荒川洋治「文学は実学である」(みすず書房 2020年10月刊)

 
 荒川さんの本は、「文芸時評という感想」がとても面白かったので、昨年10月に出たこの本も読んでみることにした。
文芸時評という感想」では、例えば「環境文学の一面」での大江健三郎を評した「結局、家族のことだった のかと思う」とか、「宮沢賢治と遊ぶ日本」の「文学は知的なものに「なりさがって」しまった。」「自分の現在の生き方と彼の生き方に「ほんたうに」関連があるのか。・・大学の研究室で宮沢賢治を語ることに矛盾はないのか。」 「夢を叶えた詩人たち」の「詩は読者がいない、いないと詩人は嘆くが、むしろ読者がいたほうが困るのではないか、自分の詩が、読者のきびしい視線にさらされ、正確に読み取られてしまうと、それほどのものは書いていないことや、凡庸な人間であることがばれてしまうのだ。だから奇妙な言い方になるが、読者がいないことで詩人の作品は救われているのである。また彼らも救われてきたのである。」 「細胞の魔法」での、村上春樹賛美。「村上春樹だけが書いている」での「神の子どもたちはみな踊る」賛歌。「わたしはわたしなりに」書くという小説家批判。「小説というのは先頭に立つ人だけが書くもの」という断言。そして「文学は実学であるもこの「文芸時評という感想」に収められた文である。また「読者ではない人のために」での村上春樹海辺のカフカ」批判。
とにかく、荒川氏は文学を信じているひとであり、それに対して斜に構えていない人である。
荒川洋治全詩集」も持っているが、「美代子、石を投げなさい」の「宮沢賢治よ/ 知っているか/ 石ひとつ投げられない/ 偽善の牙の人々が/ きみのことを/ 書いている/ 読んでいる/ 窓の光を締めだし 相談さえしている/ きみに石ひとつ投げられない人々が/ きれいな顔をして きみを語るのだ・・・「、美代子、あれは詩人だ。石を投げなさい。」 あるいは「完成交響曲」での芸術家岡本さんと政治家浜田さんの対決。

 それで、比較的短い文章を収めた本書はこれから読んでいくのだが、ぱらぱらと読んでところで、たとえば「声」という文の「声」という文章(詩人が朗読会をやる事への全面否定、詩人が世間から黙殺されていることに耐えられなくなって、福島のとこを詠んだ詩をつくって朗読会などで数人の詩人が集って、そこにもの好きなマスコミなどが来ると、自分も社会参加していると思い込むような愚)。
まだパラパラと、みているところだが、横光利一「夜の靴」、スタインベック「ハツカネズミと人間」を読んでみたくなった。

文学は実学である

文学は実学である

本日の朝日新聞の朝刊の川上弘美さんの文

 本日の朝日新聞の朝刊に川上弘美さんが「生きている申し訳なさ」という文章を寄せている。

 東日本大震災から10年の時間が経過して、最近、テレビなどでも多くの番組が作られているが、それに関連した寄稿である。
当時は当事者だと思ったが次第に傍観者になっていったということを書いたもので、大変良い文章だと思ったが、それでも微妙な違和感も残った。
  困ったことに、書いている川上さん自身が読んでいるひとに生じるだろう違和感をちゃんと先取りしている。この文に、「自意識過剰である」とか、「お前は自分を何様だと思っているのだ」という批判がくるであろうことを予測していて、文章に書き込んでいる。
 小林秀雄がどこかで書いていた「らっきょうの皮むき」という言葉を思い出す。自分というのを掘り下げていくと最後には何もなくなってしまうぞ、というような意であったと思う。
 「ポルトガルで暮らしている人が、まったく知らないペルーの人を愛しなさいなどという―これはバカげた話で、非現実的で危険です。こういう精神が行くつく先は、危なかしく怪しげなセンチメンタリズムです。・・われわれは、実は、直接知っている相手でなければ愛せないのです。(フォースター「寛容の精神」) 
 われわれは日本人というだけでお互いにわかったような気になってしまうのだと思う。もしも地震が10年前に韓国の沿岸でおき、日本にもある程度の被害はもたらしたが主として韓国に甚大な被害をもたらしたとすれば、もうそれは今の時点では忘却されていただろうと思う。
 日本人という同胞意識がわれわれの目を曇らせている側面があるのではないかと思う。
 9・11のことをもう我々はまずもう思い出さなくなっている。

 

フォースター評論集 (岩波文庫)

フォースター評論集 (岩波文庫)

