8月15日

 毎年8月15日は「終戦記念日」として、各地で行われる様々な式典が報道されている(今年はウイルス感染拡大防止のため大分、規模が相当縮小されたらしいが)。しかし、「終戦記念日」というのはまことに奇妙な呼称であって、それだけみれば、単に戦争が終わったことを記念する、あるいは忘れないようにしようというだけのことである。
 本来であれば8月15日は、「終戦」ではなく「敗戦記念日」でなければいけないはずであるが、「敗戦記念日」というのも、これもまた変で、「戦争に敗れたことを記念する」ということになれば、そこには臥薪嘗胆、今度こそは負けないぞというニュアンスだって含まれてこないとは言えない。
 8月15日は「玉音放送」が流された日であり、ポツダム宣言受諾は8月14日、降伏文書調印式は9月2日であるから、本当の「終戦の日」ではないわけであるが、それでも8月15日を「終戦記念日」とすることに多くの日本人が異を唱えない、あるいはおかしく感じないということは、「玉音放送」が当時の日本人にいかに強いインパクトを与えたかということであり、また天皇という存在が昭和20年8月15日の時点においていかに大きなものであったかということでもある。だからこそ日本国憲法でも天皇制は残ることになった。
 つまり「終戦記念日」というものには、新しい日本が始まることとなった日、そのことを寿ぐ日というニュアンスが根底に色濃くあることを感じる。戦前の日本と戦後の日本、それを分かつ日が8月15日であるという意識がわれわれにはあって、この日が新しい日本の出発の日となったという思いが、ことさらこの日を大きなものとしている。
 「終戦記念日」に語られるのは、戦地の悲惨であり、銃後の生活の苦労である(もっと言えば飢餓、そこまでいかなくても空腹)。そしてまた、戦後の時間の経過とともにそれらの悲惨を経験したひとが高齢化していくことにより、その体験が語りつがれなくなっていくことへの危惧も語られる。
 しかし戦争の悲惨というのが75年以上も前にわれわれがおこなった戦争の体験から言われているのであれば、それからもう3/4世紀の時間が過ぎて、戦争の形態というものが当時とは大きく様変わりしている現在においては、ただ当時の悲惨を強調することの説得力はこれから急速に失われていくことは避けられないものと思われる。
 「終戦記念日」がわれわれに教えてくれていることは、われわれは自分の力では戦争を終結させることができず、終結のためには、天皇の言葉という力を必要としたということである。それゆえに「日本国憲法」でも天皇制を排することができなかった。
 そしてもう一つ、われわれが曲がりなりにも戦争を終結させることができたのは、広島と長崎への原爆の投下という事実があり、それによる筆舌につくせない惨禍をわれわれが経験したということの帰結でもある。
 もしも、この原爆投下ということがなかったとしたら、われわれははたして戦争を終結させることが出来たであろうか? というのは考えても詮無い歴史上のイフであるが、われわれのこころの奥底のどこかに、戦争を終わらせるためのきっかけをあたえてくれた《アメリカ軍による原爆投下》に感謝するというような心情がいささかでもないものか、それは難しい問題であるように思う。
 原爆忌での報道をみると、それは愚かな戦争をはじめたわれわれを懲罰するために、天上から降ってきた神の下した鉄槌のような扱いのように感じることが時々ある。よくいわれることであるが、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」というのもとても奇妙な文で、「安らかに眠ってください。」と呼び掛けるのはわれわれ日本人であろうが、そうであれば「過ちは繰り返しませぬから」もまた日本人の言葉であるはずで、原爆投下もまた、われわれが犯した過ちということになる。どういう過ちか? 愚かな戦争をはじめて、いくら配色農濃厚になっても、それをいつまでも止めることが出来なかったという過ち。
 加藤典洋氏の「敗戦後論」によれば、連合軍当局から日本憲法草案が提示されたとき、日本の憲法草案検討作業の場の日本の閣僚たちに検討のためにあたえられた時間はわずか十五分であったという。これは原子爆弾という当時存在した最大の権力によって日本に有無をいわせず押し付けられたもので、「国際紛争解決の手段として武力を行使することはしないと宣言する憲法が、原子爆弾という当時最大の「武力による威嚇」によって押しつけられた」ということになる。当時、たとえば美濃部達吉氏の考えた憲法改正案第一条というのは以下のようなものであったという。「日本帝国ハ連合国ノ指揮ヲ受ケテ 天皇之ヲ統治ス」
 いうまでもなく、加藤氏は押し付けられた憲法だから反対、自主憲法をつくれという方向のひとではなく、この憲法は素晴らしいものである。だから、もう一度、われわれの手で選び直せというきわめてまっとうな主張をしたわけであるが、右からも左からも文字通りボコボコに叩かれた。
 「敗戦後論」の冒頭は1991年におきた湾岸戦争において出された文学者たちの《戦後憲法の「戦争放棄」の条文》を根拠とする反戦著名声明への違和感から始まっている。「そうかそうか、では平和憲法がなかったら反対しないわけか。」
 村上春樹湾岸戦争のときにアメリカにいて、ずいぶんときつかったことを回想している。「日本人の世界の理屈と、日本以外の理屈は、まったくかみ合っていないというのがひしひしとわかるんですね。・・・自衛隊は軍隊ですよね。それが現実にそこに存在するのに、平和憲法でわれわれは戦争放棄をしているから兵隊は送れないんだと、これはまったくの自己矛盾で、そんなのどう転んだって説明できないです。・・・これはやはり日本にいたら気付けなかったことだと思うのです、理屈ではわかっても、ひしひしと肌身には迫ってこなかったんじゃないか・・・それと同時に、いまの日本の社会が、戦争が終わって、いろいろとつくり直されても、本質的には何も変わっていない、ということに気がついてくる・・・近代の日本を戦争に導いたものというのも、そういうずるさ、あいまいさではないですか」 これは河合隼雄との対談での発言であり、河合氏はそのずるさは必ずしも否定すべきではないと対応するのであるが・・。
 昭和16年12月の開戦は、明治以来、日本が国是としてきた「西欧世界の利権に自分達も参加させてくれ!」という方向を放棄して、「西欧世界は西欧世界で勝手にやってくれ! もう西欧世界との付き合いにはとことん疲れた。われわれはアジアのほうでやっていくから、それを認めてくれ!」というはなはだ後ろ向きのものであったのではないかと思う。開戦の時に多くの国民が感じたという解放感、頭上に重くのしかかっていたものが消えて、霧が晴れたような清々しい感じというのは、西欧というわけのわからない魑魅魍魎の世界との付き合いからもう解放されるのだという思いに由来するのではないだろうか。そして、8月15日の敗戦において、今度は、もう世界の基準から降りる。日本は世界に参加するだけの成熟をまだしていない国だったのだから、戦争というような世界の標準からは降りる、大人の世界のことは、他の国々にまかせる。ただ今は子供の世界の甘い夢想のように思えるだろうことが、どこか遠い未来においては、やはり人類の理想だったのだと理解される日が、ひょっとすると来るかもしれない。それに希望をつないで、もう少しわれわれの生き方、行き方を黙認して見ていてほしいというようなそういう気持ちで来た。
 しかし戦後75年がたったが、いまだに世界は変わっていない。それどころか、漠然と世界がその方向に進んでいるように思ってきた西欧啓蒙の方向がいたるとことで否定され、露骨な力の誇示が前面にでた世の中へと世界が逆行していることを感じさせる事象が目立ってきているというのが、今われわれが感じていることではないかと思う。
 だから、終戦記念日というのもますます内向きになり、後ろ向きになってきて、積極的な方向の見えないものとなってきているように感じる。わたくしの父は軍医として南方の島に送られ何とか生き残って帰ってきた。晩年の父は日本社会党の党員だったのではないかと思う。様々なニュースをみて、戦争のへ匂いを感じる、きな臭いものを感じるというのが口癖だった。多分それは自分の筆舌に尽くしがたい経験がそうさせたのだろうと思う。
 おそらく父の戦友であったのであろう矢数道明という方が書いた「ブーゲンビル島 兵站病院の記録」という本には、父は第二次編成第七六兵站病院将校名簿に内科医の一員として名前があがっている。戦後、父は小児科医であったが、戦地において小児科医などはなんの役にも立たないわけで、それで内科医なのであろう。この本によれば、第七六兵站病院は南方第十七軍司令部直属の部隊として、つねに軍司令部と共に第一線から離れた後方勤務に従事したとあり、比較的平穏な後方兵站病院の記録とあるから、第一線の野戦病院などと比べれば苦労はまだ少ない状況であったのであろうが、それでも、やはりそれは父としては人生最大の筆舌に尽くしがたい経験であったのであろう。しかし、父はその経験についてはわたくしには何も語らなかった。
 後10年もすれば、自分自身の体験としての戦争経験を語れるひとはほとんどいなくなるであろう。今の若い方に終戦記念日などといっても、わたくしが若いころにきいた明治維新という言葉に感じた感覚に近いものなのかもしれない。われわれの世代にとって、明治以前は過去あるいは歴史であって、明治以降が現在につながる。とすれば、今の若いかたにとっては、戦前までの日本はすでに過去あるいは歴史に属するのであり、戦後の日本こそが現在につながるのかもしれない。
 かりにコロナ騒動が収束の方向にむかっていたとしても、来年以降の終戦記念日の式の規模が縮小していくことは避けられないのではないかと思う。

