堀井憲一郎「1971年の悪霊」(3)

 全共闘世代という言葉が現在でもまだ時々使われているので、全共闘運動というものについて、今の若いひとでもなにがしかのことは聞いているのではないかと思うが、「パリ五月革命」についてはどうだろうか? もっともわたくしだってひとのことは言えないので、時系列的なことはもうよくわからなくなっている。何となく日本の大学紛争(闘争)と同時期という感じをもっていた程度なのだが、本書でそれが簡明に紹介されているので、ここに抜き書きしてみる。
 1968年3月~4月 パリ郊外のパリ大学ナンテール校で、ベトナム反戦運動が盛り上がり、教室の占拠や無届けデモがおこなわれ、大学は学生大会を開かせないために5月2日ナンテール校を閉鎖した。大学に入れなくなった学生はパリ中心地のカルチェラタンにむかった。
 5月3日、カルチェラタンにあるパリ大学ソルボンヌ校での大がかりな学生集会に大学は警官隊を導入した。500人以上の学生が検挙され、ソルボンヌ校も閉鎖された。
 5月6日 それへの抗議集会。1万5千人の学生が警察と衝突、学生たちは敷石をはがし投石、市街にはバリケードも作られた。
 5月10日 2万人の学生によるデモ。警官隊は徹底的に弾圧。
 5月11日 世論が一変。新聞は政府を非難、既成の左翼政党も学生への連帯の表明。労働組合は学生と共闘するゼネストを指令。
 5月13日 あらゆる企業・工場の労働者がストライキに。フランスの社会機能が麻痺しはじめる。ソルボンヌ校の閉鎖がとかれ、学生が占拠。学生達は「大学は永久に労働者に解放される」と宣言。
 5月24日にはフランスの労働者の半数がストに参加。
 このころからドゴール政権は事態収拾に動き出す。
 5月30日 ドゴールはパリ周辺にフランス軍機甲部隊を配置。公民議会の解散と総選挙を宣言、「共産主義からフランスを救え」と演説。
 これで情勢がかわり、
 6月23日と30日の選挙でドゴール派は圧倒的な勝利。学生たちを支持した共産党と左翼連合はまれにみる敗北で議席を半減。
 これが‟五月革命”の概略であるが、とても‟革命”とはいえない。パリという都市でおきた祝祭? しかしそれでも学生の運動が社会を変えられるのではないかという気分が世界中の学生運動家を勇気づけた。
 1968年6月、日本でも「神田カルチェラタン闘争」が展開された。
 このパリ五月革命のときに、集団の先頭で投石を続けていたのはミニスカートの若い女性だったという。カルチェラタンの敷石を剥がすと砂が露出してきた。「敷石を剥がすと、そこに砂浜が」
 「立て籠っていること」だけが目的の、季節外れの文化祭。占領しつづけることだけに意味がある。かれらが変えたかったのは社会を覆う「気分」であったのであろう。
 このパリの《革命》から、「政治的な結果をもたらさなくても、行動することに意味がある」という思念が生まれ、世界に広がっていった。
 堀井氏のような下の世代から見ていると、「やたらと暴れまわって、やみくもどこかに突撃し、やがて何かに呑み込まれて、そのまま姿が見えなくなった」というのが印象である。「いつの間にか誰もいなくなっていた」そう堀井氏は述べる。
 
 日本での学生運動のピークは1968年後半あるいは1969年であるように思うので、やはり「パリ5月革命」は日本のものに少し先駆していたわけであるが、日本の運動とは異なり、ごく短期間でもある程度の広範な支持を社会からうけたわけである。しかし同時にこの社会からの支持というのもほぼ一ヶ月程度しか持たなかったわけで、社会の気分というのはきわめて気まぐれで、移り気なものであることもここにもよく示されている。
 この学生たちの運動が何を目指したものであったのかは、ごく一部の煩瑣な神学論争的左翼理論を信奉していた人たちを除けば、堀井氏のいう通り、《「立て籠っていること」だけが目的の、季節外れの文化祭。占領しつづけることだけに意味がある》というものだったのであろうと思う。橋本治氏がどこかでいっていた言葉を使えば、「子供のころの原っぱでの遊び」を大学のなかで再現することであったのではないかと思う。
「時間よ! 止まれ!」というのは「ファウスト」だったか? とにかく自分たちが遊んでいるあいだ、世界も止まっていることを彼らは求めたのだと思う。1968年ごろの日本の運動での《研究室封鎖》というのは別に自分たちに共感はしなくてもいいが、お前らが勝手に先に行くことはゆるさない。お前たちもここで停滞していろ!ということだったのではないかと思う。つまり、いずれ自分たちの運動が終焉するという未来を予想していて、その時に自分たちと同じところからお前らも再出発せよ! ということだったのはないかと思う。
 今の若い方々に「立看」という言葉が通じるのかどうか解らないが(今、パソコンで「たてかん」は「立看」へとは変換しなかった)、「神田カルチェラタン闘争」などという言葉を聞くとまず思い出すのが「立看」である。通学路が御茶ノ水だったので明治大学周辺に「立看」が林立していた情景をよく覚えている。ヘルメットと覆面と立看。とにかく日本の学生運動というのがパリのそれとは違っておしゃれでなかったことだけは確かである。
 パリでの学生達の反乱、あるいは日本での学生達の反乱、それをおこしたものは何だったのだろう? 本書にも書かれているが当時現在進行形であったベトナム戦争というもの影響が大きかったのだろうと思う。これはわれわれの歴史の中で最後の?正義と不正義の戦い(あるいは善と悪との闘い)であったのである。腐敗しきっている南ベトナム傀儡政権ではあるが、それでも東南アジアの国々が次々と東側へとドミノ倒しされていくことを防ぐためにはそれを何とか支えなければと、ひたすら物量を投入し続けるアメリカ軍と、それに対抗している碌な武器も持たないベトナムの農民兵たち、という構図。不思議なことに義のあるベトコンの兵士たちは、義のないアメリカ軍の近代兵器に打ち勝っている。一方、北ベトナムのトップのホーチミンは慈父のような聖者であって皆の尊敬を一身に集めている・・。当時、東西の対立がまだあり、東側が正で西側が邪であるという図式が通用した最後がベトナム戦争なのであったと思う。実際にはベトコンと呼ばれたものの相当部分は北ベトナム正規軍であり、東側のプロパガンダに西側が踊らされていたという要因が大きかったようであるが(日本にも「ベトナムに平和を!市民連合」というのができた)、当時はその神話がまだかなりの程度に流通していて、西側に生きる人々は反=正義の側にいるという罪悪感があり、若者たちも自分がまた悪の体制のなかにこれからはいっていくというような負い目を感じていたので、とにかくそこにはいっていくことを拒否する、少なくともそれを少しでも先送りすることというのが運動の目標にされたということは、論理的には筋が通っている。だから堀井氏がいう《「立て籠っていること」だけが目的の、季節外れの文化祭。占領しつづけることだけに意味がある》というのも整合性があるのかもしれない。
極論すれば、子供はまだ穢れていないがすべての大人は汚れている。自分は大人にはなりたくない! というのが一番の根っこにある感情だったのかもしれない。
 もちろん、東側だって決して問題なしと思われていたわけではない。ソ連スターリン批判で味噌をつけていたが(日本の日本共産党の下部組織ではない学生運動組織はスターリン批判から生まれたのだと思うし、68年頃の日本の学生運動の一部は「反帝反スタ」を標榜していた)、当時はまだ永久革命をめざす毛沢東がいる!ということになっていた。それがあっという間に東側が崩壊してしまい、正義とか不正義とかいう青臭い論議はどこかにとんでいって、今度は金儲けがすべてということになってしまった。
 東側が崩壊し、東西対立がなくなってしまった現在、1968年前後の日本での学生達の反乱、パリでの騒動をおこしたもととなる心情というのは理解不能なものとなってしまっている。そして東側がまだあった時代に、東側にありながらソ連を批判するという特異な立ち位置にあった当時の中国で進行していた毛沢東文化大革命について、堀井氏が「毛沢東文化大革命」を支持していたころ」で論じているので、それについては稿をあらためて考えてみたい。
 

1971年の悪霊 (角川新書)

1971年の悪霊 (角川新書)

堀井憲一郎「1971年の悪霊」(2)

