池田信夫 与那覇潤 「長い江戸時代のおわり 「まぐれあたりの平和」を失う日本の未来」(2) 「自民党一強」はいつまで続くか (ビジネス社 2022年8月)

 21年の選挙で立憲民主党が惨敗した。岸田氏は往年の「宏池会」よりは大分右であり、 氏は2015年の安保法制問題で外相として集団的自衛権の行使を容認した。当時の安倍首相は自民内でも傍流で、平成の半ばまでは極右の変な政治家という扱いだった。(池田氏

 2006年、安倍氏の『美しい国へ』が文藝春秋社から刊行された時、わたくしは読まなかったけれども、その内容はいろいろなところから聞こえてきて、「まあ、なんというナイーブ、なんという空疎」と思って、安倍氏をまことに失礼ながら「単純なバカ」と思った。

 1976年の選挙で、革新自治体を主導して勢いがあったはずの共産党が大敗した。このころから無党派層は「革新より保守に期待する」傾向になって来ている。(与那覇氏)

 そのころ10年ほどはうまくいっていた革新自治体の運動がなぜうまくいかなくなったのかがよくわからない。
当時わたくしは、これは共産党の巧妙な戦術だと思っていて、社会党と共同してある程度運動が成功したら、共産党から社会党に理論闘争をしかける。一枚板の共産党とてんでばらばらの社会党では共産党が勝つにきまっているから、まず地方自治体を自党の支配におき、そこから中央を攻めていく、という共産党の巧妙な戦略なのだと思っていた。
 池田氏によれば、これがうまくいかなくなったのは、専従活動家が多い共産党社会党の地盤を食い荒らしたためなのだという。
 そうであるなら、当時にくらべて格段に足腰の弱っている社会党立憲民主党も、専従活動家の高齢化が進む共産党ともに将来の展望は絶望的ということになる。

 平成の野党は「非自民・非共産」で無党派層の動員を図ってきたが、2015年の安保法制でスイッチを逆にいれてしまった、そう池田氏はいう。「憲法9条を守れ」という亡霊が復活してしまったのだ、と。
 池田氏はいう。中国や北朝鮮の脅威が現実に存在し、日本から戦争をしかける可能性のない時代に、昭和の護憲論を持ち出しても勝てるわけがないと。

 これがおきたのは「平和勢力」「戦争勢力」という亡霊が「革新」側の人の頭から消えないためではないだろうか? 要するにマルクス主義の立場から見ると、戦争というのは資本主義=帝国主義方の勢力がもたらすのであり、反=資本主義の陣営が世界の大半を占めるようになれば、世界から自ずと戦争はおきなくなるということを本気で信じているひとが当時はたくさんいたからであり、いまでもまだいるからではないだろうか?
 朝鮮戦争は北からしかけたことを知って、茫然自失、言葉をうしなった「進歩的文化人」が当時たくさんいたらしい。

 さてここからが問題。
 池田氏。「自民党というのは江戸時代の延長戦上にでてくる「日本の伝統社会の縮図みたいな政党でしょう。・・・政治学的に言うと、1955年に「小農の味方の党」として出発したということです。」「戦後、GHQによる農地改革で地方から大地主がいなくなり、大量の「家族経営の自営業者」としての自作農が生まれていた。」

 与那覇氏。「これは近世史では「百姓成立(ひゃくしょうなりたち)」といわれるものに近く、「庶民が一家ごとに「普通通りの仕事をすれば、食べていける」状態を維持することが為政者の任務になる。江戸時代の一揆も「ちゃんとたべさせろ」という主張であり、武士政権の転覆などは夢想だにしていなかった。」

 つまり、日本の現在の基幹になっている制度はアメリア占領軍が作ってしまったことになる。しかし、そのことによって、日本は「江戸回帰」してしまった。

 それが60年代の高度成長期の農村人口の都市への移動がおきたのだから、野党にもチャンスがきたわけて、事実、「革新自治体」も生まれた。
 しかし80年代には逆に保守回帰が進んだ。それは世界的に資本主義の優位性が明らかになってきて、「社会主義への移行」というスローガンが力を失ったからでる。

 この時ヨーロッパの左翼は現実主義へと舵をきったが、日本では「護憲平和」がスローガンになって、これが野党を衰弱させた。安保法制の時、民進党(当時)は「護憲」に先祖返りしてしまい、共産党と組んでしまった。これが21年の敗北につながる。

 それに対しドイツの緑の党はうまく軟着陸した。
 しかし立憲民主党は昔の社会党に戻ってしまった。

 要するに、日本ではマルクスの亡霊が未だに「左」のひとにとりついているのだと思う。かれらは単に少しずつ社会を改善していくことには興味がもてず、一気に天国がくるという夢物語をどうしても捨てきれない。
 そのようにして、もし「左」が急速に衰微していくならば、今度は保守の側が二つに割れて政策を競いあうことになるのだろうか? しかし、わたくしにはそうなるようには思えない。「古きよき日本の家族制度」などという政策以前のノスタルジアをめぐっての争いになるような気がする。「マルクス」対「古き良き日本」の不毛な対立。しかしそれでも日本はまわっていく? 実務家が優秀だから?

 次は第3章「経済」 「円安・インフレ」で暮らしはどうなるか
 20歳ごろ、「サミュエルソンの経済学」で挫折した人間に理解できるだろうか?

池田信夫 与那覇潤 「長い江戸時代のおわり 「まぐれあたりの平和」を失う日本の未来」(1) (ビジネス社 2022年8月)

 与那覇氏の本は以前「中国化する日本」を読んだことがあるが、いま一つ論旨が掴めない本だった。池田氏の名前はどこかできいたことがあるなと思ったが、「アゴラ」というネット上でいろいろなことを論ずる場を主宰している方だった。
 割合最近ここでとりあげた佐藤・池上両氏の「日本左翼史」のように「左」をまともに論じるのではなく、「左」ってみんな馬鹿なんじゃないというような冷笑的な視点の本である。
 「はじめに」は与那覇氏が書いている。
 2022年の2月にウクライナ」の戦争が始まって以来、テレビには軍事・安全保障の専門家ばかりが出てきて、この機会に日本はあらためて憲法9条の精神に立ち返り・・・などという政治学者・憲法学者などの顔は一切みることがなくなった。「これだけは絶対に正しい」とされてきた思想や社会通念は崩壊した。
 1990年前後の冷戦の終結によって、マルクス主義の権威は完全に失墜した。
 一方、2016年にはブレグジットがおきトランプが大統領になった。「リベラリズム」がその本家である英米で否定された。
 その中で、「平成の日本はそれまで清算を試みていたはずの昭和・戦後へとますます回帰していった。しかも多くのひとがそれを自覚することもないままに・・。

