読書備忘録

楠木建「すべては「好き嫌い」から始まる」

著者の楠木さんという方は、今までまったく存じ上げなかった方なのだが、つい最近、偶然、本屋で「戦略読書日記」(ちくま文庫)というのを見つけて面白かったことから、その名を知った。 その「戦略読書日記」という本を本屋で立ち読みしていて、その第12…

橋本治「父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない」(2)

わたくしはE・トッドの著作は「帝国以後」しか読んでいないので、以下、鹿島茂氏のまとめにしたがう。 トッドは世界の家族を4類型に分ける。 1)絶対核家族(イングランド・アメリカ型):結婚した男子は親と同居しない。別居して別の核家族をつくる。親…

橋本治「父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない」(1)

橋本氏が「小説トリッパー」に2017年秋号から2018年冬季号まで、連載したものの書籍化。おそらく、この後も書き継ぐつもりでいたものが、氏の死により中断されたもののように思う(161ページに「六月の末に癌の摘出手術を受けて入院中とある)。…

橘玲「朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論」(2) 

内田樹さんの2002年の本「「おじさん」的思考」は「日本の正しいおじさん」擁護のための書であることが言われている。そこでは内田氏自身は、どちらかといえば「日本の悪いおじさん」であって《インテリで、リベラルで、勤勉で、公正で、温厚な》「日本…

橘玲「朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論」(1)

橘さんは日本にときどき現れる確信犯的リバタリアンの一人だと思う。わたくしもまたリバタリアニズムに相当親和性のあるほうだと思うのだが、それ一本鎗でいけないのは、たとえば原口統三の「武士は食はねど高楊枝。全く僕はこの諺が好きだつた」などという…

堀井憲一郎「1971年の悪霊」(5)

最終章である第9章の「左翼思想はどこでついていけなくなったか」は著者の堀井氏の個人史を述べたものである。1958年生まれの堀井氏はわたくしより10歳くらい年下であるのでおのずとその経験が異なるわけであるが、まず堀井氏の個人史から。 1970年…

堀井憲一郎「1971年の悪霊」(4)

第8章は「毛沢東「文化大革命」を支持していたころ」と題され、「文化大革命」が論じられる。 わたくしが文化大革命というと思い出すのは、若者たちが自分たちが糾弾する人間に変な帽子を被せて胸に罪状を書いた紙をつけさせて引きまわしている光景と、天安…

堀井憲一郎「1971年の悪霊」(3)

全共闘世代という言葉が現在でもまだ時々使われているので、全共闘運動というものについて、今の若いひとでもなにがしかのことは聞いているのではないかと思うが、「パリ五月革命」についてはどうだろうか? もっともわたくしだってひとのことは言えないので…

堀井憲一郎「1971年の悪霊」(2)

第3章は「1971年、高橋和巳が死んだ5月」と題されている。わたくしは高橋和巳の著書を一冊も読んでいないので、本来、ここを論ずる資格がないのだが、大学時代の友人に高橋和巳信者がいたので、高橋のことをいろいろときかさせてもらっていて、それな…

堀井憲一郎「1971年の悪霊」(1)

堀井氏の名前を最初に知ったのは、どこかの週刊誌(週刊新潮?)で連載していた「ホリイのずんずん調査」?というコラムでだったと思う。何かの話題について私見を述べるのではなく、とにかく調査してみるという姿勢のユニークなコラムだった。 堀井氏の書く…

富田武「歴史としての東大闘争 - ぼくたちが闘ったわけ」

東大医学部の同窓会である鉄門倶楽部の同窓会誌「鉄門だより」では、最近の何号か「東大紛争」についての特集というか、それについてのさまざまなひとの寄稿がのせられている。このことについて論じるときにまず直面する厄介な問題があつかう対象を東大闘争…

片山杜秀「音楽放浪記 世界之巻」と三浦雅士氏によるその解説

以前アルテスパブリッシングというところから「音盤考現学」と「音盤博物誌」という題で刊行された本を再編集して「音楽放浪記 日本之巻」「音楽放浪記 世界之巻」の二冊にして文庫化されたものの一冊である。政治思想史を専門とする片山氏にとって音楽関係…

池澤夏樹他「堀田善衛を読む」

集英社新書 2018年 このような本が刊行されたのは今年が堀田氏生誕100年(没後20年)にあたるということのためらしい。わたくしは堀田氏の本は「ゴヤ」しか読んでいない。手許の本の奥付は1977年刊の10刷となっている。30歳の年であるが、…

上野千鶴子「女ぎらい ニッポンのミソジニー」(2)

「世界一「考えさせられる」入試問題」という本が最近文庫化された。オックスフォードとケンブリッジの入学試験での面接問題を紹介し、著者が回答例を付したもので、そこに「フェミニズムは死にましたか?」というケンブリッジ大学古典学での問題も紹介され…

上野千鶴子「女ぎらい ニッポンのミソジニー」(1)

朝日文庫 2018年10月 2010年の刊行された単行本の文庫化で、文庫化に際し2編の文が追加されている。 この本を読んで、どこかで丸谷才一氏が、まだウーマン・リブと呼ばれたりもしていたころのフェミニズムのある集会を評して、観念論に門構えとし…

