橋本治「小林秀雄の恵み」(4)《美しい「花」がある。「花」の美しさといふ様なものはない。》

      
 第5章「じいちゃんと私」にいたって、「小林秀雄の恵み」というタイトルに意味が明らかとなる。
 橋本治は37歳のときにはじめて、小林秀雄の「本居宣長」を読む。それは「デヴィッド100コラム」という本で「『本居宣長』― 書評」というのを書くためである。これは100編のコラム(?)を収めた本で、ほかにも「『箱男』― 書評」とか「『氷点』― 書評」とかいうコラム?もあるが、別に書評集ではなくて、「スーパーのチラシ研究」とか、「『てなもんや三度笠』をもう一度」とか、もうまったく雑多な文を集めた本である。
 まず先に「『本居宣長』― 書評」というタイトルを決めて、後から「本居宣長」を読んだのだそうで、どうも小林秀雄の本をまともに読むのは始めてということであったらしい。その動機は、日本で一番難解といわれている本に挑戦する、というようなものであったようである。
 「デヴィッド100コラム」は「ロバート本」という本とペアで出版されたもので、これはその当時評判になっていた「0011 / ナポレオン・ソロ」というテレビ映画の主演俳優の名前が、ロバート・ボーンとデイヴィッド・マッカラムであったからで、それぞれの定価が1100円、二冊揃って「ナポレオン揃い」になるという、まあなんともいいようがない構想でできあがった本のようである。この「0011 / ナポレオン・ソロ」というテレビ映画、ナポレオン・ソロに扮する主演ロバート・ボーンを当て込んで構想されたのだと思うが、どういうわけか相棒のデイヴィッド・マッカラム扮するイリヤ・クリヤキンの方に人気がでてしまったというようなことであったように記憶している。日本語吹き替えは矢島正明野沢那智だったか?
 と、ここまで書いてきて変だと思ってインターネットで調べてみたら、「0011 / ナポレオン・ソロ」は1966年から1968年まで、日本テレビ系列で放送された、とあった。「ウィキペディア」に感謝!である。としたら、これは橋本治37歳のころではありえない、氏の(そしてわたくしの)二十歳くらいのころである。ということで、「当時評判になっていた」ではない。「その昔評判になった」であった。「デヴィッド100コラム」は1985年の刊行である。
 閑話休題。37歳の橋本治は「本居宣長」を読んで、『学問とはいいものだな』、『もう一度、ちゃんと学問をやってみようかな』と思ったという。これこそが「小林秀雄の恵み」なのだという。
 37歳の橋本治は、例の「大言海」が「下克上」を「此語、でもくらしいトモ解スベシ」とするのを肯定的に引用する小林秀雄を見て、『近代って、捨てたもんじゃないぞ』と思ったのだという。「下克上をデモクラシィと考えてもいいんだぞ」という思考は近代の中核であり、芸術院会員になり、文化勲章を受章した晩年になっても、それをしっかりと自分のものとしていた小林秀雄の若さと過激さを見て、「いい人」だと思った、というのである。
 世間からはとんでもない本と思われていた「桃尻娘」の作者である橋本氏は、権威である賀茂真淵から否定されも、自分はこれがいいと思う和歌を平然と詠み続ける本居宣長を肯定する小林秀雄のことが、「また学校で先生に怒られた! 友達に笑われた!」といって帰ってくる孫である私(=橋本治)を「なんだ、そんなこと気にするでねェ。昔の人はな、こういうことをしてたんだぞ」といって慰めてくれるじいちゃんのように思えたのだ、という。「ちゃんと、学問をすれば、じいちゃんが言うみたいに、自信をもってなんでもやることができるのか。学問というのは、そういう自信を与えてくれるのか」と思って、「もう一度ちゃんと学問をしてみようかな」と思ったのだ。という。
 で、その学問の例。宣長には「古今集遠鏡」という「古今集」の現代語(宣長の当時の現代語)訳があるのだそうである。「本居宣長」に引用された旋頭歌の宣長訳を示す。
 《コレハ春ニナレバ 野ヘンニマヅ一番ガケニ咲ク花デ 見テモ見テモ見アキヌ花デゴザルガ 其名ハ 何ンゾツカハサレネバ ドウモ申サレヌ タダデ申スヤウナ ヤスイ花ヂヤゴザラヌ ヘヽヘヽヘヽヘヽ》
 「古今集」の元歌は
 《春されば 野辺にまず咲く 見れどあかぬ花
  まひなしに ただ名のるべき 花の名なれや》
 である。
 訳の《ヘヽヘヽヘヽヘヽ》というとんでもない部分は、元歌の最後の「や」に対応しているのではあるが、それが「桃尻語訳枕草子」にとりかかろうとしていた自分をどれだけ力づけたことか、と。自分は、本居宣長小林秀雄という二人の大物に激励されたのだ、と。
 ところが2003年に「本居宣長」を再読した橋本治は、「じいちゃんの言うことは違ってんじゃねェかよ」と思うようになったのだという。というか、そういうじいちゃんの考えの背後にある孤独を見てしまったのだという。
 そこで《孤立》である。
 橋本治がいうのは、小林秀雄は『本来なら「近世の思想家」を「近代の思想家」として置き直して、そこに《孤立》という言葉を与えている』ということである。本居宣長をふくむ近世=江戸の思想家を、近代=昭和の思想家である小林秀雄と同じ社会での位置にいると見なしてしまうために、近世の思想家にはありえない、近代の思想家にしかありえない《孤独》や《孤立》を彼等の中にみてしまうのだ、と。
