橋本治「小林秀雄の恵み」(1)

   新潮社 2007年12月
   
 橋本治氏の「小林秀雄の恵み」を読んで、久しぶりに“本を読んだ”という気がした。“本”を書くというのは、何かいいたいことがあり、それを充分な紙幅にわたって展開することだと思う。橋本氏の近著「日本の行く道」(集英社新書 2007年11月)も面白かったが、これはあきらかに紙幅がたりない。事実「本当はもっと長くてもいいのですが、新書には「限界」もあるらしいので、これで終わりです」とある。最低でもこの3〜4倍の長さは必要なのだろうと思う。それを新書におさめるために、エピソードを二つならべて、次にいきなり結論、エピローグという構成になっている。これで理解できるためには、橋本氏の論に普段せっしていることが必要で、それをしていない人間は「日本の行く道」を読んだら、何がなにやら、であろう、と思う。そういうものを単著として出すというのはいかがなものなのだろうか? 「上司は思いつきでものをいう」問題と「日本の行く道」の問題を同じ紙幅で論じるというのは無茶というものである。
 この「小林秀雄の恵み」は、400ページほどの本で、ほぼ小林秀雄の「本居宣長」だけを論じたものである(あとは「無常といふ事」は言及される)。小林秀雄本居宣長」は約600ページの本だから、原著よりも長いということはないが、まずその紙幅があればいいたいことを尽くすには充分であろう。
 
 以下「小林秀雄の恵み」を読んでいきたいと思うのだが、いろいろと思うところ、考えるところがでてきそうな気がする。長くなりそうだし、ほかの橋本氏の本、あるいは橋本氏以外の本もとりあげることになりそうにも思う。そこで「小林秀雄の恵み」からの連想で「橋本治の恵み」を総タイトルとし、しばらく書いていくことにしたい。
 