敗戦後論 (ちくま学芸文庫)

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天皇の戦争責任

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ブーゲンビル島 兵站病院の記録(オンデマンド版)

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  • 作者:矢数道明
  • 発売日: 2001/09/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

Yiğidim Aslanım

 実は、このタイトルをどう読むのか知らない。You tube でピアニストのファジル・サイを見ていて、偶然いきあたった曲のタイトルである。最初は作曲家でもあるサイ氏が作曲した曲なのかとも思ったのだが、オーケストラは全員休んでいて、サイさん一人のピアノ伴奏で、オーケストラ後方のコーラスが物悲しい旋律を斉唱していくというだけの曲である。サイさんはトルコのひとなので、おそらくそちらの言葉なのだろうと思うがWikipediaで調べても、日本語はおろか英語の解説もでてこないので、曲についてはよくわからない。
 いろいろみていくと、どうやらサイ氏が作曲した(のではないかと思う)Nazım Oratoryosu という曲(これはオーケストラ、ピアノ、合唱、独唱と語り・・・これが極めて重要な役割・・・わたくしがみた You tube ではGenco Erkal という名の老優の大熱演・・からなる大曲で、タイトルをみれば、そらく オラトリオの一種ということなのであろう)の後に、アンコールとして演奏されたものなのではないかと思う。多分、聴衆もみな知っている旋律のようである。トルコ独立を指導したケマル・アタテュルクと関係があるのではないかという気もするが何しろ、一句も解せずのトルコの言葉であるから、全然違っているかもしれない。
 まったく偶然目にした(耳にした?)大人数がただただ斉唱する歌がもつある種の祝祭性というか祭儀性が気になって書いてみた。たまたま数日前に「第九」の持つ音楽の祝祭性というかロマンへの傾きについて書いたばかりなので、この曲の調子が気になったのかもしれない。
 小林秀雄の「モツアルト」は、そういうタイトルではあるが、いいたいことはベートーベンが音楽に導入したロマン主義の全否定で、自分が若いときにどっぷりとつかりきったランボー経由のロマン主義の路線の懺悔の書である。しかし、さすがにハイドンまではもどれず、モツアルトの悲しみの疾走までは許容するのであるが・・。しかも、ゲーテの若き日の疾風怒涛の時代の否定を借りて、自分をゲーテになぞらえるというなかなか芸の細かいところもみせている。
 音楽は宗教的儀式にその起源をもつことは間違いないわけであるが、ロマン派の音楽はその方向を全面解放してしまったので、後世のひとはその毒を消すのに大変な苦労をさせられることになった。
 しかし、多くの人数で一つの旋律を斉唱するというただそれだけのことで、そこから何等かの祭儀性がいやおうなく立ち現れてくるのだとすると、音楽がその根に持つ祭儀性の問題はきわめて根が深いことになるのだろうと思う。

「第九交響曲」

 今日の朝日新聞の朝刊に音楽学者の岡田暁生氏が「「第九」再び抱き合えるか」という文を寄稿している。「いつか「コロナは去った」と世界の誰しもが感じるようになる日。それを祝うコンサートとして、ベートーベンの「第九」ほどふさわしい曲はないだろう。」というのがその書き出しである。しかし「三密」を避けるという現在の動きの中で、大編成のオーケストラと合唱隊と独唱者を要するこの曲の上演は困難であり、ベートーベン生誕250年の今年であるが、多くの「第九」公演は中止されるであろう、と。
 一方、「週刊 東洋経済」誌の最新号での「コロナ時代の新教養」という特集には宗教学者島田裕巳氏が「今こそ生きる意味を探れ」という論を寄せていて、イスラム圏をのぞけば世界的に宗教は衰退してきていることを述べ、今回のコロナ禍では「人の密集を避けるために集会の規制が行われている」が「そもそも宗教は人が集まることで生まれる熱気や陶酔が重要」なのであり、「宗教にとって人が集まることは本質的なこと」であるので、現在の事態は宗教にとって決定的な痛手であると述べている。
 わたくしは知らなかったが、今年3月、イタリアで感染の爆発が起きているその時に、ローマ教皇は、聖職者に対し「外出して新型コロナ患者に会うように」と呼び掛けているのだそうである。カトリックには「終油の秘跡」といって、亡くなる人に聖職者がオリーブ油を塗って最期の許しを与える儀式があり、これは(カトリックでは)死に際しての不可欠な儀式であり(この秘跡はウォーの「ブライズヘッドふたたび」でも、最後の場面で一種の「機械仕掛けの神様」となって現れる。大団円をもたらすのではなく、人を引き裂くものでとしてではあるが・・)、それを実践するようにと呼び掛けたわけであり、それによって聖職者に多くの犠牲者が出たのだそうである。
 ベートーベンの時代には現在のような大ホールなどとをわたくしはしらないが(本日の朝日新聞の岡田氏の記事には「大阪城ホールでの「一万人の第九」の写真が付されている」)、今とは比べ物にならないくらいこじんまりとしたものであったであろうことは間違いない。それでもベートーベンの頭の中には、現在のような大掛かりな演奏につながるようなイメージはあったのかもしれないと思う。Seid umschlungen, Millionen! Diesen Kuß der ganzen Welt! 全世界に呼びかけようというのだから。
 このような大言壮語的というか誇大妄想的というか兎に角も大袈裟なものを音楽に持ち込んだのはベートーベンであるが、これがその後の多くの作曲家に祟って、ヴェルディの「レクイエム」とかマーラーの「復活」とか「千人の交響曲」とかを生んだのであるが、一方、ベートーベンが「英雄」や「運命」や「第九」を作っていなかったとしたら、今頃いわゆる西欧クラシック音楽はとっくに生命力を失って一部好事家たちのための古典芸能となっていたであろうこともまた間違いないように思う。
 ベートーベンがその交響曲を書かず、晩年のピアノソナタ弦楽四重奏のようなものだけを書いていたとしたらというのは考えても意味のないことであるが、あのような、ある意味では空疎なハリボテのような部分もある「第九」(あるいは「荘厳ミサ」)のような音楽を書いてしまうと、バランス上どうしてもああいう鍵のかかる個室での自分一人のための音楽もまた必要になるのであろうと思う。
 「一万人の第九」という演奏会もある意味異常なものであるが、後期のピアノソナタとか弦楽四重奏の演奏を大ホールで多くのひとが聴いて拍手するというのも別の意味で異常なことかもしれない。これは本来は自分で弾いたり、仲間と合奏したりするものではないかと思う(それにしてはとんでもなく難しい曲であるけれども)。
 個人というのは西欧近代の最大の発明で、その西欧が生んだ個人の代表選手はひょっとするとベートーベンであるかもしれないが、そのベートーベンが同時に集団の情念に火をつける方向の音楽をつくる方向ついても、またその模範例を後世に残したという矛盾の象徴が「第九交響曲」ではないかと思う。
 第九というのは曲の構成からみると相当に破綻しているので(終楽章の頭で、それまでの音楽を否定するなどというのも無茶苦茶であるし、4楽章、合唱のテーマがチェロとコントラバスででてくるところなど、あんなに面白くもおかしくもない旋律がくごもった低音で延々と続くなどというのも、聴衆に我慢を強いて平気という無神経ぶりである)、指揮者も演奏に苦労するのではないかと思うが、音楽が人を醒めさせるのではなく、酔わせる方向にむかわせる力を持つということについて、それを演奏の場でどうあつかっていくかが一番難しいのではないかと思う。
 人間は集団で酔う方向と個人で醒める方向に引き裂かれているわけであるが、現在は感染症予防のために極力「個」であることを強いられている。しかし今、白い目で見られている飲み会などというのも、いってみれば小規模集団の相互確認作業のようなところもあるわけである。
 集団意識をいかに無害に発散解消させるかということは人間に課せられた大きな課題であるわけだが、音楽というのはそれを上手に使うならば、そのためのなかなか有用な手段であり続けてきたのではないかと思う。とはいっても、今次大戦後、西欧の音楽が一時、非常に無機的な方向に傾いたのは、戦中に戦意高揚のために音楽が散々に利用されたことへの反動という測名が間違いなくあったはずである。
 「三密」を避けるなどというのが、そもそもどこか人間の本性に反するわけなのであるから、そうそう長く続けられるはずはないかもしれない。
 室内楽的な小編成のオケと独唱4人以外に各パート6~7名の合唱などといった室内楽的な演奏会からまず「第九」の演奏会は再開されるのであろうか? ついでに無駄に長い4楽章も刈り込んでもっとすっきりしたものにするとか・・・。しかし、そういうものではやはりわれわれは高揚できないのだろうか?
 テレビで一部をみただけど、映画の本編もみていないが、「ボヘミアンラプソディー」のクイーンのコンサートの観客の人数というのはどのくらいなのだろう? クラシック音楽はその方面でいくらはりあっても所詮、勝ち目はないと思うのだが・・。

