一億白痴化

テレビが日本に普及し始めた1957年、これを『一億白痴化運動』と評したのは大宅壮一である。

「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い。」
— 『週刊東京』1957年2月2日号「言いたい放題」

 「日本中がテレビを囲んで 放心している。」(飯島耕一詩集「バルセロナ」 1976 思潮社

 テレビは一日中オリンピックばかりである。

日本中がテレビを囲んで 放心しているのだろうか? それとも、刺青の品評会でもしているのだろうか?

アトランティスのこころ

このところ暇しているのでアマゾンで映画「アトランティスのこころ」をみた。
 これはスティーブン・キングの「Hearts in Atlantis」を映画化したもので、「黄色いコートの下衆男たち」「アトランティスのハーツ」「「盲のウイリー」「なぜぼくらはヴェトナムにいるのか」「天国のような夜が降ってくる」の五つの微妙に繋がった話の中から最初の一番長い「黄色いコートの下衆男たち」を中心に映画化したものである。映画は「アトランティスのこころ」というタイトルで上映され、映画と同時に出版された翻訳も「アトランティスのこころ」というタイトルで出版されたが、翻訳では「アトランティスのハーツ」となっているようにこのハーツはトランプ遊びである。ここではヴェトナム戦争を背景に、「ハート遊び」に惑溺して自堕落な大学生活を送る大学生活が絵が描かれる。
「黄色いコートの下衆男たち」がキングが「スタンド・バイ・ミー」(原題は「死体」)などで得意とする少年が大人になる物語であるので、それに特化したあるいは純化した映画はそれなりに成功しているが、キングの原作はその子供時代と対比して子供と大人になりかけの大学生時代・その後のただの大人としての苦い生活という成長あるいは対比という苦さを欠いたものとなっているので、その点やはりキングの原作よりは浅いものとなっているように感じた。

[

藤田紘一郎さん

 藤田さんの「もしも、私が「がん」になったら。」(光文社新書 2021 4月)を読んでいたら、その藤田さんの訃報が報じられた。誤嚥性肺炎ということであった。誤嚥性肺炎は相当抵抗力・体力が落ちた高齢者の病気だから、「癌」とか何らかの基礎疾患がある場合が多いが、藤田さんはこの本を4月末を刊行しているのだから、最近までお元気だったはずで、ちょっとわからない。

 藤田さんについては、「今の人間は清潔を指向しすぎている。寄生虫を駆除なんかするからアトピーなどが起きる」ででといったことを主張していて、面白い人だな、と思っていた。
 こういうことをいうひとだから当然変わった人なはずで、医学の主流の見解などを述べることはないはずで、そういう藤田氏が「がん」についてどんなことをいっているのかなと思い、この「もしも、・・・」を買ってきた。
 当然、標準治療は受けない。早期がんでも手術がしないなど、医療の主流からはずれたことを書いている。
 おそらく、氏は自分は自分なりの健康法でやってきてそれはうまくいったので、最後はがんで死ぬのかなと思ってこの「もしも、・・・・」を書いたのであろう。しかし、どうもそうではなく、高齢者のありふれた疾患でなくなったようである。
 自分の考えた通りに生きるということはなかなか難しいようである。

走る人

 最近、散歩をするようになって感じるのがジョギングというのだろうか走っている人がとても多いということである。時によると歩いているひとより走っている人の方が多いことさえある。
 これはロコモティブ・シンドローム(高齢になって筋力の低下によって日常生活での立ち居振る舞いが困難になること)の予防としては有効だと思うが、どうもそれだけではなく、《走ることが=健康》というような思い込みがあるような気がする。
皇居の周りを何だか思いつめた表情で走っている人の表情をみると、何だか宗教儀式をしているような感じさえする。

 最近、面白くてパラパラ読んでいる四方田犬彦さんの「世界の凋落を見つめて クロニクル2011―2020」(集英社新書 2021)に、「ジョギングの社会階層」という文があった。氏はジョギングをしている男女に出くわすと不愉快な感じ、居心地の悪さを感じるのだそうである。
 氏はジョギングは「自分が危険のない安全な生活を送っており、緊急な用事などないことを誇示するために行われる。」という。それはジョギングをしないひとたち、ジョギングをすることなど思いつくこともないひとのことを考えればわかるという。貧乏人はそもそもジョギングなどする余裕はない。富裕層はテニスをしたり乗馬をしたりする。
 ジョギングはテニスや乗馬と違いタダである。彼等はジョギングをすることで、自分が貧乏人でも愚かな金持ちでもなく、聡明で健康で合理的な精神をもった「小市民」であることを誇示しているのである、四方田氏はそういう。

 わたくしはそんなことは考えたこともなかったので、随分とひねくれた見方だなあと思うと同時に、四方田氏のこの言で、中間層にとって健康が唯一の生きる目標になって来ているのなということを考えた。
さて、それなら、フィットネスクラブに通うひとはジョギングするひとより上で、乗馬やテニスをする人より下ということになるのだろうか?