ピーター・ゲイの「モーツァルト」

 碩学ピーター・ゲイの書いたモツアルト論ということで読んでみた。
 基本的にモツアルトの伝記であるが、そこに適宜ゲイのモツアルト賛歌が挿入されるというような構成である。とにかくゲイが音楽好き、モツアルトの熱烈な賛美者であることだけはよくわかる本である。
 しかし、この本でモツアルトについて何か新しいことを教えられたかというとそうではないように思う。むしろゲイがいかに博識かということのほうに印象が残る感じである。
 巻末に付された三浦雅士氏の「モーツアルトは我らの同時代人」という文章もまた熱のこもったもので、三浦氏もまたモツアルトの大讃美者であることがわかる。天才・奇跡・・・。しかし三浦氏はモツアルトを「遊戯する十八世紀の宮廷人」とみる立場をとらない。では「ロマン派」とするのかというのが難しいところである。
 ゲイの論はモツアルトと父との葛藤を描くことに多くのページを割いているが、三浦氏はここにフロイトの理論の援用をみている。そしてゲイの論にはポパーの名前などはどこにもでてこないにもかかわらず、ポパーについての批判を展開している。文化史家というのは多かれ少なかれ精神分析的観点を採用せざるをえないのだとしている。「歴史は科学であるよりも文学である」として、文学の理論として精神分析ほど有効なものはない」と三浦氏はいう。
 臨床の精神医学においてフロイト精神分析の方法はほとんど一顧だにされなくなっているといっていいと思うが、文学の現場においてはまだその影響は強く残っているようである。村上春樹さんの小説にもそれは強く感じられる。春樹さんは河合隼雄さんの信奉者であるようだし。
 確かにモツアルトは天才であり、音楽の一つの頂点を極めたことは間違いないと思うが、しかしどの芸術分野においても一切の夾雑物を含まないでいるとそれは次第に枯れていってしまうことになるので、ベートーベンという奇人が音楽の分野に非常に多量の夾雑物を持ち込んだことが西欧のクラシック音楽を大幅に延命させてきたのだと思う。しかしベートーベンの魔法の威力もそろそろ尽きけているように思えるが・・。
 確かゲイの名前を最初に知ったのは山口昌男氏の「本の神話学」でだったと思う。山口さんというのは何という物知りと驚嘆したものだが、そこにはゲイの「ワイマール文化」への言及もあり、山口さんが広い意味でゲイの学統につながるひとであることがわかる。この山口さんの本で「書痴」という言葉が使われているが、ゲイも山口氏もつくづくと「書痴」の系列のひとなのだと思う。わたくしは高校時代に山口氏に「日本史」を習った人間なのであるが、手塚治虫とか(まだそれほど有名ではなかった)白戸三平について語る氏がそんな偉い人であるとは毛頭思わなかった。
 この「本の神話学」においても「精神分析学と歴史学の交錯」ということがいわれている。 つくづくと文科系の学問へのフロイトの影響ということを感じる。

モーツァルト (ペンギン評伝双書)

モーツァルト (ペンギン評伝双書)

本の神話学 (岩波現代文庫)

本の神話学 (岩波現代文庫)

与那覇潤「繰り返されたルネサンス期の狂乱」(「Voice」令和3年2月号」

 与那覇潤さんが、雑誌「Voice」2月号に、「繰り返されたルネサンス期の狂乱」という稿を寄せている。
氏はいう。2020年最大のテーマは「知性の敗北」であった。私たちがこの知の惨状を乗り越えるために必要なのは、無責任な「未来図のプレゼン」との決別である。このままでは、2020年は後世には「知性」への信頼を完全に崩壊させた一年として記憶されるだろう、という。
 1957年にはアジア風邪のパンデミックで200万人、1968年の香港風邪のパンデミックでは100万人の死者がでている。そういう事実があるにもかかわらず(現在までのところ新型コロナウイルスでの死者は昨年末までで150万人超)、1918年のスペイン風邪(死者1億人)とのみ比較して危険性を誇張して日本のメディアは過剰対応を煽った。
 特に目新しいことではないはずの今回の新型コロナウイルス感染パンデミックがもたらした衝撃は、近代以降長く続いてきた「先進国神話」が崩れたことにあるという。自由と人権を尊重するはずの欧州諸国が再三ロックダウンを強行したにもかかわらず、膨大な死者を出したのと対照的に、中国や周辺の途上国では相対的に軽微な被害ですんでいる。

 昨年以来、専門家はさまざまな提言をしてきているが、専門家への信頼は失われていくばかりである。アメリカでは敗北したとはいえ、トランプ氏があれだけの票を集めた。

 さて与那覇氏の本論のタイトルは「繰り返されたルネサンス期の狂乱」となっている。なぜここにルネッサンスがでてくるのか? それは本論が大きく依拠しているのが中井久夫氏の「西欧精神医学背景史」(1979年)であるからである。
 中井氏によれば、ルネッサンスあるいは大航海時代以前にグローバル化していたのはモンゴル帝国や中国やイスラムとその商人達であって、ヨーロッパは後進地域であった。それが逆転する契機となったのが「アメリカ大陸の発見」だった。新大陸の銀が空前の資本力を欧州にもたらすが、それは同時に社会を流動化させた。胡散臭い「ルネサンス官僚」がパトロン達に様々な勝ち抜き策を提示した。
 その提言がうまくいかないときは、それを邪魔する裏切りもの、さらには悪魔がいるからだとした。それが魔女狩りのルーツとなったと中井氏はいっている。それと同時に当時のヨーロッパ人よりはるかに豊かな知識をもっていたイスラム教徒やユダヤ人も排斥されていった。