 本文は、1)軍事 2)政治 3)経済 4)環境 5)中国 6)提言 からなり、最後に池田氏による おわりに が付されている。

 まず、1)軍事。副題「ウクライナ戦争で「平和主義」は終わるのか」
 1991年の湾岸戦争の時、海外の報道がリアルタイムに戦争を報道しているのに、日本の報道は、国会での「憲法論議」ばかりだった。「自衛隊を派遣するか? 武力行使はできるか?・・・」 130憶ドルも負担したのに感謝もされなかった。(これには安倍さんもショックを受けて、これでは駄目だと思ったことが、それ以降の氏の政治活動を変えたのだとか。これが2015年の安保法制につながる、と。) (池田)
 この法制には憲法学者たちが強い批判を繰り広げたが、しかしこれはウクライナの戦争で息の根をとめられたのではないか? 「軍事同盟とは異なるやり方」で平和を守る、という戦後の気風の終焉・・。(池田)
 今のプーチンの論理はポストモダンの思想と通底する(与那覇)。
 日本の大きな問題は、戦後GHQが行った寛大な占領統治が世界のどこの占領統治でも行われると思っている人が多いこと・・。(池田)
 この誤解はアメリカにもあって、「フセイン政権を倒せば、イラク国民は自分達を歓迎すると思っていた、と。(池田) 実はプーチンウクライナ人は同胞だと思っていたから、徹底抗戦というシナリオを想定していなかった、と。(池田)

 この章を読んで感じたのは、戦後の日本を決定的に規定したのは、アメリカの占領政策だったのではないだろうか、ということである。これは朝鮮戦争の勃発で軌道修正を強いられるわけであるが、今度はその戦争の特需で日本の経済は復興の足掛かりをつかむことになる。

 わたくしがどうしてもわからないのが、今次の大戦で、たとえば東京大空襲で家を焼かれ、家族を失い、戦地で夫や子供が戦死したひとは実にたくさんいたであろうに、「夫の敵、息子の敵」といって進駐軍(これも変な言葉だが)にテロにおよぶというというような事例をあまり聞かないことである。もちろんそれはあっても、占領軍によって隠蔽されたのであろうが、それにしても、「ギブ ミー チョコレート」「カムカムエヴリーバディ」「拝啓 マッカーサー元帥様」である。(「拝啓マッカーサー元帥様: 占領下の日本人の手紙 (岩波現代文庫) 2002)」 これもまた江戸時代の心性の名残なのだろうか? お上意識?
 お上が天皇からマッカーサー元帥に? さすがに「拝啓 天皇陛下様」という手紙はかかれなかっただろうが。

 もしも朝鮮戦争がなかったとしたら、毛沢東が台湾を「解放」してもアメリカは介入しなかった可能性が高い。(与那覇) やはりこの戦争はその後の東南アジアの動向に決定的な影響を与えたのであろう。朝鮮戦争は北がしかけたわけであるが、北は「平和勢力」であると信じ切っていた当時の進歩勢力は北からの侵略を信じられないひとが多かったという話をきいたことがある。

 「核共有」の問題:日本はアメリカの核の傘で守られている以上、すでに「核共有」が実現されている。核は日本にある必要はない。問題はアメリカが核のボタンを押すとき日本の同意を得る手続きがないことである。(ドイツはその同意なくアメリカはボタンをおせない。)(池田) ・・・この論では日本が自ら核のボタンを押す可能性は想定されていない。というよりそのような責任を負うという道を日本が選ぶことは永遠にないのではないだろうか?

 次は第2章「政治」― 「自民党一強」はいつまで続くか

関川夏央「ドキュメント よい病院とはなにか 病むことと老いること」(小学館 1992年 講談社文庫 1995)

 このところ、緩和医療ホスピスに従事する医師の著作をとりあげ、少し辛口なことや悪口?のようなことを書いた。そうしているうちに、関川さんの「よい病院とはなにか」にも緩和医療をしている病院を取り上げたところがあったことを思い出した。
 この「よい病院・・」の刊行は1992年だが、取材は1986から1990年末におこなわれているとのことだから、もう30年以上も前の日本の医療の現場の取材の記録である。だから内容は古いといえば古い。なにより癌の告知がなされていない。胃癌を胃潰瘍などと説明している。医師も看護師も特にそれを疑問にも思っていない。
 緩和医療について、この本でとりあげられているのは東札幌病院という病床数170というやや小規模な病院である。(今、検索したら立派な総合病院になっているようであったが、緩和ケアも継続されているようである。)

 「患者さんが感謝しながら亡くなる、そういうナースは若い准看護婦だったりするんですよね」とある。「日本でターミナル・ケアという言葉がいちおう認知されるようになってまだ三年です」ともある。看護婦という言葉が使われているし、ブロンプトン・カクテルという言葉もでてくる。

 亀田総合病院の心臓外科の項で、ある患者の話として以下のような記述がある。亀田総合病院ではなく、別の病院でのことらしい。原著p41からそのまま引用する。

 「ある病院の心臓外科病棟に彼は入院していた。手術前日だった。入眠する前に、ナースが一人病室に入ってきた。もう消灯したあとのことである。それまであまり話したことのないナースだった。彼女はベッドにかがみこみ、彼に薄く口づけした。なんの予告もなかった。翌日彼は手術し、生還した。その後は病棟で会っても彼女の態度は従前とかわらず、まったく元どおりの関係を平静に保ち、やがて彼は退院した。
彼はいった。
 「あれほど深く感動したことはありません。忘れられません。かりに人間愛というものがあるなら、あれがそうでしょう」

 上記について、わたくしは評する言葉を持たない。

 この辺り、関川氏はナースという業務への社会的評価の低さという視点から論じている。
 関川氏はいう。「社会はナースに対し、その献身に見合う評価を必ずしも与えていないようだ。彼女たちは労働の目的を誰の助けも借りずに発見し、患者の感謝という、掴まえにくくうつろいやすいものと義務感だけを頼りに、過酷なローテーション勤務に耐えている。ナース向けの専門誌や専門書を読んでも技術論の充実に較べ、彼女たちの職業的拠り所を提示しようと試みる企画や文章は少ない。・・」
 この文章が30年以上前に書かれたものだなあ、と思うのはナースという言葉を受けるのに「彼女」が使われていることである。今なら「彼&彼女」としなければいけないところである。

 おそらく「ナース」を業務としているひとに潜在するコンプレックスは、自分達がしていることは「誰にでも出来ること、専門性を要しないこと」ではないかという思いなのではないかと思う。患者さんの傍にいること、患者さんに慰めの言葉をかけること、そんなことは誰にでも出来ること、専門性を必要としないことではないか? そういう思いがあり、それで看護の専門性をことさら強調する論文が書かれ、IV ナース(医師の指示を仰がず、自分の判断である範囲の薬剤を注射する資格をもつ看護師)といった資格取得を希望するものが多くあらわれるようになる。

 わたくしは緩和医療とかターミナル・ケアというのは、従来の医療の見方に看護の視点を取り入れていくことで、医療行為の幅を広げていく試みをいうのではないかと思っている。中井久夫氏が「看護のための精神医学」でいう「医師が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで、看護だけはできるのだ。」である。

 p203に「ゆえなく誤解されているナイチンゲール」というところがある。ナイチンゲールの「看護覚え書」(残念ながらいい翻訳はまだない?)を評して彼女は比類のない現実家であり革命家であったといっている。
 三好春樹さんの「介護覚え書」(医学書院 1992)(この書名はもちろん「看護覚え書」のもじり)に「歩いて入院した老人が寝たきりで帰ってくる」という話がでてくる。「病人は病院で駄目にされている」?
 三好氏の本で紹介されるナイチンゲールの言葉。「病院がそなえているべき第一の必要条件は、病院は病人に害を与えないことである。」「病気のうちの多く、それも致命的な病気は病院内でつくられる・・」「ベッドがソファーより高くてよいわけがない」・・・
 三好さんはいう。「看護学の基礎は科学ではなく、生活なのだ。」