熊代亨「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」

 書店で偶然に見つけた本である。著者の名前も知らなかったが、ブロガーでもあるとあったので検索してみたら、氏の「シロクマの葛籠」というブログはいままで何回か目にしたことがあった。

 本書を読んで第一に感じたのが、世代の違いということである。
 著者は1975年生まれの精神科医であるから、現在45歳前後。一方、わたくしは昭和22年生まれで現在73歳である。30歳近い年齢差というはやはり大きい。わたくしが自分なりに実際に生きて経験してきた昭和後半、戦後の20年代から63年までの日本を、熊代氏はほとんど書物による知識としてしか知らないわけである。
 熊代氏が本書で述べている見解は、氏の世代においては少数派なのであろうが(むしろ必要以上にマイナー意識を持ちすぎているのが問題であるように思ったが)、それでもわたくしの世代とはまったく肌合いの異なる人である、一言でいえばとても大人しいし、必要以上にあちこちの見解に気を配りすぎている。もっと胸をはって堂々と自分の見解を述べればいいのにという印象を、読んでいて感じるところが多かった。
 一例として・・・、「はじめに」の書き出しが「年配の人々の思い出話によれば、一九六〇~七〇年代は希望に彩られた一時代だったという」である。
 しかし、わたくしの同世代の人間で、自分が過ごしてきた日々を「希望に彩られた」などと感じていたひとはまずいないのではないかと思う。後から見れば、1960年から70年は高度成長期となったわけであるが、それは後知恵で、その時代を暗黒の時代と感じて、ひたすらそれを転覆して「革命」を起こすことを夢見ていた人も少なからずいたわけである。
 中国の文化大革命の運動がはじまったのが昭和41年、日本ではその翌年に美濃部亮吉東京都知事になっている(氏の肩書はマルクス経済学者であった)。スターリンソ連を見て絶望していた人たちの一部は、文化大革命を見て、いよいよ地上に天国が出現すると感涙にむせんでいた(反帝反スタ)。そうではなく未来永劫、地上に天国が出現することはないが、だからこそ永久に革命運動を継続することが必要なのであると息巻いているひともいた。
 美濃部氏の後には大阪とか京都とかいった大きな自治体の首長に次々と革新系の人物が当選していった。そのころの日本共産党は将来、国政においても、社会党との連立政権ができ、それを内部から牛耳っていくことで、国政においても権力を掌握していくことを現実的な未来として思い描いていたのではないかと思う。
 そしてまた、熊代氏には信じられないことかもしれないが、60年から70年頃には、今であれば誰も一顧もしないであろう「人生論」などというタイトルの本が書店にあふれてもいた。「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」や「復活」は今でも読まれているであろうが、同じトルストイの「人生論」を今読む人はまずいないであろうと思う。そしてまた、白樺派とか「新しき村」にもまだかすかに後光がさしていた。青臭く、かつまた赤い時代でもあったわけである。
 わたくしも自分の60年~70年代(つまりわたくしの中学から大学を卒業して臨床をはじめるくらいまで)を顧みて、それが希望に彩られた時代であると感じたことは一度もなかったように思う。
 ふりかえれば、まず1960年は、わたくしだけにではなく、おそらく誰にとっても60年安保の年ということになるのだろうと思う。安保騒動の後、岸首相が退陣し、後を襲った池田隼人首相は所得倍増計画などというのをぶち上げた。しかし、その言を信じているひとなどまずいなくて、多くは大衆の目を政治から引き離すはための目くらまし策くらいにみていたのではないかと思う。これが結果としては政治の時代から経済の時代への転換になったのであるが。熊代氏の世代から見れば、この頃の政治は後に何も残さなかったのであるから、結果としては60年から70年にかけての高度成長という事実だけが残り、成長のさなかに生きた人間にとっては、その時代が希望にみちた時代であったということになるのではないだろうか?
 しかし、その当時に生きた私から見ると、高度成長どころか、その当時、西側陣営はいずれ行き詰まり、大恐慌に直面して崩壊すると確信しているひとがたくさんいて、何かあるごとに、これこそ大恐慌の前触れだ、今度こそ、西側は崩壊すると太鼓を叩いていた。
東京オリンピックのときにはわたくしは高校3年で受験勉強中だったわけだが、その当時のマッチョな雰囲気がいやで仕方がなかった(大松博文、ニチボー貝塚、根性・・・)。
 大学にはいったら今度は大学闘争(紛争)。この大学紛争にもマルクス主義の影が色濃くさしていたことはいうまでもない。それは、本当はマスクスの思想とは何の関係もないものであったのだろうが、現状を否定するという心情がその象徴としてマスクスという旗印を求めたのであろう。
1968年にはパリが燃え、同時にチェコ事件がおきている。また1964年ごろから75年までベトナム戦争が続いている。パリが燃え、東欧が燃え、東南アジアが燃えていた。その余波は日本にもおしよせていた。
 だが、世界最大の軍事大国であったアメリカがベトナムホーチミンサンダルを履いた農民兵に敗れるという驚天動地のことがおき(ということに当時はなっていた。そして不思議なことにその後のベトナムの状況はほとんど報道されなくなった)と思っているうちに、中共軍がベトナムに侵攻し、ベトナムからは大量のボートピープルが祖国から脱出しようとしていた。
 そのような混乱の中で、東南アジアはドミノ倒しで共産化していくなどといわれてからわずか15年ほどで、今度は東側が崩壊してしまった。1989年にはベルリンの壁が崩壊したと思ったら、1991年にはソ連が崩壊してしまい、東側というもの自体が無くなってしまった。
 東西の対立という状況自体が消失すると、多くの人に憑いていた狐が落ちて、「社会主義? 共産主義? マルクス主義? 何だか昔はそんなものもあったようですな」とでもいった感じで、あっというまにそれは過去のものになっていった。しかし、その崩壊の時まで、資本主義経済体制より計画経済体制のほうを採用すべきという学者は多くいて(何しろ東大経済学部の教授のほとんどがマスクス経済学派の人で、それと対抗する少数派は「近代経済学派」などと分類され、数字ばかりをいじっている理想も思想も持たない権力の走狗であると低くみられていた)、その中間に「マスクス経済学」と「近代経済学」の折衷?の混合経済体制派もあり、さらにはテイク・オフまでは計画経済、離陸したら市場経済などという派もあった。
 マルクス命で一生を終えた向坂逸郎氏は1985年に亡くなっている。東側崩壊まで存命しなかったのは幸いだったのだろうと思う。氏が個人的に蒐集したマルクス関係の文献は東側の公的な施設のものを凌駕するほどの充実したものであったのだそうである。
熊代氏が先輩の世代の言として引用する「一九六〇~七〇年代は希望に彩られた一時代だった」というのは、東側陣営が崩壊し、経済運営のやりかたとしてはもはや市場経済体制しかないことがコンセンサスになった時点から回顧された後知恵の言葉であるのだと思う。
 実際に、昭和初年からわたくしの人生前半においては、マルクス主義はきわめて強力な重苦しい力を持った運動であった。何しろそれで運営されていると標榜する国家がいくつかあったわけである。当時の北朝鮮(とは絶対にいってはいけないことになっていて、つねに朝鮮民主主義人民共和国と呼ばれていた)では「千里馬運動」などというのが行われていて、そこでのマスゲームなどを見て、ひたすら自己の利益しか考えない金銭亡者であるわれわれ資本主義陣営の人間とは異なり、常に「人民」全体のことを考えている人たちによる美しい運動であるとして賛嘆し感涙にむせんでいるひとがたくさんいた。
 林達夫氏が「共産主義的人間」でいう、「私は政治について人から宣伝されることも人に宣伝することも好まない。どぎつい政治的宣伝は、たといその中に幾分の正しさを含んでいる際にも私にとってはやりきれない心理的攻撃であって、ことに共産主義者のそれは私を決して中立的にじっとさせておいてくれない点で身にこたえる。このわかり切った「真実」を自分で考えてみるなどは持っての外だといわんばかりにぐんぐん肉薄してきて、有無を言わさず「イエス」を言わせようとするのである。」 というような「空気」を、熊代氏は実感としてはほとんど感じることはなく生きてきたのではないかと思う。
 本書で何回もくりかえされるフレーズである「資本主義、個人主義、社会契約の三位一体」というのが、熊代氏にとっては、動かすことのできない世界についての自明の前提とされているようであるが、それが少しも自明ではなかった時代を知っているわたくしには、それは随分と軽い言葉に感じられる。
だが、わたくしにとっては軽く感じられる「資本主義、個人主義、社会契約の三位一体」というフレーズは、氏にはとても重くせまってくるようなのであり、それが「自分で考えてみるなどは持っての外だといわんばかりにぐんぐん肉薄」してきていると氏は感じていて、それが重苦しくてたまらず、その三位一体がもたらす「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」に言いようのない窮屈さを感じて、それで、このような本が書かれることになったのだと思われる。
 現在の新型コロナウイルス感染の流行下で、様々なところで「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」への運動の呼びかけがなされている。同時にそれへの反発もまた様々なところから表明されているが、本書はそのような新型コロナウイルス感染流行の便乗本ではない。もっと深く著者の根っこに存在するのであろう「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」への生理的な違和感に発している本である。