 与那覇氏は、このルネッサンス期の混乱が目下の世界情勢に似ているという。「私だけが解決策を知っている」と自称する《有識者》が跋扈し、移民排斥やレイシズムの機運が高まって、学者や知識人が存在感を失っていく。その典型、現代における胡散臭い「ルネサンス官僚」がたとえばトランプ政権のバノン氏であるという。
 現在進行している変動の根にあり、ルネッサンス期の「アメリカ大陸の発見」に相当するものが「中国の発見」であると与那覇氏はいう。「世界の工場」でありなおかつ「世界最大の消費市場」というフロンティアの発見である。中国には前近代的な零細企業から、ファーウェイのような欧米並みのモダンな企業、さらにはもっと進んだIT産業までがすべてそろっており、中国に注文すれば、世界最安値で何でも手にはいることになった。だが、西欧では当然デフレという弊害が出現し、製造業は衰退して、あとには口先ばかりの虚業家だけが残ることになった。
 しかし、歴史をそういう大きな目で見通すマクロヒストリーは日本ではきわめて脆弱である。そのため陰謀論が跳梁跋扈することになる。
あることを予言し、その通りになれば、自分のおかげ」、ならなければ「俺のいうことをきかない国民のせい」といった知性の片鱗もない議論がまかり通っている。
 今、知性の行使がきわめて悲惨な状況に陥っていることを自覚すること、われわれはそこから出発するしかないと与那覇氏はいう。

 与那覇氏がここで参照して議論のバックボーンとした中井久夫氏の「西欧精神医学背景史」はとにかくとんでもない本である。
みすず書房版の「西欧精神医学背景史」の「あとがき」に中井氏が、「(執筆時)私は一種の物狂いの状態であったにちがいない」とあるのは掛け値なしに本当のことなのではないかと思う。
 わたくしがこの中井氏の本で一番印象に残っているが「森」と「平野」の対立という見取り図である。「森に二十歩はいれば(権力から)完全に自由であった。」
 あるいはまた西欧知識人を支配する「無垢なる少女の神話」の話。(「野ばら」「ファウスト」・・)
 つまりわれわれが知っている(あるいは親しいものとして感じている)西欧は「西欧の平野」の明るい部分だけなのであって、「森」の奥の暗い部分ではないのでないかということである。たとえば、わたくしにはハイデガーという人がどうしても平野の人とは思えない。森のひとである。
 啓蒙主義というのは典型的な平野の思想なのではないかと思うが、「浪漫主義」というのはそれでは「森の思想」であるといえるのだろうか? あるいはアポロンディオニューソスという問題。

 わたくしはポパーの信者なので、未来を予想することは不可能であると思っている。あることを予想して、それが違っていれば、その事実を受け入れて考えを修正すればいい。ポパーフロイトの思想を、あるいはマルクスの思想を、どのようなことがおきようとすべて自説が正しいとできてしまうという点で科学ではないとしている。
 マルクスの予言は間違ったし、ケインズもまた自分の孫の世代になったら経済問題などはなくなっているだろうというようなことをいっていたらしい。

 現在日本の医療供給体制の不備がさまざまに批判されているけれども、昨年のイタリアもそうだったが、これからの少子高齢化の進行に対応するために(要するに税収が先細りになる未来に備えて)、病床配置を計画してきた結果が今であり、新型コロナウイルス感染が広がることなどだれも予想をしていなかったわけだから、そして1~2年というような短時間で病床の配置を大きく変えることなど不可能なのであるから、現在、なんでこうなった、責任者をだせというようなことを言っても、意味がないのではないかと思う。
 あらゆることには対策があるはずだ、それができていないとすれば誰かの怠慢であり、その人を糾弾しなくてはいけないのだという考え方自体が問題なのだと思うけれど、それは一般的ではないらしい。
 わたくしは20歳を過ぎてからは一貫して西欧の明るい部分、啓蒙の西欧の信者であり続けてきたけれども、まさかそろそろ後期高齢者になろうとする今になって、「暗い西欧」が跋扈する時代に遭遇するだろうなどということは予想さえしていなかった。
これが一時的なものなのか、長期にわたる変化の開始期にたまたま遭遇しているのかはわからない。いずれにしても、もともと積極的に発言するとかは性に合わない人間なので、今まで通りで通すしかないのだが。

Voice 2021年2月号

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西欧精神医学背景史 【新装版】

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身内と余所者

 
 今のアメリカの騒擾を見ていると、わたくしのような団塊の世代には既視感があって、どうしても60年安保のことを思い出してしまう。その時にも、全学連を中心とした人たちは国会敷地内に入り込んだはずである(議事堂内にははいらなかった。入れなかった?)。その乱入をきっかけに、それまで学生たちの運動を心情的に応援しているようにみえたマスコミは掌を返すように「議会制度を守れ」などというようになった。