 第3章は「1971年、高橋和巳が死んだ5月」と題されている。わたくしは高橋和巳の著書を一冊も読んでいないので、本来、ここを論ずる資格がないのだが、大学時代の友人に高橋和巳信者がいたので、高橋のことをいろいろときかさせてもらっていて、それなりの知識を持っているという微妙な立場である。
 堀井氏も書いているように高橋和巳は現在ではほとんど忘れられた作家、読まれることのない作家となっているが、それは高橋氏が小説家でありながら、本当の小説好きではなく、小説というものを自分の思念を示すための手段としてのみ考えていたことによるのではないかと思う。小説というのは本来、人間に対する興味、その人間たちが織りなす物語への関心から発するものであるはずだが、高橋氏はそのどちらも欠いていたのではないかと思う。とすれば、小説読み・小説好きからは敬遠されるはずで、高橋氏を動かしていた情念のようなものが共感を呼ばないようになれば、読者もいなくなってしまう。
 堀井氏は高橋和巳が読まれなくなったのはポップカルチャーに負けたのだという。ネアカとネクラ、マルキンマルビの二項対立に負けたのだという。そしてこのポップカルチャーは「明治以来の頑固な社会精神」を叩き壊す文化大革命だったのではないかともいう。ボディコン&ジュリアナ東京ポップカルチャーが吹き飛ばしたものは大きい、軽さの文化が重厚な自己犠牲文化を粉砕したのだ、と。
 バブルのころに日本は明治以来の重厚長大の路線と決別した。自己犠牲の文化にも分かれを告げた。そして高橋和巳の文学は根底に自己犠牲をおくものだった。それはストイックが美学とされた時代の文学だった。高橋の文学は「生真面目さ」の文学である。それゆえに「苦悩教の教祖」とも呼ばれた。
 三島由紀夫高橋和巳はそれぞれ70年11月と71年5月と時期を接して死んでいるのだが、その二人の安田城落城の後での対談を書評誌か何かで読んだ記憶がある。二人は異口同音に、安田講堂に閉じこもった運動家たちの(少なくともその一部は)死ぬ気なのだと思っていたということを言っていた。誰も死ななかったことに驚いた、と。
 実はわたくしもそう思っていた一人で、同じ感想を持った。わたくしは活動家たちは、いろいろなことを言ってはいるがそれを信じているわけではなくて、どういうわけかたまたま出現してしまった祝祭空間をいかにして少しでも長く保持していくかということだけが目的で行動しているのであり、そうであれば提示されるあらゆる解決策の提案はすべて即拒否であり、祝祭空間が否定されることがあるとすれば、それが物理的に粉砕された場合だけということになる。
 世間を相手に壮大な芝居を打って大いに楽しませてもらった落とし前をどうつけるかといえば、死ぬしかないのではないか、わたくしはそう思っていた。そうだとすれば、わたくしのほうが「明治以来の社会精神」に囚われていたのであり、籠城した戦士たちは、すでに時間を先取りして、安田城をジュリアナ東京にして、ボディコンのかわりに覆面とヘルメットで踊っていたのかもしれない。
 こういう見方はあまりにひねくれた見方であるのかもしれない。しかし、1968年前後の運動の根に一種のニヒリズムのようなものがあったのであり、そのニヒリズムが大衆化するとジュリアナ東京(これも刹那主義の一種?)になるのではないかという見方もまったく成立しないさけでもないという気がする。
 堀井氏は一方では民主党政権は1970年前後にあった空気が再現したものであるというし、他方ではボディコン&ジュリアナ東京ポップカルチャーがそれ以前の日本とそれ以後の日本を分ける画期となったという。これは一見すると矛盾した見解である。
 それで補助線を一本引いてみる。1968年以降、男の文化は変わっていない。しかし、ジュリアナ東京をきっかけに女の文化は変わった。変わったのだが、それは私的な生活という面においてである。公的な面(もっといえば政治の面)においてはあいかわらずなのである、そう仮定してみる。
 1968年の運動は男たちのものだった。もちろん、そこに参加した女性もいたであろうが、その役割は相変わらずのハウスキーパーだった。柴田翔氏の「されどわれらが日々ー」(1964年)は1968年よりはるか以前の六全協時代の共産党を舞台にしているが、そこに描かれた男女関係の古めかしさというのは驚くべきものである。
 一方、バブルの頃にはアッシー君、ミツグ君などという言葉があった。アッシー君は女性の運転手をする(させられる)ひと、ミツグ君は彼女に貢がされるひとのことだったのではないかと思う。このあたりの話は堀井氏の「愛と狂瀾のメリークリスマス」でも論じられている(一部は「若者殺しの時代」の第2章「1983年のクリスマス」でも)。何しろ男は一所懸命アルバイトをしたりしてお金をためて、クリスマスには彼女にそれなりの贈り物をして、高級ホテルをあらかじめ予約しておいて(一年前から予約が必要)、そこに泊まることができないようでは男でないとされていたのである。ティファニーの「オープンハートのペンダント」とかいうのが流行っていて、12月のティファニーは朝の通勤電車なみの雑踏だった。
 「クリスマスの朝はルームサービスで」というのは1983年の「アンアン」クリスマス特集号での惹句らしい。私的生活というか男女関係というか恋愛方面においては完全に女性が主導権を握ったわけである。もっとも三島由紀夫にいわせると、女は愛する存在で、男は愛される存在なのであり「男は愛については専門家ではなく、概して盲目で、バカである」のだそうだから、以前からの変わらぬ真実であったものが、この頃になって公然としてきたというだけのことだけなのかもしれない。
 堀井氏も高橋和巳の世界は「女性を描かない、恋愛が存在しない世界である」といっている。それを堀井氏はストイックというのだが、わたくしにはただその方面に鈍感であっただけとしか思えない。
 高橋氏が若くして亡くなった後、後に小説を書くようになる奥さんの高橋たか子氏は「高橋和巳の思い出」という本を出している。そこでたか子氏は和巳氏のことを「自閉症の狂人」だったと書いている。何しろ「俺は将来の大作家だ」などと嘯いて、一切働かず、もっぱらたか子夫人が稼いで何とか暮らしていたというのである。一般的言い方ではヒモである。とにかくこの本では、和巳氏のことをぼろくそに書くわけで、三島由紀夫流にいえば、「英雄の心事は女房にはわらぬ」ということなのかもしれないが、女房から見ればすべての夫はただの人なわけである。
 日本の歴史においては概して女性の地位は高かったのだそうであるが、その例外が江戸時代で、明治以降もその系譜をひいていたのだが、それがバブルの頃に崩れ出したのかもしれない。しかしそれは私的世界での話であって、公的世界はあいかわらず男性世界のままであって、その世界においては高橋和巳は英雄でいられるわけである。
 三島由紀夫によると、男の世界は英雄ごっこの世界で、原初はつまらぬ肉体の領域での競争がたちまち精神の世界にまでひろがってゆき、政治・経済・思想・芸術すべてがその英雄ごっこに端を発するのだという。「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての光栄のもと、ということになる。その観点から見れば高橋和巳はまごうことなく英雄となる資格がある。
 何となくそう思われているのとは対照的に 本当は、男のほうこそがロマンティックなのであり、女のほうが現実的である。あるいはセンチメンタリズムこそが男の根本にある(三島由紀夫)のであり、「ナチスがあれだけ成功したのは、ドイツ人のセンチメンタリズムに火をつけたから」(同)ということになると、堀井氏が高橋和巳に低い評価をあたえるもとになっている氏のさまざまな欠点や欠落も必ずしも欠点とも欠落ともいえないこともなるのかもしれないことになる。
 おそらく堀井氏は人生のある時点でロマンチシズムを捨てたのであり、本書はその考証の書という側面を持つ。そして本書の主張によれば、多くの日本人もまたどこかでロマンチシズムを捨てたのだが、それを捨てきれないひとが一部にいて、あるいは捨てたと思っているひとの中にも捨てきれずに残っているものがあって、それが時々火をふいて亡霊が蘇ることがある、それが最近のさまざまなおかしな出来事の原因となっているということになる。
 本章に続く、ウッドストックとかローリングストーンズといったものを素材にそれが論じられていくのだが、それらの話題はわたくしのまったく知らない領域の話であるのでそれらはパスして、次にはパリ五月革命の話題をみていくことにしたいと思う。
 

1971年の悪霊 (角川新書)

1971年の悪霊 (角川新書)

されどわれらが日々ー (1964年)

されどわれらが日々ー (1964年)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

高橋和巳の思い出 (1977年)

高橋和巳の思い出 (1977年)

第一の性 (1973年)

第一の性 (1973年)

堀井憲一郎「1971年の悪霊」(1)