 さて、この「小林秀雄の恵み」のテーマは、最初から、明白に提示される。私(=橋本治)は『日本の知的社会に「いやなもの」を感じていた』のだ、と。小林秀雄は、その(いやな)知的社会の中枢にいる人間であるはずであるが、「本居宣長」を読んでみたら「いい人」であった。それがわかって感激した。しかし、そうであっても『小林秀雄がいた知的社会は、私(=橋本治)にとって、あまり「いいもの」ではない』ことは相変わらずである。『その中枢にいて、日本の知的社会を「いやなもの」にしていた責任だって、小林秀雄にはある」と思う』と橋本氏はいう。だから『小林秀雄がいて、小林秀雄が読まれた時代の、日本人の思考の形が知りたい』という。それこそが橋本氏の感じる「日本の知的社会にある「いやなもの」の源泉であろうから。
 そのためには、自分が小林秀雄の「本居宣長」を読んで、「分からない」部分の方が重要であろうという。なぜならそこにこそ小林秀雄が生きて格闘した時代の持っていた問題点があらわれているだろうから。
 小林秀雄の「敵」=橋本治の「敵」であり、逆もまた真である。それならば、小林秀雄の「味方」=橋本治の「味方」か? そうはならない。そこにこそ、小林秀雄が生きた時代の問題、近代知性の問題がでてくるであろう。
 ということで、「本居宣長」を読みはじめるわけであるが、それはわかりにくい。なぜ、橋本氏にはわかりにくいか? それは、「本居宣長」において、「歌とはなにか」という規定を小林秀雄が明確にしていないからである。宣長は『源氏物語』から『古事記』へと研究をすすめた。『源氏物語』での「歌」とは、登場人物の「会話」「生の声」である。『源氏物語』の著者は作中人物に対して敬語を使っている。それは帝の物語であるのだから、そうなる。しかし和歌の部分だけは敬語とは無縁の世界である。だからこそ、そこは「生の声」が聞こえる世界である。和歌の遣り取りをする二人の間には、その遣り取りのときだけは、身分の上下がない。
 本居宣長は歌を詠むことが好きな男だった。他からは駄作としかいわれないような歌を延々と詠み続けた。宣長にとっても、また和歌を詠むことは「生の声」を発することであった。和歌がそのようなものであっていいということを宣長は、契沖から学ぶ。しかし、宣長の直接の師、賀茂真淵にとっては、和歌とは研究の対象、学問の対象であった。その立場からは「万葉ぶり」でない歌は否定された。宣長は師に自分の歌をみとめてもらえなかった。その自分の歌詠みを肯定するため、なぜ源氏にだけは和歌に「生の声」があるのかを宣長は研究し、さらに「生の声」のルーツをたどって「古事記」へと遡っていく。
 宣長にとって「物のあはれ」とは《人の情(ココロ)の、事にふれて感(ウゴ)く》である。それを小林秀雄は「全的な認識」などといいだすが(「明らかに、彼は知ると感ずるとが同じであるやうな、全的な認識が説きたいのである。」「本居宣長」p144)、そんな難しい言い方をすることはない、と橋本氏はいう。《こころのうごく》ことなど誰にでもおきることである。それならなぜそれ以上、難しい議論をすることがあるのか? あたりまえがあたりまえでなくなっているとしたら、何かが妨げているのである。それは《あはれ》という言葉が「哀」を想起させ、「悲哀」という言葉を呼び出してきてしまうからである。感情の高低、上下関係ができてしまう。しかし、《人の情の、事にふれて感く》ことがあれば、それはすべて「あはれ」なのであり、喜びにも悲しみにも上下関係はない。宣長は和歌を好きに詠んで、自分の《情の、事にふれて感く》さまをうたった。それは「物ものあはれ」を詠んだものなのである。そのように理解すれば「本居宣長」という本は理解しうるものとなる。
 しかし、それが難解になるのは、小林秀雄宣長の「歌」ではなく「学問」を論じようとするからである。それは、本居宣長を「小林秀雄の信じる学問を人格化したもの」としようとする小林秀雄の強引である、と橋本氏はいう。しかし、宣長において、第一が歌を詠むこと、学問はそれにあとから理屈として付随してくるものとすれば、難解は消える。「本居宣長」は学問の人としての宣長を追ってきて、最後でそれが挫折した本なのだと橋本氏はいう。「宣長」を書き出す前に小林秀雄ベルグソンへの「感想」を5年間連載し、結局、放棄している。小林秀雄ベルグソンを勉強しようとして、60歳を超えた。どこかで勉強する相手を間違えたと思ったのかもしれないが、同時に、60歳を過ぎて勉強でもあるまい、と思ったのでもあろう、と。そして今後の自分に必要なのは自己確認であると思い直して、自分と等価の人として宣長を選んだのではないかと。そこで小林秀雄宣長と自分を重ねることにより、自分を確認していけるはずであった。しかし、宣長もまたどこかで自分と違う人であると気がついた。その挫折が「本居宣長」の微妙な、あるいは奇妙な構成、最後の「もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言状から始めたが、このやうに書いて来ると、又、其処へ戻る他ないといふ思ひが頻りだからだ。・・」のあたえる不思議な印象に見えていると。
 そうは言いながら、最初に帰ると、そこは遺言状ではなく、折口信夫がいる。折口氏に小林秀雄は「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」というのだが、折口氏はそれには答えず、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さようなら」といって消えてしまう。この部分の折口信夫を、橋本氏は『どうしても私には、「折口信夫はいやなやつだ」としか思えない』という。これが橋本氏のいう『日本の知的社会の「いやなもの」』に該当するのかは、微妙なように思う。わたくしには折口信夫が近代知識人のイメージとは全然重ならないからである。わたくしには『日本の知的社会の「いやなもの」』は、ほとんどが西欧由来であると思っているので、どうも折口信夫とはうまく重ならないのである。しかし知的権威のいやらしさ、ということはあるかもしれない。
 わたくしにはむしろ、ここはいわゆる「宣長問題」に小林氏が先手を打っている部分なのではないかと思う。「宣長問題」とは加藤周一氏の定義によれば、「宣長の古代日本語研究が、その厳密な実証性において画期的であるのに対し、その同じ学者が、上田秋成も指摘したように、粗雑で狂信的な排外的国家主義を唱えたのは、何故か」という問題である。宣長を論じるとどうしてもそこにぶつかってしまう。だから、それに先手を打って、「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」と小林秀雄がいい、それに対して、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」という言葉で、折口氏は、危ないところには近づかないほうがいいよ、古事記にいくと火傷するよ、と答えているのではないだろうか? それに対して、「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」ではないけれども、「俺は学説の正否をいっているのではなく本居宣長の「物のあはれ」にせまりたいので、危険は覚悟の上」といって批判を先取りしているのではないだろうか? 『学問しようとする私の前には、その私の内容を理解しようとしない知的権威がいる』ではないように思う。
 そして例の遺言状である(といっても「本居宣長」あるいは「小林秀雄の恵み」を読んでいないと何のことやらであるが、要するに公的と私的の二つの墓をつくり、公的な墓には奥さんをいれ、自分は私的なほうの墓に入り、そこに桜を植えろ、という非常に奇妙な遺言状)。そして、この遺言状が何をいわんとするかということについての橋本治の説はあっとおどろくようなものであって、『本居宣長は桜に恋をしていた』『死ぬと同時に、本居宣長は、いわば「愛人の桜という少女」とこっそり同居を始めるつもりだった』というものである。ここの部分、読めば読むほど橋本説に納得で、その慧眼におそれいるばかりなのであるが、一般には、この遺言状は宣長が晩年、死後の魂の不滅を信じていたかを論じるという点から問題にされるらしい。だから学者はいやだというのである。
 この遺言状のあたり、小林秀雄は『自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家』とか、この遺言状が『彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言ひたい趣のものと考へる』とかいっている。昔読んでいて、この辺りで、「何をまた大袈裟なはったりをかませて」とか思って、読むのをやめたように記憶している。
 さて今度は、橋本氏の強引である。
 「本居宣長」の中の『宣長は、享保の生れであるから、西鶴が「永代蔵」で、「世に銭程面白き物はなし」と言つた町人時代の立つてゐる組織が、いよいよ動かぬものとなつた頃、当時の江戸市民に、「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言はれた、その伊勢屋の蔵の中で生れ、言はば、世に学問程面白きものはなし、と思ひ込み、初心を貫いた人である。』(同 p22)から、次のように言いだす。『これは宣長が「町人時代の第二段階に生まれた」とも解せる』と。また、明治を「近代の第一段階」とすると、明治35年生まれの小林秀雄は、「近代の第二段階」の人である、と。『だったら、本居宣長のいた時代は近代であってもいいのだな』と。
 橋本氏はどうしても「近代」というところに、土俵を設定する必要があるのである。
 その先を長いが引用する。