 もっと最近では68年の騒動である。学生たちは、線路に敷きつめられた石をとっては機動隊に投げていた。パリでも同じようなことがおこなわれていた。これまた、マスコミは心情的にそれを応援していた。

 両者の背景には《前衛》という思想、目覚めた少数者が世を動かしていくべきという考えがあった。(今でも、日本共産党の月刊の機関紙は「前衛」というタイトルであるはずである。)
 目覚めた学生・労働者たちは、地域のしがらみでいつも自民党に投票しているような意識の低いひとたちとは自分達は根本的に違い、深くものを考える人間なのだから、その自分達の考えや行動は当然尊重されるべきであるという思いがそこには存在してした。つまり、議会主義などというのは一向に尊重はされていなかった。

 わたくしの前半生というか2/3半生には、まだ共産主義国家というのが現実の国家として存在した。それが崩壊したのが1991年、今から約30年前である。その時には心底驚いたものである。あの軍事大国がこんなにも簡単に自壊するものだろうかと思った。自分が生きている間に地上からソヴィエト国家が消失することがあるなどとは想像さえしていなかったのである。

 いまだに中華人民共和国はあり、朝鮮民主主義人民共和国も存在し、中国共産党朝鮮労働党も存在する、しかし中華人民共和国朝鮮民主主義人民共和国がこれから日本の向かうべき方向であると考えているひとは、われわれのまわりにはまずいないように思われる。

 現在のアメリカをみると、アメリカは白人が建国した国であり、したがってこれからも白人が主導する国家であり続けなければいけないと確信している人間が非常に多数存在しているようにみえる。
 その人たちからみれば、今のアメリカの現状は根本的に間違っている、あるいは間違った方向に進もうとしているということになる。だから、その間違った方向が選挙で過半数の人間によって支持されたとしても、それが間違っていることには少しも変わりがないことになる。つまりそのような問題は根源的な問題であって、多数決などということで方向が決まるなどということはありえない。

 最近のコロナ騒動で問題になっているビジネス往来というのは実はその過半が技能研修生というような名前で呼ばれている日本の底辺の単純労働を支えている、主として東南アジアからの労働力に関することであるらしい。
 現在すでに低賃金で働く彼等の存在なしには日本の多くの産業現場あるいは農業の現場は回らなくなっているらしい。

 日本の少子化の急激な進行をみれば、これは今後それはますます急速に進行することは明白である。しかし、ほとんどの日本人はその問題から目を背けていて(たとえばビジネス往来などという美名)、正面から見ることをせず、議論しようともしない。

 むかし何かで上野千鶴子さんが、「日本は移民を受けいれるべきではない、日本人は移民への対応がきわめて苦手で稚拙であるから」といったようなことを言っているのをみて、あの上野さんがと意外に思ってことがある。

 現在は技能実習生というのは移民ではなく、ある期間日本にいてまた帰国している、しかし、そんなことでは追いつかなくなって、本格的に移民をうけいらなくてはならなくなった時、日本人はどのような態度をとるだろうか?

 すでにヨーロッパでは多くの国で、移民の労働力なしには経済がまわっていかなくなってきているらしい。

 日本がまだ遠い将来かもしれないが、移民をうけいれ、やがてそれが日本の人口の過半数をしめるようになったとき、日本人は一体、どのような反応を示すだろうか? 「日本人 ファースト!」というようなことを言い出すだろうか? その時点では、移民もまた日本人となっているはずなのだが、3代前まで日本人であった人間のみが本当の日本人! それ以外は日本人とは認めないとかいい出すのだろうか?(トランプ大統領の「アメリカ、ファースト!」というのを、多くの白人は「白人、ファースト!」ときいていると思う。)

 自分達が正しいと信じることほど恐ろしいことはない。
 かつては何が正しいかは《政治に関する理論》が決めると信じているひとがたくさんいて、それが数々の悲劇を生んできた。
 しかし最近では《思想》や《理論》の威力はめっきりと低下して、その代わりに《自分達》と《余所者》の峻別という、人間が農業を開始する以前の狩猟採集時代にすでにわれわれの遺伝子に組み込まれたと思われる行動原理が前面にでてきている。余所者が自動的に《砂かけ婆あ》(栗本慎一郎さんの用語)に見えてしまう、《自分達》と《あいつら》が峻別されてしまうという実に厄介な心理である。