 堀井氏の名前を最初に知ったのは、どこかの週刊誌(週刊新潮?)で連載していた「ホリイのずんずん調査」?というコラムでだったと思う。何かの話題について私見を述べるのではなく、とにかく調査してみるという姿勢のユニークなコラムだった。
 堀井氏の書くものには二つの系列があって、一つは落語についてのもので、もう一つが時事的な問題を論じたものである。落語についてはわたくしはまったくの門外漢なので特に述べるべきものを持たないが、後者の「若者殺しの時代」とか「やさしさをまとった殲滅の時代」などは、少し人生の先輩として若者たちに時代にだまされるなと呼びかけるような方向の本で、「若者殺しの時代」の末尾「すきあらば、逃げろ。一緒に沈むな。/ うまく、逃げてくれ。」という言葉はよく覚えている。
 本書はそれらとも少し違って、自分の生きてきた時代について語ったものである。堀井氏は1958年生まれであるから、わたくしのほぼ10歳年下である。タイトルの1971年というのは別に1971年でなくてもよくて、1968年でも1972年でもかまわないわけであるが、要するに1970年前後に日本において生まれたある気分がまだ現在の日本を覆っているのではないかというようなことを述べたものである。1970年に堀井氏は中学にはいったばかりということになる。
 第1章「1971年、京都の高校で紛争があった夏」は、1971年に京都のある高校で、期末試験粉砕のために生徒たちが教務室を封鎖し、期末試験は延期されたが、機動隊が導入され封鎖に参加した生徒たちが逮捕されるということがあったことが述べられ、堀井氏はその2年後の1973年にその高校に入学したことが述べられる。その事件をきっかけにその高校は「民主化」され、京都大学入学を目指す受験校であったその高校で、中間テストが廃止され、成績表が5段階評価から絶対評価に変更され、制服がなくなり、生徒が自分でテーマを選び研究するというゼミ制度のある「自由で革新的な」、生徒の自主性が尊重される高校になっていたのだが、その紛争の当事者ではない堀井氏は、ちょっと変わった高校だな、でも居心地は悪くないなと思っただけだった。
 1971年にはまだ世間は学生運動に好意的だった。それが1972年の浅間山荘事件で空気が変わり、学生運動への好意的見方は失われた。しかし1973年に高校にはいった堀井氏は、1971年の出来事の恩恵をうけて自由でのんきな高校生活を送ることができた。しかし、それは1971年の理念を受け継いだからではなく、ただそこにあるものとしての自由を享受しただけである。パリコミューンからちょうど100年の後に日本のある地方の高校でおきたささやかな左翼運動の勝利。
 「はじめに」は「白く冷たかった2009年の夏」と題されている。麻生太郎内閣は漢字の読み違いで追い込まれ?総選挙となり、民主党が政権を担当することになった。そこには無意味な明るさがあった。まるで昭和16年を思わせるような。そこにあるのは自民党でないなら、何でもいい、というだけの気分だった。堀井氏は1968年に盛り上がり1972年ごろに鎮静化していったある気分が、そこでふたたび帰って来たように思ったという。2009年からの民主党政権は、「理想に満ちているが、運営力がない学生運動気分」という1970年の思念の再現だったのではないか、と。
 この前とりあげた富田武氏の「歴史としての東大闘争」は、1968年の気分のまま、そのままずっと生きてきているひとの記録として読めるのではないかと思ったが、そのような気分というのは一部のマスコミにはいまだに生きていて(典型的なのが朝日新聞?)、確かに2009年の民主党への政権交代時の朝日新聞の高揚というのだろうか、躁状態というのはいささか常軌を逸したものだった。
 堀井氏はそのような気分というものの典型を例えばフォークソングというものに見る。それで第2章は「1971年、岡林信康が消えた夏」と題される。「若者たち」(1966)、「今日の日はさようなら」(1967)、「戦争は知らない」(1968)、「友よ」(1968)、「青年は荒野をめざす」(1968)、「風」(1969)・・。堀井氏は中学生のころフォークソングに感じたものは政治的なメッセージとか社会的メッセージではなく、「切なさ」であったという。これはアメリカから輸入されたもので、たとえばピーター・ポール&マリー。その曲のなかには「異議申し立て」「反戦」のメッセージが込められた歌もあったが、その基本はやはり切なさであったのではないか、と。
 さて、1968年になり土俗的なフォークソング関西フォーク)がでてくる。その象徴が岡林信康。フォークの神様とも呼ばれた。しかし岡林がプロテストソングを歌っていたのは1968年と69年の2年だけ。1971年からは吉田拓郎井上陽水の時代になってゆく。岡林は「なんや、いまの社会はおかしいんと違うか」という疑念を歌った。「みんなももっと歌いださなあかんとおもいますし、黙ってることはないとおもうんです・・」 抗議するとか、社会運動をしようという以前に、今の気持ちを言葉にしようという呼びかけであり、別に暴力革命などは想定してはいない。しかし運動家たちは岡林を自分のため仲間だと思った。
 1969年ごろ、新宿西口広場で毎週開かれていたフォークを歌うフォークゲリラと呼ばれた集会があった。これはフォークを歌うことが目的であったのではなく、たとえば「ベトナム戦争反対」が目的だった。
 「友よ」は「今はつらいだろうが、耐えれば、やがていいこともあるさ」という歌であり、負けた、でも進め、という歌である。当時の反体制運動にもそういう気分が流れていた。「負けるとわかっているけど闘っている。」「勝てないことはわかっている。それでも何かしないといられない」という気分。当時人気であった東映やくざ映画ともシンクロする気分。「とめてくれるな、おっかさん。背中の銀杏が泣いている。男東大どこへゆく」 
 1971年、岡林信康は失踪する。フォークコンサートの後におこなわれるようになった討論会にもつきあわされることに耐えられなくなったからだという。金儲けのために歌うなどというのは言語道断、より大事なのはみなの意識を高めることである・・。小さな反抗から社会を変えられるとみな信じていた。大人の世界とはまったく違う若者の世界があるとみな信じようとしていた。
 1971年の中津川フォークジャンボリーではついにコンサートが中止され、朝まで「ティーチイン」が続いた。それをきっかけにフォークは岡林信康の時代から吉田拓郎の時代へと転換していった。プロテストソングからラブソングへ。闘争時代は終わり、同棲時代がはじまった。
 「歴史としての東大闘争」でも、「当時、時代の気分を表したフォークソングが流行した」とあり、ボブ・デイランの「風に吹かれて」やジョーン・バエズの「花はどこへ行った」がヒットしたと書かれているし、また著者のふた回り下の奥さんはアルフィーの熱烈なファンなのであるとも書かれている。
 