 「人間の長命化に、実は医学はほとんど貢献していないのではないか」ということも書かれている。関川氏があげるのは、たとえば石鹸の普及である。わたくしは日本が豊かになったことによる栄養状態の改善が一番大きいのでないか、と思っている。
 人間はいずれ死ぬという見方からは、医学は敗北の科学である。しかし、どのように治すかばかりでなく、どのような死を迎えるかということについても、医療にはまだ出来ることもあって 、ターミナル・ケアとか緩和医療はその試みの一つなのであろう。

 本書を読んで感じるのは関川氏も含めて、癌=痛みという思い込みがとても強いということである。わたくしは診断がついてもう2年近く、原病による痛みを一回も経験していない。例外なのだろうか?
 がん性疼痛は、がんと診断された時点で20~50%の患者に、進行がんの患者さん全体の70~80%に痛みがあるのだそうである。やはり例外かもしれない。

Roald Dahl 「 Matilda」その他

 20日くらい前の記事で、Dylan Thomas の「あの快い夜へおとなしく入っていってはいけない」に言及した。
その時、そういえばダールの「マチルダ」にもトマスの詩が引用されているところがあったなと思い出した。何となく「Poem in October」と思っていたのだが、そうでなくて「いなかの眠りのなかで」 In country Sleepだった。

 Never and never, my girl riding far and near
 in the land of the hearthstone tales, and spelled asleep,
 Fear or believe that the wolf in a sheepwhite hood
 Loping and bleating roughly and blithely shall leap, My dear , my dear,
 Out of a lair in the flocked leaves in the dew dipped year
 To eat your heart in the house in the rosy wood・・・

  ホニー先生が朗誦するこの詩をきいてマチルダは「音楽みたい」という。
最近、政治のことをしばらく書いてきたが、なんだが、心が干からび、がさがさしてくるようで、それが続くと、詩とか音楽とかに話を転じたくなる。

 わたくが一方的に私淑する文学の師匠は吉田健一で、それで詩といってまず頭に浮かぶのが、氏の訳詩集である「葡萄酒の色」(岩波文庫 2013)である。
 それで、そこからいくつかを・・。

 まず、イエイツの「墓碑銘」から。

ベン・バルベン山の裸の頂を背に、
ドラムクリフ教会墓地にイエイツは葬られた。
その先祖の一人が長いこと前に
そこで牧師をしてゐて、傍に教会があり、
道端に古い石の十字架が立つてゐる。
大理石も、あり来たりの文句も墓にはなくて、
附近から切りだされた石灰岩に、
イエイツの命令でかういふ言葉が刻まれた。
       生きてゐることにも、死にも
       冷い眼を向けて、
       馬で通るものは馬を走らせて去れ。

Cast a cold Eye
       On Life,on Death
       Horseman,pass by!

 もう一つ、ハウスマンの「シュロツプシャ州の青年 第六〇番」。

今や焚き火は燃え尽きようとしてゐて、
   灯し火も消え掛つてゐる。
肩を張つて、背嚢を背負ひ、
   友達と別れて、立ち給へ。

何も恐れることはないのだ。
   右も左も見ることはない。
君が果てしなく歩いて行く道に
   あるものは夜だけなのだ。

 これは第一次大戦に向かう若者に向けて書かれたものらしい。

 また、有名なシェイクスピアソネット第一八番。
Shall I compare thee to a summer's day?
Thou art more lovely and more temperate:
Rough winds do shake the darling buds of May,
And summer's lease hath all too short a date:

 これは大学の教養学部の時、英語の先生が、「きみたち、将来、英国にいくことがあったら、この詩くらい知っていないと向うの偉いさんとはつきあえないよ」といって教えてくれたものだった。
 なにしろ、シェイクスピアと言えば戯曲しか知らず、詩人でもあったことさえ知らない無知蒙昧な人間であったので、「へー?」と思っただけで、その後、イギリスの偉いさんとも会う機会もなく現在に至っているが、このソネット18番の訳もいくつか見て来た。贔屓の引き倒しかもしれないが、吉田氏の訳がもっとも自然というか、翻訳臭が感じられない訳になっていると思う。(そうでもないかな?)

君を夏の一日に喩へようか。
君は更に美しくて、更に優しい。
心ない風は五月の蕾を散らし、
又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。・・・

 「夏の期限」といのは日本語として少し変だろうか? And summer's lease のlease は今もわれわれが使うリース、貸すという意味らしい。自然がわれわれに恵んでくれる夏という期間が、という意味?
 吉田氏の「英国の文学」だったかに、英国の冬は醜く厳しく長く、それにくらべて夏は言葉に尽くせないくらい美しいが、ごく短い、というようなところがあった。「夏の夜の夢」の夏とは五月ごろを指すらしい。ここでの「夏の一日」もそうなのであろう。

 最後にもう一つ、ホプキンスの「天国の入り江」

     私は泉が涸れず、
      固い雹が
 降ることもなくて、百合が幾輪か咲いてゐる
      野原がある所に行きたかつた。

     又、嵐が来ることはなくて、
      入り江に
 緑色をした波のうねりが収り、
      海とは思へない辺りにゐることを願った。

 これは、一人の女が尼になる時の気持ちで書かれたのだそうである。

 ホプキンスはイギリスのカトリックである聖公会の人であった。その「ドイッチュラント号の難破」の一部も吉田氏の本で読んだことがある。(「英国の近代文学」(岩波文庫 1998))

   ・・・
   イエス、心の光。
   イエス、処女の子。
  この尼が貴方に栄光を与えた夜、
   どんな祝祭がそれに続いたか。
それは、ただ一人の汚れがない女の祝祭。
・・・

 キリスト教、特にカトリックというのは凄いものだと思う。とてもわれわれには太刀打ちはできそうにない。

(池上彰 佐藤優 「激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972」 「漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972―2022」 講談社現代新書(2022) (7 終り)

 この3冊本の最後は副題が「理想なき左派の混迷 1972-2022」である。
 「はじめに」で池上氏は、この頃ベトナム戦争アメリカは苦戦し、世界各地でベトナム戦争反対の運動が燃え盛っていた。これを人によっては「革命の日」が近いと受け取ったかもしれない。
 そう受け取った組織の一つが「赤軍派」である。彼らは、われわれが立ち上がれば、機動隊では対応できなくなり自衛隊が前面に出てくる。自衛隊員は労働者・農民の家庭の出(機動隊は違うのだろうか?)である。そうであればロシア革命の時のように、彼らもまた立ち上がるであろう、そう考えた、という。
 池上氏は、確かに「荒唐無稽です」という。「いまになって冷静に考えれば、日本国内でいかに学生たちが機動隊と衝突したところで、選挙になれば自民党が圧勝していました」と。
 「いまになって冷静に考えれば」というのであれば、その当時には「冷静に考えられなかった」ということで、氏もまた革命の可能性というのを、まったくゼロとは思っていなかったのだろうか?
 この本は2022年という現在から、過去を知った上で書かれている。事実として、新左翼はほぼ消滅し、既成左翼も衰退した。
 その事実のうえで、現在われわれが直面している「格差や貧困、戦争の危機」といった問題については、本来左翼が掲げてきた論点そのものであり、そうであるなら、われわれはふたたび「左翼の思想」から学ばなければならないと佐藤氏もいう。

