今日入手した本 山本七平「渋沢栄一 近代の創造」祥伝社 2009年7月

 最近の大河ドラマの影響か渋沢栄一の本が書店にあふれている。それで思い出して、昔買ったが読まずに積読になっていた鹿島茂さんの「渋沢栄一 Ⅰ 算盤篇」「渋沢栄一 Ⅱ 論語篇」(2011年1月)の大部の二巻本を本棚の奥から引っ張り出してきた。この本が出版された当時、鹿島さんの本をいろいろと読んでいてそれでこの本も購入したわけだが、当時鹿島さんが書いていた他の本とは余りに毛色が違うので、まあ鹿島さんの本なら買っておいて損はないだろう、いずれ読むかもと思って購入してそのままになっていた。
 それで今回読みだして、まだ上巻の140ページあたりだが、確かに面白い。読んでいると山本七平渋沢栄一 近代の創造」が頻繁に引用されている。それでこの本も購入したわけである。山本さんの本では「渋沢栄一 日本の経営哲学を確立した男」(さくら舎 2018年3月)という本はもっていたが、この本は第一章は渋沢栄一を論じているが、第2章は論語論、第3章が老荘思想論、第4章は日本論で、渋沢を正面から論じたものではないので、この本も買ってみることにした。
 今読んでいて感じている一番の興味あるいは疑問は、たった一人の個人が時代を変えてしまうなどということが本当にあるのだろうかということである。山本氏も鹿島氏のそのように書いているのだが・・。

渋沢栄一 近代の創造 (NON SELECT)

渋沢栄一 近代の創造 (NON SELECT)

  • 作者:山本 七平
  • 発売日: 2009/06/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
渋沢栄一 上 算盤篇 (文春文庫)

渋沢栄一 上 算盤篇 (文春文庫)

  • 作者:鹿島 茂
  • 発売日: 2013/08/06
  • メディア: 文庫
渋沢栄一 下 論語篇 (文春文庫)

渋沢栄一 下 論語篇 (文春文庫)

  • 作者:鹿島 茂
  • 発売日: 2013/08/06
  • メディア: 文庫

荒川洋治「文学は実学である」(みすず書房 2020年10月刊)

 
 荒川さんの本は、「文芸時評という感想」がとても面白かったので、昨年10月に出たこの本も読んでみることにした。
文芸時評という感想」では、例えば「環境文学の一面」での大江健三郎を評した「結局、家族のことだった のかと思う」とか、「宮沢賢治と遊ぶ日本」の「文学は知的なものに「なりさがって」しまった。」「自分の現在の生き方と彼の生き方に「ほんたうに」関連があるのか。・・大学の研究室で宮沢賢治を語ることに矛盾はないのか。」 「夢を叶えた詩人たち」の「詩は読者がいない、いないと詩人は嘆くが、むしろ読者がいたほうが困るのではないか、自分の詩が、読者のきびしい視線にさらされ、正確に読み取られてしまうと、それほどのものは書いていないことや、凡庸な人間であることがばれてしまうのだ。だから奇妙な言い方になるが、読者がいないことで詩人の作品は救われているのである。また彼らも救われてきたのである。」 「細胞の魔法」での、村上春樹賛美。「村上春樹だけが書いている」での「神の子どもたちはみな踊る」賛歌。「わたしはわたしなりに」書くという小説家批判。「小説というのは先頭に立つ人だけが書くもの」という断言。そして「文学は実学であるもこの「文芸時評という感想」に収められた文である。また「読者ではない人のために」での村上春樹海辺のカフカ」批判。
とにかく、荒川氏は文学を信じているひとであり、それに対して斜に構えていない人である。
荒川洋治全詩集」も持っているが、「美代子、石を投げなさい」の「宮沢賢治よ/ 知っているか/ 石ひとつ投げられない/ 偽善の牙の人々が/ きみのことを/ 書いている/ 読んでいる/ 窓の光を締めだし 相談さえしている/ きみに石ひとつ投げられない人々が/ きれいな顔をして きみを語るのだ・・・「、美代子、あれは詩人だ。石を投げなさい。」 あるいは「完成交響曲」での芸術家岡本さんと政治家浜田さんの対決。