 もう一つ、第一章の出だしで、安倍首相の「美しい国」論を「秩序の行き届いた景観」といった面でのみとらえているのにも違和を感じた。安倍首相がいっている「美しい国」というのは倫理的に美しい国とか人間同士の相互信頼がある国とかいうことであるはずで、「夫婦相和し、子は親を大事にし」といった方向を意識したものであるはずである。一言でいえば、大君の元でみなが和気あいあいとしている争いのない調和の世界である(爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ・・・)。
 わたくしは熊代氏とは異なり、今の東京は美しい町であるとは少しも思わない。東京の景観はかくあるべしという共通の美意識がわれわれに共有されているというようなことはまったくないだから、いくら清掃が行き届いていても、それだけでは美しく街、美しい国にはならない。
わたくしが海外にはじめていったのは、30歳過ぎに小さな国際学会に参加するためにいったドイツのマールブルグである(恥ずかしながら、その時はこの大学町にハイデガーアーレントが暮らしたことがあることなどまったく知らなかった)。着いた時、映画のロケか何かのためにつくられたセットではないかと思った。百年・二百年前の街並みを残そうという強烈な意思がそこに住んでいるひとになければ、あのような景観ができあがるはずがない。それに対して、街並みはかくあるべしという共通の思いはわれわれ都民には一切ないのだから、東京はてんでんばらばらのただただ乱雑な街になるほかはない。
 そして、本書の一番の問題は、熊代氏個人がそのように現在の日本社会を重苦しく窮屈に感じているからといって、あらゆる人が「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」に不自由を感じて当然だと氏はしていない点である。「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」にわれわれの社会がなったことそれ自体はよいことではあるが、それでもそれにはこういう負の側面もあるといったように議論が屈折して進んでいく。
 たとえば、第3章の「健康という“普遍的価値”」は、「かつては喫煙に寛容だった日本社会」のことから論がはじまっている。それに対して昭和時代の日本は喫煙にはるかに寛容な社会であったことがいわれる。
 私が医者になりたてのころは禁煙については平山雄氏が孤軍奮闘している感じで、学会で氏が講演したりしていると周囲は「あっ、またあいつか!」というような反応で、変人・奇人あつかいであったような記憶がある。氏はおそらく世界ではじめて受動喫煙の害を主張したひとなのではないかと思うが、氏の論文には杜撰な点も多くあることも指摘されているようである。しかし、タバコが無害であるとか有益であるというような論旨の論文は現在では医学雑誌には絶対に採用されないそうであるから、この点については今後も検証されないままでいくのだろうと思う。
 明治・大正から昭和の戦前までは成人男子のほとんどは帽子を冠っていたそうである。実際、その頃の写真をみるとそうである。タバコも同じようなものではないだろうか? 単なる風俗? そしてまた、戦前昭和までの日本が軍事国家であったということが喫煙にも深くかかわっていたのではないだろうか(例:恩賜の煙草)。戦場ではタバコはほぼ必需のものであったようである。宮崎駿氏の「風立ちぬ」に喫煙場面が多すぎるという無粋な抗議を日本禁煙学会がしていた。わたくしはその映画を見ていないが、ゼロ戦開発者を主人公にしたアニメらしいから、喫煙場面が多いのは当然である。映画「カサブランカ」から喫煙画面を削除したらもうほとんど何も残らないのはないだろうか?
 今年の六月から喫煙に関しては日本でも規制が強化されたが、それでも世界のなかではまだまだずっと寛容なのではないかと思う。現在の嫌煙志向のたかまりを熊代氏は今われわれのまわりにある健康志向の典型例として提示するのであるが、氏はそれがでてくる背景として統計学と生理学の発展があることを指摘する。1970年代から生活習慣病のリスク因子が特定されていったことが、現在人の健康志向を形成したというのである。
 しかし、以下に書くように、1970年代の日本人はまだまだ短命で、頑張って禁煙しても長寿など期待できなかったわけである。タバコが戦場の戦士にとってのほぼ必需品であったように、高度成長期の企業戦士たちの多くにとってもまたそうであったということなのではないだろうか? クラインという臍曲がりのフランス文学者は「もし煙草がほんとうに健康によいのであれば、それを吸うひとなどごくわずかになる。」「もしも煙草が健康によいものであれば、それは崇高ではなくなる」、と「煙草は崇高である」で言っている。
 現在の禁煙運動を主導しているのはWHOであると思うが、その本当の目標はタバコではなくアルコールなのだそうである。つまり世界からアルコールをなくしたいらしい。禁酒の方向である。禁酒法は背景にピューリタン的(特にメソジスト派?)志向をもっているが、わたくしは禁煙運動も単なる健康志向の運動ではなく、一種宗教的な清潔志向のモラルの運動から発していると思っている。それで、とにかくピューリタン的なものが嫌いなわたくしとしては、禁煙運動も嫌いということになるし、禁煙運動に熱心なひとというのはエクセントリックでバランス感覚を欠いたひとが多いという偏見を持っている。
そういうわたくしにとっては、当然「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」はとても居心地が悪い社会である。だから「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」はもう原理的に不自由な世界であることはわたくしにとっては一切証明不要の自明なことなのであるが、熊代氏にとってはどうもそうではないらしく、ある程度までは正しいが行き過ぎると問題がおきるのだという方向に議論が屈折して進む。だから微温的で歯切れが悪い。
 「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」というのはとてものっぺりとした世界で、だからそこからはクラインもいうように偉大とか崇高という言葉が消えてしまう。そこには「悪」というものもなくなってしまうのであるから、タバコも必要とされなくなる。
 というように見てくれば、「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」の住人というのはニーチェが「ツァラツゥストラ」でいう末人なのである。「われわれは幸福を発明した 「末人」はそう言ってまばたきをする。彼らは生きるのに厄介な土地を見捨てる。温暖が必要だからである。彼らはやはり隣人を愛している。隣人にからだをこすりつける。ぬくもりが必要だからである。病気になることと不信の念を抱くことは、かれらにとっては罪と考えられる。かれらは用心深くゆっくりと歩く。石につまずく者、人間につまずき摩擦を起こすものは馬鹿者である!(「ツァラツゥストラはこう言った」)」。
 本書での熊代氏はきわめて微温的なツァラツゥストラなのだけれども、健康を志向する「末人」たちは、すでにニーチェの時代に大量に発生していたわけである。だから、医療統計学と生理学の知見が現在の健康志向を生み出したとする氏の主張には納得しがたいところがある。ニーチェにいわせれば「キリスト教邪教です」ということになるのだから、それはほとんど西欧世界のある部分が必然的に招来させるものなのである。
 昭和20年頃の日本人の平均寿命はおそらく50歳台のはずで、当時の主な死因は結核であった。そして、それが次第に克服されてくると今度は脳卒中が主な死因となり、それが減るとその後増加するはずの心臓血管障害がなぜか日本ではあまり増えず、そのため悪性腫瘍が現在の主たる死因であるが、いずれ老衰が主たる死因となるだろうといわれている。
 結核をふくむ感染症死は低開発国での低栄養に起因する病気であり、脳血管障害は中程度開発国のやや栄養状態が改善した状況での一番多い死因である。それが克服されると今度は栄養過多による心臓血管疾患が増えてくるはずであるが、なぜかそれがないことが日本を長寿国にしているといわれる。
 その経過をふりかえるなら、戦後のきわめて貧しい時代から現在の飽食の時代まで日本が豊かになるにつて、国民の栄養状態が着々と改善してきたことが、長寿化の最大の寄与要因であることがわかる。(飽食の時代で増えるはずの心臓血管疾患がなぜかわが国では少ないのかは、日本人が魚を多く食べるためなのだそうである。) とすれば、別に医療の進歩が日本人に長寿にしたわけではない。
 結核死が死因のトップであるような短命が普通の時代に、タバコは健康に悪いなどという寝言のようなことを言っても相手にされるわけがない。われわれが健康に気をくばるようになったのは、われわれが長寿を当たり前と思うような時代になったからで、そもそも統計学の研究ではじめて認識される生活習慣病のリスクファクターなどというものは個々の患者をみることが前提の臨床の場では感得されえないものである。
 とすれば、メタボリック・シンドロームの健康指導などというのは医療者にとって、まことに手ごたえのないもので、そういうことが話題になること自体、臨床の場ではもうあまりやることがなくなってきているということを示しているのだと思う。
 熊代氏が専門とする精神医学の分野でも、発達障害のような従来は疾患とも認識されていなかったものが疾患とされてきていることに氏は両価的な立ち位置であることを表明しているが、末人たちが理想とした「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」はわれわれが豊かになったことの代償として得られたものである以上、氏はそれを完全に否定することはできず、そうかといって豊かになったことの代償として得られたものがあまりに平板で手ごたえのないものであることに氏はいらだっているのだろうと思う。