「格差や貧困、戦争の危機」という問題には、為政者の善意といったものに頼っては一切解決しない。体制の転覆が必須である、というのがマルクスの思想の根にあるものであろう。それを全面的に否定しても、なおかつ「左翼」というものが成り立つのか?というのが一番の問題であろうが、それについては本書では特に答えられていないと思う。

 ということで、「新左翼」がおこした馬鹿げた騒ぎが相変わらずとりあげられていく。
1974年に「三菱重工爆破事件」。8名が死亡、380名が負傷。この中には三菱とは全く関係ない市民が多く含まれていた。

 p46に吉本隆明がでてくる。よくわからない。本書の構成から全く離れている。

 p47で、唯一盛り上がった運動として「三里塚闘争」が取り上げられる。わたくしの記憶にも鮮明に残っているから、非常に広範な関心を呼んだ運動だったのであろうと思う。しかしこれは成田空港をつくる過程でおきたものである。現在では成田空港がない状況というのは想像できないと思う。

 p62からは労働運動がとりあげられる。
 学生運動だけをみると1970年代は衰退の時代に見えるが、労働運動の観点からはそうはいえず、むしろ高揚の時代であった、と。順法闘争というのがあった。電車など規則通りに運転すると朝のラッシュ時などどうしようもなくなるので、規則を守ることが自動的にストになるというようなことが確かにあった。「スト権スト」というのもたしかにあった。

 p83から革新自治体の話が出てくる。1967年東京に美濃部亮吉都知事誕生。京都に蜷川虎三、神奈川に長洲一二、北海道に横路孝弘・・・、これらはいずれも社共共同の推薦であったと思うが、わたくしなどは当時、社会党共産党が議論したら絶対に共産党が勝つから(なにしろ一枚岩の共産党と、てんでばらばらの社会党である。相手にならない。)しばらく東京などの大都市は共産党支配になるのだろうな、と思っていた。

 美濃部亮吉氏はマルクス経済学者ということになっていたが、老人医療費助成制度、老人無料パスの制定などとにかくバラマキ政策をやって都の財政をトンデモない状態にしたらしい。実地の経済運営については氏はまったく無能であったようである。
 各地で革新自治体が誕生するという状況を見て、社会党共産党もこの時期には議会で多数派になってそれを通じて革命?を実現することも可能という思いを抱くものも少なくなかったようである。

 1972年にはアメリカがベトナム戦争にやぶれ、1970年には南米チリではアジェンデ政権が選挙で選出されたはじめての社会主義政権を樹立している。この時期、日本共産党も急激に党勢を拡大している。

 70年代は、水俣病イタイイタイ病四日市ぜんそくなどの問題も顕在化していた。

 ではその時期わたくしがそういう事態をどう見ていたかを思い返してみると、革命前夜などといったことを感じることは微塵もなかった。いろいろと資本主義体制の問題点が噴き出している、体制側も色々と対応せねばならないだろう。しかしその対応能力は体制側には十分にあり、社会党共産党の批判は、対応の必要性を体制内に説得するためのむしろ有用な材料となっており、かえって敵に塩を送っているのではないかというようなことだったように思う。
 社会党共産党マルクスレーニン主義と完全に縁を切り、資本主義体制を原理的には容認し、その中での生じる様々な矛盾を個々に解決していく党に変わっていくというようなことがあれば事態はかわるだろうが、マルクスレーニン主義への郷愁をすてきれず、革命という言葉へのあこがれを断てない限りは、社会党共産党という勢力は現実的な力にはなりえないと思っていた。

 共産党マルクスレーニン主義を放棄したら、自己の全否定になるから、それは出来ないだろうし、向坂逸郎氏などは、マルクス命、ソヴィエト天国というひとであり、マルクスを論じたら天下無敵、向かうところ敵なしの人であったとしても、それは信仰心の強さの問題であって、向坂氏以上の強い信仰心を持つひとはいなかったというだけのことだったのだと思う。
 江田三郎さんの構造改革論などは向坂氏に手もなくひねられてしまうわけで、それは江田氏にはマルクスへの熱い思いなどほとんどなかったからである。

 ところで60年代後半から70年代にかけて創価学会も爆発的に会員数を増やしているのだという。これは左翼運動では救いきれない底辺部分があり、それが創価学会に流れていったのだ、と。

 70年代初頭には盛り上がった「左」への期待が、70年代の終わりには薄れるようになった。それは戦争を知らない世代が増え、反戦意識が薄れてきたからではないかと池上氏はいう。
 
 わたくしの父は戦争でブーゲンビル島という南の島に送られて九死に一生を得て帰ってきたのだが、またふたたび戦争になるのではないかという警戒感が(わたくしからみると)異常に強いひとであった。何をみてもこれは戦争の前兆ではないかと考えていた。「戦争を知らない子供たち」という歌をとんでもなく嫌い、わたくしに子供が生まれて、名前の候補を提示したところ「靖」という名は靖国神社の靖だから絶対ダメと反対されたりした。晩年は社会党員だったように思う。医者だったが小児科を専攻したのも、未来を子供に託するというような思いも関係していたのではないだろうか?
 とにかく父の世代がいなくなり、(母は戦争中のひもじい思いときどき語っていた。)戦争の直接の記憶を持つものがいなくなってきたことが社会党の凋落と大きくかかわっていることは間違いないだろう。

 いわゆるポストモダン思想もとりあげられている。しかし、1983年の浅田彰の「構造と力」などが提唱した「大きな物語」から「小さな差異」へいうのなどはインテリの一部にささやかな影響をあたえただけだったのではないだろうか・・

 1977年に江田三郎社会党から追放される。「構造改革」などいう路線がマルクスレーニン主義と両立するわけがないのである。
 1979年のソ連のアフガン侵攻を社会主義協会は支持した。このころの向坂氏は「ソヴィエト教」信者のようなもので、ソ連のすることは全部正しいと思っていて、現在世界での理想国は東ドイツだなどといっていたらしい。氏はソ連が日本に侵攻してくれて、それによって一旦、日本はソ連の占領下に入り、そのなかで自分達が日本を運営して日本の社会主義化をすすめていくのがベストと考えていたようである。

 1989年ベルリンの壁崩壊、1991年ソ連崩壊。左翼ということを考えるのであれば、ここからがわたくしは一番大事なのではないかと思うのだが、ここからたった40ページで本書は終わってしまう。30年がたった40ページ!
 現代史はソヴィエト崩壊の前後で二分されると思うのだが、両氏ともにソ連崩壊前の世界に多大な興味をよせていて、崩壊後の世界にはあまり興味がないようなのである。

 まず大学の講座からマルクス主義経済学が(表面的には?)消えた。池上氏はいう。「ソ連の体制はマルクス主義ではないといっていた人はたくさんいたのだから、「それみろ、偽の体制は崩壊した。これからは本物のマルクスの思想、マルクスの経済学を学ぶ時だ」というひとがいてもいいのに・・・。」 それに対し佐藤氏は、日本の左派はいくらスターリン批判をしていたとしても根源的にはスターリニズムを乗り越えることが出来ないままでいたので、ソ連国家の崩壊とともに思考のフレームを失ってしまったのだ、としている。