 いままでわれわれは、18世紀の啓蒙思想に由来する西欧由来の価値観をなんとなく深く考えることもなく、正しいものとして受け入れてきた。たとえば、《民主主義》。
 それが問われようとしている。第一次世界大戦第二次世界大戦などの戦乱があるごとに、それはその命脈がたたれるのではないかと思われながらも、何故か現在までしぶとく生き残ってきた。
 だからわたくしも、今はいかに形勢が悪いようにみえても、それは生き残って、またいずれ思想のメイン・ストリートに戻ってくるだろうと思っている。それだけが人を人として遇することを可能にする唯一の行き方であると思うからである。
 しかし、啓蒙思想とは他者への寛容を説くものであるから、他者を否定することが主潮になっている時代においてはきわめて旗色が悪い。
 寛容は不寛容を寛容するか? というのは昔から延々と議論が続いている命題である。しかしながら、わたくしは不寛容と敢然とたたかうといった方面は生来苦手で、傍観者というのが自分の立ち位置であると思っている。
 できることは、ぼちぼちと感想を書いていくことくらいである。

 しかし、それにしても、今のアメリカでおきているような事態が、わたくしが生きている間に西欧世界でおきるとは、想像もしていなかった。
 人間というのは過去を解釈することは得意であっても、未来を予見することはいたって苦手な生き物であることを強く感じる。過去についての解釈はいくらでもできても、それは未来の予見には少しも結びつかないのである。

アメリカ南部

 現在、入院中なので、普段と違い、蔵書などを参照できない環境で書いている。それで、持ち込んだ本を読むしかない状況で、たまたま持ってきたピンカーの「人間の本性を考える 心は空白の石板か」(NHKブックス 2004年)を読んでいる。
以前読んだ時にはそれほど感じなかったのだが、いかにもインテリさんが書いた本である。この本は「人間の心は、遺伝的に決定される部分と文化的に決定される部分の複合である」ということを啓蒙しようとするものである。
 「そんなことは当たり前ではないか」と思うひとも多いかもしれないが、たとえば「男女の違いはもっぱら文化的に形成される」という考えは広く流布していて、親が子供の性別によって男の子はかくあるべし、女の子はかくあるべし、という思いで育てるから(女の子にはお人形さんを、男の子には玩具の機関車を!)現在普通にみられる男女の差が生まれるので、男女差といわれるものはもっぱら文化的な産物で、後天的に形成されるのであるという考えは広く流布しているのではないかと思う。
 あるいはこれは日本ではあまり受け入れないかもしれないが、「人間が今のようであるのは神様がそのように造ったからである」という考えは西欧ではまだまだ根強いのかもしれない。(アメリカでは「聖書の創世記を信じているものが76%いるそうである。」
 ピンカーさんはそれには明確に反対の立場なので、それで啓蒙のために本書を書いたのであろうが、何しろ最初からロック、ホッブス、ルソーである。あるいはデカルト、ライルである。
 本論の最初の10ページにそういう名前が次々に出てくるのだから、インテリさん以外はまず読み続ける意欲を失ってしまうだろうと思う。

 しかし、今回、考えてみたいのは、本書の最終第6章「種の声 五つの文学作品から」でとりあげられているマーク・トウェインの「ハックルベリ・フィンの冒険」についていわれる「『名誉の文化』が暴力を引き起こす」という部分である。ピンカーはこのトウェインの小説が「南北戦争前の南部の欠点と人間本性の欠点」を示しているのだという。
 特に「名誉の文化のなかに生まれる暴力」。それは名誉の心理から生じるもので、血縁者への忠誠、復讐の渇望、タフで勇敢だという評判を維持しようとする動因がひとまとめになった感情であり、これが増幅されやすい地域の一つがアメリカ南部である、という。
 昔、三島由紀夫の「第一の性」を読んでいたときに、《男は負けるものか、負けるものか》という原理で動いているということが動いているということが書いてあって、伊丹十三もまったく同じようなことを書いていた(「男たちよ! 女たちよ! 子供たちよ!」?)
 これをよく覚えているのは、「本当かなあ?」と思ったからで、自分はどうしてもそう思っているとは思えからである。谷沢永一「人間通」を読んだときにも同じことを感じた。「隣の蔵建ちゃ、儂腹が立つ」とか「隣の貧乏、密の味」とか、あの「紙つぶて」を書いた谷沢さんがこんなことを考えていたのかと驚いた。人間ってもう少し崇高なものではないかな、というような感じである。
 もっともわたくしは男性性が相当に乏しい人間だと思っているので、普通並みの男性度であれば、「負けるものか! 負けるものか!」というのが当然なのだろうか?
 ピンカーはこういう心理はヤノマモ族にもみられると書いているし、ゴリラなど様々な動物にもみられるとされている。しかし、アメリカ南部にも色濃くみられるという。

 今、こんなことを書いているのは、トランプ大統領の言動の背後に、また熱狂的なトランプ支持者の行動の背後に、この心理がみられるのではないかと思うからである。
 今、未読の「ハックルベリ―・・・」を取り寄せているので、読んだらまた感想を書くかもしれない。

人間通 (新潮選書)

人間通 (新潮選書)