 近代という時代は「思想は受け入れられるべきであり、無視されるべきではない」という前提に立っている。しかし江戸幕府の近世は「学問の必要」を理解しなかった。とすれば近世の学問は「現実の社会体制とは関わらない、個の内面のもの」である。近世の学問は実生活とは別のところでおこなわれる。そこから、「町医者」であった本居宣長という問題がでてくる。
 小林秀雄芸術院会員で文化勲章の受章者という、江戸時代でいえば林羅山に相当する人間である。林羅山が孤立とか孤独を感じていたなどということはありえない。しかし、小林秀雄の自己認識では、自分は中江藤樹なのである。
 本居宣長にとって一番大事なのは和歌であった。自分の詠む和歌を肯定するために学問をし、それが肯定できると確信できたらば、それで終わりである。《凡ての神代の伝説は、みな実事にて》というのは自分にだけ必要なことであって、普遍的な学問として必要とされたことではなかった。宣長は自分を国学者であるなどとは思っていなかった。自分は医者であると思っていた。自分の職業は「医者」であり、「学者」は余技であり、趣味なのである。
 小林秀雄は、宣長が生業の医者であることに勤勉だったから、その思想が地に足がつくものになったというようにさかんに言いたがるが、それは近代からの見方で、江戸の町人には「医者か、無職渡世か」の選択しかなかったのである。学者などという選択肢はありえなかったのだ、と。
 しかし、小林秀雄は自分の住んでいると思う学問の世界が、本来の学問の世界のありかたであるとは思えない。自分は学問の世界で孤立していると思う。だからこそ、その自分の孤立と孤独を無理に本居宣長に重ねようとするのである。
 それでは、小林秀雄の考える学問とはどんなものだったのか、ということを探って、橋本治は「無常といふ事」の巻頭「当麻」に向かう。そして「無常という事」「平家物語」・・・を順に検討していくのであるが、どうもわたくしには橋本治の「当麻」や「無常といふ事」の読みが納得できないである。ということで、ここからしばらくは「現代国語」の演習となる。
 その手始めが、例の有名な決め台詞《美しい「花」がある。「花」の美しさといふ様なものはない》である。
 橋本治は『人はなぜ「美しい」がわかるのか』という本を書こうとしているとき、編集者から、小林秀雄に《美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない》という有名な言葉があるのですよ、と教えられたのだという。会話だから、原文の「花」の引用符はわからず、《美しい花がある。花の美しさという様なものはない》と耳できいて、変だと思った、と。それは逆で、橋本治によれば「“美しい花”などない、花の美しさだけがある」なのである。「花とは、花であるだけで美しいからこその花である」という難しいことを言う。
 橋本氏によれば、「美しい花がある」というのは、花を見て、「ああこれは花ね」と思い、「ああ花ならば美しいのね」と思う、という思考の怠惰、「花」→「美しい」という短絡、実際の物をみないで概念であたるというインテリの思考の脆弱をあらわすものなのである。花ならみんな美しいとは限らないぞ、美しくない花だってあるではないか? しかし、もし美しい花があるならば、それはそこに花の本来性が十全に顕現しているということなのであって、だからそこにあるのは「花の美しさ」なのである、というのが橋本治の論理なのである。だから小林秀雄のこの台詞をきいたときに、橋本氏が考えたのは、「この人(=小林秀雄)は、花が嫌いなんだろうな。花の名前なんか覚えるのがめんどうくさいんだろうな」であり、「日本の男って、そんなに花の名前を覚えるのが苦手なのか?」ということなのである。
 ここで橋本治がいっていること自体は、おそらく正しい。小林秀雄は、野辺の花よりもモツアルトに美しさをみるひとなのであり、わたくしなども小学校の理科以来、この花はいつ咲くでしょう、というような問題をもっとも苦手としてきた人間である。たぶん今でも名と姿が一致するのは、チューリップとバラと梅と桜と椿くらいだろうか?(恥) だから、女性と歩いていて、道端の花とも思えないような小さな花を見て、女性が「きれい!」などというと、きょとんのとん、である。そんなものを見るより、ベートーベンの「運命」とシューマンの第四交響曲の構造の類似と相違とかいったことを考えるほうがはるかに楽しいのである。
 ということで、わたくしは典型的な日本の男ということになるのだが、たぶんそういうのが、橋本治のいう『日本の知的社会にある「いやなもの」』の正体の一つなのである。モーツアルトがどうこういうくせに、目の前にある「花の美しさ」に気がつなかいって変じゃない? 大事なのはモツアルトよりも目の前のきれいな花なんじゃないの?、ということである。だから橋本治のいっていること自体は、まったくその通りであると思うのだが、しかし《美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない》の「現代国語」の読みとしては、違っているんじゃないの?、と思うのである。
 橋本治は編集者から話をきいた後になってようやく「当麻」の原文を読み、そこで、「花」が植物の花を指すのではなく、世阿弥が「花伝書」でいう美の到達目標である「花」をいっていることを知る。それならわかると橋本治はいう。「美しい美がある、美の美しさをあれこれ言うことに意味なんかない」ならばわかる、と。しかし《美しい美がある》って変ではないのと思うのである。
 その前後の原文を引用してみる。