 この前後、党勢が凋落し続けていた社会党は新しい綱領を採用し、革命路線を否定した。
 1980年代に入り北朝鮮の情報が入るようになり、どうもおかしな国だとみな思うようになった。とするとこういう国をずっと支持してきた社会党にも疑念が抱かれるようになった。
 1986年に社会党党首に土井たか子がなった。この本で初めて知ったのだが、土井氏は大変な尊王家だったのだそうであり、衆院議長であった頃、宮中行事に呼ばれると、いそいそとでかけていったのだそうである。土井氏の護憲とは「第9条を護れ」ではなく、第一条を含むすべての条文を護れということであったのだという。わたくしは憲法学者というのはみな9条を護れというだけの人であると思っていたので、本書に教えられた。

 この前後のことでわたくしが覚えているのは、なぜか1994年に首相になっていた村山富市氏が自衛隊を謁見していた映像、神戸の大震災の映像を茫然と見つめている映像、普段元気のいい土井たか子氏が北朝鮮拉致問題を問われてしどろもどろになっている映像などである。
 本当かどうか、そのころは自民党と野党の関係は表面的には対立しているように見えても、実は国会対策委員会というわけのわからないところで裏取引がおこなわれ、大きなお金が動いて政治がまわっているというようなことがいわれていた。その自民党からのお金を受け取らなかったのは村山氏と土井氏の二人だけであるというようなことも聞いたことがある。

 p160からの終章は「ポスト冷戦時代の左翼」
 p167に2015年のSEALDsの運動がとりあげられている。佐藤氏はまったく評価しないとしている。たくさんの大人たちが子供たちに阿っていた、と。わたくしもまったく同感で、上野千鶴子さんのような海千山千の大人が感涙にむせんでいるのが不思議でしかたがなかった。上野さんなど、案外、世間しらずのいい人なのだろうか? 「セクシー・ギャルの大研究」でスタートした氏が東大教授になるまで、どれだけの闘いを強いられたかを考えるととてもそんな軟なひととはとても思えないのだが・・・。

 p172で佐藤氏は「やはり人は大きな物語を必要とする」といっている。それはひとを動かす力を持っている、と。どうもここから本書の方向が変わってくる。
池上氏も、現在の左翼の力のなさは、かれらが「大きな物語」を語り得なくなってきているからかも知れない、という。
 話が「大きな物語」の方向へと変わっていくのである。「左翼」が語った具体的な「小さな物語」は最早、命脈が断たれようとしている。しかしだからといって、「左翼」の思想の根にあった「大きな物語」まで過去のものとしてはいけない、という方向である。

 最後が「ウクライナ侵攻以後」の左翼。
 佐藤氏はソ連ウクライナ侵攻への日本の左翼の反応が日本の戦後左翼の終焉を示していると考えるという。
 共産党は、侵攻に反応して、自衛隊の存在を肯定し、「すべての戦争に反対」という立場を放棄し、ナショナリズムに吸収されてしまった。「ウクライナアメリカ帝国主義の尖兵の役割をはたしていて、それがもう一つの帝国主義国であるロシアと衝突している」という視点をとれなかった。
 左翼の根源である「階級」の視点が今の日本社会からは失われてしまっている、としてこの本は終わっている。

 わたくしは、チェルノブイリウクライナにある事さえ知らなかった人間なので、ウクライナの戦争について語る資格はまったくないが、
1) 現在のロシアはソ連という国家から連続したものなのか?
2) そうであるならば、旧ソ連もまたロシアの大地を信仰する「宗教国家」でもあったのだろうか? 
3) 西欧の歴史というのは世俗化、非宗教化の歴史であったと思うのだが、そうであるならば、広い意味での「左翼」というのは世俗化への抵抗であり、一種の守旧派の運動であったのであろうか?
4) 西欧の現在の立場は「何が正しいかはわからない」ということで、だから投票という制度ができていると思うのだが、投票という形の中から「左翼」が再び復活するということがあるのだろうか?

というような疑問を感じる。

 「漂流」の後書きで、佐藤氏は「プロレタリアートは祖国を持たないので、階級の立場からあらうる帝国主義的戦争に反対する、というかつての左翼の声はまったくといっていいほどきかれなくなった」とし、しかし、ウクライナの戦争の進行とともに左翼的価値がもう一度、見直される可能性があると自分は考えているという。また、平等を強調する左翼的価値観も見直されるだろう、と。
 さらに佐藤氏は、キリスト教には左翼的価値観も包摂されているとし、マタイ福音書の「隣人を自分のように愛しなさい」をひき、「左翼の人々は、神なき状況で(この福音書の言葉を)実践しようと命がけで努力したのだと思う」としている。
 だがまた、佐藤氏は、神(あるいは仏法)不在のもとで、人間が理想的社会を構築できると考えること自体が増上慢、つまり思い上がり、という罪なのだともいう。
 社会的正義を実現するためには、人間の理性には限界があることを自覚し、超越的な価値観を持つ必要があると、自分は考えている、と。だから、「日本左翼史というネガを示すことで、自分は超越的価値というポジを示したかったのである」と。
 しかしこういう佐藤氏の見方もまた増上慢なのではないかとわたくしには思えてしまうのだが。

 とにかく3巻本の最後の最後でそんなことを言われてもであって、えっ、そうだったの?ということになるが、左翼史に自分の青春時代のノスタルジアを語るだけの池上氏に比べれば旗幟鮮明である。おそらく氏はカトリックの視点から歴史をみている。人間が神のようにふるまうことは「増上慢」である。マルクスレーニン主義はその「増上慢」の罪を犯したということになる。

 しかし、佐藤氏もまた、その「増上慢」に近づいていると思う。おそらく氏は「カトリック」の立場にいるひとで、カトリックプロテスタントにくらべれば神とひととの距離がずっと遠いから、神が何を考えているかは自分の理解の外であってまったく知ることはできないとしていると思うが、にもかかわらず神の意志がどこかにあることは信じているわけで、そうであれば、そのような神の意志など思いもしない人間にくらべれば自分は上にいることになる。本書にはそのような氏の「上から目線」が散見するように思う。
 今までの左翼の議論は所詮お釈迦様の手の中での空騒ぎにすぎず、問題はお釈迦様の手の存在を常に意識している ことが大事ということに、佐藤氏によればなるのかも知れない。
 しかし、佐藤氏のいう「神」(あるいは仏法)がこれから復活することは絶対にないだろうから、そして今後われわれは世俗化の道をひたすらこれからひたすら歩んでいくことになるのだろうから、またわれわれには何が正しいかがはわかることは永遠にないのだから、それを前提に、これから生きていかなくてはならないはずである。

 だが、佐藤氏にはそのようなのっぺりとした世界、志をまったく欠いた世界は生きるに値しない世界と映るのかもしれない。自決直前の三島由紀夫は、デパートに家具を買いにいくひとを見ると吐き気がするといっていた。
とはいっても、日本には貴族はいない。(吉田健一は、三島由紀夫はいい子だったが、一点、日本に貴族がいるという大きな誤解をしていた、というようなことを言っていた。)では、貴族なき日本社会での「ノブレス・オブリージュ」とは? 
 佐藤氏にとっての「左翼」思想とは、「ノブレスの志」を指しているように思う。逆に「ノブレスの志」を持たない「左翼」などは論ずるに値しない、と。