 司馬遼太郎氏は「人間の集団について」で、ある友人(元曹長憂国の士のかたむきがある人)が電車の中で笑いさざめいている若者を見て、その目にまったく力がなかったことを慨嘆したというエピソードを紹介して、以下のように書いている。「日本は弥生式農耕が入ってきて以来、さまざまな時代を経、昭和30年代の終りごろになってやっと飯が食える時代になった。日本人の最初の歴史的経験でありその驚嘆すべき時代に成人して飢餓への恐怖をお伽噺としか思えない世代がやっと育ったのである。いま国家的緊張はなく、社会が要求する倫理は厳格さを欠き、キリスト教国でないために神からの緊張もない。こういう泰平の民が、二千年目にやっとできあがったのである。目に力を失うというのはそういうことであり、人類が崇高な理想としている泰平というのはそういうものであり、泰平のありがたさとは、いわばそういう若者を社会が持つということかとも思われる。」
 司馬氏は三島事件の時、それを強く批判したが、氏にとっては戦後の日本が悪戦苦闘の上にようやく勝ち取った「目に力を失って」も生きていけるという幸福を三島氏がいとも簡単に否定しようとしたことが許せなかったのであろう。しかし炉端の幸福などというものにはただ嫌悪しか感じなかっただろう晩年の三島氏には、そんな批判がとどくはずもなかったであろうが。
 飢えの恐怖から解放されれば、若者はたとえば「自分探し」とかにむかうことになり、その一部はこじらせて熊代氏の外来に患者として表れるかもしれない。また一部の高齢者はすべての目標を喪失して、ただひたすら長寿を目指すことになるのかもしれない。
喜多愛郎氏が「近代医学の史的基盤」の最後に「人の生命のまことに重いことは言うまでもないけれど、それとても何にもまして貴いものではない。そうみなければ、しばしば人が病をおしても没頭する事業なり天職なりの意味を了解することができないだろうし、さらにはまた、さまざまな状況において、生命を冒して当為に、あるいは信仰に殉じる英雄的な人の行為は、むだな所業でしかないだろう」と書いたのは1977年(昭和52年)である。まさに著者が生まれたころである。しかし今では「しばしば人が病をおしても没頭する事業なり天職」などと言われても、多くのひとには何のことやら、であろう。こういう見方こそが戦前、多くの若者を戦地においやったというひともいて、こういう見方に嫌悪感を示すかもしれない。
 前にもどこかで引用した養老孟司さんの本にある中国人の留学生やドイツの学生やスリランカの僧侶が異口同音にいったという「日本人は生きられませんから」という言葉。世間で生きることはできるが個人で生きることができない日本という国の問題にも本書はつながっていると思う。
 明治期に日本が西欧に見たものは「国家」と「個人」である。そのうちの国家については何とか西欧なみの国家に成り上がろうと悪戦苦闘して、大東亜戦争で自滅した。そしてこれからはもう日本は西洋渡りの国家であろうとすることは永久に望むことはしないということを宣言して、そこで考えることをやめて眠りについた。
 個人については、要するに「自分の頭で考える」ひとは世間と同調できず、世間から排除された。それはある時期には「飢え」に直結することさえあったかもしれないが、昭和30年代の終わりには日本はついに「飢え」の問題を克服した。そうであるなら、もっと伸び伸びと「自分の頭で考えればいい」だけのはずである。
 西洋最大の発明は「個人」であり、西欧がわれわれにもたらした最良の部分が啓蒙思想である。それはまことにひ弱なものであって、わずかの力で簡単に蹂躙されてしまう。しかし、それにもかかわらず、ナチスの時代のドイツでも、毛沢東の中国でも生き残ったし、現在の習近平の中国でもおそらく生き残るであろう。そしてトランプ大統領下のアメリカにおいても。
 書かれてしまった書物、表明されてしまった考えというのは現在ではもはやなかったことにすることはできなくなっている。
 熊代氏のこの本を読んでいると、一昔前に流行したポスト・モダン思想にどこか通じるようなテイストを感じる。しかしきわめて微温的で腰のひけたポストモダニズムであるが。
 ポスト・モダン思想は近代の「明るさ」への反抗であったのだと思う。人間なんて暗くてもっとどろどろしたのもなのなのだぞ、と。「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」というのはわれわれの社会にいよいよ顕在化してきているモダンの側面である。
 そこに敏感に反応するひとはたくさんいる。「明るさは滅びの姿であろうか、人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ。」(太宰治「右大臣実朝」)
 熊代氏のいう「資本主義、個人主義、社会契約」のうち、資本主義というのは積極的な主義主張ではなく、市場経済体制という経済の運営の仕方であり制度の問題であり、それ自体には価値判断はふくんでいないように思う。
個人主義というのがリバタリアニズムの方向を指すのかが本書を読む限りではよくわからない。コミュニタリアニズムの誘惑を否定できていないように感じるからである。
社会契約という言葉が本書でどういうことを指すのかも見えなかった。ミルの功利主義を念頭においているようであるが、そこからリバタリアニズムにむかうわけではない。ここ に言及されていないのが孤独という問題であると思った。
 「我々は結局は、皆孤独なのである。そしてこの孤独という我々の基本的状態は、我々がいやだからと言ってどうすることもできるものではない。(リンドバーグ夫人「海からの贈物」)」のであり、個人というのはまことに弱いものである。だから、「偉大な創造的行為やまっとうな人間関係は、すべて力が正面に出てこられない休止期間中に生まれるのである。私はこういう休止期間がなるべく頻繁に訪れてしかも長くつづくのを願いながら、それを「文明」と呼ぶ。(フォースター「私の信条」)」ということになるのだが、しかし、いまは「力が正面にはでてきていない」時代である。そうはいっても、そこには「無言の圧力」があるではないか。それが鬱陶しいと、と熊代氏はいうわけである。
 現在程度の「無言の圧力」で苦しくて仕方がないのであれば、「力が正面にでてくる時代」になったらひとたまりもないのではないかと思う。言論の自由とは何も言っても保護されるという意味ではなく、言論を暴力で封じるような行動は犯罪として処罰されるというだけのことである。それは現在のわれわれには保障されているが、現下の中華人民共和国ではそうではない。つまり今のわれわれが空気の存在と同じように当たりまえと思っていることは長い苦闘の産物としてはじめてわれわれの間で存在してわけで、すこしも自明のものではない。
 わたくしは高校のころ、当時のマッチョな雰囲気が嫌でたまらず、組織の中の人間になることから逃げて、独立事業主の一つとしての医者になることを選んだ人間である。そういうヘタレであるから、他人のことをとうやかくいえる人間ではない。
 医者になる人間のかなりは別に医療に崇高な使命を感じたわけではなく、ひとの顔色をうかがうのが苦手で、他人に頭を下げるのも業腹というようなひとであるように思う。特に医療のメインストリームからは外れている精神科医にはそういうひとが多いのではないだろうか? 熊代氏のようなひとが「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」に不自由を感じるのは当然のことなのだと思う。しかし一方では「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」に何の違和も感じず伸び伸びと生きているひともまたいるはずである。そういうひとに「お前は鈍い。この社会で生きて違和を感じない人間は鈍感なのだ!」などというはまったくの余計なお世話である。
 文章を書くというのは、自分の中にいるもう一人の自分と対話してそれによって自分の態度を決めていくことである。熊代氏がどのようなことを書こうと、それによって世の中が寸分たりとも変わる気遣いはまったくないのだから、熊代氏は安心してもっとラディカルなことを書けばいいのにと思う。
 本書の主張に何か弱いものがあるように感じるのは、時に氏が自分にではなく、他人にむかって語り出す(それも説教したいのを無理に抑えて、客観性の装いのもとで述べる)ためではないかと思う。
 本書を読んでまず感じたのが日本は平和だな、ということである。赤紙一枚で戦場に引っ張られていくようなこともないし、思想を監視しているものがいて、ある日問答無用で引っ張られるというようなこともない。
 西欧が我々に手渡してくれた最大の財産が啓蒙主義とその産物である「個人」であるが、その個人は「鍵のかかる部屋」を必要とする。昼間の明るさのなかでは処理できない暗い部分を「個人」は持つからである。おそらく現在の習近平政権が国民からとりあげようとしているのがそういう「鍵のかかる部屋」である。
 クンデラは「小説の技法」のなかで以下のように述べている。「つい最近まで、近代主義は紋切り型の考えやキッチュに対する非順応的な反抗を意味していました。現在では、近代性はマスコミなどの途方もない活力と混同されて、現代的であるとは時流に遅れないための、もっとも順応的なものたちよりもさらに順応的になるための狂おしい努力を意味します。私たちは、個人が尊重される世界(小説の想像世界とヨーロッパの現実の世界)が脆弱で滅びやすいことを知って」いるが、「個人の尊重、独創的な考えの侵しがたい権利の尊重、ヨーロッパ精神のこの貴重な本質」は小説の知恵の内にこそ一番よく感得されているのだ、と。鍵のかかる部屋の中で自分の暗い部分を育てていかないと、ヨーロッパ啓蒙思想がわれわれに残してくれた最良の遺産である脆弱な「個人」は簡単に消え去ってしまうわけである。
 「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」が不自由なのは何よりもそこに笑いがないからである。そしてこの熊代氏の本の最大の欠点も、そこに笑いの要素が乏しいことにあるのではないか感じた。笑いがないと「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」にいつの間にかとりこまれていってしまうのではないだろうか?