 わたくしは中学1・2年のころにクラシック音楽のほうに逸れてしまったので、ここに書かれているフォークとかもあまりリアルタイムな経験としては聴いていない。それでももちろん、「友よ」とか「青年は荒野をめざす」とか「風」とかは知っていた(アルフィーはまったく知らない)。しかし「友よ」を岡林信康が歌っているのを聴いたか否か記憶が定かではなかったので、検索してみると、you tube というのは便利で、すぐに岡林歌唱の「友よ」がでてきた。実に優しい声の優しい歌である。戦闘的とかいった雰囲気は一切ない。そしてyou tube にはいくつかのヴァージョンがあるなかで、歌に被って「安田城落城シーン」がずっと流れるものもあった。少なくとも1968年当時の学生運動家の一部にはこの歌の心情をバックボーンとしていたものがあったということなのであろう。
 では、中学から高校にかけてわたくしがどのような音楽を聴いていたのかといえば、ベートーベンの「悲愴」とか「熱情」とか「テンペスト」といったもので、反抗的気分というか、鬱積した何か、要するに「ロマン主義」に通じる何かである。そして困ったことに大学に入るまでには、小林秀雄の「モツアルト」などというのもすでに読んでいて、ロマン主義を否定する、あるいは惑溺したロマン主義を否定する視点もまた知っていた。小林秀雄ランボーから出発した人なので、「モツアルト」には若気の至りのランボー路線の否定あるいは懺悔の書という趣が大いにあると思うが、それでもロマン主義を全否定はせずにその精髄は残すというような曲芸を試みたものだったのだろうと思う。
 そして当時の学生運動に参加したひとのなかには、フォークソングではなく、小林秀雄ランボー路線からそこに参加したひともある程度はいたのではないかと思う。
 とすれば問題はもっと広く何らかのロマン主義的心情ということになる。ロマン主義は先進した英仏に対する後進ドイツのルサンチマンから生まれたもので、要するに物質では負けても精神で勝つという路線である。ドストエフスキーロシア正教もその流れ。あるいは昭和16年の日本もまたその驥尾に付していた。
 それでは、1968年の学生たちの運動もまたその流れの中にあったのか?
 橋本治は「ぼくたちの近代史」で、全共闘って、一言でいうと、あれは「大人は判ってくれない」ですよね、と言っている。「大人は判ってくれない」と言っていた彼らは、何を判ってもらいたかったんだろうかというと、「‟大人は判ってくれない”と言って僕達がドタドタ叫んでいる、その事を判って欲しい!」って風に言っていた、ということになる。
 富田武氏の「歴史としての東大闘争」には、こまかい経緯がいろいろと書かれているが、加藤執行部との間の10項目確認書などというのは、子供たちが騒いでいたら大人がでてきたというようなものであったのだろうと思う。ごく一部の「ぴんの頭に天使が何人とまれるか?」に類した煩瑣な議論に意味を見出していた人たちを除けば、全共闘運動に何らかの反抗的気分から参加していた人たちは、そこに出現したある祝祭的空間に子供のころ遊んだ原っぱが再現されるのを見て、それが少しでも長く続くことだけを望んだのだろうと思う。大学での講義などというのは少しも面白くない。そこでは自分たちは主人公ではない。しかし、原っぱでは自分たちが主人公である。大学を出て社会人になった未来の自分を想像しても、そこにあるのは大学の講義をきいている自分と同じの何かの一員としての、ただの一つの駒としての自分である。そうであるなら今の原っぱでの遊びをできるだけ長く続けたい。しかしそれは所詮モラトリアムであることもわかっている。しかし、自分からそれをやめることはできない、誰かがそれを潰しに来てくれない限りはそれを止めることができない。
 第1章で描かれた高校紛争の話からすぐに連想したのが村上龍の「69」である。1969年に佐世保の高校をバリケード封鎖をする話で、その動機は女の子の気をひくためというとんでもないまったく非政治的動機なのであるが、おそらく「昭和歌謡大全集」とともに村上龍の小説のなかでもっとも楽しい小説である。愚かさも含めた若さを描いたものとして出色だと思う。ちょっと「坊ちゃん」をも想起させる。村上氏の作で同じ学生の反乱(こちらは中学生だが)を描いていても「希望の国エクソダス」の学生(生徒)たちにはまったく魅力がない。ツルンとしていて、若くなく、愚かでもない。「坊ちゃん」もそうであるが、「69」も「正しい」けれども「負ける」というところで物語のバランスがとれている(あるいはわたくしはほとんど観たことがないけれども東映やくざ映画もそうなのだろうと思う)。
 さて、2009年の民主党政権の成立もまたこの流れの一環として説明できるのだろうか? 鳩山由紀夫菅直人という二人の首相が子供じみたひとたちであったことは確かであろうと思う。鳩山氏の最初の施政方針演説の青臭さにびっくりしたのを覚えている。例の「命を守りたい・・」とかいうものである。文才のない文学青年の戯言のようなもので、政治ということには何のかかわりもないものだった。わたくしは市民運動家というのは人前で偉そうな顔をしたいのだけが動機の人間であると思って一切信用していないので、菅氏もその経歴のはじめからただただ嫌な奴と思っていたが、そういうひとを支持し持ち上げるひとが少なからずいてついには宰相にまでなってしまったということがただただ驚きであった。トランプさんがアメリカの大統領になったことも驚きだが、まだトランプさんはその経歴のなかで政治とかかわりがないとは言えないような経験はしているのだろうと思う。しかし、鳩山・菅両氏ともに政治よりも反=政治のような方向で生きてきていた人間であると思うので、2009年の民主党政権というのはとても不思議なものであったと思う。
 堀井氏は、この民主党政権は「理想には満ちているが、運営力が劣る学生運動気分」ととても似ているがゆえに困ったものだと感じていたという。
 「理想には満ちているが、運営力が劣る学生運動気分」を遡っていくと、その始原がフランス革命にまでいたるのか? それが難しいところである。本書の後のほうでは1968年のパリ五月革命も論じられている。
 フォークソングの話の後では、一転して硬派の高橋和巳が論じられることになる。それは稿をあらためて。

1971年の悪霊 (角川新書)

1971年の悪霊 (角川新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

歴史としての東大闘争  (ちくま新書)

歴史としての東大闘争  (ちくま新書)

ぼくたちの近代史 (河出文庫)

ぼくたちの近代史 (河出文庫)

69 sixty nine (文春文庫)

69 sixty nine (文春文庫)