 「左翼」のかなりの人が囚われたのが「科学的社会主義」の「科学的」というところで、われわれの社会がこれからどうなっていくかという方向をマルクスが見つけたとしたことであるように思う。佐藤氏はその「科学的」の代わりに「貴族の志」を代入するという、わたくしから見ると「ドン・キホーテ的試み」をしようとしているのかもしれない。

 そういう「左翼的思考」に対峙したのがポパーで、彼の思想の根本は、われわれには未来はわからないということである。未来は開かれている。 
 「西側は何を信じているか」という論文(「よりよき世界を求めて」(未來社 1995年)所収で)、ポパーヘーゲルの大言壮語ということを言っている。左翼にはつねに大言壮語がつきまとって来たと思う。
 以下、ポパー
「われわれは批判によって学ぶことが出来る」 左翼は批判を受け入れなかった。
「正しいのは誰かというのではなく客観的真理への接近」 左翼は正しいのは自分だとした。
「予言者のポーズをとらないこと」 マルクスは予言者であった。
「真性の合理主義者は決して説き伏せようとしない」 左翼はつねに説き伏せようとした。
「論理学と数学という狭い分野以外にはいかなる証明もない」 左翼は自分達の「科学的社会主義」を証明されたものとした。「空想から科学へ」。
啓蒙主義宗教戦争の成果」 しかし左翼は新しい宗教戦争を用意した。
「カントの言ったこと。人にしてもらいたいとは思わないことを他人にするな」 左翼はつねに自分の思考を押し付けようとした。
「われわれは多種多様なことを信じている」 左翼は一つの真理があると信じた。
「自分は合理主義者であるより伝統をえらぶ。合理主義には限界があって伝統なしには合理主義は成立しない」 左翼は「伝統からはなれることなくては、自分の思想はなりたたない」とした。
クンデラがどこかで「文学が擁護しようとしているのは、ミニスカートを着る自由」だといっていた。

 この3冊を読んできて、「左翼」という言葉が「未来をつくる志向」ではなく、「過去の美しい記憶」になってしまっているように感じた。

 最後の最後になって佐藤氏がカトリックの本性?を急に露わにして、「左翼」を強引にカトリックの側に回収しようと試みているが、まだまだカトリックが現実に生きているヨーロッパならいざしらず、キリスト教を信じるひとが多くなく、いてもプロテスタントカトリックより多いという日本ではまったく現実性がない話だと思う。(2019年の統計では日本のキリスト教徒は192万人なのだそうだが、この中にはモルモン教ものみの塔統一教会もふくまれているのだそうである。ものみの塔統一教会はアクティブに活動していると思うが、カトリックプロテスタントは守りにはいっていて、教会を維持するのに汲々としているのが実態ではないかと思う。「統一教会キリスト教? ふざけるな、本当のキリスト教とはこういうものだ!」と乗り込んでいくという神父さんや牧師さんの話はあまりきいたことがない。

 時々、街頭で「神の・・・を聴きなさい」などとスピーカーでがなっている団体があるが、「聖書配布協力会」というプロテスタント系の団体らしい。これは本気の活動のように思う。かれらは今、現在のコロナ感染の拡大を「黙示録」と結びつけているらしい。黙示録はキリスト教のアキレス腱というか、ある点では宣教の武器というか、とにかく変てこなもので、これを教会でどう教えているのか見当もつかない。

 黙示録は「隣人を自分のように愛しなさい」などとかとは縁もゆかりもない、それとは多分正反対の「自分達信仰を持つ者に敵対する者」を、焼き尽くして滅ぼす話である。自分たちは信仰によりつつましい生活をしているのに、信仰ももたず快楽にふけっている奴らがいる。そんなやつらは滅びて地獄へいけ!という方向の話である(とわたくしは思う)。なにしろ、どうとでも解釈できる話なので、まったく別の解釈も当然ありうるであろう。上に記したのは、D・H・ロレンス福田恆存の解釈。「現代人は愛しうるか -アポカリプス論―」(D・H・ロレンス 福田恆存訳 (筑摩叢書 47 1965) 「黙示録論 」(ちくま学芸文庫  2004年)。

 とにかく宗教から穏健な上澄みだけ取り出すのは不可能で、生きた宗教である限り、その内部にもっとどろどろしたものを保持していかないと、根がかれてしまうと思う。

 佐藤氏の示唆する宗教はキレイキレイではなくもっとドロドロしたものをふくむのではないかと推察するけれども、例えば、格差をなくすというのでも、格差に苦しむひとの怨嗟をも汲み上げていくのでないと、単なる数字の問題に矮小化されてしまうのではないかと思う。
 政治というのは人の善意などというものはいとも簡単に踏みにじっていく運動なので、無邪気な善人が近づくと碌なことにならないと思う。佐藤氏は政治の表も裏も知り尽くした「悪人」であると思うので、政治の陥穽に簡単に足を掬われることはないだろうが、世の中はそんな悪人ばかりで出来ているわけではない。善人が政治にかかわると、多くの場合碌なことにならない。向坂逸郎氏など本当にいいひとだったのではないかと思う。

 わたしが本書を読んで思い出したのが林達夫氏の「共産主義的人間」「新しき幕明き」などであった。
とにかくわたくしは「政治」には近づきたくない。ほっておいてくれ、こっちに来るなというのが正直な気持ちである。

 それでは何でこんな本を読んだのかといえば、二十歳のころに「東大闘争」という、それが例え全くの子供の政治(ごっこ?)であったとしても、とにかく「政治」に遭遇したからである。今の自分はその上にできているという思いがある。
 ではあるが、定見がなく、見解があっちにいったりこっちにいったりで、困ったものである。

 ウクライナの戦争の後で西欧がふたたび「宗教」のほうに戻るのか、あるいは「啓蒙」に踏みとどまるのか、それは判らない。とにかく今度の戦争でわかったのは、宗教がロシアに保存?されていたということで、プーチン氏はロシア正教の歴史やトルストイドストエフスキーなどの文学にも通じた碩学のようである。

 ロシア文学がロシア以外で一番読まれているのは日本だそうである。プーチン氏は「大審問官」なのであろうか?

 竹内靖雄氏の「世界名作の経済倫理学」(PHP新書 1997)によれば、「共産主義ローマ・カトリックの世俗版である。前者は人間を羊に変えて救済し、後者はパンで救済しようとする」と。
 15世紀スペインのセヴィリアに再臨したキリストに大審問官は「人間が求めている救済とはパンをもらうことである」という。それにキリストは何も答えない。ただ、大審問官にキスをして去っていく・・。

 どうも佐藤氏は、時により大審問官に、時によりキリストになるような気がする。シニックになったりナイーブになったり・・。一方、池上氏は一貫してナイーブ。
 ナイーブな人間に政治に政治が可能なのか、それがわたくしには常に疑問なのだが・・。