 それで、比較的短い文章を収めた本書はこれから読んでいくのだが、ぱらぱらと読んでところで、たとえば「声」という文の「声」という文章(詩人が朗読会をやる事への全面否定、詩人が世間から黙殺されていることに耐えられなくなって、福島のとこを詠んだ詩をつくって朗読会などで数人の詩人が集って、そこにもの好きなマスコミなどが来ると、自分も社会参加していると思い込むような愚)。
まだパラパラと、みているところだが、横光利一「夜の靴」、スタインベック「ハツカネズミと人間」を読んでみたくなった。

文学は実学である

文学は実学である

本日の朝日新聞の朝刊の川上弘美さんの文

 本日の朝日新聞の朝刊に川上弘美さんが「生きている申し訳なさ」という文章を寄せている。

 東日本大震災から10年の時間が経過して、最近、テレビなどでも多くの番組が作られているが、それに関連した寄稿である。
当時は当事者だと思ったが次第に傍観者になっていったということを書いたもので、大変良い文章だと思ったが、それでも微妙な違和感も残った。
  困ったことに、書いている川上さん自身が読んでいるひとに生じるだろう違和感をちゃんと先取りしている。この文に、「自意識過剰である」とか、「お前は自分を何様だと思っているのだ」という批判がくるであろうことを予測していて、文章に書き込んでいる。
 小林秀雄がどこかで書いていた「らっきょうの皮むき」という言葉を思い出す。自分というのを掘り下げていくと最後には何もなくなってしまうぞ、というような意であったと思う。
 「ポルトガルで暮らしている人が、まったく知らないペルーの人を愛しなさいなどという―これはバカげた話で、非現実的で危険です。こういう精神が行くつく先は、危なかしく怪しげなセンチメンタリズムです。・・われわれは、実は、直接知っている相手でなければ愛せないのです。(フォースター「寛容の精神」) 
 われわれは日本人というだけでお互いにわかったような気になってしまうのだと思う。もしも地震が10年前に韓国の沿岸でおき、日本にもある程度の被害はもたらしたが主として韓国に甚大な被害をもたらしたとすれば、もうそれは今の時点では忘却されていただろうと思う。
 日本人という同胞意識がわれわれの目を曇らせている側面があるのではないかと思う。
 9・11のことをもう我々はまずもう思い出さなくなっている。

 

フォースター評論集 (岩波文庫)

フォースター評論集 (岩波文庫)

ピーター・ゲイの「モーツァルト」

 碩学ピーター・ゲイの書いたモツアルト論ということで読んでみた。
 基本的にモツアルトの伝記であるが、そこに適宜ゲイのモツアルト賛歌が挿入されるというような構成である。とにかくゲイが音楽好き、モツアルトの熱烈な賛美者であることだけはよくわかる本である。
 しかし、この本でモツアルトについて何か新しいことを教えられたかというとそうではないように思う。むしろゲイがいかに博識かということのほうに印象が残る感じである。
 巻末に付された三浦雅士氏の「モーツアルトは我らの同時代人」という文章もまた熱のこもったもので、三浦氏もまたモツアルトの大讃美者であることがわかる。天才・奇跡・・・。しかし三浦氏はモツアルトを「遊戯する十八世紀の宮廷人」とみる立場をとらない。では「ロマン派」とするのかというのが難しいところである。
 ゲイの論はモツアルトと父との葛藤を描くことに多くのページを割いているが、三浦氏はここにフロイトの理論の援用をみている。そしてゲイの論にはポパーの名前などはどこにもでてこないにもかかわらず、ポパーについての批判を展開している。文化史家というのは多かれ少なかれ精神分析的観点を採用せざるをえないのだとしている。「歴史は科学であるよりも文学である」として、文学の理論として精神分析ほど有効なものはない」と三浦氏はいう。
 臨床の精神医学においてフロイト精神分析の方法はほとんど一顧だにされなくなっているといっていいと思うが、文学の現場においてはまだその影響は強く残っているようである。村上春樹さんの小説にもそれは強く感じられる。春樹さんは河合隼雄さんの信奉者であるようだし。
 確かにモツアルトは天才であり、音楽の一つの頂点を極めたことは間違いないと思うが、しかしどの芸術分野においても一切の夾雑物を含まないでいるとそれは次第に枯れていってしまうことになるので、ベートーベンという奇人が音楽の分野に非常に多量の夾雑物を持ち込んだことが西欧のクラシック音楽を大幅に延命させてきたのだと思う。しかしベートーベンの魔法の威力もそろそろ尽きけているように思えるが・・。
 確かゲイの名前を最初に知ったのは山口昌男氏の「本の神話学」でだったと思う。山口さんというのは何という物知りと驚嘆したものだが、そこにはゲイの「ワイマール文化」への言及もあり、山口さんが広い意味でゲイの学統につながるひとであることがわかる。この山口さんの本で「書痴」という言葉が使われているが、ゲイも山口氏もつくづくと「書痴」の系列のひとなのだと思う。わたくしは高校時代に山口氏に「日本史」を習った人間なのであるが、手塚治虫とか(まだそれほど有名ではなかった)白戸三平について語る氏がそんな偉い人であるとは毛頭思わなかった。
 この「本の神話学」においても「精神分析学と歴史学の交錯」ということがいわれている。 つくづくと文科系の学問へのフロイトの影響ということを感じる。