亀山郁夫 沼野允義「ロシア革命100年の謎」(4)

第11章「ロシア革命からの100年 ポストモダニズム以後」では1990年以降のことを語るとされているのだが、ここでいきなりポストモダニズムの話がでてくるのがわからない。さらにわからないのがポストモダンという場合のモダンが西欧で20世紀初頭に…

亀山郁夫 沼野允義「ロシア革命100年の謎」(3)

第10章「ロシア革命からの100年 雪解けからの解放」で沼野氏はこんなことを言っている。「社会主義は理性による欲望の抑制というよりも、自然な状態なんじゃないですか。ぼくに言わせれば、資本主義は病気みないなものなので、病気の人と健康な人を一緒…

養老孟司「特別授業 坊つちやん」

2018年 9月 NHK出版 いろいろな人が中学生に一冊の本をとりあげて講義するというNHKの番組があるらしく、これは養老孟司氏がお茶の水女子中学の生徒15人に夏目漱石の「坊っちゃん」について語った番組をテキスト化したものらしい。 漱石「坊っ…

亀山郁夫 沼野允義「ロシア革命100年の謎」(2)

23ページで亀山氏は「革命は善であるという前提がいつ、どこで崩れたか」ということをいい、それに対し沼野氏は自分にはその前提はない」と答える。それに対し、亀山氏は自分は「暴力というものに嫌悪感をもつのだが、ロシア革命というのは正義の暴力だっ…

亀山郁夫 沼野允義「ロシア革命100年の謎」(1)

2017年 河出書房新社 本書は昨年刊行されている。ロシア革命が1917年だから、昨年はロシア革命100年の年であったわけである。そういわれてみればそうだったと感じるくらい、昨年がロシア革命から100年の年であることについて論じたり考察した…

岡田暁生「クラシック音楽とは何か」(5)

岡田氏のいう「自己表現するロマン派」というのは、大きな視野でみれば、フランス革命の産物ということになると思うが、それと対立する「反=フランス革命」路線というのも、また西欧の思想のなかでつねに一定の勢力を占めてきている。わたくしが二十歳をす…

岡田暁生「クラシック音楽とは何か」(4)

クラシック音楽とは何か、という問いに、仮に答えて、それはベートーベンのことである。あるいはベートーベンの作曲した音楽のことであるとしてみよう。 吉田健一の「文学の楽しみ」の第7章は「西洋」と題されていて、そこに岡倉天心がベートーベンの第五を…

岡田暁生「クラシック音楽とは何か」(3)

最近、刊行された「世界の未来」という「朝日地球会議2017」に参加した数名の講演記録とE・トッドへのインタビューを収めた新書で、トッドがわれわれが、自分は「帝国以後」を書いたときとは、かなり違う見地にたってきているということを言っている。…

岡田暁生「クラシック音楽とは何か」(2)

今、われわれが自明のものとしているさまざまな価値観は結局のところ西欧に由来しているのだと思う。それは突き詰めれば「個人」というものにいきつくような何かで、現在の中国あるいはロシアがどの程度「個人」を尊重しているのか大いに疑問はあるにしても…

岡田暁生「クラシック音楽とは何か」(1)

小学館 2017年11月 このようなタイトルの本ではあるが、すべての内容がその問題を論じているわけではない。しかし、多くはそれと関連した話題を扱っているので、しばらく、この本にそって、それについて考えていきたい。 で、岡田氏によれば、クラシッ…

養老孟司「遺言。」(2)

4章は「乱暴なものいいはなぜ増えるのか」というタイトルであるが、これは最近の日本人は言葉遣いが乱暴になったといったことを論じているのではなく、「ものごとを単純にいうためには、乱暴にいうしかないといったをいっている。ちょっとミスリーディング…

養老孟司「遺言。」(1)

新潮新書 2017年11月 養老さんの本は一時は随分と読んだものだった。今本棚を見てみたら対談本などを除いても40冊以上はありそうである。「バカの壁」以降はあまり読まなくなっていたが、それは「バカの壁」がベストセラーになって、それ以降、氏の…

山口真由「リベラルという病」

新潮新書 2017年8月 このようなタイトルではあるが、実際には「アメリカにおけるリベラル」を論じたもので、ヨーロッパにおけるリベラルについては一切言及されない。そして日本のリベラルについても、ほとんど論じられない。 何よりもわたくしが奇異に…

 橋本治「知性の顚覆」(5)

第3章は「不機嫌な頭脳」と題されている。 橋本氏は、自分には上昇志向がないという。それは「東京生まれの東京育ち」であり、特に貧しくはない家庭に育ったからであるという。 東京の山の手は近代日本の中核となるような中流階級の本拠地であり、近代市民…

 橋本治「知性の顚覆」(4)

「近代の顚覆」の第2章は「大学を考える」というタイトルである。ではあるが、大学一般が論じられるのではなく、橋本氏の経験した「大学闘争」についての議論が終始展開される。ところでそれについて氏は「私自身はそれがどういうものか分からなかったので…