富田武「歴史としての東大闘争 - ぼくたちが闘ったわけ」

 東大医学部の同窓会である鉄門倶楽部の同窓会誌「鉄門だより」では、最近の何号か「東大紛争」についての特集というか、それについてのさまざまなひとの寄稿がのせられている。このことについて論じるときにまず直面する厄介な問題があつかう対象を東大闘争と表記するか東大紛争と表記するかということで、そこからすでにそのことに対する論者の姿勢が問われることになる。
 「鉄門だより」がそれを東大紛争と表記しているのも考えさせるものがあるが、そのような特集を組んだのは、「東大紛争」から50年という時間がたったということによるらしい。本書もまた大学闘争から50年ということがあって書かれたものということのようである。
 著者は東大闘争と表記する時点で当然ある立場をとっているわけであるが、正直、本書を読んでなにを主張しようとしてこれを書いたのかが少しも理解できなかった。ということで以下に書くことは悪口ばかりになると思う。悪口を書くなどというのは非生産的な行為で、それくらいなら書かないほうがいいわけであるが、以下に書くことは著者への批判というより著者もふくむ全共闘運動にかかわった人々の一部にみられるある傾向が本書にきわめて顕著に表れているように思えるので、それについて考えてみたいということである。その「ある傾向」というのは、著しい自己への批評の欠如(全共闘世代の用語でいえば自己批判の欠如)であって、本書を通じて著者がいっていることは、今まで自分がしてきたことは、どの時点においても間違っていなかったということだけのように思える。そのようなことのためだけに一冊の本を書くというのは、書物の公共性に反すると思う。自分はこう考えるが読者はどう思うだろうか?、と問うのが著書を表すことの意味であって、自分は常に正しかったという趣旨の本に対して読者がそんなことはないぞという批評を返したところで、著者はそれはあなたの読み方が悪いと返してくるだけである。一言でいえば、本書は開かれていない。自閉している。
 本書は「はじめに」「1.東大闘争の経過と思想的意味」「2.反戦運動と生き方の模索―闘争前の東大キャンパス」「3.ノンセクト・ラディカリズム論-共感と批判を込めて」「4.その後の運動とソ連崩壊―「新しい社会運動」か」「5.大学闘争はいかに研究されたか」「おわりに」の7つの部分からなる。
 1.は10年前に書いた論文で、「我ながらよくできている」のだそうであるが、それが客観的叙述に徹しているので、そこに同時期の著者の日記の一部と著者の母の短歌、著者の「卒業試験受験拒否宣言」などを付加して、リアリティを増そうとしたのだという。2.は東大闘争がヴェトナム反戦運動などとも連携したものであったことを示すためのもので、ここでも著者の日記なども援用される。3.はアカデミーに「転進」した1971年の「再びアカデミズムの門に立ちて―私にとって東大闘争とは何であったか」をもとにしたものだそうである。4.は1970~90年代に著者がかかわった社会運動を紹介しながら、新左翼運動や共産党の動向を分析したもの、ということである。5.は東大闘争がどのように論じられてきたか、であるが、後半は自説の展開である。「おわりに」に本書の副題である「ぼくたちが闘ったわけ」が著者のふた回り下の奥さんの提案であることが書かれていて、その奥さんと二人で安田講堂の前で撮った写真までが収められている。
 ひとことでいえば「甘ったれるな!」という感じである。70歳を過ぎたおじさんが、例え奥さんの提言であるとしても「ぼくたち」などと書いて平気である神経がそもそも理解の外である。母親の短歌とか著者の奥さんの写真とか、奥さんがアルフィーのファンであるとか、著者が卒業試験を受けるのを拒否したとか、それでも結局研究室に戻ったとかいうことは、読者にとってはすべてどうでもいい話であって、今から50年前に東大闘争(紛争)がおきたことについて何かを考えていくということとはなんのかかわりもない。
 それでもこういう本が書かれたわけである。そして読者の印象としては、本書は徹底して著者の自己弁明のための書、著者はどの時点においても間違ってはいなかったということを主張したいだけのものと、どうしても思えてしまう。政治の運動というのは実効性がすべてであって、良き意図のもとに悪しき結果がもたらされたというようなことは少しも弁明にはならない。
 第4章では、1970年代は中国がヴェトナムに侵攻するなど「社会主義」にあるまじき時代だったが、1980年代はポーランドの「連帯」が社会主義改革に希望を抱かせた時代で、ゴルバチョフペレストロイカなどがでてきた。しかし、90年代のソ連の崩壊で不安の時代になったという一筆書きの展望が示されるが、そういう歴史の中でマルクス主義共産主義社会主義をどう考えたのか、今ではどう考えているのかということについては一切の言及がないままに、著者がいろいろな社会運動にどうかかわったかが論じられる。保安処分とか優生保護法とかにかかわったことが簡単に述べられた後、今度は新左翼運動の内部の離合集散が詳細に述べられる。
 書名にもかかわらず、「東大闘争」について書かれているのは、第一章のみで、第2章はその前史、第3章は東大闘争が当時のアカデミズムを批判した運動であったにもかかわらず、その後、著者がアカデミーの世界に戻ったことの弁明、第4章がアカデミー復帰前後に著者がかかわった社会運動の紹介、第5章が東大闘争がどのように論じられてきたか、なのである。
 世の中のすべてのことがそうなのかも知れないが、東大闘争(東大紛争)もまた偶然に大きく左右されたはずで、私見によれば、68年6月の全共闘派による安田講堂封鎖に対する大学当局による機動隊導入がなければ、その後の展開は大きく違っていたのではないかと思う。つまり大学というのは国家権力から独立した牧歌的なところであるというような思い込みが当時の学生たちには広範にあって、それで大学構内に機動隊員の姿を多数見る事態になって、邪悪なる国家権力(その象徴としての機動隊員)がきわめて具体的なかたちであらわれることになり、それによって、それに対峙する学生たちも、自動的に聖なるものに昇華し、国家権力の手先である機動隊対無垢なる学生たちという構図が出来上がってしまって、闘争(紛争)が長期化することになったのではないかと思う。もちろん、それ以前に誤認処分を撤回してしまうという行き方があったはずであるが、これをすると、学生側からは誤認処分をした責任者の処分要求が出てくるのは必至であると思われ、踏み切れなかったのであろう。大学を構成するものは自分たち教職者であって、一過性にそこを通りすぎていくだけの学生では断じてないという意識が学生は切り捨ててでも身内をかばうという行動をとらせたのであろう。
 本書にもあるように、東大闘争の発端が、医学部の卒後研修のありかたをめぐる対立にあったことは事実であるが、68年の数年前から毎年3学期になると医学部ではとストライキと称するものが行われていて、68年もまたそれが行われていた。例年は新しい年度になると解除されていたのだが、68年には誤認処分ということがあって、学生側もストライキ解除をできずにいた。しかし内部にいた人間の感じとしては、多くの学生たちにはいつまでも授業がはじまらないことに嫌気がさしてきていて、もうそろそろストライキは解除でいいのでは、という気分が強くなってきていたように思う。しかしストライキを主導する一部のひとたちは、このストライキが単なる医局制度の問題についてのものではなく、米帝国主義のアジア侵略に反対する運動の一部としておこなわれている(米帝国主義のアジア侵略を確実なものにするためには無給医局員制度の存続が必須であるといったような、風がふけば桶屋がもうかる式の難解な論がいろいろと展開されていた)ということを主張していたのだが、多くの学生たちに厭戦気分が蔓延するようになって孤立しはじめていて、何ら展望があったわけではないが、一か八かで安田講堂占拠という行動にでたところ、教授会側が即、機動隊導入ということに踏み切ってくれたことによって、それで問題が医局制度の問題から、大学の自治、あるいは権力対反権力といったはるかに抽象的な問題に拡大していって、収拾への展望が見えなくなっていったということなのではないかと感じる。
 そして、著者のいうように(p60)一時的にせよ、多くの大学で運動が燃え盛っていった根っこには当時進行していたベトナム戦争の問題が深くかかわっていたことは間違いないと思う。著者は本書では淡々とヴェトナム戦争の経過を略述するだけであるが、少なくとも日本においては当時これは善と悪との闘い、善であるベトコン(南ベトナム民族解放戦線)と悪であるアメリカ軍との闘いといった図式で捉えられていて、ほとんどまともな兵器をもたないゲリラ兵(ホーチミン・サンダルを履いた!)が強大な装備を持つアメリカ正規軍と互角の戦いをし、ついには義のないアメリカは義のあるベトコンとの闘いに敗れていくというような大きな見取り図のもとに見られていたのではないかと思う。
 つまり当時はまだ明白に東西の冷戦というものがあり、ベトナムでの戦争は東西の対立の象徴であり、ベトナムの民族戦線が正義の側であると見られていたということがあり、つまり、東西の冷戦においても義は東側にあり、西側はその義の前に劣勢にたたされており、いずれ世界は東側に呑み込まれていくというような見方がかなり多くのひとから真面目に受け取られていたということがある。(ドミノ理論というのも当時あった。)
 1968年の時点で、1991年というわずか二十数年後にソ連という国が地上から消滅するであろうなどということをいうひとが当時いても誰もまともにとりあげなかったであろうと思う。
 そして大学闘争というのも、運動を指導している人たちにとっては疑似的あるいは模擬的にミニ・ヴェトナム戦争とでもいうべきものを日本において作り出そうという試みという側面が大きかったのではないかと思う。そうであれば、単なる無給医局員の待遇といった次元から大きく飛躍した視点を持ち込む必要があるわけで、現在の日本において大学で学問をする意味あるいは研究をする意義といった抽象論がすぐに要請されてくる。しかしそのような議論を多くの学生・研究者に切実なものと思わせるのはどう考えても無理であって、それで行き詰っていたところに、機動隊が導入されるという天祐がおき、いきなり機動隊という疑似アメリカ軍が眼前に出現することになって、あっけなく疑似ヴェトナム戦争状態が現前されることになったということなのではないかと思う。それによって、一時的にであれ運動が一気に盛り上がった。
 しかし、ヴェトナム戦争の頃が東側の攻勢の頂点で、ヴェトナム統一後の大量の難民(ボート・ピープル)の出現・・なぜ圧制から解放された人々が命からがら身一つで逃げ出さなければならなかったのか?、カンボジアポルポト政権の蛮行・・インテリが社会主義というものを生真面目にうけとることによって生じる悲劇であり、その最大のものは文化大革命であったのであろうが、当時はまだ文化大革命の実態はほとんど外部には明らかになっていなかった・・、中国のヴェトナムへの侵攻といった(著者のいう「社会主義」にあるべからざる)事態が次々におきて東側の威光が急速に陰っていった。それと並行して学生たちの運動も急速に弱まっていったということなのではないだろうか?
 そうであるならば、本書において著者が書かなければならない第一のことは、社会主義マルクス主義)についてあるいはソ連の崩壊についての著者の見解であるはずなのであるがそれは語られない(著者は142ページあたりの論でそれをしているつもりなのかもしれないが、まったく的をはずしている。また第5章での議論の一部でもそれを果たしているつもりかもしれないが、そこにあるのは何をいいたいのか、少しも理解できない論である。そして、その第5章の末尾は「ソ連崩壊後四半世紀余りの今日なお散見されるマスクス主義の観念的・教条的固守はやめてもらいたい」というものである。多くの読者は本書を読んで、この言葉をそっくりそのまま著者に投げ返すのではないだろうか? 著者は自分の書いていることを、多くのひとは世界の動向から遊離した浮世離れした観念論であるとみるのではないかという懸念を少しでも抱くことはないのだろうか?
 おそらく著者は社会主義学・共産主義学内部の煩瑣な神学論争、(かつての講座派と労農派の論争のような)狭い学者仲間のあいだでの議論に明け暮れて日々を送っているうちに現在の世界が何もみえなくなってきているのではないだろうか? 著者はスターリン時代のソ連の研究者なのだそうである。何を目的にその研究というのをしているのだろう? それは語られず、その代わりに著者が語るのが、氏がその後、どのように社会運動にかかわっていったかということなのでる。
 著者は大学での闘争がその後のさまざまな社会運動の源流となったといいたいようなのだが、わたくしから見るとそれはまったく転倒した議論で、その後のさまざまな社会運動というのは、西側の国々をまるごと全体として社会主義化していこうという大きな物語の見通しがまったくたてられなくなったことを反映したもので、それでもなんとかそれぞれの場で生き延びて、そこにわずかでも灯かりを残していくための塹壕戦なのである。社会のなかでの様々な「反=」「アンチ=」を探し出して、そこにかすかにでも火種を残していこうという行動、パルチザンとしての遊撃戦である。わたくしから見ると現在の日本共産党がしているのも同じことで、自党が中心となった政権を樹立し、日本を共産主義国家とするなどという構想はとっくに放棄されているが、少なくとも美濃部都政のあたりまでは微かに描けていた未来への展望がまったく見えなくなった今でも、これまで自党を支えてくれてきた党員を何とか食べさせていき、支持者を何とかつなぎとめていくために、とにかく泳ぎ続けなければならない、そうでなければ沈んでいくだけである、ただそのことのために何かをしつづけている、そういうことなのだろうと思う。
 本書に類似したものとして、大分以前に小坂修平氏の「思想としての全共闘世代」を取り上げたことがある。本書の著者の菊池氏はこの小坂氏の本を当時の気分や雰囲気をよく伝えるものであることは認めているが、総括として物足りないとしている。この小坂氏の本は「いまでも夢を見ているような気がする」というのが書き出しで、「あの時代を通過したことが、その以降の生にとってどういう意味をもっていたかという角度からしか語ることができない」 「ぼくにとってあの時代を通過したということは、何かに「つかまれてしまう」という経験だった」と書いている本であるから、まさに「気分」を伝えようとしたものなのであるが、この本を読んで解るのは小坂氏にとっての全共闘運動の体験は一種の神秘体験、見神体験であったということであって、神秘体験はそれを経験していない人にわかってもらうことは絶対にできないものなのである。小坂氏にとって全共闘運動を離れた後の生というのは何かリエリティを書く偽物めいたものとしか感じられなかったようで、「本気になれない」ままでその後の生を過ごすことになったのではないかと思われる。わたくしはそれを知る世代ではないが、戦後、特攻隊崩れというのがあったそうで、この「思想としての全共闘世代」につけられた氏の写真などいかにも斜に構えたというか「何事にも本気になれない」雰囲気を漂わせている。それに比べると本書に付された菊池氏の写真は普通の社会人のもので、まだまだやる気十分という感じである。しかしわたくしから見ると、菊池氏はまだ夢からさめずにいるのである。
 そして菊池と小坂氏、どちらの本にも共通するのが自分への徹底的なこだわりである。菊池氏は自分のことを文学が不得手といっているが、氏が研究すべきなのは、スターリンではなく、日本の私小説なのではないかと思う。
 本書を読んであらためて感じるのは、全共闘運動を経験したことによって、その後、現実との接触を失い、酔生夢死のような人生をおくっていくことになるひとがいるのだなあということである。そのような人が生きていける数少ない場所の一つが大学の研究室なのだから、「自分が東大に「還ってきた」のはスターリン体制研究のため、だたこの一点である」などと力みかえらないでも、本能が自分の生きていける場所を指し示したのではないかと思う。
 ひょっとすると橋本治氏の最後の本になるかもしれない最近刊行された「思いつきで世界は進む」に「批評のポジション」という文があって、そこに「社会党が力をなくしてしまったのは、「批判ばっかりでなんでも反対の社会党」と揶揄され、「現実的になって政権与党を目指そう」などと無駄なことを考えた結果で、「現実は現実、批評は批評」で、批評が「現実」なんかになる必要はないんだ。現実はいつでもいい加減で、だからこそ「非現実的な発言」である批評が意味を持つ。「批評は現実と関わらなきゃいけないんじゃないか?」と思った瞬間、批評は力を失うし、失った。批評は批評で、現実とは別次元にあることによって現実と絡み合う。非力だからこそ力を持つというのが批評の力でしょう。」とあった。まさか菊池氏がそのような高級な方面のことを考えて行動しているとはとても思えないのだが。