(池上彰 佐藤優 「激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972」 「漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972―2022」 講談社現代新書(2022) (6)

 p211から「過激化する新左翼」の章になる。
 p223に佐藤氏が「新左翼の活動が一線を越えた、ある意味で荒唐無稽とも言える先鋭化をしていった」のは「京大全共闘の滝田修の思想にあったと考える」としている。「滝田は、革命のためには既存党派とは別に「パルチザン」革命の正規軍とは異なる民衆自身による別動隊を組織してゲリラ闘争をしなければならないと説いていた」のだそうである。この思想?が結果的に高揚していた全共闘運動を暴力的な路線に外らし、それを衰退と解体に導いた、と佐藤氏はいうのだが、これは逆で、全共闘運動が行き詰まったので、暴力的に暴発するしかなくなっていったのではないだろうか?
 事実として、1969年に「共産主義者同盟赤軍派」が結成される。しかし計画した「大阪戦争」「東京戦争」は不発におわり、さらなる行動の準備のため、大菩薩峠で訓練していたところを察知され、53人が検挙される。それで日本一国での革命は無理と判断し、国際根拠地論に転じ、社会主義国家で赤軍派メンバーの軍事訓練をさせ、鍛えたうえで世界各地に送り、武装蜂起させ「世界同時革命」を実行することを目指した。その根拠地として当初はキューバを考えたが距離的に困難と考え、最終的に北朝鮮を選んだ。それで1970年3月に「よど号ハイジャック事件」がおきた。
 このハイジャック事件で覚えているのは、メンバーが声明?を出したことで、その中で「われわれは明日のジョーである!」といったところがあったことで、心底「馬鹿か!」と思った。「漫画しか読んでいないのか?」 とにかくこの辺りの話はすべてマンガである。わずか数十人の人間が世界革命をおこす??
 北朝鮮の指導者たちは彼らの主張を荒唐無稽として全く相手にしなかったとあるが、当然であろう。北朝鮮の指導者のほうが現実をよくみていて、よっぽどまともである。第一、ハイジャックメンバーは反スターリン主義を掲げていたのに、北朝鮮スターリン主義国家であることも知らなかったわけである。俺たちが改宗させてみせると思っていたのかもしれないが・・。
 だから、こういった動向など本書に記載する必要などないと思うのだが、そうもいかないのは、これが後の連合赤軍事件、浅間山荘事件、日本赤軍、テルアビブ空港乱射事件などに繋がっていくからであろう。
 別に「京浜安保共闘」から連合赤軍が生まれてくる。しかし「山岳ベース事件」で仲間同士で殺し合うという事態がおき、さらに官憲の追及を逃れる過程でおきたのが、あさま山荘事件である。これらの事件によって学生の運動は社会の支持を完全にうしなって下火になっていった。
 しかし、1972年5月30日、ロッド国際空港で岡本公三らによる、銃乱射事件がおき、26人死亡、73人が重軽傷という事件がおきている。犠牲者の多くは一般人旅行客である。を
 さて佐藤氏はいう。哲学・思想の分野では新左翼に優れたものがあったのは間違いないが、政治的には全く無意味な運動だった。
 池上氏は1968年のパリの5月革命はフランスを変えた(女性の地位向上など)が、日本の運動はそういうものを残せなかった、と。
 佐藤氏は「マルクス主義への敬意は1960年代のうちはまだ相当に強いものがあった」という。しかし1970年代はまた左翼の堕落の時代であったとしている。新左翼の運動は現代から振り返れば「ロマン主義」の一言で括れる、と。
 さて佐藤氏は同志社大学の学生部長であった野本真也教授から以下のようにいわれたと書いている。「政治には「大人の政治」と「子供の政治」がある。君たちがしていることは「子供の政治」だ。これは君たちを鍛えるし、悪いことではない。しかし、民青や中核派、あるいは統一教会は違う。これは「大人の政治」で、大人が組織的目的のために子供を利用する政治だ。われわれは教育的観点から君たちをそういう「大人の政治」からは守らねばならない。」 統一教会の名前がここに出てくるのが大いに考えさせられるが、統一教会が紡いでいる物語は何とも稚拙で、これを信じるひとがいるのが信じられない。マルクスが紡いだ物語というのも統一教会ほどではないにしても、今から見ればかなり稚拙なもので、かりに全共闘運動の高揚と挫折ということがなかったとしても、それを信奉するものは減少の一途をたどったのではないかと思う。
 全共闘が先鋭化していったことについて佐藤氏は「そういうもの」としかいいようがないという。革命運動においてはより過激なほうがより正しいとなってしまうから。それはそうかも知れないが、そもそも「革命運動」というものの有効性を信じるものが今どれだけいるだろうか?」
 そして佐藤氏は過激化を防ぐためには「官僚信じる化」することだ、という。現代の政治は官僚化しないとできないのだから、と。しかし日本共産党などまさに官僚化した組織なのではないだろうか? かつて佐藤氏は官僚として権力の内部にいた人だからそう考えるのだろうか?
 ここまでで「激動 日本左翼史」が終わるのであるが、一応、1972年から2022年までをあつかう「漂流 日本左翼史」もみることにする。

池上彰 佐藤優 「激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972」 「漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972―2022」 講談社現代新書(2022) (5)

「激動」p121から東大闘争が論じられていく。1月10日に「東大七学部学生集会が開かれ、大学側と学生側の間で「確認書」がとりかわされ各学部のストは次々に解除されていった。大部分の学生たちは授業が半年以上ないという事態にほとほと嫌気がさしていたのである。
 しかし、全共闘側は自ら運動をやめるということはなく、というかやめられなく。安田講堂に閉じこもり続けた。それで1月18日から19日にかけてのいわゆる安田講堂攻防戦になる。
 もちろん、わたくしもテレビで観戦?していたわけであるが、わたくしの関心はただ一つ、学生側に死者がでるかということであった。(制圧されることは自明であったから。)
 本書によれば、この事件で警察官側の負傷者710(重症31)、全共闘側47(重症1)。457人が逮捕、133人が一審で実刑判決、とある。
 この数字を見て奇異に感じないだろうか? 学生側の10倍の警察官側の負傷者である。もしも権力側が本気で対峙するのであれば放水とか催涙弾などの生ぬるい方法ではなく実弾を使えばいいわけである。事実、天安門事件では多数の死者が出ているはずである。
 要するに権力の側からはまったく相手にもされていない。しかも制圧された時、安田講堂には東大生も「核マル」派もいなかった。
 安田講堂事件というのは大カーニバルであったはずである。そのカーニバルに陶酔して、講堂の上から飛び降りるひとの一人や二人がいても不思議ではなかったと思うのだが、いなかった。要するに「本気ではなかったのだ」とわたくしは思った。この間で、運動側の死者はほとんどが内ゲバによるものである。権力側に殺害されたものはいないと思う。(表にでていないだけかも知れないが、もしそのようなことがあれば運動側は大宣伝をしたはずである。)
おろらく、制圧する側も学生側に英雄を作らないことに腐心したはずである。死者は英雄になってしまう。

 さて東大の闘争とほぼ平行に日大の闘争があったわけだが、これこそ「左翼」とはまったく縁もゆかりもない、現在もその当時もまったく変わりない「学問」がどこにも存在しない「大学」という状況への抗議であったはずである。それが当時は、抗議活動の標準的な形が、ゲバ棒(角材のこと)とヘルメットというのであったので、あのような形になっただけなのだと思う。
 その日大の今のトップが「ルンルンを買っておうちに帰ろう」という変てこな(読んでいなくてこんなことをいってはいけないのだが)エッセー集(1982年)でデビューした林真理子氏なのだから感無量である。出発点は、たぶん「女って本当はこんなことを考えているのよ!」というような路線の本であったのではないだろうか? それが体育会系という男の世界(義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界)に乗り込んでいくのであるから、大変な苦労をされるのではないかと思っている。もちろん、林氏がその後、立派な小説家に脱皮していったことは重々、承知しているが・・。(そして容姿がどんどん変貌されていったことも・・)

 p145に「新左翼は就職活動に不利だったか?」という項がある。そんなことはなかったと思う。会社は個人の活動家を恐れていなかったと思う。おれが鍛えあげて立派な会社人間にしてみせると思っていたと思う。おそれていたのはひたすら「民青」「共産党」という「組織」であったと思う。