共産主義的人間 (中公文庫 M 97)

共産主義的人間 (中公文庫 M 97)

  • 作者:林 達夫
  • 発売日: 1973/12/10
  • メディア: 文庫
近代医学の史的基盤 上

近代医学の史的基盤 上

運のつき 死からはじめる逆向き人生論

運のつき 死からはじめる逆向き人生論

フォースター評論集 (岩波文庫)

フォースター評論集 (岩波文庫)

小説の技法 (岩波文庫)

小説の技法 (岩波文庫)

新型コロナウイルス感染 いくつか

 新型コロナウイルス感染については、いまだによくわからないところが多い。
 たとえば、まずマスク着用の有効性。岩田健太郎氏の「新型コロナウイルス感染の真実」では、自分が有症状(咳嗽があるなど)でなければ着用の意味はないとされていた。岩田氏は少なくとも最近の著作で見る限り、基本的には科学の側にたつひとであるように思う。そうであれば、マスクの着用が物理的にウイルスの拡散防止に役立つかという観点からその有効性をみることになる。一方、最近のいくつかの疫学調査の報告では、マスクの着用者が多い集団ではそうでない集団より明らかに感染リスクが低下するという成績も示されているようである。そうであっても、これはマスク着用自体の有効性を示しているわけでは必ずしもなく、マスクを多く着用する人々はそうでないひとよりも手洗いを多く励行しているというようなことに起因しているのかもしれない。そうであれば、岩田氏のいうことも、最近の疫学調査もともに正しいということもあるのかもしれない。要するに、視点の違いによってある現象が違ってみえてくる、ということである。
 最近の報告では、感染者が若年層に移ってきているようであるが、これは最近、若年層に集中的に検査がなされるようになったから、たまたまそう見えているということなのだろうか? 現在は感染しているが無症状のひとも検査数の増加により感染者数に多くカウントされてきているはずである。これが以前は有症状のひとに検査が偏っていたので、若年者の比率が少なく報告されていただけなのだろうか? 若者が高齢者よりアクティビティが高いのは当然のことで、自粛要請によっても高齢者に比べればその行動に抑制がかかりにくく、結果として、最近若年者層に感染が目立ってきているということなのだろうか?
 「三密を避ける」などというけれども、「三密を避けた」男女関係(男々関係、女々関係もそうだろうと思うが)などというのはありあえないと思う(それとも、メールのやりとりだけ、あるいは遠く離れたところにいて。テレビ会議システム?で言葉を交わすだけという関係もありうるのだろうか?
 現在「夜の街」といった奥歯にもののはさまったような婉曲表現が用いられているが、そういうところは疑似?(時はは本物の?)男女関係・男々関係・女々関係が希求される場であるはずである。売春は世界最古の職業なのだそうであるが、そうであるなら「三密を避ける」などということはそもそも人間の本性に反することのはずで、それが厳密に守られることなどありえるはずがない。いわんや若者においてをやである。そのような生物学的本性の軛を乗り越えられることこそが人間の人間たる所以であるという見方もあるのかもしれいが・・。
 ある経済史家は、禁欲ではなく贅沢こそが経済発展の根にあるのだといっている。そして贅沢は姦通や妾を愛妾を多く蓄えること、さらには売春と深く結びついているとしたのだそうである。売春こそが経済を発展させる原動力だった?
 江戸時代の遊廓でみられた美意識こそが日本人の洗練の極致を示しているなどという見解には目くじらをたてて反対するひとも多くいるけれども、かつては、かなりの日本人は「野暮」といわれるころがないようにすることを最大の行動規範としていたのではないかだろうか?
 だから、最近の反=三密の風潮をみていると、えらくピューリタン的というか、精神主義的というか、どこにも血気の片鱗も感じられない口先だけの言葉が氾濫しているように思えてしまう。もっとも、そうおっしゃっている方々がすでに「心の欲する所に従っても矩を踰える」ことがない年齢になっているからなのかもしれないが・・。
世界の歴史のなかで、われわれの行動に大きく影響した病気として梅毒とエイズがあるのではないかと思う。梅毒がコロンブスが新大陸から持ち帰ったものであるかについては異説があるようだが、15世紀末のヨーロッパから我が国までそれが到達するのにわずか100年ちょっとくらいであったかと思う。いかに人の接触が密であるかということである。
 「プレイボーイ」とか「ペントハウス」といった雑誌は、アメリカの清教徒的文化を覆すのにかなり大きな力があったのではないかと思う。そして、それにまた水を差したのがエイズの流行だったのではないかと思うが、エイズがようやくコントロール可能な疾患となった今、今度は新型コロナウイルスの流行が、われわれに行動変容をせまることになるのだろうか?
 今度の新型コロナウイルスの流行を、あまりに放埓に走った人類に神が下した懲罰であるなどと説く宗教家はいくらなんでもいないのはないかと思うが、だからこそ人々は科学に救済を求めるわけである。そしてその科学が下す命令が、マスクをしろ! 手をよく洗え! 人との接触を避けよ! というのではあんまりである、ということで、多くのひとが戸惑っているのではないだろうか?
科学に期待されているのは、そんな迂遠な対策ではなく、「この薬を一粒のめば治ります!」という言葉のはずである。「この薬を一粒のんで、仲良く羽目を外しなさい!」
「何も難しい話をしているのではないのだ! ただ仲よく物語の主役として 羽目を外そうということだけなのだ!」 (ラフォルグ「伝説的な道徳劇」の「パンとシリンクス」)
 「死ななければならない可哀そうな人間達よ、彼等には互いに愛し合う理由が何と沢山あることだろう!」(同)
われわれはみな「死ななければならない可哀そうな人間」の一人なのである。その人間たちはそれでも健気にも歌を詠み、曲を作り、お話を紡いできた。そしてもちろんそういうことを何もしないで生涯を終えた大部分の人達も、互いに愛し合って、あるいは憎しみあいながら、生きて死んでいった。
 この新型コロナウイルスの感染流行をきっかけに、われわれがそういう当たり前を忘れて、いささかでも、野蛮の方へと退行していくことがないことだけは祈りたいと思う。
みながマスクを着けているというのは決して正常なこと普通なことではないことだけは忘れないようにしたい。

 玉の緒よ絶えねば絶えね ながらへば忍ぶることの弱りもぞする
 玉の緒よ絶えなば絶えねなどといひ今といつたら先まづおことわり

 付記:作曲家のエンニオ・モリコーネが死んだらしい。転倒して大腿骨頭骨折をおこしたことが直接の原因らしい。(奇しくも、去年死んだわたくしの母と同じ経過である。)
映画をよくみるほうではないが、トルナトーレが監督した「ニュー。シネマ・パラダイス」にモリコーネがつけた音楽、なかでも「愛のテーマ」は、古今東西、今まで実に多く書かれてきたさまざまの旋律のなかでも一番美しいものというひともいるらしい(もっとも「愛のテーマ」は息子のアンドレアの作らしいが)。
 そして映画「ニュー・シネマ・パラダイス」のラストは、過去につくられた様々な映画から切り取ったキス・シーン(つまりは濃厚接触の場面)の延々とした連続のなかで終わる。映画へというものへの実に秀逸なオマージュである(それを見ている、もはや中年を過ぎようとしている映画監督の表情)。

新型コロナウイルスの真実

新型コロナウイルスの真実

ラフォルグ抄 (講談社文芸文庫)

ラフォルグ抄 (講談社文芸文庫)

岩田健太郎「新型コロナウイルスの真実」(6)

 第5章「どんな感染症にも向き合える心構えとは」
 
 この章には、よく理解できないところが多かった。
 「感染症と向き合う上でまず大切になるのは、『安心を求めない』ということです」という主張からはじまる。「安全」というものは現実に存在する、しかし「安心」というのは願望・欲望にすぎないので実在しないものであるという。しかし、こういう議論は「実在」するとはどういうことかという不毛な議論にすぐに陥ってしまうと思う。
 ここで氏は、欧米圏には、そもそも安心という言葉がない、といって強いていえば「peaceful state of maid」であろうかというようなことをいう。しかし、聖書を繙いてみれば、いたるところに安心という言葉は出てくるはずである。これは日本語訳の聖書だからそうなっているというのではなくて、日本語訳がそうなっている以上、それに対応するものがあまねく人間の世界に存在するということである。そして、これは人間だけでなく広く動物の世界にも、またみられるものであると思う。
 岩田氏は「安心したい」というひとには麻薬をうてばいいというようなかなり乱暴なことをいう。この議論を極端にすすめれば、不安をなくすには死んでしまえばいいということになる。生きているからこそ不安もあるのである。岩田氏は安心をもとめるこころは現実を直視しなくなるということをいいたいようである。たとえば、マスクをすることには意味はないが、マスクをしていると多くのひとは安心するらしい。
 不安に思うべきところでは、不安なままでいい。不安に耐えるために大事なのは勇気である、と岩田氏はいう。勇気とは事実を直視できること、そこから逃げないことである、とも氏はいう。しかし、安心という言葉が存在しないのであれば、また勇気という言葉も存在しないことにならないだろうか? もちろん勇気に相当する言葉は世界にあまねく存在する。だから安心とは違って、勇気というのは普遍的なものであるということになるのかもしれないが、勇気も容易に蛮勇に転化する。
 わたくしは生き物に課せられている唯一最大の課題は生き延びるというであると思っている。だから、あらゆる動物は予期せぬ物音を耳にすると身構える。そしてそれが危険を示すものではないことがわかれば、緊張を解く。その緊張を解いた武装解除している状態が安心ということなのだと思う。
 今のわれわれはいつも一種の準武装状態にいるのだと思う(マスクで武装している?)。つまり今のわれわれは平時にはいないのである。「平和とは何か。それは自分の村から隣の村に行く道の脇に大木が生えていて、それを通りすがりに眺めるのを邪魔するものがないことである。或は、去年に比べて今年の柿の方が出来がいいのが話題になることである。」というのは、吉田健一氏の随筆集「文句の言いどおし」の一節であるが、ここでいう平和とは安心という言葉ともどうかで通じるものである。
 次に氏がいうのは「ぶれる」ことを許容すること、そして間違いに寛容であること。である。そして間違いに気づいたらすぐに前言を訂正すること。しかし、不寛容には寛容にならないことといったかなり抽象的な議論である。
 そして、一番大事なのは「知識」を尊重することである、と。