モーツァルト (ペンギン評伝双書)

モーツァルト (ペンギン評伝双書)

本の神話学 (岩波現代文庫)

本の神話学 (岩波現代文庫)

与那覇潤「繰り返されたルネサンス期の狂乱」(「Voice」令和3年2月号」

 与那覇潤さんが、雑誌「Voice」2月号に、「繰り返されたルネサンス期の狂乱」という稿を寄せている。
氏はいう。2020年最大のテーマは「知性の敗北」であった。私たちがこの知の惨状を乗り越えるために必要なのは、無責任な「未来図のプレゼン」との決別である。このままでは、2020年は後世には「知性」への信頼を完全に崩壊させた一年として記憶されるだろう、という。
 1957年にはアジア風邪のパンデミックで200万人、1968年の香港風邪のパンデミックでは100万人の死者がでている。そういう事実があるにもかかわらず(現在までのところ新型コロナウイルスでの死者は昨年末までで150万人超)、1918年のスペイン風邪(死者1億人)とのみ比較して危険性を誇張して日本のメディアは過剰対応を煽った。
 特に目新しいことではないはずの今回の新型コロナウイルス感染パンデミックがもたらした衝撃は、近代以降長く続いてきた「先進国神話」が崩れたことにあるという。自由と人権を尊重するはずの欧州諸国が再三ロックダウンを強行したにもかかわらず、膨大な死者を出したのと対照的に、中国や周辺の途上国では相対的に軽微な被害ですんでいる。

 昨年以来、専門家はさまざまな提言をしてきているが、専門家への信頼は失われていくばかりである。アメリカでは敗北したとはいえ、トランプ氏があれだけの票を集めた。

 さて与那覇氏の本論のタイトルは「繰り返されたルネサンス期の狂乱」となっている。なぜここにルネッサンスがでてくるのか? それは本論が大きく依拠しているのが中井久夫氏の「西欧精神医学背景史」(1979年)であるからである。
 中井氏によれば、ルネッサンスあるいは大航海時代以前にグローバル化していたのはモンゴル帝国や中国やイスラムとその商人達であって、ヨーロッパは後進地域であった。それが逆転する契機となったのが「アメリカ大陸の発見」だった。新大陸の銀が空前の資本力を欧州にもたらすが、それは同時に社会を流動化させた。胡散臭い「ルネサンス官僚」がパトロン達に様々な勝ち抜き策を提示した。
 その提言がうまくいかないときは、それを邪魔する裏切りもの、さらには悪魔がいるからだとした。それが魔女狩りのルーツとなったと中井氏はいっている。それと同時に当時のヨーロッパ人よりはるかに豊かな知識をもっていたイスラム教徒やユダヤ人も排斥されていった。

 与那覇氏は、このルネッサンス期の混乱が目下の世界情勢に似ているという。「私だけが解決策を知っている」と自称する《有識者》が跋扈し、移民排斥やレイシズムの機運が高まって、学者や知識人が存在感を失っていく。その典型、現代における胡散臭い「ルネサンス官僚」がたとえばトランプ政権のバノン氏であるという。
 現在進行している変動の根にあり、ルネッサンス期の「アメリカ大陸の発見」に相当するものが「中国の発見」であると与那覇氏はいう。「世界の工場」でありなおかつ「世界最大の消費市場」というフロンティアの発見である。中国には前近代的な零細企業から、ファーウェイのような欧米並みのモダンな企業、さらにはもっと進んだIT産業までがすべてそろっており、中国に注文すれば、世界最安値で何でも手にはいることになった。だが、西欧では当然デフレという弊害が出現し、製造業は衰退して、あとには口先ばかりの虚業家だけが残ることになった。
 しかし、歴史をそういう大きな目で見通すマクロヒストリーは日本ではきわめて脆弱である。そのため陰謀論が跳梁跋扈することになる。
あることを予言し、その通りになれば、自分のおかげ」、ならなければ「俺のいうことをきかない国民のせい」といった知性の片鱗もない議論がまかり通っている。
 今、知性の行使がきわめて悲惨な状況に陥っていることを自覚すること、われわれはそこから出発するしかないと与那覇氏はいう。