 さてp155からは「新左翼の理論家たち」という章になる。これがわからない。2022年の現時点において、そういうことを論じることに何か意味があるだろうか? 池上氏が1950年生まれ、佐藤氏が1960年生まれであるから、1947年生まれのわたくしより、池上氏が3歳下、佐藤氏は13歳下である。
 池上氏が高校に入った時の大泉高校ではブント派が活動してそれで「今のこの世の中は変えなければいけないんじゃないか?」と思うようになり、マルクス主義関係の本を読みはじめたのだ」という。そして、労農派のほうが正しいのではないかと思うようになり、大学進学時もどこでそのマルクス経済学を学べるかで選んだそうである。
どうも本書にはそういう池上氏の青春時代へのノスタルジアがあって、一時は自分も傾倒した「新左翼の理論家たち」を頭から否定できないのだと思う。
 しかし現在の時点で黒田寛一を思想家として論じることに意味があるだろうか? 黒田・松崎明動労という路線で現実にかかわったことはあるにしても・・。

 ここで佐藤氏がなんで現在あえて左翼史を語っているのかは「自分の命を投げ出しても構わない、そしていざとなれば自分だけでなく他人を殺すことも躊躇しないと人に決意させてしまうほどの力を持つ思想というものが現実に存在することを知ってもらいたいからです。」という。
 しかしこれは思想ではなく宗教だろうと思う。あるいは思想が宗教化することの怖さだろうと思う。
マルクス主義が宗教化した最大の理由は「科学的社会主義」の「科学的」なのだろうと思う。自分の主張は「思想」ではなく「科学」的あるいは「物質的」根拠をもつと主張したことである。歴史には発展法則があり、社会の生産力が増加していくことで自ずから最終的な共産主義社会へと進んでいく、としたことである。
 p181に、ソ連アメリカと張り合いながら趙大国なった一方で、マルクスの理想からは程遠い巨大官僚国家となってしまったソ連社会主義への失望がブント派の思想の根底にあることが言われている。しかし組織が大きくなると、先鋭的な前衛だけでは運営できなくなる。ドラッカーがどこかでいっていたが、組織というのはある程度大きくなるとどうしても膨大な中間管理職を必要とするようになる。その問題を軽視したことが、マルクス主義が現実には機能しなくなった最大の原因であると。
 今ではそんなひとはまずいないが、わたくしが若いときは電車のなかで共産党の新聞「赤旗」を読んでいるひとが結構いて、そばからのぞいてみると、ごく一部の資本家を多数の労働者が取り囲んで、拳を突き上げているといった漫画がいつも掲載されていた。
 ソ連は1957年には世界ではじめて人工衛星の打ち上げに成功している。その前には大陸間弾道弾もうちあげている。わたくしもその当時、ソ連というのは意外とまともな国かもしれないと思った記憶がある。
わたくしが東大にはいったのは1966年であるが、その当時の駒場キャンパスを牛耳っていたのは「民青」派であった。入学式は大学側主宰と学生側のものとの二本立てであったが、今でも不思議なのは、学生側の歓迎会のゲストとして招かれていたのが羽仁五郎氏であったことである。当時「都市の論理」で高名であった氏は、とにかく反体制であれば民青でも全共闘でもどちらでもよかったのかもしれないが・・・。とにかく天才的なアジテーターだと思った。
 そのころからすでにタテカンというのもあっただろうか? 駒場のキャンパスをあるいていると、あっちこっちからおいでおいでされたが、「すぐにも日本は共産主義国家になる。アメリカだってその内にそうなる」と真顔でいわれて、この人なにを考えているのだろうと思った。
 当時はベトナム戦争がたけなわで、ホーチミンサンダルを履いた農民兵が健気にアメリカの近代兵器と闘っているといった報道が専らされていた。実態は「地獄の黙示録」に描かれたものに近かったのであろうが・・・。とにかく当時の報道は、アメリカ=悪、ベトナム=善といった方向一色で、これはもう「宗教」である。実際にマルクスの思想にはキリスト教歴史観が色濃く反映していることはよく指摘される。「最後の審判」≒「共産主義社会の実現」。
 佐藤氏がいう「自分の命を投げ出しても構わない、そしていざとなれば自分だけでなく他人を殺すことも躊躇しないと人に決意させてしまうほどの力を持つ思想というものが現実に存在することを知ってもらいたいからです。」というのは、思想というものへの過大評価であり、人知の限界という啓蒙思想という西欧のなしとげた成果への過少評価だと思う。「われわれは間違う存在である。そうであるならお互いに許し合おうではないか。」
 しかし「自分は真理をみつけた」とする思想家もいる。それは他を許さない非寛容の道に通じる。
 p209で佐藤氏は、「自己絶対化を克服する原理は共産主義自身の中にはないのだ」とし、そうなるのは「左翼が理性で世の中を組み立てられると思っていることにあります」という。
 さらに「人間には理屈では割り切れないドロドロした部分が絶対にあるのに、それらをすべて捨象しても社会は構築しうると考えてしまうこと、そしてその不完全さを自覚できないことが左翼の弱さの根本部分だと思うのです。」ともいう。
 フランス革命での「理性教」である。

 「人間には理屈では割り切れないドロドロした部分が絶対にある」ことを担当するのが「宗教」であるのかが問題である。「人間には理屈では割り切れないドロドロした部分がある」ことを自覚するのもまた「理性」の働きではないだろうか?
 「汝ら罪なき者、この女に石を打て!」というのは人間の不完全さを示唆するものであり、理性の言葉である。しかし宗教においては「自分は罪なき者であり、女に石を打つ資格をもつ」と信じるものが出てくる。

 わたくしはK・ポパーの信者であるので、その反証可能性の論を信じている。「われわれが知ることができるのは、何が正しくないかだけで、何が正しいかを知ることは永久にできない。しかるにマルクス主義フロイト精神分析理論も常に批判に関して自己の正当を証明する反論を用意している。とすれば、これらは科学ではない。」

 人間の完全性=宗教、人間の不完全性=文学、なのだろうか?
 「痴愚神礼讃」あたりから英雄譚ではない小人の文学がはじまったのかもしれない。そして小人の文学である小説がおそらく前世紀前半あたりに全盛期を迎えた。
 しかしどうも前世紀後半から今世紀にかけて小説は不振のようである。なにしろ小人が一人死んでも「西部戦線異状なし」である。
 クンデラは「ヨーロッパ的精神のこの貴重な本質は・・小説の知恵の内に収められているように思われる」と言っている(「小説の技法」岩波文庫 2016)。氏はアジェラスト(笑うことがなく、ユーモアのセンスのないもの、真実は明瞭であり、すべての人間は同じことを考えねばならず、じぶんたち自身はみずからそうだと考えている者だと信じこ んでいるひと)に対するものとして小説を挙げる。
 おそらく、全共闘運動家も共産党の運動家もアジェラストなのである。しかしアジェラストほど改宗させるのが困難な存在もないのではないだろうか?

 次の第四章「過激化する新左翼」は稿をあらためて。