岡田 暁生「音楽の危機 《第九》が歌えなくなった日」

 本書の大部分は昨年の4月から5月にかけて、新型コロナウイルスの感染拡大を受けてコンサートなどが次々に中止になっていった時期に書かれたということである。(最終章のみは6月後半)
 著者はいわゆるクラシックの分野での評論に長年たずさわってきたかたである。
 副題に「《第九》が歌えなくなった日」とあるが、これは本書の執筆時期での感想であって、昨年末にはÑ饗の「第九」の演奏会もおこなわれていた(ただし、かなり規模を縮小したオーケストラと従前の半分以下のコーラスというかなり中途半端な編成であった)。また今年のウィーンフィルのニュウ・イヤー・コンサートは聴衆なしで行われていた。これは世界中への放映があらかじめ契約されていたであろうと思われるので、ホールに聴衆がいようといまいと、確実にその演奏を映像を通じてリアルタイムに(あるいは録画で)聴く(見る)ひとが何万・何十万といるということがわかっていたということがあってやった、あるいはやらざるをえないということだったのかもしれない。東京オリンピックを無観客でもやるというようなものかもしれない。聴衆からの拍手がないラデッキー行進曲というのも奇妙なものであった。
 本書のかなりは《第九》(あるいは第五「運命」)をめぐる考察で占められている。岡田氏は「実はわたし自身も昔から《第九》は苦手だった」と書いている。ここでの「自身も」の《も》は、「《第九》に押しつけがましさを感じる人も少なくはないだろう」というその直前のセンテンスを受けてのものである。
 第九交響曲は当初構想されていた二つの交響曲を一つにしたものといわれている。現在の第三楽章までにオケのみの第四楽章がつくものと、合唱をふくむ別の構想の交響曲を一つにしたらしい。当初構想されたオケのみ交響曲の第4楽章のテーマは他の弦楽四重奏曲に転用されている。
 第九交響曲というのは第一から第三までの楽章が実によくできているとわたくしは思うので(たとえば冒頭の空虚5度、第三楽章の二つのテーマによる変奏曲・・)、第四楽章になって、とってつけたように、それまでの楽章を否定していくというやりからは、そこまでの音楽を聴いていた聴衆に対して礼儀に悖るのではないかと思う(その点、ははるかに「運命」のほうが構成が純一である)。

 ベートーベンはかなり若いときから「シラーの歓喜によせて」に曲をつけることを構想していたらしい。もしも弦楽四重奏に転用されたテーマによる終楽章による第九番目の交響曲というものができていたら、これはどちらからというと晩年のピアノ・ソナタ弦楽四重奏の方向の交響曲になっていたのではないかと思う。
 しかしベートーベンには晩年の沈思黙考路線とは別に、人々をアジテートして説教したいという欲求もあり、それが若年時の「悲愴」ソナタから英雄交響曲、さらに運命へと結実したわけであるが、晩年までその欲求が消えることがなかったことが、「第九」交響曲(4楽章)や「荘厳ミサ」などにつながったのだろうと思う。

 わたくしはもしも西洋の歴史上、後世に一番大きな影響を与えた人物というのを選ぶとしたらベートーベンではないかと思っている。もしもベートーベンがいなかったら、いわゆるクラシック音楽というのは、現在ではすでに古典芸能となっていたのではないかと思う。
 そしてベートーベンによってかろうじて生き延びてきたクラシック音楽も現在、古典芸能化する危機の瀬戸際にきているのではないかと思う。
 おそらく現在、クラシック分野の評論家といわれるようなひとで、西洋古典音楽は現在、存亡の危機に立たされているのではないかという意識を持っていないひとはまずいないるはずで、岡田氏の音楽批評の根底にもつねにそれがあるはずである。
そのクラシック音楽の危機を白日のもとにさらすことになったのが、今回の新型コロナウイルス感染であったわけで、本書の執筆の動機もそこにあるものと思われる。
 要するに現在においても西洋古典音楽を聴くことはわれわれにとってまだリアルなものであり続けているかという問いである。

 ベートーベンが後世に残した最大のものはロマン主義という問題であって(ブラームスシューマンシューベルトマーラーブルックナー・・・)、もっと広くいえばフランス革命後の西洋(とそこにおける個人)という問題である。
一人一人の人間にかけがえのない価値があるという考え方はフランス革命後に広まったものであり、(少なくとも若い時の)ベートーベンはその最大の扇動者の一人であったわけである。
 そしてわれわれは音楽以外にもう一つ、個人が有する価値の発見の形式として小説というものをもっている。これまた西欧由来のものであるが、少なからぬひとがまた小説という形式もまたその役割を終えつつあると感じているのではないかと思う。

 現在、西欧クラシック音楽が直面している問題の根にあるのは上記のようなものであると思うが、それに対する岡田氏の回答はかなり混乱しているように見える。
 そもそも西洋古典音楽を愛好するのでなければ、氏が音楽評論という立ち位置をえらずぶはずがない。氏はその愛するものが滅びることがあってほしくないと思っているが、現在クラシック音楽のコンサートに通っているひとのほとんどはそのような危機意識は抱いていないわけで、その点で氏はクラシック音楽愛好家のなかでもすでに少数派である。
 コンサートに通うひとの大部分は単にクラシック音楽が好きなだけなのだが、岡田氏はもちろんクラシック音楽が好きであるとしても、(それ以上に?)クラシック音楽とその運命について考えるのが好きなのである。