 与那覇氏がここで参照して議論のバックボーンとした中井久夫氏の「西欧精神医学背景史」はとにかくとんでもない本である。
みすず書房版の「西欧精神医学背景史」の「あとがき」に中井氏が、「(執筆時)私は一種の物狂いの状態であったにちがいない」とあるのは掛け値なしに本当のことなのではないかと思う。
 わたくしがこの中井氏の本で一番印象に残っているが「森」と「平野」の対立という見取り図である。「森に二十歩はいれば(権力から)完全に自由であった。」
 あるいはまた西欧知識人を支配する「無垢なる少女の神話」の話。(「野ばら」「ファウスト」・・)
 つまりわれわれが知っている(あるいは親しいものとして感じている)西欧は「西欧の平野」の明るい部分だけなのであって、「森」の奥の暗い部分ではないのでないかということである。たとえば、わたくしにはハイデガーという人がどうしても平野の人とは思えない。森のひとである。
 啓蒙主義というのは典型的な平野の思想なのではないかと思うが、「浪漫主義」というのはそれでは「森の思想」であるといえるのだろうか? あるいはアポロンディオニューソスという問題。

 わたくしはポパーの信者なので、未来を予想することは不可能であると思っている。あることを予想して、それが違っていれば、その事実を受け入れて考えを修正すればいい。ポパーフロイトの思想を、あるいはマルクスの思想を、どのようなことがおきようとすべて自説が正しいとできてしまうという点で科学ではないとしている。
 マルクスの予言は間違ったし、ケインズもまた自分の孫の世代になったら経済問題などはなくなっているだろうというようなことをいっていたらしい。

 現在日本の医療供給体制の不備がさまざまに批判されているけれども、昨年のイタリアもそうだったが、これからの少子高齢化の進行に対応するために(要するに税収が先細りになる未来に備えて)、病床配置を計画してきた結果が今であり、新型コロナウイルス感染が広がることなどだれも予想をしていなかったわけだから、そして1~2年というような短時間で病床の配置を大きく変えることなど不可能なのであるから、現在、なんでこうなった、責任者をだせというようなことを言っても、意味がないのではないかと思う。
 あらゆることには対策があるはずだ、それができていないとすれば誰かの怠慢であり、その人を糾弾しなくてはいけないのだという考え方自体が問題なのだと思うけれど、それは一般的ではないらしい。
 わたくしは20歳を過ぎてからは一貫して西欧の明るい部分、啓蒙の西欧の信者であり続けてきたけれども、まさかそろそろ後期高齢者になろうとする今になって、「暗い西欧」が跋扈する時代に遭遇するだろうなどということは予想さえしていなかった。
これが一時的なものなのか、長期にわたる変化の開始期にたまたま遭遇しているのかはわからない。いずれにしても、もともと積極的に発言するとかは性に合わない人間なので、今まで通りで通すしかないのだが。

Voice 2021年2月号

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西欧精神医学背景史 【新装版】

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身内と余所者

 
 今のアメリカの騒擾を見ていると、わたくしのような団塊の世代には既視感があって、どうしても60年安保のことを思い出してしまう。その時にも、全学連を中心とした人たちは国会敷地内に入り込んだはずである(議事堂内にははいらなかった。入れなかった?)。その乱入をきっかけに、それまで学生たちの運動を心情的に応援しているようにみえたマスコミは掌を返すように「議会制度を守れ」などというようになった。

 もっと最近では68年の騒動である。学生たちは、線路に敷きつめられた石をとっては機動隊に投げていた。パリでも同じようなことがおこなわれていた。これまた、マスコミは心情的にそれを応援していた。

 両者の背景には《前衛》という思想、目覚めた少数者が世を動かしていくべきという考えがあった。(今でも、日本共産党の月刊の機関紙は「前衛」というタイトルであるはずである。)
 目覚めた学生・労働者たちは、地域のしがらみでいつも自民党に投票しているような意識の低いひとたちとは自分達は根本的に違い、深くものを考える人間なのだから、その自分達の考えや行動は当然尊重されるべきであるという思いがそこには存在してした。つまり、議会主義などというのは一向に尊重はされていなかった。