 この四方田氏の本は面白いので、これからまた感想を書くことになるかもしれない。

シン・ゴジラ

 今日午後暇だったので、アマゾン・プライムで「シン・ゴジラ」を初めて観た。
 前半は現在のコロナ禍における日本の混乱を予見したみたいで(もちろん本作はコロナ禍以前の製作)、それなりに面白かったが、後半になると神風特攻体を想起させるような話になって、何だかなあという感じであった。大国のいいなりにはならないぞ、大和魂をみせてやるみたいな。「永遠の0」?
 このゴジラという生物(だろうと思う)の説明がなんともで、進化というのが魔法のランプのように使われている。ゴジラという個体の一世代のなかで進化がおきるというのだからもう滅茶苦茶である。
 初代ゴジラは確か原水爆実験の結果生まれたとされていた様に記憶しているが、どうもわれわれには、原子力というのが《現代の神》になってしまっているような気がする。

 「シン・ゴジラ」のシンは、《sin》なのかなと何となく思い込んでいた。われらの罪を背負う存在としてのゴジラ。しかし、どうも」そうではなく、新・真・紳なのだそうである。ちょっとがっかりした。

G7

 現在、英国でG7(2021G7サミット)がおこなわれているのだそうである。
 参加国は、英米加独仏伊そして日本。菅首相はコロナ・ワクチン接種率が低いので肩身がせまい思いをしているのだそうである。
 なんで、日本でワクチン接種がこんなに遅れているのか? わたくしには少しも理解できないが、あるいは、端的に日本の国力が落ちてきているということなのではないかという気もする。

G7の参加国がどのようにして決められるのかは全く知らないが、もしも日本がその参加メンバーから外されるようなことがあると、日本は大変な混乱に陥るのではないかと思う。
 先進国の一つとして遇されているということが日本人のプライドを大きく支えているのではないかと思うので、その大きな根拠となっていたG7の加入国ではなくなると、その他のG7加入国への怨嗟の声が出てくるかもしれない。イタリアはまだ何で加入をゆるされているのだとか。

 江戸幕府が崩れて、日本が西洋を一から学ぶ方向に転じ、臥薪嘗胆、すでに体力の落ちていた清国に勝ち、本当は引き分けであったかもしれない日露戦争を勝ったことにして提灯行列などとしているうちに、日本は英米と比肩する一等国であると思うようになり、にもかかわらず、戦艦の建造を英米から制約されると、馬鹿にされたと憤慨して勝算のない戦争に突入していった。
 そして敗れて、やはり日本はまだまだだと謙虚に努力をしているうちに1960以降の高度成長で自信を回復。年功序列・企業内組合などの日本的経営がその基盤であるとして、世界の経営者よ、日本に経営法を学びに来い、などと奢っているうちに、1990年以降の停滞があり、いまだにそこから抜け出せないままで今に至っている。
 日本という国は自信がないときには良く、自身をもつようになると駄目になる。

 最近のIOCのバッハ会長の様々な発言が多くの日本人から日本を馬鹿にしていると大きな憤慨を呼んでいるが、事実馬鹿にされているのであり、最近の流行語をもじれば、上級国家がそうでない国を下にみているのである。欧米のなかにも当然、それを批判する人も多いが、そのかなりは「政治的に正しい」発言をしているだけなのではないかと思う。

 日本にオリンピックを招致するなどというのも、日本が一流国である認知されたいという希求からという部分が多分に大きいと思う。
 東洋の片隅の「まことに小さな国」が生きていくためには、胸をはってばかりではいられないことも多いのではないかと思う。

一般男性 一般女性 上級国民

 最近ネットなどで良く読むことがあるが、とても不愉快な言葉に、「一般人」と「上級国民」という言葉がある。

あるところで、「一般男性・一般女性」というのは、芸能人やスポーツ選手、著作者などのようにマスメディアで活動していない人のことで、そのプライバシーを配慮してこう呼ぶ」とあった。
 そうであるなら、一般男性とか一般女性でない人のプライバシーは守る必要はないのだろうかということになる。
 
 わたくしが見るかぎり、非「一般人」というのは頻繁にテレビにでてくるひとのことをいうのだと思う。そういうひとは自分のプライバシーなどどのように詮索されても文句は言えないということになっているらしい。
 しかし、何十人という相手と浮気しようと、それによって離婚しようと、それは犯罪ではなく私的な問題>であるのだから、それをオープンにされるなら、本来訴訟などをするべきであると思うのだが・・・。
 一方、「上級国民」というのは、収入が桁はずれに多いとか、なんからの業績により社会から広く認知され保護されて?いる人のことで、それによって社会から特別あつかいされても、それを当然だと思っているというような人をいうらしい。

 今、有名人というのはテレビに頻回に出る人のことをいうらしい。あの電気紙芝居が日本を覆ってしまっている。

 何とも情けない話であるが、これは、日本が貴族制を排したことが少しは関係しているのではないかと思う。わたくしは天皇制制度自体に反対な人間であるが、叙勲などを心待ちにしている人間がたくさんいるのだから、物欲しげなひとたちを、みんな貴族にしてしまうと少しは効果がるのではないだろうか?

 それにしても「武士は食わねど高楊枝」などというのに共感しているのだから、もう完全に時代に遅れた人間になっていることを強く感じる。