 本書に縷々説かれるように、クラシック音楽のコンサートは西欧近代市民社会の成立と不可分なものである。
 それで、今回のコロナ禍のように人が密に集まることが忌避されて、コンサートを開くこと自体が自明のものとはいえなくなると、それが直ちに西欧の黄昏という方向の話と結びついてくることになる。

 今われわれはここ何十年か(何百年か?)信じてきた(西欧近代由来の)価値観を根底から揺さぶられる事態に直面している(これを書いている時点で、アメリカ議会に群衆が乱入しているという報道がなされている)。
それはコロナ禍によって促進されているものではあると思うが、イギリスのEU離脱などはそれ以前から進行しいたわけで、明らかに“西欧民主主義”への何度目かの懐疑にわれわれは直面しててる。おそらく両次世界大戦で経験した幻滅がようやく癒えてきたと思われる時期がどこかにあったはずなのに、現在は明らかにそれがまた失われようとしている。

 だから第九を能天気に演奏する、歌うなどということが、何か空々しく感じられるようになってきているということがある。

 しかし人間には「祭り」への志向あって、別に本気で信じていないものでも神輿に担いで騒ぎたいということもあるので「、第九」を歌っているひとが、あるいは演奏しているひとが必ずしもシラーの「喜びによせて」の歌詞の意味内容に共感しているというわけではないはずである。要するにみんなで集って騒ぎたいという本能?の発散である。 

 もちろん、そういうことは岡田氏も百も承知なのであるが、 なにしろ沢山のことを知っている人であるから、アドルノの第九批判とか、流浪の民としての音楽家とか様々な議論が動く。

 さらに音楽の専門家であるから、上部倍音の話とか、カタストロフの予言の曲として「春の祭典」とか、ヘリコプター弦楽四重奏とか一部好事家にか通じないような話が延々と続く。
わたくしにはヘリコプター弦楽四重奏などというのは「思いつき一発」というだけのもので、それ自体で価値があるものとは思えないのだが・・。

 後のほうにでてくるミニマル・ミュージックなどについての議論も、そもそもそれを好んで聴くひとがどれだけいるだろうと思う。一部のマニアックな人間だけではないかと思う。

 つまり「第九」という非常にポピュラーな音楽の議論がいつの間にかごくわずかの好事家しか知らない聴かない曲の話へと移ってしまうわけで、教養が邪魔をするというか、あまりに沢山のことを知りすぎていて、それがかえって骨太の議論をできなくさせているように思う。

 第一章 「社会にとって音楽とは何かー「聖と俗」の共生関係」。
 何だか「言語にとって美とは何か」を思わせるタイトルである。大袈裟すぎないだろうか? 
 近代市民社会は「文化」と「非文化」を峻別してきたが、本来、芸術と芸能は地続きであって、人々が肩をよせあて集うという「三密空間」での人々の営みをその基盤としているのであり、コロナ騒ぎは、その根底を問うものとなったということが論じられる。しかし、西洋古典音楽はその一方で、孤独な音楽という方向も育んできたはずで、すでに晩年のベートーベンの音楽にその明らかな萌芽がみられる。
 そして西洋音楽マニアというのはマニアになればなるほど、「非文化」に根をもつ「3密」の傾向の音楽より、孤独な音楽のほうへと向かう傾向があり(人々の音楽から自分個人の音楽へ)、そのことが一人で自分でピアノを弾く、あるいは仲間と合奏をする、あるいは部屋で一人録音された音楽をきくという音楽享受の方向をすすめてきた。それがグレン・グールドのような音楽家を生み出したのであろうと思う。
 ライブの音楽と放送されたものあるいは録音されたものを一人で聞くという二方向化の問題である。

 小説を読むという行為は一人でやるものである。みんなで集まって本を読むなどというのは本道からはずれている。今度のコロナ禍でも、小説や詩を読む行為はほとんど影響されていないはずであり、岡田氏が本書を執筆し出版し、わたくしがそれを読むことを阻害するものは何もない。

 第二章「音楽家の役割についてー聞こえない音を聴くということ」
 音楽とは世界の気配をいちはやく察知する「予感」に最大の機能があるということがいわれる。(炭鉱のカナリア
たとえばストラビンスキーの「春の祭典」が第一次世界大戦のカタストロフを予感したものであったといったことがいわれる。そういうことであれば、まず中期までのベートーベンの音楽は西欧市民社会の勃興を誰にでもわかるように明示したものである。
ここではウェーベルンの作品が示す第一次世界大戦の予感といったことが論じられるが、そもそも今日、ウェーベルンの音楽がどのくらい演奏され、どのくらいのひとに聴かれるのだろうか? これはクラシック音楽好事家のための音楽である。こういう話題が一般書にでてくるところが知識人としての岡田氏の持つ問題を示しているのだろうと思う。