 ここで論が終わるのだが、これが「どんな感染症にも向き合える心構え」とどのように関係するのかがうまく理解できなかった。
 ここでいわれていることの多くは啓蒙主義についてのラフ・スケッチであるように思えるが、あまりに議論が抽象的で、それが具体的に感染症に向き合うこととどのように関係するかが理解できなかった。
 そもそも医療というものがなぜ存在するのかといえば、人間が唯一自分の死というものを意識する動物であるからである。獣医学というのも動物のためのものではなく、食糧増産などのためなどもふくめ、本来人間のためのものである。
 つまり、本来、生き延びるということが課題としてあたえられている動物の一員である人間は唯一未来の自分の死を知る動物であることから必然的に生じる不安をまず抱えている。医学はそれを解消するためにあとからでてくる。としたら医学から不安という要素を取り除くことは原理的に不可能なのではないかと思う。とすれば、安心もまた然りである。
 われわれは蝙蝠にどのような病気が流行っていようがまったく関心をもたない。そこに存在していた病原体が人間にも害をもたらすようになって時にはじめて、それがわれわれの関心の対象となる。
 いまわれわれは風邪という病気にはあまり大きな関心をもたない。インフルエンザだってそうである。今回、新型コロナウイルスが問題になっているは、少なからずそれが命にかかわることが報告されているからである。
 おそらく岩田氏は人間付き合いがあまり得意ではないかたで。腹の探り合いとか足の引っ張り合いといった人間世界のあさましいありさまにほとほと嫌気がさしてきているのであろうと思う。それで、科学という事実に基づく清澄な世界にあこがれるのであろうと思う。しかし、科学のなかでもとりわけ医学は人間のどろどろした部分を否応なしにひきうけざるをえない分野であるので、岩田氏の願いが叶えられる日がくるとは到底思えない。本書が巻末にむかうにつれどこか投げやりで、尻切れトンボになっていく印象が強いのはそのためではないかと思う。
 「どんな感染症にも向き合える心構え」などというのは、ほとんど煩悩の世界を解脱することにより得られた安心立命の境地ともいうべき世界である。
 聖書におけるイエスはほとんど癒すひとでもあるが、今、新型コロナウイルス感染症の世界中での流行について、ローマ教皇がこの疾患が世界から消え去ることを祈ることで、この病気が世界からなくなることを信じるひとはもはやいない。聖職者も病気になれば病院にいく。そして医療にできることは限られていて、そこには魔法は存在しない。
 だからこそ、S・キングが「IT」の巻頭でいうように、「子供たちよ、小説とは虚構のなかにある真実のことで、この小説の真実とは、いたって単純だ――魔法は存在する」(小尾芙佐訳)ということになるのだから、われわれはこれからもあいかわらず物語を読み続けることになうのではないかと思う(もはや小説は読まなくなるのかもしれないが・・)。
 われわれはかつて抗生物質の発見によって、魔法の弾丸を手に入れたと無邪気に信じることができた時代をもつ。しかし、いうまでもなく、抗生物質はウイルスには無効である。そして魔法の弾丸のかわりに「三密を避ける」などというなんとも原始的な対応を21世紀の今日に強制されることになって、われわれはただ面食らっているのである。

新型コロナウイルスの真実

新型コロナウイルスの真実

IT(1) (文春文庫)

IT(1) (文春文庫)

岩田健太郎「新型コロナウイルスの真実」(5)

 第4章は「新型コロナウイルスで日本社会は変わるか」と題されているのだが、やや羊頭狗肉の趣がなきにしもあらずで、その点について岩田氏の明確な主張がなされているとは必ずしも思えず、論点の列挙におわっているような印象をうけた。
 岩田氏は日本の感染対策の大きな目標は間違っていないし、全体的にはうまくいっている、という。当初対応を間違えた中国や、現在(4月20日発売)大混乱のイタリアに比べればずっとまし。
 最初の水際作戦は失敗した。(無症状の感染者がいる病気を水際作戦で阻止することは不本来可能である。)それで次の目標を医療にかかる負荷を減らすことにおいた。重症者を中心に検査し、軽症者は検査をしないという方針をとった。この目標は正しい。事実かなりうまくいった。
よく韓国との比較がいわれるが、それには意味はない。おかれている状況が違うから(韓国は宗教団体の集まりが大きな感染源になった。しかし他の場所ではそれほど多くない)。韓国を例にとって日本ももっとPCR検査をすべきという議論は意味がない(そうはいっても岩田氏ももう少し日本でも多く検査ができたほうがいいとしているが・・。
 では日本の感染症対策の問題点とはどんなことだろうか? 
 例えば、厚労省が発表した診断基準である。当初は《武漢からの帰国者で37.5分以上が4日以上続くもの》とされた。しかし、この基準には科学的根拠はまったくない。役人がつくった「このへんで線を引きましょう。そういう基準が何かないとみんな困るでしょうから」という政治的なステートメントに過ぎない。(この線をみたさないひとでもコロナの感染者はいるという理解が同時になければいけない。) しかし、官僚は自分のつくったものに例外を認めないという悪弊を持っている。
 もう一つ、保健所の問題。保健所は厚労省からきた通知を金科玉条としてしまう傾向を持つ。厚生省がつくった便宜的な線引きを科学的基準であるかのように思い込んでしまった。なぜそうなるのか? 日本人の多くは自分で判断することを嫌うからであるし、責任をとることを嫌うからであるし、そもそも自分の頭で考えるのが嫌いなのである。
 お上のお達しには服従すべしという奴隷根性(岩田氏の表現)でもあるし、自分では責任をとりたくない、責任はお上にあるとしたいという心情でもある。だから厚生省の基準を満たしていないという理由で検査を断わられる事例が続出した。
さらに、対策はできているという自分がつくった神話を自ら信じ込んでしまうという傾向もある。例としては、専門家会議の尾身氏が出している「流行のピークを下げて、増加のスピードをおくらせるという対策」である。これ自体は正しい。だが、そこで示されるグラフには患者数にも時間軸にも数字がはいっていない。とすれば、これは観念であって具体的な目標ではない。このグラフでは、何がおきたとしても想定内といえてしまう。また実際に、日本ではPCR検査数が少ないから、グラフに書き込むべき実態が把握できていないのである。
 総じて、たとえ局地線ではうまくいっても、全体で勝つグランド・デザインがない。また、失敗したときにそれを認めるのが下手。
 新型コロナ対策では、たとえば、風邪をひいたらすぐに休むということがきわめて大切である。今までの日本にはそれが欠けていた。
 また日本の医療の問題:日本の医療には無駄が多い。たとえば、外来患者が不必要に多い。コロナ問題で外来患者が減っているが、これは裏をかえせば、もともと不必要な通院が多かったということでもある。たとえば、アメリカにはリフィルという制度があり、同じ薬を続けるのであれば、薬局で同じ薬の継続であれば、何回でも出してくれる。
 今回のコロナ感染拡大でインフルエンザ疑いでもキットによる検査はするなということになったがまことに歓迎すべきことである、これを機会に風邪の患者が病院にいくのは無意味というという真実が理解されることが期待できるかもしれない。
 今回の自粛で、みんなが一斉に朝出勤することが必要なのかという反省が生まれ、制限の解除後も今よりは満員でない電車が普通になるかもしれない。
感染症でパニックになるのは日本だけではない。アメリカなどもすぐにヒステリー状態になる。そうなると同調圧力もとても厳しくなる。
 日本での問題はそのパニックに政府も乗ってしまうことである。アメリカのCDCはマスク着用には意味がありませんとはっきりいう。日本ではマスクが配布される。
 この問題が一番悪い形ででたのが子宮頸がんワクチン接種の問題である。みんなが納得しないと強制できないとして政府は接種を強制しないが、それによる結果に責任をとろうともしないし、ワクチン接種の啓蒙にとりくむこともしていない。