 わたくしの前半生というか2/3半生には、まだ共産主義国家というのが現実の国家として存在した。それが崩壊したのが1991年、今から約30年前である。その時には心底驚いたものである。あの軍事大国がこんなにも簡単に自壊するものだろうかと思った。自分が生きている間に地上からソヴィエト国家が消失することがあるなどとは想像さえしていなかったのである。

 いまだに中華人民共和国はあり、朝鮮民主主義人民共和国も存在し、中国共産党朝鮮労働党も存在する、しかし中華人民共和国朝鮮民主主義人民共和国がこれから日本の向かうべき方向であると考えているひとは、われわれのまわりにはまずいないように思われる。

 現在のアメリカをみると、アメリカは白人が建国した国であり、したがってこれからも白人が主導する国家であり続けなければいけないと確信している人間が非常に多数存在しているようにみえる。
 その人たちからみれば、今のアメリカの現状は根本的に間違っている、あるいは間違った方向に進もうとしているということになる。だから、その間違った方向が選挙で過半数の人間によって支持されたとしても、それが間違っていることには少しも変わりがないことになる。つまりそのような問題は根源的な問題であって、多数決などということで方向が決まるなどということはありえない。

 最近のコロナ騒動で問題になっているビジネス往来というのは実はその過半が技能研修生というような名前で呼ばれている日本の底辺の単純労働を支えている、主として東南アジアからの労働力に関することであるらしい。
 現在すでに低賃金で働く彼等の存在なしには日本の多くの産業現場あるいは農業の現場は回らなくなっているらしい。

 日本の少子化の急激な進行をみれば、これは今後それはますます急速に進行することは明白である。しかし、ほとんどの日本人はその問題から目を背けていて(たとえばビジネス往来などという美名)、正面から見ることをせず、議論しようともしない。

 むかし何かで上野千鶴子さんが、「日本は移民を受けいれるべきではない、日本人は移民への対応がきわめて苦手で稚拙であるから」といったようなことを言っているのをみて、あの上野さんがと意外に思ってことがある。

 現在は技能実習生というのは移民ではなく、ある期間日本にいてまた帰国している、しかし、そんなことでは追いつかなくなって、本格的に移民をうけいらなくてはならなくなった時、日本人はどのような態度をとるだろうか?

 すでにヨーロッパでは多くの国で、移民の労働力なしには経済がまわっていかなくなってきているらしい。

 日本がまだ遠い将来かもしれないが、移民をうけいれ、やがてそれが日本の人口の過半数をしめるようになったとき、日本人は一体、どのような反応を示すだろうか? 「日本人 ファースト!」というようなことを言い出すだろうか? その時点では、移民もまた日本人となっているはずなのだが、3代前まで日本人であった人間のみが本当の日本人! それ以外は日本人とは認めないとかいい出すのだろうか?(トランプ大統領の「アメリカ、ファースト!」というのを、多くの白人は「白人、ファースト!」ときいていると思う。)

 自分達が正しいと信じることほど恐ろしいことはない。
 かつては何が正しいかは《政治に関する理論》が決めると信じているひとがたくさんいて、それが数々の悲劇を生んできた。
 しかし最近では《思想》や《理論》の威力はめっきりと低下して、その代わりに《自分達》と《余所者》の峻別という、人間が農業を開始する以前の狩猟採集時代にすでにわれわれの遺伝子に組み込まれたと思われる行動原理が前面にでてきている。余所者が自動的に《砂かけ婆あ》(栗本慎一郎さんの用語)に見えてしまう、《自分達》と《あいつら》が峻別されてしまうという実に厄介な心理である。

 いままでわれわれは、18世紀の啓蒙思想に由来する西欧由来の価値観をなんとなく深く考えることもなく、正しいものとして受け入れてきた。たとえば、《民主主義》。
 それが問われようとしている。第一次世界大戦第二次世界大戦などの戦乱があるごとに、それはその命脈がたたれるのではないかと思われながらも、何故か現在までしぶとく生き残ってきた。
 だからわたくしも、今はいかに形勢が悪いようにみえても、それは生き残って、またいずれ思想のメイン・ストリートに戻ってくるだろうと思っている。それだけが人を人として遇することを可能にする唯一の行き方であると思うからである。
 しかし、啓蒙思想とは他者への寛容を説くものであるから、他者を否定することが主潮になっている時代においてはきわめて旗色が悪い。
 寛容は不寛容を寛容するか? というのは昔から延々と議論が続いている命題である。しかしながら、わたくしは不寛容と敢然とたたかうといった方面は生来苦手で、傍観者というのが自分の立ち位置であると思っている。
 できることは、ぼちぼちと感想を書いていくことくらいである。