 第三章 音楽の「適正距離」 メディアの発達と「録楽」
 音楽には「ライブ音楽」と「録楽」という全く違う別々の二種類の音楽がある。録音された音楽は音楽ではないという主張が紹介される。そしてジャズの即興演奏などが論じられのだが、ジャズの即興演奏もまた録音されるので、いまひとつ論旨がはっきりしない。

 《間奏》 非常時下の音楽 ― 第一次世界大戦の場合
 第一次大戦勃発当初、闘いにはなんの役にもたたないものと音楽はみなされたが、戦争が長引くにつれ、戦意高揚、あるいは単にひとびとを慰めるものとしても不可欠なものとされるようになっていたことが述べられる。
これは今後、コロナ禍が長期化したときに予想される事態ではないかと岡田氏はしている(但し、3密を避けるという問題はある。

 第4章 《第九》のリミット ― 凱歌の時間図式
第九(あるいは第五)の音楽様式は暗がりから光の世界へという近代市民社会のヴィジョンそのものである。それがコロナ禍によって自明のものではなくなってきている。とすれば、われわれは近代とはなんであったかを再検討することがせまられていることになる。われわれの世界が右肩上がりでよくなっていくというヴィジョンそこが第九(第五)が示しているものである。今、その自明性に再検討が迫られている。実はベートーベンは晩年のピアノ・ソナタなどですでに自分でそれをおこなっているのだが・・。
 ここで岡田氏の話はショスタコーヴィッチにうつる。
 わたくしはショスタコーヴィッチについて、スターリン体制下で生きたことは彼自身にとっては大変な不幸であったと思うが、もしその体制の強制がなく自由に音楽をつくれたとしたら非常に才気煥発な前衛音楽家でおわったのではないかと思っている。体制との軋轢があったからこそ、今のわれわれが知るショスタコーヴィッチの音楽が残ったのであり、作曲家が何をしているかについて権力の側がまったく関心をもたなかったであろう状況下で生きた西側の作曲家より(それで結局ある時期の西側の作曲家は今日のわれわれが聴くに値する作品をほとんど残していない。
 単に作曲家としての才能がベートーベンより劣るとしてもショスタコーヴィッチは同時代の作曲家よりも十全に自分の才能を発揮することができたのではないかと思う。
 ここで岡田氏はフルトヴェングラーの第九演奏に言及して特にその第3楽章を賞賛し、第九は公共圏に訴える要素ばかりではなく親密圏にもまた訴える要素をもっているからこそ傑作なのだという。(ショスタコーヴィッチの音楽は一見公共圏に訴えるものでありながら、実際にはほとんど親密圏への訴えでできているように思うのはわたしだけなのだろうか? だからこそ今でも演奏され聴かれるのではないだろうか?

 第5章 音楽が終わるとき ― 時間モデルの諸類系
 われわれがいまだに右肩上がりの時間モデルから縁を切れないのは《音楽》に一つの原因があるのではないかと岡田氏はいう。
 それほど音楽に力があるのだろうかとわたくしは思う。

 第6章 新たな音楽を求めて ― 「ズレ」と向き合う
 ここで論じたれるのは、ラ・モンテ・ヤングとかリゲティとかアンドリーセンとかライリーとかほとんどリゲティ以外ほとんど聞いたことのない作曲家の話で、ベートーベンと対比させるのは根本的に無理があるのではないかと感じた。

 終章 場の更新 ― 音楽の原点を探して
 今のコンサートホールは教室の空間であるのでそれを更新しなければならないということがいわれる。しかしホールをもっとも必要としているのは19世紀につくられたクラシック音楽である。なかでもオケと合唱。

 岡田氏はあまりにたくさんのことを知りすぎているのだと思う。それで議論がどんどんと拡散していく。

 つまりいくら「第九」を批判してもフルトヴェングラー「第九」には感動してしまう人である。
 一方で西欧近代のいきづまりということも身をもって感じているわけで、大きな方向として今時、能天気に「第九」にナイーブに感動しているひとには違和感と禁じえない。しかし、本当の本物の音楽を近代批判の文脈の中で捨て去ってしなうのもしのびない。それで議論が揺れるのだろうと思う。
 第二次大戦後、前衛音楽といわれる大量の無機的音楽が作曲されたのは、大戦で音楽が戦意高揚に使われたことへの反省からであるといわれている。絶対にひとを感動させない音楽、その大部分はもうまったく残っていない。
 ある作曲科の学生がいっていた。「ブーレーズの曲は、楽譜をみたら本当に美しいんですよ。」 でも演奏したら? たぶんああいう音楽というのは頭できく音楽なのである。
 昔、昔、どこかでブーレーズの「主のない槌」の演奏をきいたことがある。みんな神妙な顔をしてきいていた。