なくなる。そうなれば「社会的地位が高い」といった何らかの裏基準を用いるしかなくなる。医療崩壊であり、あとは公衆衛生学的手段に頼るしかなくなる。
 公衆衛生学の父といわれるゼンメルワイスは医者が手を洗うだけで産褥熱を劇的に減らせることを示した。1839年ごろの話であり、まだ病原菌の存在は知られていない時代である。
 ナイチンゲールも「看護覚書」でひたすら「清浄な空気を!」といっている。彼女はクリミア戦争において、野戦病院にぎゅうぎゅうに詰め込まれていた兵士を互いに引き離すことで死亡数を大幅に減らせることを示した。
 しかしそういう公衆衛生学の成果は抗生物質という《魔法の弾丸》の発見により後景に退いてしまった。病気は予防するものから治すものへと変わっていった。
 とはいっても、ウイルスには抗生物質は効かないから、ウイルスのパンデミックのようなことがおきると、ふたたび《手洗い》とか《人と人を引き離す》といったまだるっこしい対策が前景にだてくることになる。人工呼吸器も時間をかせいでいるだけであって、肺の病変を治しているわけではない。
 2020年8月に出版された佐藤優氏の「人類の選択 「ポスト・コロナ」を世界史で解く」(NHK出版新書)の序章は「連帯か孤立か、独裁か自由民主主義か」というタイトルである。そこで氏は医療崩壊が懸念される状況では、行政府による自粛要請は必要だが、それは国家による国民による国民の監視と統制の強化に直結します」とし「従来のリベラルな価値観」による異議申し立ては国民の共感を得られないだろうとしている。
 「全体主義的監視」対「国民の権利拡大」。「ナショナリズムに基づく孤立」対「グローバルな団結」。「国家内の秩序」対「国際秩序」。戦争や災害や感染症の対応には迅速な対応が必要なので、どうしても権力が前面にでてくることになる。
 こうしたことの是非についての答えは宗教・哲学・文学の中にあると佐藤氏はいう。氏はまた啓蒙主義ロマン主義の相克ということもいう。啓蒙主義と個人の内面化は近代に表裏一体のものとして出現した。啓蒙主義は神を個人の内面に押し込めた。それに対する反撥としてロマン主義が生じた。しかしロマン主義を経験していない国があって、それがアメリカである、と。
 及川順氏の「非科学主義信仰」では、コロナの感染拡大(パンデミック)がアメリカの「非科学主義」の存在を浮き彫りにしたとしている。アメリカでの死者数は2022年の時点で100万人超(人口は3億人)(その時点で日本の死者は3万人、人口1憶人)。そういう中でも前にも書いた、ワクチンの中にはマイクロチップが入っていると主張する(要するに国家が個人を監視する手段の一つとしてワクチンを利用しているとする主張)強硬なワクチン接種反対派が多数存在している。マスク着用の是非も国論を二分しているのだそうである。マスク反対派は「自由」や「独立」といったアメリカの建国の理念に反するものとしてマスク着用に反対しているのだとか・・。共和党支持者にマスク着用反対の人が多いのだそうである。コロナ感染予防よりも何事かを強制されないということが重視されている、と。自分の主張を通せる社会こそが大事なので、それは「科学的知見」よりも優先順位が高いという。マスクの着用が政治信条のアイコン化したと。マスク反対派は「リベラルな価値観」に反発する者が多い、と。
 アメリカでは、ジフテリア破傷風・百日咳、ポリオ、B型肝炎、麻疹・風疹、水痘、肺炎球菌感染症ヒトパピローマウイルスによる子宮頸癌など多くのワクチンの接種を受けることが義務化されていると思っていたのだが、これも反対運動にさらされているのだろうか? 日本ではヒトパピローマウイルスによる子宮頸癌に対するワクチン接種が一時その副作用を懸念する反対運動で義務化が停止されたが、最近再開された。このことによって子宮頸がんの動向がどうなるかは、もう少し先を見ないとわからない。
 おそらく日本のコロナウイルス対策はそれが最善と思って策定されたものではなく、それしかできなかったからそうなったという側面が強いのだと思う。
 「新型コロナ対応民間臨時調査会」の報告では、今回のコロナ感染は、改革をおこたってきて茹でガエル状態におちいっていた日本が、そこから飛び出るチャンスでもあるということがいわれている。また先進諸国の対応を見て、それら諸国が基本的人権の制限には極めて慎重だろうという思い込みがあったが、それも次々と行われるロックダウンをみて崩れたとされている。ここでは、1)法的な強制力を伴う行動制限措置をとらず、2)クラスター対策による個別症例追跡と罰則を伴わない自粛要請と休業要請を中心とした行動変容策の組み合わせで感染拡大の抑止と経済ダメージを限定化することの両立を目指すやりかたを《日本政府のアプローチ》と定義し、結果はまあまあと評価している。強制力を伴わない「ソフトロックダウン」により、日本経済はかろうじて持ちこたえ、社会の安定を保っている、と。しかし、それが偶然の産物であったのかもしれないことを忘れないことがで必要であることも指摘されている。