 

歴史としての東大闘争  (ちくま新書)

歴史としての東大闘争  (ちくま新書)

思想としての全共闘世代 (ちくま新書)

思想としての全共闘世代 (ちくま新書)

思いつきで世界は進む (ちくま新書)

思いつきで世界は進む (ちくま新書)

橋本治さん追悼

 橋本治さんが先月29日に亡くなったらしい。新聞をとっていないので今日まで知らなかった。ネットでも、記事の片隅にでもでていたのだろうか? 
 近年、血管の炎症性疾患に罹病していたときいているので、それによるものなのだろうか?
 氏は1948年3月生まれであるから、わたくしのほぼ1歳下なので、70歳で亡くなったわけである。
 わたくしも橋本氏の名前を知ったのは1968年の例の東大駒場祭のポスター「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」によってであった。今から思えばその頃がおそらく最盛期であった学生運動に対する卓抜な批評であると思ったが、才人というのがいるのだなというような感想を持つにとどまった。
 10年後の1977年に「桃尻娘」でデビューしたときは、そのタイトルをみていかにも受けをねらったあざとさのようなものを感じ「とめてくれるなおっかさん」で一発あてた才人が、また何かやっているな程度の感想で、読んでみようとは思わなかった。
 1987年に「桃尻語訳 枕草子」がでたときは、二番煎じ、三番煎じと思って情けないことをしているなと思った。
 氏の本をはじめて読んだのは1995年の「宗教なんかこわくない」で、これは前年の地下鉄サリン事件をふくむオウム真理教の問題を中心に論じたもので、一読、完全に打ちのめされた。以後、氏の書くものを読んでいくきっかけとなった。わたくしが常々不思議に思っていた多くの知識人が抱く宗教への奇妙な劣等感を一切持たない明晰な論で感嘆した。「宗教とは、この現代に生き残っている過去である」とか、「宗教とは、近代合理主義が登場する以前のイデオロギーである。だから、近代合理主義が登場した段階で、宗教の生命は終わるのだ」とか強い断言が並んでいて驚いた。
 近代合理主義は利害損得については明確な回答を出せる。しかし、それを超えた魂といった領域、生とか死とかについてかかわる領域は、近代合理主義の出番はなく、そこからは宗教を代表とする何らか超越的なもの、理屈を超えるものに委ねるほかはないというような考え、平たくいえば、世界を物質と魂にわけ、物質は近代合理主義の担当であるが、魂については合理主義の出番はないというような見方がごく普通にあるところに、「近代合理主義が登場した段階で、宗教の生命は終わるのだ」といいきる論に圧倒された。「キリスト教も仏教になる」とか、「ゴーダマ・ブッダの得た悟りとは、近代合理主義の開祖であるフランスのデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に近いのである」と驚くようなことがいろいろと書いてあった。大乗仏教について「人間というのはどうしてそんなに物事を複雑にしてしまうのか」と言い切っているのにも驚嘆した。わたくしが唯識であるとか阿頼耶識であるとかという言葉を知ったのは三島由紀夫の「豊穣の海」によってであるが、三島が懸命に説明しているのを読んでも何が何やら少しもわからなかった。
 とにかく「宗教なんかこわくない」を読んで、ここに一人の自分の頭で考えているひとがいるということを感じ、以後、氏の書くものに目を通していくことになった。
 次に読んだのが、「貧乏は正しい!」シリーズではなかったかと思う。これは1993年からの刊行なので、遡って読んだのだと思うが、この「17歳のための超絶社会主義読本 貧乏は正しい!」を「ヤングサンデー」というようなマンガ雑誌に黙々と書き継いでいた橋本氏に頭が下がる。当初、一回原稿用紙6枚、見開き2ページだったものが途中から3ページになったと書いてある。
 この連載は91年6月からということで、その8月にソ連で保守派によるクーデター事件があって、それが同時並行でかかれている。「まだ戦車が通用する世界」と「もう戦車が通用しない世界」があるのだが、そのクーデター前後の日本のジャーナリズムの反応は、今はまだまだ戦車が通用する世界と思っているとしか思えない反応であった、と。さらに左翼思想の欠点が‟自分のため”を考えなくなったことであるという指摘もしている。今でも覚えているのが「井戸の掘り方を知っているかい?」という章である。もしもガスや水道がとまったら井戸を掘れ!という発想。
 そこから先、何をどのように読んでいったかは、もう覚えていないので、以下、順不同で記す。
 ちくま文庫化されてから読んだ『青空人生相談所』も面白かった。これは多分に質問も自分で創作している嫌疑がありそうな本なのだがそれでも。たとえば「老人ホームに行ったおじいちゃんのことでの相談」。いささかふざけたところでは「ブス嫌いの教師候補氏からのご相談」。その回答の頭。「ブスが何故ブスかというと、バカだからです。バカじゃなかったら、ああいうのが平気で生きていける筈はありません。」 あるいは真面目なところでは「妊娠初期に風疹にかかってしまった二十四歳女性からのご相談」あるいは「子供のことを可愛いがることができない、生活に絶望的な主婦からのご相談」。
 あと、「デビッド100コラム」と「ロバート本」という、そのころ流行っていた「0011ナポレオン・ソロ」というテレビの番組の主演俳優名にひっかけただけのコラム集。橋本氏の歌舞伎好きから生まれたのであろう「完本 チャンバラ時代劇講座」。「貞女への道」という反時代的な本。
 「ぼくたちの近代史」は大学紛争(闘争)というものをこれ以上うまく述べた本はないと思う。
 「江戸にフランス革命を!」は近代のひとではなく近世のひとである橋本治氏の面目が躍如となっている本であると同時に最近の江戸ブームの方向にも敢然と水を指している本。
 「'89」は昭和の終わりを実に興味深く論じた本。氏が元気であれば平成の終わりについてもユニークな本を書いてくれたのだろうか?
 「ひらがな日本美術史」 わたくしは美術の方面にはほとんど関心がないが、そのわたくしにも実に面白く読めたユニークな本。
 「ハシモト式古典入門」 こういうタイトルの本であるが、大部分の国文学者を蒼白にさせるであろう恐ろしいことがいろいろと書いてある本。
 「ああでもなくこうでもなく」のシリーズ。「広告批評」をこれを読むために買っていたひとも多いのではないか?
 「二十世紀」 20世紀の終わりにかかれた卓抜な通史。
 「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」 近代の日本の知識人(あるいは世界の知識人)の生き方への根源的な批判。「塔のなかの王子様」というのは三島のことを差すだけでなく、ほとんどすべての日本の知識人を差す言葉なのであろう。
 「権力の日本人」などの「双調平家物語ノート」 双調平家とか窯変源氏とかはわたくしはまったくだめだったが、そこから生まれた「権力の日本人」「院政の日本人」などは、今でも日本を根っこのところで支配しているものを剔抉した労作であると思う。
 「失われた近代を求めて」 日本の私小説への根源的な批判。
 後、「月食」という戯曲も面白かった。
 ただ一つだめだったのは氏の書く小説で、「ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件」だけは何とか読めたが、「巡礼」「橋」「リア家の人々」すべてだめだった。登場人物をあやつっている橋本氏の手が見える感じで、登場人物が作者の意図をはなれて動き出すところが小説の醍醐味であると思っているわたくしには楽しめなかった。
 若いときに膨大な借金を背負って、たくさん書かざるをえないということもあったのであろうが、近代よりも近世に親近を感じる独自の感受性が氏の存在をユニークなものとしていたのだろうと思う。「上司は思いつきで物を言う」での埴輪製造会社のエピソードなど、日本の会社社会の前近代性を実に見事に剔抉していた。
 手許には氏の本が数十冊あると思う。少しまた読み返してみようかと思う。