 しかし、それにしても、今のアメリカでおきているような事態が、わたくしが生きている間に西欧世界でおきるとは、想像もしていなかった。
 人間というのは過去を解釈することは得意であっても、未来を予見することはいたって苦手な生き物であることを強く感じる。過去についての解釈はいくらでもできても、それは未来の予見には少しも結びつかないのである。

アメリカ南部

 現在、入院中なので、普段と違い、蔵書などを参照できない環境で書いている。それで、持ち込んだ本を読むしかない状況で、たまたま持ってきたピンカーの「人間の本性を考える 心は空白の石板か」(NHKブックス 2004年)を読んでいる。
以前読んだ時にはそれほど感じなかったのだが、いかにもインテリさんが書いた本である。この本は「人間の心は、遺伝的に決定される部分と文化的に決定される部分の複合である」ということを啓蒙しようとするものである。
 「そんなことは当たり前ではないか」と思うひとも多いかもしれないが、たとえば「男女の違いはもっぱら文化的に形成される」という考えは広く流布していて、親が子供の性別によって男の子はかくあるべし、女の子はかくあるべし、という思いで育てるから(女の子にはお人形さんを、男の子には玩具の機関車を!)現在普通にみられる男女の差が生まれるので、男女差といわれるものはもっぱら文化的な産物で、後天的に形成されるのであるという考えは広く流布しているのではないかと思う。
 あるいはこれは日本ではあまり受け入れないかもしれないが、「人間が今のようであるのは神様がそのように造ったからである」という考えは西欧ではまだまだ根強いのかもしれない。(アメリカでは「聖書の創世記を信じているものが76%いるそうである。」
 ピンカーさんはそれには明確に反対の立場なので、それで啓蒙のために本書を書いたのであろうが、何しろ最初からロック、ホッブス、ルソーである。あるいはデカルト、ライルである。
 本論の最初の10ページにそういう名前が次々に出てくるのだから、インテリさん以外はまず読み続ける意欲を失ってしまうだろうと思う。

 しかし、今回、考えてみたいのは、本書の最終第6章「種の声 五つの文学作品から」でとりあげられているマーク・トウェインの「ハックルベリ・フィンの冒険」についていわれる「『名誉の文化』が暴力を引き起こす」という部分である。ピンカーはこのトウェインの小説が「南北戦争前の南部の欠点と人間本性の欠点」を示しているのだという。
 特に「名誉の文化のなかに生まれる暴力」。それは名誉の心理から生じるもので、血縁者への忠誠、復讐の渇望、タフで勇敢だという評判を維持しようとする動因がひとまとめになった感情であり、これが増幅されやすい地域の一つがアメリカ南部である、という。
 昔、三島由紀夫の「第一の性」を読んでいたときに、《男は負けるものか、負けるものか》という原理で動いているということが動いているということが書いてあって、伊丹十三もまったく同じようなことを書いていた(「男たちよ! 女たちよ! 子供たちよ!」?)
 これをよく覚えているのは、「本当かなあ?」と思ったからで、自分はどうしてもそう思っているとは思えからである。谷沢永一「人間通」を読んだときにも同じことを感じた。「隣の蔵建ちゃ、儂腹が立つ」とか「隣の貧乏、密の味」とか、あの「紙つぶて」を書いた谷沢さんがこんなことを考えていたのかと驚いた。人間ってもう少し崇高なものではないかな、というような感じである。
 もっともわたくしは男性性が相当に乏しい人間だと思っているので、普通並みの男性度であれば、「負けるものか! 負けるものか!」というのが当然なのだろうか?
 ピンカーはこういう心理はヤノマモ族にもみられると書いているし、ゴリラなど様々な動物にもみられるとされている。しかし、アメリカ南部にも色濃くみられるという。

 今、こんなことを書いているのは、トランプ大統領の言動の背後に、また熱狂的なトランプ支持者の行動の背後に、この心理がみられるのではないかと思うからである。
 今、未読の「ハックルベリ―・・・」を取り寄せているので、読んだらまた感想を書くかもしれない。

人間通 (新潮選書)

人間通 (新潮選書)