 本書で岩田氏がみとめるように、また本書執筆から一ヶ月以上たった現在、おそらく多くの人がみとめるだろうように、日本の新型コロナウイルス感染対策は他の多くの国にくらべればかなりうまくいっているようにみえる。これはBCG接種が関係しているためかもしれないし、過去に流行した感染症の交叉免疫が残っているためかもしれない。理由は複合的かもしれないし、別のことを目指した対策が実際には本来の意図とは別の効果を偶然発揮したからかもしれない。真相はだれにもわからない。
 わたくしはまったく根拠がないことながら、岩田氏が指摘する日本のさまざまな問題点や厭なところが、今回の感染症対応においては、たまたま有効に働いたという可能性もあるのではないかと考えている。
 それは相互監視的で息苦しい日本社会の構造である。「とんとん とんからりと 隣組 地震や雷 火事泥棒 互いに役立つ 用心棒 助けられたり 助けたり(岡本一平 作詞))」 あるいは「欲しがりません、勝つまでは」。
 自分があることを我慢しているのであれば、ほかの人間だって我慢をすべきである、抜け駆けは許さないぞ、一人だけいい思いをするような奴は許さないぞ、といった心情。
 養老孟司さんはその著書で、よく「日本人は生きられませんから」という言葉を紹介する。ある時、中国人の留学生がドイツ人の学生に言ったという言葉であり、またスリランカのお坊さんも異口同音に言ったという言葉である。「個人で生きること」ができず、「世間で生きること」ことしかできない日本人。つねに世間の目を気にして、世間の制約のなかで生きている日本人。「世間」というのは英訳するとどういう語になるのだろうか?
 このエピソードが書かれている養老氏の「運のつき」は実に変てこな本で、学園紛争の時、全共闘学生に研究室を封鎖され、それまでの研究を続けることができなくなったうらみつらみを綿々と綴った本である。
 研究室封鎖にきた全共闘学生の言い分。「この非常時にのんきに研究なんかしてやがって!」 養老氏はそこに戦争中の雰囲気を感じたという。そして学生達が手にしていたのは、竹槍なのであった。
 ある種のうしろめたさを欠いた社会運動を自分は疑うと養老氏はいう。自分は正義であると思っているひとほど怖いものはいない。
 中国が最新IT技術で作り上げた以上の監視社会を、日本は「世間」の監視というローテクで実現しているのかもしれない。見ているのはビッグ・ブラザーではなく、お隣さん。
 日本が欧米でのシャットダウンとか厳重な行動制限に比べればはるかに緩い規制で、相当の効果をあげられているのは、まさに岩田氏が日本の官僚、官公庁、保健所の欠点・問題点と指摘する日本の後進性が有効に働いたということがあるのはないかという疑念をわたくしは捨てることができない。
 かりに、日本には全体で勝つグランド・デザインがなかったのだとしても、日本では、指令がなくてもおのずと全体が形成されてしまうのかもしれない。
ベンダサン「日本人とユダヤ人」では「日本教の中心にあるのは、神概念ではなく、「人間」という概念なのだ」ということがいわれている。「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらする唯の人間である。」 
 欧米人はもしも神が存在しないのであれば、人間はありとあらゆる悪をなすのではないかという畏れをつねに抱いているのだそうである。
 そしてまた、橋本治氏は「宗教なんかこわくない!」でいう。「“自分の頭で考えられるようになること”-日本に近代化の必要が叫ばれるようになってから、日本人に終始一貫求められているものは、これである。」「日本人は、どういうわけか、「グズグズしている間にさっさと“その先”を考える」が出来ない。「えっ? そんなことまで自分で考えちゃっていいんですか?」というような寝ぼけたことを平気でいう。「答えはエラい誰かが持って来てくれるもんで、自分はその指示を待っていなくてはならない。その答えを先回りして考えたら失礼だし、そんなことを考えるのはメンドくさいから、おとなしく待ってる」という橋本氏のいう渋谷駅の忠犬ハチ公状態である。
 「お上のお達しには服従すべしという奴隷根性、自分では責任をとりたくない、責任はお上にあるとしたいという心情」と岩田氏がいうのもまさにこれである。そしてその自分で考えないという日本人のありかたが、結果として、日本の感染拡大予防に有効に働いたという可能性はなくもないように思うのである。
 さて、日本の医療問題:日本の医療には無駄が多い。たとえば、外来患者が不必要に多い、という問題:これは日本の医療が歴史的に規模が小さな開業医の診療所を中心に形成されてきたということが大きく関係しているのではないかと思う。日本の大きな病院はルーツをたどると軍の病院であったところが多い。日本医師会も主として開業医の集まりであって、多くの開業医は外来診療が主であり入院設備を持たないから、外来にどれだけたくさん患者さんがくるかが経営をもっぱら左右する。家庭医あるいはかかりつけ医という方向を医師会は宣伝しているが、患者さんの病気ではなく、患者さんの家族構成や人間関係にまで目配りできなければ本当の医療はできないというのがその主張である。その家族の嫁姑関係とか夫婦関係を熟知していてこそ痒いところに手が届く対応が可能となる。患者さんの血圧が高いのは仕事の上の悩みが原因であるかもしれず、夫婦関係のストレスがかかわっているかもしれない。単に血圧が高いから薬をだす、そんなものは医療ではないというわけである。
 アメリカにリフィルという制度があるのは、アメリカでは医療へのアクセスの敷居が高く、医療費がべらぼうに高いこともまた関係しているに違いない。風邪くらいで病院にいくなというのはまことに正論であるが、しかし日本では、風邪薬を薬局で買うより、初診料を払っても3割負担で医院で薬をもらうほうが安いというというようなこともあるらしい。アメリカの小説を読んでいると、調子が悪いとテオレノールをのむ場面がしばしばでてくる。
 新型コロナウイルスの流行を機会に風邪の患者が病院にいくのは無意味というという真実が理解され普及していくことが期待できるかもしれない。しかし、患者さんは「先生、ただの風邪ですよね。肺炎ではないですよね」というのである。新型コロナウイルスにおいてもまた然り。「先生、風邪ですよね。まさかコロナではないですよね」というわけである。
 しかし、岩田氏もいうように、今回の感染流行を機会に当面の対応として導入されている電話での診療とか遠隔診療を機に、日本での今までの医療習慣の多くが本当に必要なものであったのかについての見直しの機運がおきることになることは避けられないと思う。そしてかなりの開業医の経営が破綻する可能性さえあるのではないかと思う。
 多くの(少なくとも)大企業において、こんどの新型コロナウイルス流行を機に、在宅勤務の方向に舵がきられている。今オフィスにたまたまいくことがあっても、がらがらでほとんどひとはいない。わたくしも在宅勤務などということが一朝一夕にできるはずはないと思っていた一人なのだが、感染症流行という外圧におされて見切り発車せざるをえなかったということはあるとしても、予想外に仕事はなんとかまわっているようである。
 従来、在宅勤務は産休明けの女性がまだ小さいお子さんの子育て期間中にする例外的な勤務のやりかたというように思われていた側面が強かったと思うが、これがかなり普通の勤務形態ということになると、日本の仕事のやりかたは大きくかわっていうのではないかと思う。いやおうなしにメンバーシップ型からジョブ型へと転換がすすむであろうし、セクハラ、パワハラといった問題も様変わりするのではないだろうか?
 そしてそのような勤務形態が普通になってくると、あるいは日本の世間というものも大きくかわってくるのかもしれない。「向う三軒両隣りにちらちらする人間」が見えなくなるからである。
 最近ある保健師さんに聞いた話。その保健師さんの勤務する会社は知的障害者を多く雇用しているのだが、その人たちの情緒が不安定であることが従来大きな問題となっていた。それが在宅勤務になった後、非常におちついているというのである。他人のことをきにせず、自分のペースで仕事ができるということは精神衛生上、非常にいいらしい。
 岩田氏は近著「ぼくが見つけた いじめを克服する方法」で、小学校から高校まで自分がいじめられっ子だったこと、その間、自分が「本当に「空気が読めない」人だった」ということをいっている。それを「コミュ障」というような言葉でいうのだが、要するに「世間」というものへのアンテナの感度が日本人としてはいささか微弱であるところがあるひとなのだろうと思う。
 2015年の日本化学療法学会総会での書店コーナーから氏の著書が排除されたということ、あるいは今度のダイヤモンド・プリンセス号から乗船2時間で下船させられたことなど、ともに、氏が学会という世間の中では「あいつは世間知らずな奴だ」と思われていて、それで排除の論理が働いたというようなことなのであったのではないかと思う。岩田氏は学会内部の空気を読めず(あるいはあえて「読まず」)、価値中立的(世間中立的、空気中立的)と氏が考える「科学」の場で議論をしようとするのである。
 最終章の第5章「どんな感染症にも向き合える心構えとは」には、科学というものについての岩田氏の見方が表れているように思うので、それについては、稿をあらためて考えてみたい。

新型コロナウイルスの真実 (ベスト新書)

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運のつき 死からはじめる逆向き人生論

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