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

青空人生相談所 (ちくま文庫)

青空人生相談所 (ちくま文庫)

デビッド100(ヒャッ)コラム (河出文庫)

デビッド100(ヒャッ)コラム (河出文庫)

ロバート本 (河出文庫)

ロバート本 (河出文庫)

完本チャンバラ時代劇講座

完本チャンバラ時代劇講座

貞女への道 (河出文庫)

貞女への道 (河出文庫)

ぼくたちの近代史 (河出文庫)

ぼくたちの近代史 (河出文庫)

江戸にフランス革命を!

江戸にフランス革命を!

ひらがな日本美術史 1

ひらがな日本美術史 1

ハシモト式古典入門―これで古典がよくわかる (ゴマブックス)

ハシモト式古典入門―これで古典がよくわかる (ゴマブックス)

ああでもなくこうでもなく

ああでもなくこうでもなく

二十世紀(上) (ちくま文庫)

二十世紀(上) (ちくま文庫)

「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)

「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)

権力の日本人 双調平家物語 I (双調平家物語ノート (1))

権力の日本人 双調平家物語 I (双調平家物語ノート (1))

失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生 (失われた近代を求めて 1)

失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生 (失われた近代を求めて 1)

月食―RAHU

月食―RAHU

上司は思いつきでものを言う (集英社新書)

上司は思いつきでものを言う (集英社新書)

片山杜秀「音楽放浪記 世界之巻」と三浦雅士氏によるその解説

 以前アルテスパブリッシングというところから「音盤考現学」と「音盤博物誌」という題で刊行された本を再編集して「音楽放浪記 日本之巻」「音楽放浪記 世界之巻」の二冊にして文庫化されたものの一冊である。政治思想史を専門とする片山氏にとって音楽関係の本を世に問うたのはこの「音盤考現学」と「音盤博物誌」がはじめてであったらしい。この2008年刊行の「音盤考現学」と「音盤博物誌」の二冊はもっていて(というかこの二冊をふくむ片山杜秀の本のシリーズはすべて持っているし、片山氏の書く音楽関係の本は気がつけばすべて読むようにしているし、専門の政治思想の方面のものも一般向けのものは手にするようにしているから、片山氏の書くもののかなりは目を通していることになると思う。「音盤考現学」については2008年に感想を書いていた。
 誰がいっていたのかは忘れたが、片山氏はそれほど面白くないことでも、とんでもなく興味深々なことであるように語るひとといっていたが、あることを語ってそのことについて読者にもっといろいろともっと読んでみよう調べてみようと思わせることができれば著者がその本を書いたことの意義の大半は達成されたことになるのではないかと思う。
 さて、この文庫版には三浦雅士氏が「もうひとつの片山杜秀論」という解説を書いている。これがべら棒に面白いのでまずそこから。
 冒頭の部分。「あまり大きな声では言えないが、ほんとうは、いわゆるクラシック音楽なるものはあと何年もつか、というのが、希代の天才軽業師・片山杜秀潜在的な主題である。」
 第二センテンス冒頭。「周知のように、と、つい言ってしまうのだが、1960年代一世を風靡したモダン・ジャズがいまや常磐津・清元と同じ境遇に入った」
 これはこう続く。「のと同じように、19世紀からあ20世紀にかけて世界を制覇したドイツ観念論(カント・ヘーゲルからマルクス観念論! まで)ならぬドイツ・クラシック音楽(主流がロマン派だから紛らわしいのだが)もまた、常磐津・清元と同じ境遇に入ってしまったのである。」
 三浦氏によれば、「ドイツ音楽の栄光は未来永劫続くと全身で思っている」のは音楽学校の演奏家志願者と教師だけなのだそうである。
 モダン・ジャズが常磐津・清元と同じ境遇に入ったのだとすれば、同じころにもともと一世を風靡もしなかったいわゆる前衛音楽などは、常磐津や清元とも違って古典芸能あつかいさえされることなく、もはや誰もそれを顧みなくなっているのではないかと思う。若いころ何かの間違いで確か20世紀音楽研究所だかが主催したブーレーズの「主のない槌」の演奏会?を聴きにいったことがある。何か宗教の儀式のめいた感じであった。ある作曲家がいっていたが、ブーレーズの音楽は楽譜を見るととても美しいのだそうである。耳できいてもよくわからないが、目でみると面白い音楽というのも不思議なものである。
 そして三浦氏の論のおそろしいところは、モダンジャズと一緒にドイツ観念論もまた常磐津・清元と同じ境遇にはいった、と書くところである。しかもドイツ観念論のなかにマルクスまでもがしっかりと入っている。
 わたくしの前半生ではまだマルクス主義はいきていた。モダンジャズがまだそこそこに生きていたように。しかしいまではほとんどのひとがマルクス主義について、ああそういえば昔そんなものもありましたね!、というような態度である。
 マルクス主義に一生を捧げたひとも沢山いたはずである。日本共産党という政党を支持するひとは今どういう思いでいるのだろうか? 昔はそれなりの業績をほこっていたが今や時代にとりのこされてしまって衰微してしまったかつての名門企業、というような感じなのだろうか? 昔からいる従業員たちを何とか食わしていかなければならないので、潰すわけにもいかず細々と営業を続けているというような感じなのだろうか? クラシック音楽ファンに負けず劣らず、街頭で活動している日本共産党の方々も高齢化が進行しているようである。
 問題はドイツ古典派音楽とそれの鬼子?たるロマン派音楽である。
 それで本書は、バッハ、モーツアルト、ベートーベンのそれぞれを論じる文からはじまる。
 まずバッハ。その受難曲において神や神の子の内面まで描いてみせるというのは絶対者としての神への冒涜ではないか? しかしバッハの音楽は近代ブルジョア精神の発露である人間は何から何まで理解できるとする見方がヨーロッパにおいて勃興してきていたことの反映なのである。
 次にモーツアルトモーツアルトはかつてはその音楽はその天才とそのきまぐれに帰せられて、ベートーベンなどの音楽より下におかれていた。逆にその非論理性が、頭でっかちな理屈(たとえばシェーンベルク)の音楽より、上であるとされるようになってきている。
 そしてベートーベン。ベートーベンは過渡期の音楽家である。封建領主からブルジョアへと、束縛から解放へと、あるいは秩序から自由へと、の。要するに古典派からロマン派への。身体から精神への。踊りと歌から人間の内面と精神への。
 精神性への傾倒の極致がかつてのフルトヴェングラーの演奏である。それへの反動の一つの現れがノリントンの演奏。
 ドイツロマン派というのは、物質的?先進国のフランスやイギリスへの後進国ドイツのルサンチマンが生んだとする説がある。明らかに太平洋戦争は物質的先進国英米への物質的後進国日本の精神力を恃む乾坤一擲の勝負という側面がある。近代日本の右翼思想の研究が専門である片山氏がまた西洋クラシック音楽に関心をよせる背景もまたその辺りにあるのであろう。
 戦前日本の神憑りにこりた多くの知識人は物質という精神の反対にあるもので世界を説明できているように見えるマルクス主義に傾いた。しかし現実にソ連が崩壊してみると、それもまた所詮は頭で考えた理屈であるということになった。そして後に残ったのが”事実”である。実際のところ世界はどうなっているのか? それは人間の欲望によって駆動されていて、それをつかさどっているのが貨幣であるということになった。
 それならわたくしをふくむもはや化石となりつつある西洋クラシック音楽愛好家というのは”クラシック”音楽に何をもとめているのであろうか?
 もちろん、それは多種多様であろうが、情動の消費という側面はあるような気がする。現実の場に余計な感情を持ち込まないように、そこで感情を消費してしまうこと。しかし、それよりも何よりも、わたくしの世代が西欧近代の子であって、そこから到底まだ逃れられていないこと、西洋近代というものをもっともよく表しているのが西洋クラシック音楽と、同じくこれもまた西洋近代の産物である小説であることによるのではないかと思う。
 西洋近代の命脈はそろそろつきかけていて、それにかわって帝政ロシアとか皇帝たちの中国がとってかわるのかもしれないが、それでもまだ西欧近代もしばらくは生き残っていくのではないか? それが片山氏の議論から三浦氏が引き出す「いわゆるクラシック音楽なるものはあと何年もつか」ということの問いの意味するところであり、片山氏の著書が答えようとしていることなのではないかと思う。
 