 我々は近代を特別視している。特別視していることを、意識してさえもいない。
 我々は洋服を着ている。そのことを自然としている。しかし、日本人は近代になって洋服を着始めた。我々は学校教育を当然のように経過している、それもまた近代に始まった。近代とそれ以前では、言葉も違う。我々の使う日本語は、近代になって創られた「口語」という新しい日本語だ。だから、近代とそれ以前との間には大きな壁がある。― そのことも自然と理解出来る。しかし、日本の近代がそれ以前の時代と違うのは、近代の日本が「西洋文明圏の一角」として位置付けられていることである。日本人は、そのことを当然のように理解していて、しかし、日本が自分達を「西洋文明圏の一角」として位置付けようとして「近代」をスタートさせたことに対しては、理解を曖昧にしている。曖昧にしていてもかまわない最大の理由は、我々が近代に生きているからである。「既に我々は近代に生きている」― その事実がある以上、近代を疑っても仕方がない。おそらく、我々が近代を特別視し、それを当然として疑わない最大の理由は、我々が近代という時代に生きているからだ。だから我々は、近代以前を差別視する。近代と近代以前は一つにならない。
 近代以前の日本に「近代的知性」はない― 「近代的知性」を西洋によってもたらされたものとすれば、そういうことになる。近代以前の日本にあるものは、「近代的ではない知性」である。それは普通、「知性には値しないもの」と解される。そうすると我々は、西洋と出会う前は「知性」そのものを持たなかったことになる。ところでしかし、西洋文明と出会って我々が得るものは、「西洋の知識」であり、「西洋に生まれた近代的知性」である。近代を始めた我々は、それを学ぶしかない。それはいいのだが、だとすると、「西洋を学ぶ」を可能にした「学問する知性」はどこで育ったのか? 西洋と出会って、我々日本人は「学ぶ」を可能にすることが出来た― それを可能にする「学問する知性」は、どこで生まれたのか?

 小林秀雄が異を唱えたのは、《明治以前の日本には「学問する知性」はなかった、日本に独自の思想も哲学もなかった》という主張に対してである、と橋本氏はいう。近世において、宣長以前にすでに学問する知性が誕生していたとすれば、宣長の時代を近代としていいことになる。そう考えれば、近世と近代の間にある堤防は決壊する。「学問する知性」こそが大事なのであって、近世と近代区別などどうでもいい、そういういうことを近代知性の大家小林秀雄が言っている、それがこの「本居宣長」のなによりも凄いところなのである、と橋本氏はいう。
 上記の長い引用部分には、橋本氏の発想の一番の根っこがよく現われている。橋本氏は『日本の知的社会に「いやなもの」を感じていた』というが、それは橋本氏が若いときから一貫して「近世」の人だからである。橋本氏は、ずっと「近世的知性」の人なのである。しかし知性には「近代的知性」ただの一種しかないとメイン・ストリ−トの知識人たちは思っていたわけだから、橋本氏はずっと《外れのほうにいる人》にされてきた。なにしろ「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」(マンガ評論)、「定本 チャンバラ時代劇講座」(チャンバラ映画論)、「恋の花詞集」(歌謡曲論)なんてのを書くわけだから、完全にサブカルチャーの人と思われていたと思う。それが雌伏?十年、小林秀雄賞をもらうメイン・ストリートの人となってきたわけである。
 本書は近代的知性の人=小林秀雄 対 近世的知性の人=橋本治の対決の書なのである。
 とはいっても、小林氏が近代的知識人の代表選手というわけではない。というのは、近代的知性の人はどこからかかならず近代的知性の限界ということを言い出すものだからである。小林秀雄が「本居宣長」を書くというのはまさにそういうことである。そして「近代の克服」といった方向への探索は「無常といふ事」からすでに見られるということが、「小林秀雄の恵み」の後半で議論される。
 一方、橋本氏のほうも、チャンバラ映画のルーツを歌舞伎にみて、その研究のために国文科にいったひとではあるが、近世=江戸時代全面肯定の人ではない。「江戸にフランス革命を!」のひとでもあるのだから。