 「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし」。美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされてゐるに過ぎない。肉体の動きに則つて観念の動きを修正するがいゝ、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深遠だから、彼はさう言つてゐるのだ。

 ここで小林秀雄が言っていることは、美とは具体的なものであり、頭で考えてわかるようなものではない、ということである。大事なのは、世阿弥がその芸の目標を「幽玄」とか「侘び」とか「寂び」とかいう抽象的な言葉ではなく、「花」という具体的なものを指す言葉で示したということである。だから「花」→「美」と還元して、「美しい美がある」なんてしてしまったら、論旨がぶちこわしになってしまうのではないかと思う。ここで小林秀雄は、この文に、世阿弥が「花」という言葉を採用したのを利用して、《美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない》=《美しい花がある。花の美しさという様なものはない》の両義をこめていて、だから「花」は世阿弥の「花」であると同時に、植物の花でもあるというアクロバットがおこなわれている。そして、世阿弥の「花」よりも植物の花の方が義が広いから、ここでの重心は、《美しい花がある。花の美しさという様なものはない》という方にかかっている。
 わたくしは昔から、これは、プラトンイデア論の否定、小林秀雄の《反=西欧宣言》あるいは《反=観念論宣言》なのだと思ってきた。だからこそ、これが小林秀雄のもっとも有名な決め台詞の一つになっているのだろうと思う。そして、「当麻」以降の小林秀雄の悪戦苦闘は、どう考えても頭の働きと切り離すことのできるはずのない言葉を使って、頭だけで物を理解する西洋近代の理性の働きの方向を否定していくという敗北必至の道を果敢に進もうとしたことによるのだろうと思う。小林秀雄のいきかたをつきつめると、「見事!」と言った後はただ沈黙しているというような路線にいきつかざるをえない。そこを強引に突破して、沈黙を言葉にしていく芸というようなものに小林秀雄は賭けたのだと思うけれども、その賭けに勝てたのかどうか、それはわからない。わたくしが思うのは、そういう方向は詩の方向ではあっても、散文の方向ではないだろうということである。「本居宣長」は散文である。学問は散文でするしかない。小林秀雄はどこかで啓示から説得へとふたたび路線を変えたのであろうと思う。
 「本居宣長」は小林秀雄畢竟の自己説得と世間説得の書であろうとした本なのだが、本居宣長は自己説得は必要としたが、世間説得は必要としなかった人で、それは本居宣長が近世の人であったからだ、というのが橋本治がいわんとすることである。それを強引に宣長を近代の人としようとしていることから、「本居宣長」という本の混乱と破綻が生じている、そう橋本治はいうわけである。
 しかし、それを論じるためには、《美しい花》にばかりこだわっているわけにはいかない、第6章「危機の時」の「当麻」全体の検討が必要となる。
 

デビッド100(ヒャッ)コラム (河出文庫)

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