 

自分にとっての昭和と平成

 わたくしは昭和22年生まれであるので、昭和が終わった時には42歳、平成が今年に31年で終わるとそれから30年ちょっとということになる。物心ついてから自分が自身で経験した昭和は36~37年間となるので、ほぼ平成と変わらない年月ということになるが、自分の実感からすると自分にとって大事な経験はほとんどが昭和の内にあって、平成というのは何もおきなかった時代であるような気がする。もっとも平成元年から2年あたりにあった、ベルリンの壁の撤去、東西ドイツの統一、ソ連の崩壊、EUの創設、そして日本のバブルの崩壊などを昭和の延長のなかでおきたことと考えればということであるが。
 平成になっておきたことは天変地異だけなのではないかという気がする。神戸の震災、東日本大震災原発事故・・・。地下鉄サリン事件をも天変地異というか否かは問題であるが・・・。
 バブルの崩壊は1990年(平成2年)とされているようであるが、それは後知恵で、その中にいた人間の実感としては、その当時はほんの小休止といった感じで、数年すればまた成長がはじまると思っていたのだが、案に相違して、何年たってもそうならない、それでいつのまにか時間が過ぎ、気がつけば失われた10年とか20年とかいうことになっていったように感じる。そしてわたくしにとって、平成というのは《失われた30年》といった何もなかった時代のように感じられるのである。
 バブルの崩壊後、いつまでも景気が戻ってこないことに対し、犯人捜しが随分と盛んにおこなわれた。プラザ合意がまずかったとか日銀総裁が無能であるとかいろいろ言われた。速水総裁など随分な言われようであったことを記憶している。みんな高度成長がいつまでも続くのが当然であって、それがたまたまそうなっていないのはどこかでやりかたを間違えているからだと信じていたのである。そして、そのうちにそのうちにと思っているうちにいつのまにかうかうかと30年が過ぎてしまったというのが平成という時代であったのではないだろうか?
 それではわたくしの経験した昭和というのは何であったかというと、東西冷戦の時代である。第二次世界大戦ではアメリカとソ連は連合軍であったわけであるが、それが昭和25年には朝鮮戦争で対峙している。チャーチルの「鉄のカーテン」の演説は昭和21年、わたくしの生まれる前年である。
 東西冷戦の時代、つまりわたくしが経験した昭和とはマルクス主義共産主義が現実の思想であった時代であり、平成の時代とは「え?、マルクス主義? 何かそんなものが昔ありましたなあ!」ということになった時代である。
 わたくし個人にとっての人生最大の出来事は東大紛争(東大闘争)に遭遇することになったことで、昭和43年(1968年)である。そして、この東大紛争(東大闘争)に色濃く影を投げかけていたのがベトナム戦争であったと思う。ベトナムというアジアの地で東西の対立が顕現したわけだが、それは単に東と西の争いというだけはなく、ほとんど善と悪との闘い、正義と不正義の戦いというイメージをもって捉えられていたのではないかと思う。だから東大紛争(闘争)というのも、無給医局員の処遇云々といったことにかんするものではなく、正義と悪との闘い、正義の側に立つ善なる若手医師たち(あるいは若い学生たちや若い研究者たち)対権力を持つ悪の権化たる教授たちといった図式がかなり大真面目で受け入れられていたような気がする。昨日まで佐世保アメリカの原子力空母エンタープライズの入港阻止闘争をしていたひとが今日は教授会に乱入して教授たちを拘束してつるしあげるというようなことが大した違和感なくおこなわれていた。
 当時の学生運動というのはヘルメット・覆面・ゲバ棒という扮装で投石するというスタイルであったが、ヘルメットは色分けされ、革命的マルクス主義者同盟とか社会主義青年同盟解放派とか名乗っていた。ここにでてくる社会主義とかマルクス主語というのが一体何を指すものであったのか、今となってはまったく不分明というしかないが、それが東西冷戦の構造の中でベトナムというアジアの地で現実の戦闘が行われているという背景なしには出てこないものであったことは確かなのではないかと思う。つまり、昭和20年以降の昭和の時代というのはゾロアスター教的世界観の元にあった時代なのだと思う。一部のひとは東側を平和勢力と呼び、東側の核はキレイであると言っていた。
 冷戦が終焉して「歴史の終わり」が来たかといえばフクヤマの予言は完全に外れて、いままで視野にもはいっていなかったイスラム世界が表舞台にでてきて、タリバンだとか9・11だとかISだとかが話題になったし、これからもいろいろなことがおきると思うが、非イスラム世界においては平成の時代は広い意味での西欧的価値観に収斂していった時代であったように思う。
 そして平成が終わろうとする今、多くのひとが感じているのではないかと思うのが、広い意味での西欧的理念への信仰が薄れてきて、かわりにもっと土着の何か、皇帝たちの中国、帝政ロシアの過去、ヨーロッパといった抽象的理念よりも個々の国々の現実の歴史、あるいはまた白人至上主義(これもまた土着のもの?)といった方向に世界が分解していくというような方向なのではないかと思う。
 わたくしが生きた昭和の時代というのは「思想」というのがあった時代で、平成というのは「思想」がなくなった時代、みんながまどろんでしまった時代で、だからみなを眠りを覚まさせるために、時々、天災がおきて覚醒をうながすことになったのかもしれない。
 わたくしは昭和の時代を生きるうちに、広い意味での西欧的価値観を自分の方向として受け入れてきたように思う。一言でいえば、それは文明という言葉につながる何かなのだが、平成の後に時代にはそれらは旗色が悪くなり、もっと野蛮で野卑な方向が力をえていくのではないかと感じている。
 今、塩野七生さんの「再び 男たちへ」を思うところあって読んでいるのだが、この本はソヴィエト崩壊前後に書かれた文章を集めたもので、それでゴルバチョフのことも出てくる。ゴルバチョフが出てきた時の一部の日本の知識人たちの彼への期待というはとても大きなものであったことを覚えている。ようやく言葉が通じる人間がソヴィエトにもでてきたとでもいうような。そしてこれは日本だけのことではなく西欧全般で見られたことでもあったと思う。要するに西欧的価値観をわかる人間がソ連にもでてきたということである。ところが、亀山郁夫氏と沼野允義氏の「ロシア革命100年の謎」では、ゴルバチョフがロシアで不人気であったのは公式の場に夫人をつれてくるような人間であったからだといわれていた。奥さんをそういう場に連れてくるような人間はロシアでは絶対に信用されないのだろうである。
 そして今、ロシアはプーチン、中国は習近平の時代である。アメリカはトランプ大統領。ドイツでもフランスでも移民排斥派がトップになるかもしれない。どこかで流れが変わったのかもしれない。
 次の年号がどのようなものになるのかはわからないが、その時代はもう少し動きのある時代になるような気がする。近々72歳になる身ではそれを傍観していくしかないが、ものごころついてから自分なりに構築してきたものの見方や考え方とは異なる方向に時代が動いていくことはほぼ間違いないように感じている。もともと自分の思うことや感じることが時代の多数派になったと感じたことなどは一度もないのだから、それはそれで少しも構わないのだが、自分が仮想敵とひそかに考えて人たちがいつの間にか舞台から消えてしまっていた。代わって、わたくしには理解できない物の見方や考え方をするひとが主流になってきている。それは思考というより感受性とか性格というのに近い何かかもしれないので、そもそも議論の対象にすらならないのかもしれないのだが。
 しかし、わたくしのような《へたれ》がとにかくも今まで生き延びてくることができたのだから、昭和の後半も平成もいい時代であったに違いない。戦前の昭和に生まれていたとすれば、とてもそこでサバイバルすることはできなかったと思う人間として、これからももう少し、思うところ感じることを書いていきたいと思う。
 

歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間

歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間

ロシア革命100年の謎

ロシア革命100年の謎

年表 昭和・平成史 1926-2011 (岩波ブックレット)

年表 昭和・平成史 1926-2011 (岩波ブックレット)