 日本のコロナ対応は到底100点満点ではなかったとしても、70点から80点であったのだろうと思う(50点から60点という評価もあるだろうが) 様子見を続け、とてもこれは無理と思われる対策は初めから追及せず、この辺りが落としどころというところがみえたら、恐る恐るやってみる。やって無理と思ったらひっこめる。なんとか行けそうと思ったら続ける・・。だから大きくこけることもない代わりに、クリーン・ヒットもなかった。
 時に無理を通そうと思ったら「専門家」の後ろに隠れて、責任は専門家に負わせる。だから、政府と科学者・専門家との間で責任分担がはっきりしない。
 そしてある政府関係者がいっていたという「感染症の専門家は日本にはほとんどいない」というのは本当だと思う。日本の医学部卒業者の大部分は臨床に進む。感染症の基礎的研究者がほとんどいないのも当然である。厚生省は次々におきる事態への場当たり的対応に追われて国民への情報発信にまであまり手がまわらなかったのだという。  
 個人的には「日本医師会」の持つ問題が浮き彫りになったことも大きいと思う。今はもうそうではなくなっているのかもしれないが、公から個々の病院への連絡は原則ファックスでおこなわれていた。とすると病院から保健所への連絡などもファックスであったのだろうと思う。なぜそうなっているのかというと医師会員の一部の長老開業医の先生方がコンピューターを扱えず、メールでの連絡が不可能であるからであるからということであった。医療のIT化どころではないわけである。そもそも公が大きな病院に直接指示命令をできない、かならず医師会をとおさなければならない、というのでは非日常の突発事態には対応できるはずがない。日本でつい最近まで長い間、新しい医学校の創設がなかったのも医師会の反対によるものだったときいている。
 まあそういう環境のなかで、持っている武器でなんとか凌いだということなのだろうし、同調圧力とか自粛警察などという問題にまで気をまわす余裕はなかっただろうと思う。
コロナの感染ということが日本の社会がかかえる病理をさらけ出したということは間違いなくある。その中でわたくしはといえば「世間」からなるべく逃げたい人間なので、そこからの被害はあまり受けていない方だろうと思っている。
 もはや/ いかなる権威にも倚りかかりたくはない/ ながく生きて/ 心底学んだのはそれぐらい/ じぶんの耳目/ じぶんの二本足のみで立っていて/ なに不都合のことやある(茨木のり子)なんて偉そうなことをいう気もなくて、わたしはわたし、芥子は芥子、なんのゆかりもないものをという路線で行ければ充分と思っている。
 以上、わたくしという真ん中から外れたところにいる人間の感想であり一般性があるものとはまったく思わない。
 英国・ドイツ・フランス・イタリアあるいは米国のコロナへの対応はそれぞれに異なるはずで、それぞれの国柄がそこに表れているのだろうと思う。日本もまた日本という国に特有な対応をしたが、偶然?それでなんとか凌げてきたとしても、それは対策が優れていたからではなく、それしかできないことをやったらなんとかなったというだけのことだろうと思っている。
 そうではあるが、やはり中国のような強権一本鎗の国に生まれなくて良かったとは思っている。しかし、中国にうまれていればゴリゴリの紅衛兵になっていたかもしれないし、アフリカのどこかに生まれていれば、コロナどころではなくとにかく今日の食べ物を手にいれることに汲々としていたかもしれない(というか、その条件下では、わたくしのような弱虫は到底、現在の年齢までは生きてはいない可能性が高いと思う。)
 わたくしはヨーロッパ啓蒙を自分の信条として生きてきたが、今思うのは、それはとてもひ弱な花であったかもしれないということである。遠くない未来に、寛容などという言葉は相手にもされなくなる時代が来るのかも知れない。ツヴァイクはそう思って自死を選んだのだが、結局ナチスドイツは敗北した。だがそれはたまたまおきたこと、偶然の産物なのであって、正義の勝利、歴史の必然ではなかったのかも知れない。
 東側の崩壊、冷戦の終結をみてフクヤマは「歴史の終わり」(三笠書房 1992)を書いた。この本はニーチェにかなり依拠した本で、タイトルも正確には「歴史の終わりと最後の人間」である。「最後の人間」とは「ツァラトゥストラ」でニーチェが唾棄すべきものとして描いた「気概を欠いた人間」、「肉体的安全と物質的豊かさ」のみを生の目的とする人間を指す。
 コロナ感染の問題とはまさに「肉体的安全」という問題である。「肉体的安全」を目指す行為が「気概」を犯し、個人の自尊自律を侵害するということはあるかも知れない。
しかし、なによりも「肉体」が存続することが日本人の大多数が望むものであるとすれば、「気概」などが脇におかれてしまうこともやむを得ないのかもしれない、
 以上のようなことを医者が書くのはいささか問題があるのかも知れないが、医者は自分の考えを押し付けるのではなく、患者さんの意向に沿うのが仕事である。だから近藤誠さんのような行為が問題となる。
 ワクチンにはお上が民を操作するためのマイクロチップが入っているとして発砲事件が起きる国、誰が何と言おうと強権が強引に都市封鎖を断行する国よりは、日本はいささかなりともましな国で、何とかぎりぎり及第の対応をしてきたのではないだろうか?