 ところで私は、江戸の町人文化が嫌いである。殊に“文芸”というものが。ほとんど、どうでもいいことばっかりだ!
 どうして江戸の町人達には、“明治維新のための思想を用意する”という発想がなかったたんだろう? 彼等は遊んでいただけだ。日本人が“近代”である明治維新の為に、一体どういう“思想!を用意したってんだろう? 明治維新が市民革命であるかどうかなんて発想は、このことを頭に置いたら出て来る訳がない! 
  「その後の江戸― または、石川淳のいる制度」 「江戸にフランス革命を!」(青土社 1989年)

 こういうところだけ読むと橋本氏はまるで丸山真男である。しかし、どこか丸山真男的なところがなければ、「近世の人」が文を書くようにはならないだろうと思う。言論界をほぼ独占していた知識人たちはお互いにさまざまに対立はしていても、近代知性の人がほとんどなのである。言説というものがほとんどイコール近代的知性なのである。橋本氏は貴重な例外だったのである。

 日本というのは不思議な国で、明治の四民平等になってから、新たな身分制度というものが始まりました。それは何かというと、別に“華族制度”のことではなくて、“遅れている、進んでいる”ということを尺度とする、開化度― 知性に関しての身分制度です。高邁な理想を掲げるインテリがトップにいて、その下に学生が続き、一番下に“遅れた大衆”というものがいるのです。
  「定本 チャンバラ時代劇講座」(徳間書店 1986年)

 まさに丸山真男の図式である。この図式でみると、どう考えても小林秀雄はインテリの側にいる。橋本氏は“遅れた大衆”の側であろうか? 日本の知的社会の「いやなもの」とは、このインテリがはなった腐臭である。普通にいえば、「何の役にも立たないくせに、偉そうな顔をして何様だと思っているんだ!」というようなことである。橋本氏が小林秀雄は「いい人だ!」というのは、この腐臭がないということである。しかし、小林秀雄信者などというものには腐臭をはなつものがたくさんいるかもしれないので、その責任は小林秀雄にないとはいえないぞ、というのが、橋本氏のいうことである。
 この対立の図式でいえば、わたくしがインテリの方に位置付けられてしまうことは間違いなさそうである。わたくしは「近代っておかしいんじゃない?」と「近代でいくしかないんじゃない?」の間をゆれ動いている。だから、本書でいわれていることは他人事ではない。

 まだ、ここまで「第一章 『本居宣長』の難解」と「第二章 『本居宣長』再々読」だけ、全体の四分の一ほどである。ゆっくりぼちぼちと、また読んでいきたい。
 ちょっと小林秀雄についての個人暦など。
 「本居宣長」はもっている。昭和52年(1977年)11月刊行の第2刷である。買ったもののほとんど読んでいないことは上に書いたとおりである。定価が4千円である。今なら1万円くらい? これがベストセラーになったなどというのは信じられない。
 出版前後のことで覚えているのは、福田恆存が絶賛していたことで、「この本はわたしのために書かれた本だ。日本中でも、この本のことが本当にわかるのはわたしだけだろう」というようなことを言っていたように思う。福田氏は二十歳ごろのわたくしの神輿であった。そのころには大分、熱はさめていたけれども、あの福田氏がそこまでいうなら、というようなことで買ったように記憶している。
 小林秀雄の全集は昭和42年ごろに発行された新潮社のものを数冊だけもっている。まだ学生時代で高くてとても全部はそろえられなったのであろう。背革の立派な本で、このころにはすでに小林秀雄は教祖になっていたのだろうなあ、と思う。「無常といふ事」の巻は持っているので、いづれ参観することになると思う。これとか「モツアルト」は読んでいるが、「近代絵画」とか「ドストエフスキー」あたりは全く読んでいない。「考えるヒント」は読んだ気がする。
 なにしろ受験国語に必須とされていたから、ぱらぱらと読んではいるが、なんだかピンとこない人であった。論理ではなく気合の人という感じで、丸谷才一氏だったかが、日本の批評文を駄目にした人というようなことをいっていたが、そうかもしれないともう。もっとも「本居宣長」の文は普通の散文であると思う。引用部分を読むのが大変なのだけれども。
 

小林秀雄の恵み

小林秀雄の恵み